■ことのはじまり(1)
今から38年前、1978年10月だった。
その前年の1年間は大阪の電気メーカーでサラリーマン生活を送っていた。体を壊して会社から脱走、熊本でのフーテンのトラ生活の時に赤テント状況劇場「ユニコン物語」に出会った。チケットの販売を目的にした実行委員会に入っていたのだが、チケットは飛ぶように売れていた。それは状況劇場に所属していた俳優さんたちがNHK大河ドラマ「黄金の日々」に出演していたことも大きな要因だった。
受け入れ実行委員会の拠点となっていた喫茶ジョイで唐十郎さんをはじめて見た時は体が震えた。アングラの帝王!
「ちぇちぇちぇ、何処でもうちにミーハーばかりが集るようになっちまった。」とつぶやいて笑っていた。
子飼橋河川敷に建てられた赤テントには長い行列ができてテント内はぎゅうぎゅう詰めになった。丸坊主のお兄さんが「もう少し詰めて下さい!ほれ、よいしょ!」と掛け声を発すると、どどっと外で入り切れなかったお客さんが押し寄せてくる。この場内整理係の人は天才だと思った。無理を可能にする人。この時点で芝居の醍醐味に目眩を起こした。後になって、その人は通称クマさんであったことを知った。「ユニコン物語」のポスターを作った人であり、世にゲージツ家として知られるようになった方だった。
ぎゅうぎゅう詰めはまんざらでもなかった。私は美人美女たちに囲まれていたからだった。肌と肌がぴったりと吸いついた中で夢心地になっていた。
開演するなり、「いよッ、レイセン!、ジンパチ!、小林!」などと掛け声があがった。アングラとは大衆演劇か歌舞伎のようにも見えた。観客と舞台の一体化とは気持ちの良いもんだ。水筒に隠していた球磨焼酎を終演までに飲み干してしまった。
これだ。この時に演劇の道に入ろうと思った。
26才、無職だった青年の途方もない演劇の旅はここから始まった、と言っても過言ではない。
若かった故もあり、ポストアングラに目覚めたのである。
今から38年前、1978年10月だった。
その前年の1年間は大阪の電気メーカーでサラリーマン生活を送っていた。体を壊して会社から脱走、熊本でのフーテンのトラ生活の時に赤テント状況劇場「ユニコン物語」に出会った。チケットの販売を目的にした実行委員会に入っていたのだが、チケットは飛ぶように売れていた。それは状況劇場に所属していた俳優さんたちがNHK大河ドラマ「黄金の日々」に出演していたことも大きな要因だった。
受け入れ実行委員会の拠点となっていた喫茶ジョイで唐十郎さんをはじめて見た時は体が震えた。アングラの帝王!
「ちぇちぇちぇ、何処でもうちにミーハーばかりが集るようになっちまった。」とつぶやいて笑っていた。
子飼橋河川敷に建てられた赤テントには長い行列ができてテント内はぎゅうぎゅう詰めになった。丸坊主のお兄さんが「もう少し詰めて下さい!ほれ、よいしょ!」と掛け声を発すると、どどっと外で入り切れなかったお客さんが押し寄せてくる。この場内整理係の人は天才だと思った。無理を可能にする人。この時点で芝居の醍醐味に目眩を起こした。後になって、その人は通称クマさんであったことを知った。「ユニコン物語」のポスターを作った人であり、世にゲージツ家として知られるようになった方だった。
ぎゅうぎゅう詰めはまんざらでもなかった。私は美人美女たちに囲まれていたからだった。肌と肌がぴったりと吸いついた中で夢心地になっていた。
開演するなり、「いよッ、レイセン!、ジンパチ!、小林!」などと掛け声があがった。アングラとは大衆演劇か歌舞伎のようにも見えた。観客と舞台の一体化とは気持ちの良いもんだ。水筒に隠していた球磨焼酎を終演までに飲み干してしまった。
これだ。この時に演劇の道に入ろうと思った。
26才、無職だった青年の途方もない演劇の旅はここから始まった、と言っても過言ではない。
若かった故もあり、ポストアングラに目覚めたのである。