lizardbrain

だらだらぼちぼち

押尾コータロー アコースティック・ギター・コンサート (2)

2006年07月26日 22時12分12秒 | 音楽

ライヴの中身に移る前に、押尾コータローのプロフィールその他について触れたくなった。

ワタクシがパソコンを手に入れて、ネットの世界を恐々とのぞき始めたのが2001年の夏頃だった。
当時接続していた回線は、48キロだったか64キロだったか、とにかく今ではとても比べようが無い低速の回線だった。
低速回線なので、特に、画像が多いページの表示の遅さには辟易させられる。
それでも、いかにもアヤシかったりアブナかったりするサイトを横目に、色んなミュージシャンのホームページを探索してみるのが面白かった。

その当時から、既に、押尾コータローの名前はあちこちのサイトに現れていた。
まだ、いわゆるメジャー・デビューをする以前で、インディーズでアルバムを1~2枚作っていたようだったが、この頃すでに『知る人ぞ知るギタリスト』といった存在だったのだろう。
ワタクシが押尾コータローの演奏を耳にしたのは、ゴンチチが登場するNHK-FMの番組が初めてだった。
おそらく、インディーズ盤からのオンエアだろう。
オンエアされたのは、押尾コータローがギター1本で演奏する第三の男のテーマだった。
この有名な映画の、これまた有名なテーマ曲のオリジナル版は、アントン・カラスがチターという弦楽器で独奏している。
こちらをクリックするとチターの画像が現れるので、ご覧いただきたい。
この画像では大きさが良く分からないが、片手に抱えられるくらいのサイズだと思う。
ハープや琴の仲間の楽器のようだが、この見るからに弦がたくさんついたチターという楽器で演奏されたオリジナルバージョンの第三の男のテーマを、たった6本の弦しかないギターで、それも、ほぼ完璧にコピーしているようで、とても驚いてしまった。
変則的なチューニングを使っているらしいという他には、どうやって弾いているのかは、ゴンザレス三上も詳しくは触れなかった。
リットーミュージック社発行の季刊誌、アコースティック・ギター・マガジン24号(2004年夏号)の押尾コータローのスペシャルインタビュー記事の冒頭には、このような略歴が記されている。

14歳でギターを始め、中川イサトに師事。
高校卒業後、東京の音楽専門学校に入学するために上京し、ロックバンドでベーシストとして活動。
7年間続いたこのバンドの解散後は、アコースティックギターに専念し、スタジオミュージシャンやサポートミュージシャンとして活動。
1999年、ソロライヴのために作ったオリジナル曲や、当時レパートリーにしていたカバー曲を集めてレコーディングした自主制作アルバム『押尾コータロー』をリリース。
この自主制作アルバムが、大阪のカリスマDJ、ヒロ寺平の耳にとまり、ラジオでパワー・プッシュされ人気に火がついた。

さらに、この後の経過について、
押尾コータローオフィシャルHPによると、2枚目の自主製作盤を発表後、2002年にメジャーデビュー。
同じ年に、毎年スイスで開催されるモントレー・ジャズ・フェスに出演して脚光を浴び、そのあたりから、さらに人気に加速が付いたようだ。
ジャズ・フェスとは言っても、このモントルー・ジャズ・フェスは、ジャズミュージシャンだけに限定して出演させるわけではない。
メインはジャズだが、ロックでもブルースでも何でも来い、のフェスティバルだ。

そのモントルー・ジャズ・フェスでのライヴのダイジェスト版が、翌年の正月頃、NHKで放映された。
たまたまこれを観たワタクシは、もう一度驚いた。
押尾コータローは、モントルー・ジャズ・フェスのステージ(メインステージではないようだったが)で、立ったまんまでアコースティックギターを弾きながら、自分の演奏するビートに乗って、ステージ上を踊るように移動しながら、HARD RAINという曲を弾いていた。
いや、ワタクシの目には、あれはギターを弾くという行為には映らなかった。
普通、ギターを弾くというのは、左手の指で弦を押さえて右手でつまびく、あるいははじく事だ。
もう少し器用な人は、右手の指でフレットを押さえたり引っかいたりするテクニックがあるある事くらいは既に知っていたが、押尾コータローの場合、右手で弦を直接叩いたり、引っ掻いたり、はたまたそれと同時にギターのボディーをパコパコ、カタカタと殴っりながらパーカッションの役目をさせてみたり、、、、、、
TV画面にアップで映った押尾コータローのギターのボディ塗装は、あちこち傷だらけでボロボロになっていた。
そのボロボロになったギターを見て、思わず、
こらっ! もっとギターを大事にせんかい!と、大きな声で説教したくなった。
高校生の時に¥60,000円で買ったK・YAIRIのギターをひたすら後生大事に磨いているがために、いまだに人前で演奏できる技術を身に付ける事が出来ないこのワタクシにとって、あそこまでボディに傷が付くような弾き方が出来るというというのが全く驚異的なものだった。
ワタクシなど、譜面台の角や何かで、少しでもギターに傷が付いたりしようものならば、明後日あたりにでも人類滅亡の瞬間がやってきそうなスケールの悲嘆にくれて、3週間は立ち直れないというのに。

前述のアコースティック・ギター・マガジンに代表されるギター雑誌、あるいは音楽雑誌では、とにかく押尾コータローのギターテクの解説にこだわりがちだが、
早い話、ここまで人気を博している押尾コータローの魅力は、技術だけではないだろう。
ライヴに行くと、一部で熱狂的でミーハー的なファンの姿も見られるし、かえってギターを弾かない人の方が、冷静に評価しているのかもしれない。
ゆったりしたバラード曲であっても、アップテンポの曲であっても、
美しく
親しみやすく
わかりやすい
と言う事が、演奏を聴いた人達の共感を呼ぶのだろう。

このところ、アコースティック・ギター1本でソロを聴かせるというギタリスト達が注目を集めて活動の場が増えているようだ。
決して、押尾コータローが売れたからでは無く、それ以前から、唄モノではなく、アコースティック・ギターのソロ演奏で勝負している人達はたくさんいた。
他のギタリストのソロギターのアルバムを聴いた事もあるが、違う曲を演奏しても、似通ったテンポの曲だと、どの曲を聴いても同じ曲に聴こえてしまって区別を付けにくい事があった。
ワタクシの感性がはなはだしく鈍い、というのも原因だろうが、押尾コータローの演奏は、その1曲1曲にはっきりした個性と表情を見せてくれるので、『どの曲を聴いても同じ曲に聴こえる』ような事は無い。



さて、
こんな話を、こんな所でバラしていいものだかどうだか、、、、、、、?
幸か不幸か、心配するほどのアクセスがあるブログではないのでバラしてしまおう。

実は、今から考えるととても惜しい事をしたなぁと悔やまれる事がある。

ワタクシとは別の町に住む年上の友人で、マサ君(仮名)という人がいる。
マサ君は、10年以上、いやもっと以前から、お気に入りのミュージシャンを招いては、自分の住む町で1年に1回くらいのペースでライヴを企画してきた人物だ。
マサ君自身のリーダーシップと、良い仲間に恵まれている事もあり、ライヴの企画では赤字を出したりはしないが、決して利益を上げることが目的でやっているわけではない。

ある日、そのマサ君のところに、押尾コータローのマネージメントサイドから、
「そちらでライヴをやらせていただけないでしょうか?」
と、オファーがあったそうだ。
その時に、先方が提示した意外な条件が2つあったという。

その条件とは、
ギャラはいりません
が、そのかわりに
ライヴ会場でCDを売らせて下さい
というものだった。

『ギャラはいらない』といっても、当然、交通費その他の必要経費は発生するわけで、経費以外のミュージシャンの取り分は必要ないという意図だと思う。
今となっては正確に記憶していないが、話の流れから言って、押尾コータローのメジャーデビューCDが発売された頃、あるいは発売が予定されている頃で、2002年の話だったと思う。
おそらく、一部では大いに注目されていたものの、いったいどれだけのCDを売る事ができるのかが未知数の時期、メジャーデビューにあたっての売り込みだったのだろう。
ある意味、ライヴで演奏さえ聴いてもらえれば、必ず押尾コータローを認めてもらい、CDを買ってもらえるという自信の現われだったのかも知れない。

こういうオファーがあるんだ、と、マサ君から聞かされた時、ワタクシは、ゴンチチのNHK-FMでオンエアされた第三の男のテーマを思い出し、
「押尾コータローって、ギター上手いんやぞ
とプッシュしてみた。
永年ライヴを企画してきたマサ君としては、あちこちに情報網を持っているわけで、ワタクシなんぞのアドバイスなどなくても、そのくらいの事はとっくに知っていた。
「でもなぁ、ギターがナンボ上手くても、ネームバリューがほとんど無いしなぁ
出身地の大阪市内ならばともかく、メジャーデビューしたばかり(あるいは、メジャーデビューを控えていた)の押尾コータローを知る人は少いだろう。
特に、イナカ町では、、、、、、限りなくゼロに近かったかもしれない。

どうやらマサ君としては、このオファーがあった同じような時期に、既に別のミュージシャンのライヴを企画していたようで、そちらを優先させる事にした。
この時に、押尾コータローのライヴが実現しなかった最大のネックは、当時の押尾コータローには、ネームバリューがほとんど無かったのが主因だ。
ワタクシとしては、是非とも実現して欲しかったが、ネームバリューの事を言われると、二の句をつげなかった。
マサ君が、いくら利益目的でライヴを企画しているのではないとはいえ、責任者としては当然の結論を出したわけだ。
押尾コータローのネームバリューが無いがゆえに実現されなかったライヴ、、、、、、、、、、
今となっては、とても信じられない出来事だった。



ギター1本を抱えた押尾コータローが、ステージに現れる。
これまでに、誰も見た事も無かった弾き方で、弦をはじき、かき鳴らし、弦を叩いたり、ボディーに平手打ちを食らわせたり、、、、
そして、何よりもギターに唄わせる押尾コータローの演奏に、さほど広くない会場は静まり返る。
「なにぃ~、コータロー? 岬めぐりかぁ~?」
などと、小ばかにしながらやってきたオジサンも、拍手する事も忘れて唖然とした表情のままフリーズしてしまう。
すっかりと押尾コータローのギターに魅せられたイナカ町の観客達は、終演後に会場で売られているCDにサインしてもらいながら、
「押尾さん、あんた、ギター上手いやないか~」
「押尾さん、また来てや~!」
「押尾さん、辛抱して頑張っったら、絶対に成功するで~! 頑張ってや~!」
とか何とかいった会話が弾む。
皆が押尾コータローと握手を交わしながら、激励してしまう、、、、、、、、、、、、、、

もしも、万一、あの時に押尾コータローのライヴが実現していたとすると、終演後には、こんな微笑ましい光景が見られたかも知れない。
実現していたとすれば、ある意味で歴史の証人になれたかも知れない、その場所に居たかった。
それとも、もしかするとこの時期、ノーギャラでCDを持ち込んだ押尾コータローの小規模なライヴが、日本のどこかで実現していたのだろうか?


マサ君に、
「5月に押尾コータローを聴きに、三木市まで行ってくるよ~。」
と話した時、
「あの時、押尾のライヴ、やっとったらなぁ~
「そうやで、あの時やっとったら、今頃は、どんな大会場のチケットでも、押尾コータローが最前列の席を手配してくれてるで、きっと
と、冗談半分に見せかけながら苦笑いを交わしたのだった。