山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

チェチェチェのロボット演劇

2016-06-01 14:06:56 | モノローグ【エトセトラ】
平田オリザ氏の「ロボット演劇」って何なのよ?
それへの疑問と同時に将来に向けての演劇の在り方に不信感や危機感さえ感じる。
ロボット演劇、その前に、私なりの平田オリザ氏への見方、考えを言います。
2005年、劇作家協会主催による「劇作家大会 熊本」が熊本県立劇場で開催された。その時点で氏の影響力は多大なものがあると感じていた。それは公共との根回しのうまさや地方演劇人への動かし方の要領の良さに唖然とした。つまり、政治的な力を感じていた。数の力学を知っているな。
案の定、氏は民主党政権時代、内閣官房参与の座に就き、政権のバックボーンとなっていた。上への堕落か?
5年前のフクシマ原発爆発について、氏は「汚染水を海に流したのはアメリカの強い要望があった。」と発言したのだが、何故か、その発言を撤回してしまったのだ。目に見えない大きな力が働いたのだろう。もはや劇作家や演出家としての信念を捨てたな!と確信したのだった。自らを芸術家と名乗る者だったら裏の裏の裏まで表現するもんだがね。とりわけ、大きな権力については!

政治から産業へ流れた。これも氏独自の世渡り術なのだろう。
いわゆるロボット産業に身の置き場を持って行ったのだ。
演劇をロボット産業に役立てたいという名目があった。ロボットをよりリアルに人間に近づけること。ロボット産業への演劇術への貢献と位置付けているのだろうか?
産業ロボットの人間的追求とは何か?究極、効率良く生産し利潤を高めること。厄介なのはここに人間論を用いて、役者に対する演出や演技論をプログラミングすること。逆に言えば、役者を人間として扱っていない考えだ。詰まるところ、役者のロボット化に通じる。人間論とは逆走するのではないか。
ロボットの不自然さを失くす「演劇の力」とは何を言っているのだろうか。自分で何を言っているのかわかって言っているのだろうか。
演劇の力とは、役者の持っている力を引き出し、役者は自分の中にある他人と出会うことの醍醐味にある。稽古では無駄の発見を楽しむことさえある。無駄が新しいことへの原動力となり、劇を見る観客はそこに感動を覚えることが多々ある。つまり、役者は効率良く、上手いだけでは観客の感動はあり得ないということ。

リアリズム論争は百年前くらいから巻き起こった。そのひとつが社会主義リアリズムに対する批判だったと思う。文学、絵画や演劇に於いて党やその時代の政権に利用されることを拒んだ流れがあった。
平田オリザ氏のリアリズムとは日常の動作であるのかも知れないが、日常の中にも狂気や異常とも思える人間の不条理や理不尽が在る。これとの葛藤は劇作家や演出家だけでなく、役者自らも考え、最終的には観客も巻きこんで楽しんだり怒ったり泣いたりするものだ。
根本的に演劇の現場と産業の現場では地平が違うと思うのだが。

政治や産業に利用される演劇は間違いを起こすだろう。ロボットの目的は一歩間違うと戦争に使われることは承知している筈。
私たち演劇に携わる人間たちはここのところには敏感になっておこうと思うのだ。

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以下、小澤俊夫氏のコメントに大賛同します。

(小澤俊夫氏の評論)

自身を芸術家と名乗る平田オリザよ、貴兄の意味する芸術とは何ぞや?文科省のバックアップで阪大の石黒浩と協同でアンドロイドロボット(人型ロボット)を開発し、ロボットと生身の役者を対峙させるロボット演劇なるものを国内外で公演。カフカの「変身」を上演する際には、遺族からのロボットによる上演禁止の反対を押し切り、最近では、ロボットが主人公の映画まで制作させる始末。そもそも人型ロボットの開発は米国の軍需産業下におけるものであり、原発同様、米国政府からの要請で我が国も研究開発に勤しんでいる。アラブ諸国の上空を飛び交い、一般庶民を誤爆する無人暗殺機「ドローン」にも我が国の技術が導入され、軍需ロボットの開発をするボストン・ダイナミクス社が発表した二足歩行ロボット「アトラス」の最終目的は、AI(人工知能)を搭載したロボット兵士。そのボストン・ダイナミクス社はグーグルに買収されて傘下となり、先日、囲碁の世界で人間に勝利したロボットのAI技術もボストン・ダイナミクス社のもの。AIを搭載したロボット兵士が戦場に送り込まれるのも時間の問題だが、その技術開発に貢献する青少年の育成にも我が国は力を注いでいる。10数年前からNHKで放送されている高専・大学生を対象にした、ロボット技術を競わせる通称「ロボコン(ロボットコンテスト)」。つい最近では、小学生にプログラム教育をさせると文科省が発表。平田オリザよ、演劇のリアルを語る前に、ロボットのリアルを語らないのは何故だ?民主党に首を突っ込んだかと思えば、今度は自民党に尻尾を振り、政界の風見鶏ならぬ演劇界の風見鶏が演劇論をぶつのは笑止千万。しかも平田が阪大の学生たちに行ったであろう抗議内容を読んで腹が立つどころか、政権ににじり寄った男の哀れさを感じてしまう。
「認知心理とか人間工学っていうのはさまざまなデータを集めて、そして例えば人間の無駄な動きなら無駄な動きを解析しようとするんですけど、どうしても平均値が出ちゃうんですよ、普通の科学的な研究だと。平均値ってことは、無駄なものは埋め込まれちゃうんですよね。じゃ、ランダムにすればいいってことでランダムにするんですけど、どうしてもそこからは人間らしさは生まれてこない。要するに、どのぐらいランダムにすればいいかが誰にも分からない。ところが、私がこの研究に入ったことによって、ロボットは圧倒的にリアルになりました。なぜなら私たち芸術家は、どのようにランダムにすればいいかの答えを先に知っているからです」
この自画自賛にも呆れ返るが、そもそも無人化システム(ロボット)は産業面に応用されるべきものであり、人間らしさは必要ないので平均値で充分。フラクタル理論から転じた「ランダム工学」「あいまい工学」はあくまでも機械制御の分野であり、ロボットは機械以外の何者でもない。その機械であるロボットをどのようにランダムにすれば良いかの答えを先に知っているのなら、障害者アート(この差別的な分類にも呆れるが)として取り上げた、山下清がパリのサクレ・クール寺院を赤く塗ったのは「統合機能が失調しているため」と言えるのか!ピカソが人の顔とも思えない顔を描いたのも、「統合機能が失調している」からなのか?ダリのぐにゃぐにゃした時計も、「統合機能が失調している」からなのか?だったら平田にとっての芸術、芸術家とは何ぞや?黒いモノを政府が白と言ったら白と言うのが、お前の価値観だろう!青年団時代の作品には見るべきものがあったが、最近のお前は何だ!役者論を唱える前に、演出家とは何かを考えろ!安倍晋三同様、最近のお前の顔を見ると(石黒浩も)反吐がでる!