2018年5月25日(金)
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第8回(2018年第18回)、「比企丘陵ウォーキング」に参加した。
東武東上線池袋駅
『何分発の電車に乗れば良いのかしらっ?』
東松山へは池袋発9時0分の急行小川町行に乗車することになる。
東上線車内
この日の参加者は13名、ここ数年で一番少ない人数である。
30度を超えるという天気予報と、電車で片道2時間半以上かかるのが
敬遠されたのかも知れない。
9時55分、東松山駅に到着した。
9時58分発の川越観光バスに駆け込んだ。
『滑り込みセーフ!』
『間に合って良かったわね~っ』
8分ほどで百穴入口バス停に到着した。
東松山市と吉見町境界の市野川を渡る。
市野川の土手に赤で描かれた”百”と”穴”の大きな文字が見える。
吉見百穴が近いようだ。
岩室観音堂(岩室山龍性院)は、「比企西国三十三所観音札所」の3番である。
札所巡りは、「西国」「坂東」「秩父」が有名だが、
比企西国三十三所観音札所は、遠隔地を巡礼できない人々のために
享保八年(1723)に開設されたと云われている。
現在のお堂は江戸時代寛文年間(1661~1673)に再建されたものと
伝えられている。
石段を上ると、
洞窟内には四国八十八か所の寺々の御本尊を模した石仏が並ぶ。
合計で88体ある、そうだ。
こちらは、1番から51番の御本尊が、
こちらの洞窟には、52番から88番の御本尊が並ぶ。
これらの石仏にお参りすると、四国八十八か所巡りと同じ巧徳を得られるという。
お堂の2階に上がると、鉄格子の扉の奥に御本尊様
(比企西国三十三所観音札所の3番)が奉ってある。
ご利益は、災難除け・交通安全・商売繁盛・安産など、とのこと。
天井にはたくさんの絵馬が奉納されていた。
お堂の裏に岩屋がある。
鎖を掴んで急こう配で滑り易い岩場を上り、
ハートの形をした穴を潜り抜ける(胎内潜り)と、
諸難を除き、子宝・安産・子育ての願い事が叶うと
言われている、そうである。
岩室観音堂を後にして、吉見百穴へ。
10時25分、吉見百穴に到着
一人300円を払って中に入る。
国指定史跡の吉見百穴
岩山にいくつも穴が開いているという異様な外観ではある。
凝灰岩の斜面に造られた古墳時代の横穴墓群である。
写真は、正面から見て右側の岩山の百穴
戦時中、地下軍需工場用に掘られた洞窟
洞窟の前に立つと、中からかなり冷たい風が吹いて来た。
この日の外気温(約30度)と比べると10度くらいは低いように感じた。
当時国内最大の中島飛行機㈱の大宮工場エンジン部門の施設を移転させ、
エンジンの部品製造を始めたが、本格的な生産活動に入る前に終戦となった。
戦時中、岩山の最下部に径3mほどのトンネルが碁盤の目状に掘られた。
左右約500mに亘り山腹に掘られたという横穴。
中央部分には階段があり、岩山を上ることが出来る。
階段を上ってみる。
確認された穴の数は219個と言われ、このような遺跡としては日本一の規模、
だそうである。
丘陵の上から構内を見る。
高橋売店が見える。
玄室は、横穴の中でも最も重要な部分で、
ここに作られた一段高いベッドのような床は遺体を安置する所で
棺座と呼ばれている、とのこと。
一部の横穴にはヒカリゴケが自生している。
幻想的な黄緑色の光を放っているように見えるヒカリゴケ。
このコケは山地に多く、関東平野にあるのは植物分布上極めて貴重とされ、
昭和3年に国の天然記念物に指定されている。
高橋売店
百穴の向いに土産物店があったので、立ち寄ってみた。
一番の人気は、昔懐かしい和菓子の五家宝、とのこと。
かみさんへの土産にきな粉パックの五家宝(420円)を買った。
吉見百穴の構内にある吉見町埋蔵文化センターへ。
埋蔵文化センター内部展示品(1)
土器や石器、埴輪・装飾品などが展示・公開されている。
展示品(2)
展示品(3)
埋蔵文化センター前に正岡子規の句碑があった。
明治二十四年(1891)に正岡子規が当地を訪れて詠んだ
「神の代は かくやありけん 冬籠」が刻まれている。
10時56分、百穴を後にする。
武蔵松山城跡の碑
武蔵松山城跡の説明
武蔵松山城は、応永年間(1394~1428)築城と推定される。
北武蔵地方屈指の平山城で、本丸や物見櫓を始め多くの平場や空堀などが
良好な状態で残されている、とのこと。
別の機会に一度訪れてみたいものである。
11時1分、吉光院當選寺の虚空蔵菩薩堂前を通過
市道を進む。
上流川バス停付近を大沼に向けて進む。
大沼バス停を通過して、その先の道を左折すると、
11時23分、大沼に到着した。
大沼は、江戸時代から始まった水田開発のために造られた溜池の一つである。
東屋で一休み。
この日は水分補給が欠かせない。
しっかりと水分を補給して、
次の目的地天神沼を目指す。
天神沼の標識に従って、
天神沼を目指す。
11時36分、天神沼の西の端に到着した。
天神沼は、一面びっしりと水草に覆われていた。
天神沼沿いの道は細くなっている。
人気のない人家の前を 『お邪魔しま~すっ』 一声かけて通り抜ける。
あまり人が通らないのか草ぼうぼうである。
直ぐ右脇は天神沼だ。
天神沼の東の端に到着した。
今度は視界が開けた平坦な市道を進む。
市道は真っ直ぐ伸びている。
日陰はない。
市道を進む。
周りの田んぼには水が張られているが、まだ田植えは終わっていない。
『土浦と比べると1カ月くらい遅いんだねぇ』
11時53分、老人保健施設森田クリニック前を通過
弁当に相応しい場所を求めて市道を進む。
日陰のある所がないか? 辺りを見回しながら進む。
出来れば神社の境内のような場所が良いのだが・・・
息障院(そくしょういん)の標識が現れ、標識に従って進む。
息障院は、一応次の目的地になってはいるのだが・・・
寺院での弁当は出来れば避けたい。
神社であれば歓迎なのだが・・・
吉見中学校の隣に建つ吉見町武道館前を通過
神社を探しているうちに息障院に到着してしまった。
門を入った左側に、一周100mほどの小さな運動場があった。
おそらく幼稚園の運動場ではないかと思われるが、
弁当の場所としては、まぁまぁ良さそう。
弁当の前に息障院にお参りを済ませておこう。
息障院は、源頼朝・義経の異母兄弟、源範頼の館跡で、
吉見御所とも呼ばれている。
息障院山門を潜って中に入る。
境内には鐘楼、
重要建造物地蔵堂
慈母観音像、
弘法大師像などが建てられている。
松の枝ぶりが見事な本堂へのお参りを済ませる。
御本尊は重要文化財の不動明王座像である。
12時20分、息障院山門前の運動場に戻り、
弁当タイム(1)
弁当タイム(2)
弁当タイム(3)
12時50分、弁当タイムが終わり、息障院を後にする。
息障院付属のよしみ幼稚園をぐるりと回るように進むと、
県道345号と同271号の中新井交差点に出た。
息障院の裏手の県道271号を進み、
次の交差点を直進する。
次の目的地の吉見観音を目指す。
道端に西国・坂東・秩父の百番供養塔や不動明王像などの石像が並んでいた。
吉見観音を目指す。
吉見観音の参道を進むと、
参道の両脇に金剛力士像(仁王像)が。
吉見観音の門前に茶店「どびんや」があった。
看板の厄除けだんごが評判、らしい。
毎年6月18日の朝観音には長い参道に露店が立ち並び、
深夜2時頃から早朝にかけて厄除けだんごを求める人々で賑わう、そうだ。
『お参りした後に寄ってみたいねぇ』
13時11分、坂東33観音霊場11番札所の吉見観音に到着。
関東八十八箇所75番札所、東国花の寺百ヶ寺埼玉5番でもある。
岩殿山安楽寺は古くから吉見観音の名で親しまれてきた。
2009年6月21日(日)に訪れて以来2度目である。
山門の金剛力士像(阿像)
金剛力士像の造立は息障院文書から元禄十五年(1702)と考えられている。
県指定文化財の仁王門を潜ると、
左に弘法大師像があり、
正面階段の先に本堂が見えた。
吉見観音は、約1200年前に行基が観世音菩薩の像を彫って
岩窟に納めたのが始まりと云われる。
真言宗智山派の寺院で、山号は岩殿山、院号は光明院、
本尊は聖観世音菩薩である。
県指定文化財の三重塔
源範頼が建てたとされる三重塔は、天文六年(1537)に焼失。
現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に建築されたもので、
本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い。
三重塔の前に建つ大師堂
本堂左側奥の八起地蔵へ。
鐘楼の先に
八起地蔵が鎮座していた。
このお地蔵さまは「私達の願い・悩み・苦労を代わって受け、
漏れなくお救い下さる」とある。
吉見観音へのお参りを済ませたので茶店「どびんや」へ。
つぶあん・しょうゆ・あまから・ゆずみそだんごが各1本100円とある。
ゆずみそ1本(100円)を買ってその場で食べた。
美味かった。
吉見観音を後にして、北向地蔵を目指す。
北向地蔵を目指して緩い坂道を下る。
西吉見郵便局の所で県道271号へ合流して右へ曲がり、北向地蔵へ。
北向地蔵の向かい側に八坂神社があった。
先に八坂神社に参拝して行こう。
八坂神社に参拝
八坂神社から道路を挟んだ向い側に北向地蔵堂が見えた。
北向地蔵は、今から約220年前に建立された、とのこと。
その名の通り、北向に立っていることからその名が付けられた。
古くから地元では、このお地蔵様に祈願すると、イボがとれて、
肌が美しくなると云われてきたことから、
近年では美顔・美肌祈願に訪れる女性が多い、そうだ。
吉見百穴方面へ。
鉄砲の音が響く。
百穴射撃場が近いようだ。
滑川に架かる不動橋側道橋
不動橋側道橋の手前を左に折れて百穴方面へ。
左の山裾が百穴射撃場である。
ひっきりなしに鉄砲の音が響く。
『近くの家の人はうるさいだろうなぁ』
市野川の堤防上を百穴方面へ向かう。
『ゴールは近そうだねっ』
丘の上に動物霊園の看板が見える。
東松山ペットメモリアルパークだ。
市野川の堤防を百穴方面へ。
14時11分、市野川橋まで550mの地点を通過
不動橋からも550mなので、ちょうど真ん中ということになる。
市野川の堤防上を百穴方面へ。
左手に吉見百穴の横穴墓群が見えた。
『あら~っ また戻って来たのねっ』
市野川橋まで275mの地点で最後の休憩を摂り、
百穴入口バス停へ向かう。
市野川橋を渡り、
14時25分、百穴入口バス停に到着
東松山駅行バスは14時35分発となっている。
『ベストのタイミングだったねっ』
14時36分、東松山駅行バスが到着した。
バス車内は、ほぼ貸し切り状態だった。
14時44分、終点の東松山駅に到着
東上線東松山駅へ向かう。
池袋行きは14時57分とある。
あと10分ほどだ。
『これも良いタイミングだねぇ』
池袋行き電車に乗り、朝霞台駅でJR武蔵野線に乗り換え、
新松戸経由で帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
当会としては、初めての比企丘陵ウォーキングだった。
天気に恵まれたにもかかわらず、参加者が13名に終わったのは、意外だった。
予想気温が高かったためとやはり電車で片道2時間半以上という距離が
敬遠されたのではないかと思う。
岩山に空いた無数の穴はやはり異様な外観と言えると思う。
昔の人は長い間この不思議な穴を住居跡や墓などと感じていたのではないか
などと想像を巡らせるのも面白い。
武蔵松山城は、北武蔵地方屈指の平山城で、本丸や物見櫓を始め
多くの平場や空堀などが良好な状態で残されている、とのことなので、
別の機会に一度訪れてみたい。
参考のために、東上線で池袋から山手線、常磐線日暮里経由よりも
10分ほど早く荒川沖に着いたことを記しておく。
この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第8回(2018年第18回)、「比企丘陵ウォーキング」に参加した。
東武東上線池袋駅
『何分発の電車に乗れば良いのかしらっ?』
東松山へは池袋発9時0分の急行小川町行に乗車することになる。
東上線車内
この日の参加者は13名、ここ数年で一番少ない人数である。
30度を超えるという天気予報と、電車で片道2時間半以上かかるのが
敬遠されたのかも知れない。
9時55分、東松山駅に到着した。
9時58分発の川越観光バスに駆け込んだ。
『滑り込みセーフ!』
『間に合って良かったわね~っ』
8分ほどで百穴入口バス停に到着した。
東松山市と吉見町境界の市野川を渡る。
市野川の土手に赤で描かれた”百”と”穴”の大きな文字が見える。
吉見百穴が近いようだ。
岩室観音堂(岩室山龍性院)は、「比企西国三十三所観音札所」の3番である。
札所巡りは、「西国」「坂東」「秩父」が有名だが、
比企西国三十三所観音札所は、遠隔地を巡礼できない人々のために
享保八年(1723)に開設されたと云われている。
現在のお堂は江戸時代寛文年間(1661~1673)に再建されたものと
伝えられている。
石段を上ると、
洞窟内には四国八十八か所の寺々の御本尊を模した石仏が並ぶ。
合計で88体ある、そうだ。
こちらは、1番から51番の御本尊が、
こちらの洞窟には、52番から88番の御本尊が並ぶ。
これらの石仏にお参りすると、四国八十八か所巡りと同じ巧徳を得られるという。
お堂の2階に上がると、鉄格子の扉の奥に御本尊様
(比企西国三十三所観音札所の3番)が奉ってある。
ご利益は、災難除け・交通安全・商売繁盛・安産など、とのこと。
天井にはたくさんの絵馬が奉納されていた。
お堂の裏に岩屋がある。
鎖を掴んで急こう配で滑り易い岩場を上り、
ハートの形をした穴を潜り抜ける(胎内潜り)と、
諸難を除き、子宝・安産・子育ての願い事が叶うと
言われている、そうである。
岩室観音堂を後にして、吉見百穴へ。
10時25分、吉見百穴に到着
一人300円を払って中に入る。
国指定史跡の吉見百穴
岩山にいくつも穴が開いているという異様な外観ではある。
凝灰岩の斜面に造られた古墳時代の横穴墓群である。
写真は、正面から見て右側の岩山の百穴
戦時中、地下軍需工場用に掘られた洞窟
洞窟の前に立つと、中からかなり冷たい風が吹いて来た。
この日の外気温(約30度)と比べると10度くらいは低いように感じた。
当時国内最大の中島飛行機㈱の大宮工場エンジン部門の施設を移転させ、
エンジンの部品製造を始めたが、本格的な生産活動に入る前に終戦となった。
戦時中、岩山の最下部に径3mほどのトンネルが碁盤の目状に掘られた。
左右約500mに亘り山腹に掘られたという横穴。
中央部分には階段があり、岩山を上ることが出来る。
階段を上ってみる。
確認された穴の数は219個と言われ、このような遺跡としては日本一の規模、
だそうである。
丘陵の上から構内を見る。
高橋売店が見える。
玄室は、横穴の中でも最も重要な部分で、
ここに作られた一段高いベッドのような床は遺体を安置する所で
棺座と呼ばれている、とのこと。
一部の横穴にはヒカリゴケが自生している。
幻想的な黄緑色の光を放っているように見えるヒカリゴケ。
このコケは山地に多く、関東平野にあるのは植物分布上極めて貴重とされ、
昭和3年に国の天然記念物に指定されている。
高橋売店
百穴の向いに土産物店があったので、立ち寄ってみた。
一番の人気は、昔懐かしい和菓子の五家宝、とのこと。
かみさんへの土産にきな粉パックの五家宝(420円)を買った。
吉見百穴の構内にある吉見町埋蔵文化センターへ。
埋蔵文化センター内部展示品(1)
土器や石器、埴輪・装飾品などが展示・公開されている。
展示品(2)
展示品(3)
埋蔵文化センター前に正岡子規の句碑があった。
明治二十四年(1891)に正岡子規が当地を訪れて詠んだ
「神の代は かくやありけん 冬籠」が刻まれている。
10時56分、百穴を後にする。
武蔵松山城跡の碑
武蔵松山城跡の説明
武蔵松山城は、応永年間(1394~1428)築城と推定される。
北武蔵地方屈指の平山城で、本丸や物見櫓を始め多くの平場や空堀などが
良好な状態で残されている、とのこと。
別の機会に一度訪れてみたいものである。
11時1分、吉光院當選寺の虚空蔵菩薩堂前を通過
市道を進む。
上流川バス停付近を大沼に向けて進む。
大沼バス停を通過して、その先の道を左折すると、
11時23分、大沼に到着した。
大沼は、江戸時代から始まった水田開発のために造られた溜池の一つである。
東屋で一休み。
この日は水分補給が欠かせない。
しっかりと水分を補給して、
次の目的地天神沼を目指す。
天神沼の標識に従って、
天神沼を目指す。
11時36分、天神沼の西の端に到着した。
天神沼は、一面びっしりと水草に覆われていた。
天神沼沿いの道は細くなっている。
人気のない人家の前を 『お邪魔しま~すっ』 一声かけて通り抜ける。
あまり人が通らないのか草ぼうぼうである。
直ぐ右脇は天神沼だ。
天神沼の東の端に到着した。
今度は視界が開けた平坦な市道を進む。
市道は真っ直ぐ伸びている。
日陰はない。
市道を進む。
周りの田んぼには水が張られているが、まだ田植えは終わっていない。
『土浦と比べると1カ月くらい遅いんだねぇ』
11時53分、老人保健施設森田クリニック前を通過
弁当に相応しい場所を求めて市道を進む。
日陰のある所がないか? 辺りを見回しながら進む。
出来れば神社の境内のような場所が良いのだが・・・
息障院(そくしょういん)の標識が現れ、標識に従って進む。
息障院は、一応次の目的地になってはいるのだが・・・
寺院での弁当は出来れば避けたい。
神社であれば歓迎なのだが・・・
吉見中学校の隣に建つ吉見町武道館前を通過
神社を探しているうちに息障院に到着してしまった。
門を入った左側に、一周100mほどの小さな運動場があった。
おそらく幼稚園の運動場ではないかと思われるが、
弁当の場所としては、まぁまぁ良さそう。
弁当の前に息障院にお参りを済ませておこう。
息障院は、源頼朝・義経の異母兄弟、源範頼の館跡で、
吉見御所とも呼ばれている。
息障院山門を潜って中に入る。
境内には鐘楼、
重要建造物地蔵堂
慈母観音像、
弘法大師像などが建てられている。
松の枝ぶりが見事な本堂へのお参りを済ませる。
御本尊は重要文化財の不動明王座像である。
12時20分、息障院山門前の運動場に戻り、
弁当タイム(1)
弁当タイム(2)
弁当タイム(3)
12時50分、弁当タイムが終わり、息障院を後にする。
息障院付属のよしみ幼稚園をぐるりと回るように進むと、
県道345号と同271号の中新井交差点に出た。
息障院の裏手の県道271号を進み、
次の交差点を直進する。
次の目的地の吉見観音を目指す。
道端に西国・坂東・秩父の百番供養塔や不動明王像などの石像が並んでいた。
吉見観音を目指す。
吉見観音の参道を進むと、
参道の両脇に金剛力士像(仁王像)が。
吉見観音の門前に茶店「どびんや」があった。
看板の厄除けだんごが評判、らしい。
毎年6月18日の朝観音には長い参道に露店が立ち並び、
深夜2時頃から早朝にかけて厄除けだんごを求める人々で賑わう、そうだ。
『お参りした後に寄ってみたいねぇ』
13時11分、坂東33観音霊場11番札所の吉見観音に到着。
関東八十八箇所75番札所、東国花の寺百ヶ寺埼玉5番でもある。
岩殿山安楽寺は古くから吉見観音の名で親しまれてきた。
2009年6月21日(日)に訪れて以来2度目である。
山門の金剛力士像(阿像)
金剛力士像の造立は息障院文書から元禄十五年(1702)と考えられている。
県指定文化財の仁王門を潜ると、
左に弘法大師像があり、
正面階段の先に本堂が見えた。
吉見観音は、約1200年前に行基が観世音菩薩の像を彫って
岩窟に納めたのが始まりと云われる。
真言宗智山派の寺院で、山号は岩殿山、院号は光明院、
本尊は聖観世音菩薩である。
県指定文化財の三重塔
源範頼が建てたとされる三重塔は、天文六年(1537)に焼失。
現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に建築されたもので、
本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い。
三重塔の前に建つ大師堂
本堂左側奥の八起地蔵へ。
鐘楼の先に
八起地蔵が鎮座していた。
このお地蔵さまは「私達の願い・悩み・苦労を代わって受け、
漏れなくお救い下さる」とある。
吉見観音へのお参りを済ませたので茶店「どびんや」へ。
つぶあん・しょうゆ・あまから・ゆずみそだんごが各1本100円とある。
ゆずみそ1本(100円)を買ってその場で食べた。
美味かった。
吉見観音を後にして、北向地蔵を目指す。
北向地蔵を目指して緩い坂道を下る。
西吉見郵便局の所で県道271号へ合流して右へ曲がり、北向地蔵へ。
北向地蔵の向かい側に八坂神社があった。
先に八坂神社に参拝して行こう。
八坂神社に参拝
八坂神社から道路を挟んだ向い側に北向地蔵堂が見えた。
北向地蔵は、今から約220年前に建立された、とのこと。
その名の通り、北向に立っていることからその名が付けられた。
古くから地元では、このお地蔵様に祈願すると、イボがとれて、
肌が美しくなると云われてきたことから、
近年では美顔・美肌祈願に訪れる女性が多い、そうだ。
吉見百穴方面へ。
鉄砲の音が響く。
百穴射撃場が近いようだ。
滑川に架かる不動橋側道橋
不動橋側道橋の手前を左に折れて百穴方面へ。
左の山裾が百穴射撃場である。
ひっきりなしに鉄砲の音が響く。
『近くの家の人はうるさいだろうなぁ』
市野川の堤防上を百穴方面へ向かう。
『ゴールは近そうだねっ』
丘の上に動物霊園の看板が見える。
東松山ペットメモリアルパークだ。
市野川の堤防を百穴方面へ。
14時11分、市野川橋まで550mの地点を通過
不動橋からも550mなので、ちょうど真ん中ということになる。
市野川の堤防上を百穴方面へ。
左手に吉見百穴の横穴墓群が見えた。
『あら~っ また戻って来たのねっ』
市野川橋まで275mの地点で最後の休憩を摂り、
百穴入口バス停へ向かう。
市野川橋を渡り、
14時25分、百穴入口バス停に到着
東松山駅行バスは14時35分発となっている。
『ベストのタイミングだったねっ』
14時36分、東松山駅行バスが到着した。
バス車内は、ほぼ貸し切り状態だった。
14時44分、終点の東松山駅に到着
東上線東松山駅へ向かう。
池袋行きは14時57分とある。
あと10分ほどだ。
『これも良いタイミングだねぇ』
池袋行き電車に乗り、朝霞台駅でJR武蔵野線に乗り換え、
新松戸経由で帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
当会としては、初めての比企丘陵ウォーキングだった。
天気に恵まれたにもかかわらず、参加者が13名に終わったのは、意外だった。
予想気温が高かったためとやはり電車で片道2時間半以上という距離が
敬遠されたのではないかと思う。
岩山に空いた無数の穴はやはり異様な外観と言えると思う。
昔の人は長い間この不思議な穴を住居跡や墓などと感じていたのではないか
などと想像を巡らせるのも面白い。
武蔵松山城は、北武蔵地方屈指の平山城で、本丸や物見櫓を始め
多くの平場や空堀などが良好な状態で残されている、とのことなので、
別の機会に一度訪れてみたい。
参考のために、東上線で池袋から山手線、常磐線日暮里経由よりも
10分ほど早く荒川沖に着いたことを記しておく。
この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。
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