2019年6月21日(金)
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成元年度第11回(2019年第23回)、「白髭橋から荒川河川敷を歩く」ウォーキングに参加した。
荒川沖駅7時59分発の電車を待っているところ。
8時57分、南千住駅に到着
この日の参加者は23名である。
めいめい体調を整えて、9時14分、南千住駅を出発!
南千住駅西口から都道464号へ。
西口駅前に松尾芭蕉の像が建てられている。
千住は松尾芭蕉の矢立て初めの地で有名である。
元禄二年(1689)三月二十七日、松尾芭蕉はここ千住の地から奥の細道の旅へと出立した。
この像は、矢立て初めの句を詠む芭蕉の姿を表現したもの。
『行く春や 鳥啼き魚の 目は泪』
桜田門外の変で伊井大老を暗殺した水戸浪士たちや源達信士(鼠小僧次郎吉)、
吉田松陰の墓などがある小塚原回向院を見ながら、
常磐線、東京メトロ日比谷線のガード下を潜って進み、
引き込み線を跨ぐ。
『線路がたくさんあるわね~っ』
広大な敷地に数え切れないほどの引き込み線が延びている。
引き込み線を跨いで都道464号を明治通り方面へ。
都道464号を進み、
涙橋交差点を左に曲がり、都道306号(明治通り)へ。
この日の先頭を務めるのはいつものTKさんである。
かつて北千住近辺に住んでいたことがあり、この辺りの地理には詳しい。
南千住三丁目の涙橋歩道橋を通過。
明治通りを進むと、
道路反対側に”史蹟 平賀源内先生の墓”の碑が見えた。
平賀源内は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した発明家で、エレキテル(摩擦起電機)
の復元製作や、火浣布(石綿の耐火布)の発明で著名な人物である。
安永八年(1779)に殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で獄死、当地にあった総泉寺に葬られたという。
白鬚橋西詰交差点手前を左に曲がり、石浜神社へ。
9時17分、石浜神社に到着。
今年1月11日に「浅草名所七福神巡り」で訪れたので、まだ記憶に新しい。
石浜神社は、長寿延命の神様と云われる寿老人を祀っている。
石浜神社
主祭神の天照大御神と豊受大御神を祀る。
富士塚
実際に富士山に登って祈願できない人のために、同じご利益を得られるようにと、
富士山の形を模して建立した富士塚は、宝暦八年(1758)の造営。
白髭富士とも呼ばれる。
石浜神社で一息入れる。
女性の一人が持参した冷たいゼリーが配られた。
『ご馳走さま~っ』
『冷たくて 美味しいわねっ』
9時48分、石浜神社を後にする。
白鬚橋西詰交差点を横断し、
隅田川に架かる白鬚橋を渡る。
白鬚橋はあいにくの工事中で、周りの景色は全く観ることが出来なかった。
特に白鬚橋から東京スカイツリーを見れなかったのは残念という他ない。
首都高速6号向島線を潜り、
少し先を左に曲がって東白鬚公園へ。
東白鬚公園の地図を確認すると、公園内を隅田川神社や木母寺へ行けるようになっている。
東白鬚公園は、緑とレクレーションの広場となっている。
公園の東側には、13階建ての高層住宅が並んでいる。
この地域一帯は江東デルタ地区の防災拠点で、もし大地震や火災が起きた時には、
公園は避難広場になる、とある。
9時56分、東白鬚公園内を隅田川神社を目指す。
公園東側(右側)には、13階建ての高層住宅が見える。
隅田川神社へ。
後方にやや霞んだ東京スカイツリーが見える。
公園内を進み、
桜堤中学校の校門前を通過。
公園内には大きな欅などの樹木も見られる。
これは、火の粉や熱風から身を守るために植えられている、そうだ。
『素敵な公園だよねっ』
公園内にはタチアオイ(立葵)や
スカシユリ(透百合)などの花が見頃を迎えていた。
10時5分、隅田川神社に到着した。
隅田川神社は、源頼朝挙兵の折の治承4年(1180)当地に到り、水神の霊験に感じて
社殿を造営したと伝えられる。
隅田川流域の船主の信仰を集め、またこの地が小高い浮洲となっていて、
出水の時も水没することがなかったところから、「水神社」または「浮島の宮」
とも呼ばれていた。
隅田川神社に参拝し、
首都高速6号向島線に沿って進むと、
10時14分、木母寺(もくぼじ)に到着した。
天台宗の寺院で、山号は梅柳山、木母寺(別名梅若寺)と称する。
総本山は比叡山延暦寺である。
木母寺は、平安時代中期の貞元二年(977)天台宗の僧忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために
建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名付けて開かれた。
梅若念仏堂
このお堂は、梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものである
と云われている。
4月15日の梅若丸御命日に、梅若丸大念仏法要・謡曲隅田川・梅若山王権現芸道上達護摩供養が
開催される。
強固なガラスの囲いに覆われて在るのは、この地域が防災拠点のため、木造建築物は不許可で、
周囲を強化ガラス張りにしてある、とのこと。
今も伝わる梅若伝説は、平安時代、人買にさらわれてこの地で亡くなった梅若丸という子供と、
その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説である。
この伝説を元にして、後に能の隅田川をはじめ歌舞伎・浄瑠璃・舞踊・謡曲・オペラなど、
さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていった。
梅若丸の絵馬には、芸道上達、学業成就と書かれている。
堂内には梅若山王権現の幟が見える。
梅若塚の沿革
「たづね来て 問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の 露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は、
中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。
明治の世となり、木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが、同寺再興の翌年(明治22年)
佛式に復帰しました。
現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、
石標が立っています。
梅若念仏堂の横に身代わり地蔵尊が。
この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、
民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかりの深いお地蔵様です。
そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み苦しみを察し、
身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。
つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、
「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください、とある。
境内には、謡曲「隅田川」の碑など、多くの石碑がある。
天下の糸平の碑
高さ5m、幅3mを越す都内一の巨碑。
明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑。
書は親交のあった政治家伊藤博文。
三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治22年に建てた碑。
題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書。
浄瑠璃塚碑
川柳塚碑
へび観音
『気持ちわる~っ』
10時21分、木母寺を後にする。
東京都リハビリテーション病院方面に向かう。
梅若橋を進み、
さらに進んで行くと、
左側に大きな建物があった。
東京都リハビリテーション病院だ。
『ここで隅田川を渡ることになってるねっ』
ということで、梅若橋を降りて、
東京都リハビリテーション病院前を通ると、
10時32分、水神大橋東端に到着した。
水神大橋を渡る。
隅田川(上流方面)
首都高速6号向島線
水神大橋を渡る。
水神大橋を渡った右手に隅田川旧防潮堤が続いている。
10時36分、水神大橋を渡って右に曲がり、
隅田川旧防潮堤に沿った遊歩道を進む。
『風が気持ち良いわね~っ』
隅田川の先に見えるのは首都高速6号向島線である。
『都内を抜けるときにはいつもあそこを通るんだよねっ』
常磐道を利用する我々にとっては馴染み深い首都高である。
一段高い汐入公園も歩いてみよう。
汐入公園からは、荒川区立第三中学校や
汐入東小学校、汐入こども園などの建物が見える。
汐入の渡しの説明板
現在の千住汐入大橋付近と対岸の墨田区堤通二丁目付近とを結んでいた渡し。
農村時代の汐入は、周囲を隅田川と田畑に囲まれた袋小路のような立地であった。
汐入の渡しは重要な交通手段であり、明治2年(1869)頃から集落の共同経営で
渡しが行われ、同12年に個人経営、同22年に正式に東京府に営業申請が出されて、
翌23年に営業許可が下りた。
この頃対岸に鐘ヶ淵紡績会社等が設立され、通勤客の利用者が大幅に増えていった。
隅田川に設けられた渡しが次々と消えていくなかで、最後まで利用され、昭和42年(1967)
まで営業されていた。(以下略)
荒川区教育委員会
都道314号(川の手通り)に沿って進むと、
10時44分、千住汐入大橋に到着した。
千住汐入大橋を渡る。
平成18年に完成した新しい橋で、名称は50年前までここにあった「汐入の渡し」から。
千住汐入大橋から見た隅田川(上流)
千住汐入大橋を渡ると、千住大川端公園という小さな公園があった。
千住大川端公園で一休みしよう。
千住大川端公園で一休みして、
隣接する小さな公園内を抜け、
高層マンション内を通り抜けると、
都道461号(墨堤通り)に出た。
墨堤通りを少し進むと、11時6分、右手に京成関屋駅があった。
京成関屋駅内を通り抜けると、東武スカイツリーラインの牛田駅である。
『京成線と東武線は直ぐ隣だけど駅名が全く違うんだね~っ』
牛田駅前の通りを右に進み、
さらに京成線に沿って進む。
『東武線の線路はどこにあるんだろうねぇ』
京成線のガード下の先を左に折れて進むと・・・
東武線のガードがあった。
『ここだねっ ようやく見つけたよっ』 『随分桁下が低いんだね~っ』
『頭に気をつけてっ!』
桁下高さ1.7mの線路下を潜り抜け、
小さな路地を進むと、「柳原千草園」の案内表示があった。
『こっちだねっ』
11時16分、「柳原千草園」に到着した。
この公園は、製紙工場跡地を足立区が買収し、平成元年六月に開園したもの。
季節ごとに植物の様々な姿が見られるように配置し、サクラやシャクナゲ、モミジ、
水辺の草花など、数々の植物が植えられていることから、公園名を「柳原千草園」と
命名した、とのこと。
柳原千草園で一休みして、
荒川の堤防へ向かった。
住宅の路地から荒川の堤防が見えた。
『荒川の堤防が目の前だねっ』
堤防手前の道路(都道449号)に出て、
石段を上ると・・・
11時25分、眼下に荒川河川敷の景色が広がっていた。
伝説の学園ドラマ「3年B組金八先生」のロケ地だった場所、だそうである。
『うわぁ 素晴らしいわね~っ』
『広々としてほんとに気持ちが良いわ~っ』
堤防上を荒川の上流へ。
荒川の上流を目指す。
『いやぁ 広くて実に気持ちが良いねぇ』
しばらく進むと、左手に北千住駅周辺のビル群が見えて来た。
『あの丸井ビルが見える辺りが北千住駅じゃないかなっ』
前方に東武線の鉄橋が見えて来た。
鉄橋手前で堤防を下りて、
堤防下の道路を進み、東武スカイツリーライン、
続いてつくばエキスプレス線・常磐線・東京メトロ千代田線下を進む。
堤防下の道路をしばらく進み、
石段を上り再び堤防上へ。
堤防上へ上り、
直ぐに堤防下へ。
さらに堤防下へ下りると、
旧水戸街道である。
『名倉医院って北千住では有名だよねっ』
11時51分、名倉医院前を通る。
名倉医院は、江戸時代から関東一円に名を馳せていた有名な接骨院で、
患者用の宿が何件もあったほどだった、とのこと。
暑いので旧日光街道の分岐点の木陰で一休みだ。
『この家も古そうな感じだわねぇ』
千住宿の宿場町通りを進む。
生そば中川屋本店前を過ぎると、
槍掛けだんごの「かどや」があった。
店構えが変わっていたのでうっかり見過ごすところだった。
この写真は、”旧水戸街道歩き”で2011年6月12日(日)に立寄った時の店の構えである。
大きな看板が特徴だった。
『良かったぁ だんごまだあったのね~っ』
TM子さんは、あのときと同じく”槍掛けだんご”と”みたらしだんご”を注文したそうだ。
横山家住宅
屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
街道に面して、間口が広く奥行きが深い、”伝馬屋敷”の面影を今に伝える商家である。
また、戸口は一段下げて造る(お客様を迎える心構えの表れ)のが特徴である。
(案内板より)
宿場町通りを進む。
さらに宿場町通りを進む。
江戸四宿最大の宿場町だった千住宿は、新旧の商店が混在して今でも賑やかだ。
ほんちょう商店街手前の信号のある交差点を左に曲がり、
アーケードのある北千住駅前商店街を進むと、
北千住駅ビルが見えて来た。
12時14分、この日のゴール北千住駅に到着した。
北千住駅前で次週の「天目山と榛名湖畔を歩く」バスハイクの集合時刻・場所の確認をして、
この日はここで解散とした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
いつもの飲み友達は、TKさんの提案により、蕎麦「柏屋」でということに。
いったん北千住駅で引き返して、
アーケードの北千住駅前商店街を逆方向に進み、
宿場町通りの反対側のほんちょう商店街へ。
50mほど進むと、目指す蕎麦の「柏屋」があった。
先ずは生ビールで『かんぱ~いっ』
『かんぱ~いっ』
『お疲れさま~っ』
この日の生ビール(500円)は美味かった。
皆さん、お好みのメニューを注文。
自分は親子丼(800円)を注文した。
食後は再び北千住駅へ向かい、13時18分発の土浦行き特別快速で帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
TKさんから提案のあった”白髭橋から荒川河川敷”コースを歩き終えた。
”梅雨の中休み”で雨に降られなかったのは、幸運だった。
隅田川から荒川という2つの川に沿って歩いたおかげで、暑さを凌ぐことができた。
北千住の宿場町通りは、2011年6月12日(日)以来8年ぶりだったので、懐かしさを覚えた。
この日の万歩計は、14,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成元年度第11回(2019年第23回)、「白髭橋から荒川河川敷を歩く」ウォーキングに参加した。
荒川沖駅7時59分発の電車を待っているところ。
8時57分、南千住駅に到着
この日の参加者は23名である。
めいめい体調を整えて、9時14分、南千住駅を出発!
南千住駅西口から都道464号へ。
西口駅前に松尾芭蕉の像が建てられている。
千住は松尾芭蕉の矢立て初めの地で有名である。
元禄二年(1689)三月二十七日、松尾芭蕉はここ千住の地から奥の細道の旅へと出立した。
この像は、矢立て初めの句を詠む芭蕉の姿を表現したもの。
『行く春や 鳥啼き魚の 目は泪』
桜田門外の変で伊井大老を暗殺した水戸浪士たちや源達信士(鼠小僧次郎吉)、
吉田松陰の墓などがある小塚原回向院を見ながら、
常磐線、東京メトロ日比谷線のガード下を潜って進み、
引き込み線を跨ぐ。
『線路がたくさんあるわね~っ』
広大な敷地に数え切れないほどの引き込み線が延びている。
引き込み線を跨いで都道464号を明治通り方面へ。
都道464号を進み、
涙橋交差点を左に曲がり、都道306号(明治通り)へ。
この日の先頭を務めるのはいつものTKさんである。
かつて北千住近辺に住んでいたことがあり、この辺りの地理には詳しい。
南千住三丁目の涙橋歩道橋を通過。
明治通りを進むと、
道路反対側に”史蹟 平賀源内先生の墓”の碑が見えた。
平賀源内は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した発明家で、エレキテル(摩擦起電機)
の復元製作や、火浣布(石綿の耐火布)の発明で著名な人物である。
安永八年(1779)に殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で獄死、当地にあった総泉寺に葬られたという。
白鬚橋西詰交差点手前を左に曲がり、石浜神社へ。
9時17分、石浜神社に到着。
今年1月11日に「浅草名所七福神巡り」で訪れたので、まだ記憶に新しい。
石浜神社は、長寿延命の神様と云われる寿老人を祀っている。
石浜神社
主祭神の天照大御神と豊受大御神を祀る。
富士塚
実際に富士山に登って祈願できない人のために、同じご利益を得られるようにと、
富士山の形を模して建立した富士塚は、宝暦八年(1758)の造営。
白髭富士とも呼ばれる。
石浜神社で一息入れる。
女性の一人が持参した冷たいゼリーが配られた。
『ご馳走さま~っ』
『冷たくて 美味しいわねっ』
9時48分、石浜神社を後にする。
白鬚橋西詰交差点を横断し、
隅田川に架かる白鬚橋を渡る。
白鬚橋はあいにくの工事中で、周りの景色は全く観ることが出来なかった。
特に白鬚橋から東京スカイツリーを見れなかったのは残念という他ない。
首都高速6号向島線を潜り、
少し先を左に曲がって東白鬚公園へ。
東白鬚公園の地図を確認すると、公園内を隅田川神社や木母寺へ行けるようになっている。
東白鬚公園は、緑とレクレーションの広場となっている。
公園の東側には、13階建ての高層住宅が並んでいる。
この地域一帯は江東デルタ地区の防災拠点で、もし大地震や火災が起きた時には、
公園は避難広場になる、とある。
9時56分、東白鬚公園内を隅田川神社を目指す。
公園東側(右側)には、13階建ての高層住宅が見える。
隅田川神社へ。
後方にやや霞んだ東京スカイツリーが見える。
公園内を進み、
桜堤中学校の校門前を通過。
公園内には大きな欅などの樹木も見られる。
これは、火の粉や熱風から身を守るために植えられている、そうだ。
『素敵な公園だよねっ』
公園内にはタチアオイ(立葵)や
スカシユリ(透百合)などの花が見頃を迎えていた。
10時5分、隅田川神社に到着した。
隅田川神社は、源頼朝挙兵の折の治承4年(1180)当地に到り、水神の霊験に感じて
社殿を造営したと伝えられる。
隅田川流域の船主の信仰を集め、またこの地が小高い浮洲となっていて、
出水の時も水没することがなかったところから、「水神社」または「浮島の宮」
とも呼ばれていた。
隅田川神社に参拝し、
首都高速6号向島線に沿って進むと、
10時14分、木母寺(もくぼじ)に到着した。
天台宗の寺院で、山号は梅柳山、木母寺(別名梅若寺)と称する。
総本山は比叡山延暦寺である。
木母寺は、平安時代中期の貞元二年(977)天台宗の僧忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために
建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名付けて開かれた。
梅若念仏堂
このお堂は、梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものである
と云われている。
4月15日の梅若丸御命日に、梅若丸大念仏法要・謡曲隅田川・梅若山王権現芸道上達護摩供養が
開催される。
強固なガラスの囲いに覆われて在るのは、この地域が防災拠点のため、木造建築物は不許可で、
周囲を強化ガラス張りにしてある、とのこと。
今も伝わる梅若伝説は、平安時代、人買にさらわれてこの地で亡くなった梅若丸という子供と、
その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説である。
この伝説を元にして、後に能の隅田川をはじめ歌舞伎・浄瑠璃・舞踊・謡曲・オペラなど、
さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていった。
梅若丸の絵馬には、芸道上達、学業成就と書かれている。
堂内には梅若山王権現の幟が見える。
梅若塚の沿革
「たづね来て 問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の 露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は、
中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。
明治の世となり、木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが、同寺再興の翌年(明治22年)
佛式に復帰しました。
現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、
石標が立っています。
梅若念仏堂の横に身代わり地蔵尊が。
この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、
民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかりの深いお地蔵様です。
そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み苦しみを察し、
身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。
つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、
「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください、とある。
境内には、謡曲「隅田川」の碑など、多くの石碑がある。
天下の糸平の碑
高さ5m、幅3mを越す都内一の巨碑。
明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑。
書は親交のあった政治家伊藤博文。
三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治22年に建てた碑。
題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書。
浄瑠璃塚碑
川柳塚碑
へび観音
『気持ちわる~っ』
10時21分、木母寺を後にする。
東京都リハビリテーション病院方面に向かう。
梅若橋を進み、
さらに進んで行くと、
左側に大きな建物があった。
東京都リハビリテーション病院だ。
『ここで隅田川を渡ることになってるねっ』
ということで、梅若橋を降りて、
東京都リハビリテーション病院前を通ると、
10時32分、水神大橋東端に到着した。
水神大橋を渡る。
隅田川(上流方面)
首都高速6号向島線
水神大橋を渡る。
水神大橋を渡った右手に隅田川旧防潮堤が続いている。
10時36分、水神大橋を渡って右に曲がり、
隅田川旧防潮堤に沿った遊歩道を進む。
『風が気持ち良いわね~っ』
隅田川の先に見えるのは首都高速6号向島線である。
『都内を抜けるときにはいつもあそこを通るんだよねっ』
常磐道を利用する我々にとっては馴染み深い首都高である。
一段高い汐入公園も歩いてみよう。
汐入公園からは、荒川区立第三中学校や
汐入東小学校、汐入こども園などの建物が見える。
汐入の渡しの説明板
現在の千住汐入大橋付近と対岸の墨田区堤通二丁目付近とを結んでいた渡し。
農村時代の汐入は、周囲を隅田川と田畑に囲まれた袋小路のような立地であった。
汐入の渡しは重要な交通手段であり、明治2年(1869)頃から集落の共同経営で
渡しが行われ、同12年に個人経営、同22年に正式に東京府に営業申請が出されて、
翌23年に営業許可が下りた。
この頃対岸に鐘ヶ淵紡績会社等が設立され、通勤客の利用者が大幅に増えていった。
隅田川に設けられた渡しが次々と消えていくなかで、最後まで利用され、昭和42年(1967)
まで営業されていた。(以下略)
荒川区教育委員会
都道314号(川の手通り)に沿って進むと、
10時44分、千住汐入大橋に到着した。
千住汐入大橋を渡る。
平成18年に完成した新しい橋で、名称は50年前までここにあった「汐入の渡し」から。
千住汐入大橋から見た隅田川(上流)
千住汐入大橋を渡ると、千住大川端公園という小さな公園があった。
千住大川端公園で一休みしよう。
千住大川端公園で一休みして、
隣接する小さな公園内を抜け、
高層マンション内を通り抜けると、
都道461号(墨堤通り)に出た。
墨堤通りを少し進むと、11時6分、右手に京成関屋駅があった。
京成関屋駅内を通り抜けると、東武スカイツリーラインの牛田駅である。
『京成線と東武線は直ぐ隣だけど駅名が全く違うんだね~っ』
牛田駅前の通りを右に進み、
さらに京成線に沿って進む。
『東武線の線路はどこにあるんだろうねぇ』
京成線のガード下の先を左に折れて進むと・・・
東武線のガードがあった。
『ここだねっ ようやく見つけたよっ』 『随分桁下が低いんだね~っ』
『頭に気をつけてっ!』
桁下高さ1.7mの線路下を潜り抜け、
小さな路地を進むと、「柳原千草園」の案内表示があった。
『こっちだねっ』
11時16分、「柳原千草園」に到着した。
この公園は、製紙工場跡地を足立区が買収し、平成元年六月に開園したもの。
季節ごとに植物の様々な姿が見られるように配置し、サクラやシャクナゲ、モミジ、
水辺の草花など、数々の植物が植えられていることから、公園名を「柳原千草園」と
命名した、とのこと。
柳原千草園で一休みして、
荒川の堤防へ向かった。
住宅の路地から荒川の堤防が見えた。
『荒川の堤防が目の前だねっ』
堤防手前の道路(都道449号)に出て、
石段を上ると・・・
11時25分、眼下に荒川河川敷の景色が広がっていた。
伝説の学園ドラマ「3年B組金八先生」のロケ地だった場所、だそうである。
『うわぁ 素晴らしいわね~っ』
『広々としてほんとに気持ちが良いわ~っ』
堤防上を荒川の上流へ。
荒川の上流を目指す。
『いやぁ 広くて実に気持ちが良いねぇ』
しばらく進むと、左手に北千住駅周辺のビル群が見えて来た。
『あの丸井ビルが見える辺りが北千住駅じゃないかなっ』
前方に東武線の鉄橋が見えて来た。
鉄橋手前で堤防を下りて、
堤防下の道路を進み、東武スカイツリーライン、
続いてつくばエキスプレス線・常磐線・東京メトロ千代田線下を進む。
堤防下の道路をしばらく進み、
石段を上り再び堤防上へ。
堤防上へ上り、
直ぐに堤防下へ。
さらに堤防下へ下りると、
旧水戸街道である。
『名倉医院って北千住では有名だよねっ』
11時51分、名倉医院前を通る。
名倉医院は、江戸時代から関東一円に名を馳せていた有名な接骨院で、
患者用の宿が何件もあったほどだった、とのこと。
暑いので旧日光街道の分岐点の木陰で一休みだ。
『この家も古そうな感じだわねぇ』
千住宿の宿場町通りを進む。
生そば中川屋本店前を過ぎると、
槍掛けだんごの「かどや」があった。
店構えが変わっていたのでうっかり見過ごすところだった。
この写真は、”旧水戸街道歩き”で2011年6月12日(日)に立寄った時の店の構えである。
大きな看板が特徴だった。
『良かったぁ だんごまだあったのね~っ』
TM子さんは、あのときと同じく”槍掛けだんご”と”みたらしだんご”を注文したそうだ。
横山家住宅
屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
街道に面して、間口が広く奥行きが深い、”伝馬屋敷”の面影を今に伝える商家である。
また、戸口は一段下げて造る(お客様を迎える心構えの表れ)のが特徴である。
(案内板より)
宿場町通りを進む。
さらに宿場町通りを進む。
江戸四宿最大の宿場町だった千住宿は、新旧の商店が混在して今でも賑やかだ。
ほんちょう商店街手前の信号のある交差点を左に曲がり、
アーケードのある北千住駅前商店街を進むと、
北千住駅ビルが見えて来た。
12時14分、この日のゴール北千住駅に到着した。
北千住駅前で次週の「天目山と榛名湖畔を歩く」バスハイクの集合時刻・場所の確認をして、
この日はここで解散とした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
いつもの飲み友達は、TKさんの提案により、蕎麦「柏屋」でということに。
いったん北千住駅で引き返して、
アーケードの北千住駅前商店街を逆方向に進み、
宿場町通りの反対側のほんちょう商店街へ。
50mほど進むと、目指す蕎麦の「柏屋」があった。
先ずは生ビールで『かんぱ~いっ』
『かんぱ~いっ』
『お疲れさま~っ』
この日の生ビール(500円)は美味かった。
皆さん、お好みのメニューを注文。
自分は親子丼(800円)を注文した。
食後は再び北千住駅へ向かい、13時18分発の土浦行き特別快速で帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
TKさんから提案のあった”白髭橋から荒川河川敷”コースを歩き終えた。
”梅雨の中休み”で雨に降られなかったのは、幸運だった。
隅田川から荒川という2つの川に沿って歩いたおかげで、暑さを凌ぐことができた。
北千住の宿場町通りは、2011年6月12日(日)以来8年ぶりだったので、懐かしさを覚えた。
この日の万歩計は、14,000歩を計測していた。
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