2019年2月1日(金)
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第32回(2019年第4回)、「太古の歴史探訪・さきたま古墳」ウォーキングに参加した。
三中公民館でバスを待っているところ。
『いやぁ 今日は風が冷たいね~っ』、
土浦市のこの日の最高気温は8℃、これから向かう行田市は7℃の予想である。
7時22分、ほぼ予定時刻にバスがやって来た。
この日の参加者は21名、皆さん、今日も元気いっぱいだ。
『随分積もってるわねぇ』 『真っ白じゃないっ』
昨夜降った雪がかなり残っている。
これから向かう行田市は大丈夫だろうか?
7時44分、つくば・牛久ICを通過し、
圏央道を久喜白岡方面へ。
筑波山が雪を被っている。
『あんなに雪を被った筑波山は初めて見るよっ』
朝食弁当
前々回(2018年10月26日 白糸ハイランドウェイを歩く)の時と同じ弁当だ。
バスは圏央道を順調に走る。
周りは真っ白な銀世界である。
8時15分、五霞IC付近を通過。
左手に富士山が見えて来た。
『雪を被った富士山ってやっぱりきれいね~っ』
『一晩で雪を被った富士山に戻って良かったよねっ』
8時16分、利根川を渡る。
『この辺は雪は降らなかったようだねぇ』
8時28分、久喜白岡JCTを通過し、鶴ヶ島JCT方面へ。
菖蒲PAまで2Km地点を通過し、
8時35分、菖蒲PAに到着。
ここで昼の弁当を受け取り、バスのトランクに積み込んだ。
15分の休憩を摂った後、
圏央道桶川加納ICへ。
8時53分、桶川加納ICを通過
バスは国道17号、
県道77号を行田市街へ。
桶川加納ICから35分ほどで、正面に秩父鉄道行田市駅が見えて来た。
9時30分、秩父鉄道行田市駅に到着
『もう着いちゃったのっ? やっぱり圏央道は早いねぇ』
『行田って意外と近いんだねっ』
秩父鉄道行田市駅
弁当はバスの中で食べることにしているので、バスに積んだままにしておく。
『弁当がない分身が軽いよねっ』
準備が整い、9時34分、いつものようにTKさんを先頭に忍城目指して出発だ!
さきたま古墳2.6Km、忍城址1.0Kmの標識に従って進む。
駅前通りの武蔵野銀行の角を右に曲がり、国道125号を忍城址へ。
行田市商工センター前を通過
行田市街の通りに並ぶ童の銅人形を眺めながら進む。
市役所入口交差点の横断跨線橋に”埼玉県名発祥の地 行田”の文字が。
『行田が埼玉県名の発祥の地なんだぁ』
『知らなかったなぁ』
行田市役所は道路反対側に建っている。
”行田ゼリーフライ本舗”の看板
ゼリーフライとは、衣のないコロッケのようなもので、日露戦争に従軍した飲食店の主人が、
帰国後に中国の野菜まんじゅうをアレンジしたのが始まりといわれる。
大量のおからを使うのが特徴で、店によって食感も味も違う、とのこと。
初めて聞く品名だし、まだ食べたことはないが、一度味わってみたいものである。
国道125号を横断すると、忍城址の堀と復元された御三階櫓が見えて来た。
御三階櫓
忍城は文明十年(1478)頃、成田顕泰(あきやす)により築城された「守り易く攻め難い」
難攻不落の名城であったと伝えられている。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、
この城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。
”秀吉が唯一落とせなかった城”としてその名を知られた。
昭和63年(1988)に復元された。
続日本100名城に指定されている。
堀に架かるあずま橋を渡り、東門を潜って城内(行田市郷土博物館)へ。
東門を潜ると、右手に鐘楼が建っている。
吊り下がっているのは、江戸時代の忍城ゆかりの遺品の時鐘(じしょう)である。
文政六年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴って、忍城へ移された鐘、とのこと。
鐘楼は、城内二の丸の東隅にあったが、明治十年(1877)に取り崩され、
当時の進修館小学校校庭に再建され、時を報じていた。
昭和28年(1953)東照宮に移転の後に、平成4年(1992)4月、鐘楼から鐘を取り外され、
現在は行田市郷土博物館に展示されている。
総高151cm、口径79.5cm、重さ600kg、市指定有形文化財になっている。
大晦日には除夜の鐘となる、そうだ。
行田市郷土博物館は、忍城の本丸の跡地にあり、隣接する御三階櫓とともに、
行田の歴史と文化を紹介している。
通常の入館料は、1人200円だが、20名以上の団体は1人160円だ。
なお、館内は撮影禁止になっているため残念ながら写真はない。
(展示品などは殆どがレプリカと思われるので、撮影禁止の意図が理解出来ない。
せめて「さきたま史跡の博物館」並の”フラッシュ撮影禁止”に出来ないものなのだろうか)
博物館の見学を終え、渡櫓のような通路を御三階櫓へ向かう。
御三階櫓からの眺望(1)
御三階櫓からの眺望(2)
御三階櫓からの眺望(3)
これから向かう「さきたま古墳公園」方面と思われるが、古墳は確認できない。
御三階櫓からの眺望(4)
富士山が見えた。
続日本100名城のスタンプを押した後、東門を出てあずま橋を渡り、
10時35分、忍城に別れを告げた。
忍城向かい側の「浮き城の径」へ。
冠木門を潜って、
「浮き城の径」を進む。
『散歩にちょうど良い径だねっ』
「浮き城の径」を抜け、
行田市産業文化会館前から、2.4Km先のさきたま古墳へ。
『この道を真直ぐ行けば良いのかなっ』
本丸児童公園にC57型蒸気機関車が展示されていた。
C57は、「貴婦人」と呼ばれ親しまれた蒸気機関車で、速度が速く、主に旅客列車用として活躍した。
水城公園へ向かう。
ほどなく水城公園に到着した。
今も満々と水を湛えている「しのぶ池」は、かつて忍城の外堀だった、そうだ。
『広くてきれいな公園だよね~っ』
古代蓮の池があった。
水城公園を過ぎ、市道を進む。
”未来への螺旋”モニュメント
次のように記されている。
古代から受け継がれた文化は、近世の文化を生み、現在において必要とされる環境へと変貌し、
次世代が引き継ぐ未来へと進化します。
過去、現在に支えられながら希望に満ちた未来へと躍進する姿、そんな意思を込めたモニュメントです、
とある。
少し先に今度は”過去からの螺旋”モニュメントがあった。
古代から受け継がれた文化は、近世の文化を生み、現在において未来へと進化します、とある。
さきたま古墳公園へ向けて、
市道を進む。
さらに市道を進む。
『ようやく身体が温まって来たわっ』
「教育文化センターみらい」前を通過
『立派な建物だよね~っ』
さきたま古墳公園を目指す。
左に折れて武蔵水路に沿って進むと、県道77号の野合新橋交差点に出た。
県道77号野合新橋交差点を右に曲がって進むと、
さきたま古墳公園の駐車場があり、既に常南交通のバスが待機しているのが見えた。
この日は気温が低く風が強いので、外での弁当は酷であり出来れば避けたい。
ということで、この日はバス車内で食べることにしてもらっている。
弁当には少し早いので、先に博物館を見学することにする。
ひとまず駐車場は通り過ぎて、さきたま史跡の博物館へ。
11時25分、さきたま史跡の博物館に到着した。
約20分のVTRで予備知識を学び、
展示場を見学(1)
展示場を見学(2)
展示場を見学(3)
展示場から国宝展示室へ
国宝展示室の展示品(1)
国宝展示室の展示品(2)
国宝展示室の展示品(3)
国宝展示室の展示品(4)
国宝の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)
見学の様子(1)
見学の様子(2)
見学の様子(3)
博物館で予備知識を学んだ後、バスへ。
『弁当が楽しみだねっ』
12時15分、バスに到着し、
弁当を受け取って車内へ。
この日の昼食弁当は朝食弁当に似ている感じだ。
食事の様子(1)
食事の様子(2)
弁当も食べ終わり、次は古墳公園内を歩くことにした。
敷地面積約320,000万㎢の中に、5世紀から7世紀にかけて造られた9基の大型古墳が集まっている。
公園内は広いので纏まって歩くのが賢明だろう。
再びさきたま史跡の博物館のある公園へ向かう。
埼玉県名発祥の地碑
碑の横に埼玉県名の由来の説明板があった。
明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。
それが、埼玉県の誕生である。
以後、幾度かの変遷を経て、明治九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。
「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが埼玉郡であったことによる。
(中略)
ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。
おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
昭和六十二年 四月 埼玉県
12時51分、古墳巡りスタート!
フルコース(歩行距離約3.5Km 所要時間目安1時間30分)を回ることにする。
最初に現れたのは奥の山古墳だ。
奥の山というのは、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、
一番奥にあることから付けられた。
主軸長70mで前方部幅47m、高さ7.4m 後円部径43m、高さ6.8m
6世紀中頃の築造と推定されている。
続いて中の山古墳
渡柳地区にある三基の古墳の中央に位置するのでこの名がある。
かつて石棺の如きものが発見されたと伝えられることから、別名唐櫃山(かろうとやま)古墳
と呼ばれている。
主軸長79mで前方部幅44m、高さ5.4m 後円部径42m、高さ5.1m
6世紀末から7世紀初めの築造。
埼玉古墳群に所属する前方後円墳の中では、最後に築造されたと考えられている。
公園内を進む。
浅間塚古墳、前玉(さきたま)神社がこの辺りにあるはずなのだが、鬱蒼とした林に囲まれており、
見つけることは出来なかった。
フルコースの案内にも載っていなかったので、諦めることにした。
左手に鉄砲山古墳が見える。
「鉄砲山」という名前は江戸時代に忍藩の砲術演習所(角場)があったことに由来する。
古墳群中3番目の大きさの前方後円墳である。
主軸長109mで前方部幅69m、高さ10.1m 後円部径55m、高さ9.0m
周濠を含めた全長は163mと推定されている。
6世紀後半の築造と推定されている。
瓦塚古墳
古墳群中6番目の大きさの中型前方後円墳だ。
明治時代の初期、付近に瓦工が住んでいたことから、この名がある。
軸長73mで前方部幅47m、高さ4.9m 後円部径36.5m、高さ5.1m
6世紀前半の築造と推定されている。
古民家旧遠藤家
埼玉県幸手市大字千塚(ちづか)から移築された民家で、江戸時代末期に建てられたもの。
面積は222.453㎡(67.41坪)、稲作農家らしく土間が広く屋内での仕事がし易くなっている、そうだ。
古民家内(台所)
古民家の台所(土間)から茶の間の座敷を見たところ。
縁側で一休み。
『日向ぼっこしてると気持ちが良いねぇ』
古民家を後にして二子山古墳へ。
二子山古墳
埼玉県では最大規模の古墳で、二つの山があるように見えることからこの名がある。
軸長138mで前方部幅90m、高さ14.9m 後円部径70m、高さ13m
6世紀前半の築造と推定されている。
二子山古墳
『いやぁ さすがにでかいね~っ』
将軍山古墳へ
将軍山古墳
軸長90mで前方部幅68m、高さ9.4m 後円部径39m、高さ8.4m
埼玉県下で8番目の規模の前方後円墳である。
明治27年(1894)に横穴式石室が発見され、多数の副葬品が出土した。
この石室には、千葉県富津市付近で産出する”房州石”が用いられており、
古墳時代の関東地方における地域交流を考える上で重要な古墳、とのこと。
造営年代は、古墳時代後期の6世紀末と考えられている。
前方部・後円部・造出に副葬品の復元模型(円筒埴輪など)が置かれている。
古墳東麓にある将軍山古墳展示館
石室の内部を見ることができる。
実物の横穴式石室
武具を付けて馬に乗った騎馬武者の模型
古墳時代の馬の装い
わが国に騎馬の風習が始まるのは、4世紀末ころからで、朝鮮半島との交流のなかで、
はじめて騎馬術と馬具がもたらされました。
馬具は5~6世紀の古墳に、副葬品として納められていますが、金属部分をつないでいた
革や布・木質部分は、腐食してしまうため残りません。
馬への装着方法は、馬具の形状や馬型埴輪を参考に復原しました。
将軍山古墳のような、金色に輝くきらびやかな馬具や旗を付けて飾りたてる馬は、
儀式や祭典などの際に重要な役割を果たしました。
時には馬冑を付けて武装し、威信を高めることもあったと考えられます。
将軍山古墳展示館を後にして、稲荷山古墳へ。
左手に丸墓山古墳を見ながら稲荷山古墳へ。
稲荷山古墳
国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されている。
金錯銘(きんさくめい)を有する鉄剣が出土したことで知られる。
埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳
軸長120mで前方部幅74m、高さ10.7m 後円部径62m、高さ11.7m
古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。
埼玉古墳群中では最初に築造された。
埼玉古墳群内の大型古墳で登ることができるのは、丸墓山古墳とこの稲荷山古墳である。
稲荷山古墳の頂上へ。
もともと墳頂部に稲荷社が祀られていたのでこの名がある。
稲荷山古墳の頂上に到着
『いやぁ けっこうきついよねぇ』
稲荷山古墳から見た古墳公園、
将軍山古墳、
丸墓山古墳
稲荷山古墳の後円墳へ。
稲荷山古墳はかつて前方の円部分が干拓工事の埋め立て用の土として削り取られてしまった。
現在のものは2003年に復元されたもの、だそうだ。
後円部の円頂には埋葬施設の復元模型(礫槨れきかく)が展示されている。
1968年の発掘調査で後円部の頂上から発見された埋葬施設で、
金錯銘鉄剣という国宝に指定された剣が出土されている。
他にも甲冑や馬具なども出土している、とのこと。
石室の復元模型(粘土槨ねんどかく)
この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定される。
盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片だったが、
礫槨出土品とともに国宝に指定されている、そうである。
稲荷山古墳を下って丸墓山古墳へ。
林の先に丸墓山古墳が見える。
丸墓山古墳
日本最大規模の円墳である。
直径105m、高さ18.9m
築造年代は6世紀の前半と考えられている。
丸墓山古墳の頂上へ
高さは19mほどしかないが、段差が大きいのでこれがけっこう堪える。
13時54分、丸墓山古墳の頂上に到着
行田市の市街地が一望できる。
忍城
天正十八年(1590)、小田原征伐に際して、忍城攻略の命を受けた石田三成が
丸墓山古墳の頂上に陣を張った。
三成は忍城を水攻めにするため、丸墓山を含む半円形の石田堤を28kmほど築いた。
丸墓山古墳からの眺望
稲荷山古墳
丸墓山古墳を下り、
駐車場へ向かう。
石田堤
この一段高い桜並木は、天正十八年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、
忍城を水攻めした際の堤の一部である。
長さ28Km(一説には14Km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川の水を
流入させたと言われている。
駐車場へ
14時6分、バスに到着
1時間15分余りかかったことになる。
車内で会費徴収などを済ませ、バスは県道77号、国道17号を走り、圏央道へ。
15時5分、菖蒲PAに到着
土産物を見て回っていると、
常南交通の運転手さんに『だまされたと思って買ってみてっ』と奨められ、
”うまくて生姜ねぇ”(648円)を買った。
『熱いご飯と一緒に食べると美味しいよっ』
(食べてみて実際に美味かった。かみさんがすっかり気に入ったようだ)
帰りのバス車内
帰りのバス車内
筑波山
雪はすっかり消えて、いつもの筑波山に戻っていた。
つくば・牛久ICは間もなくだ。
16時11分、つくば・牛久ICを通過し、
16時19分、三中公民館に到着した。
『いやぁ こんなに明るいうちに帰れるとは思わなかったな~っ』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
寒空と強風の下、太古の歴史探訪・さきたま古墳ウォーキングを無事終了した。
広大なさきたま古墳公園内を歩いてみて、古墳の多さに圧倒された。
これだけ多くの古墳を間近で見たのは初めてである。
現在、世界遺産への登録を推進している、とのことだが、応援したい。
「行田市郷土博物館」内の撮影禁止には正直がっかりした。
忍城の歴史と行田市の文化を広める良い機会だと思うのだが、
撮影禁止にする理由がよく分からない。
国宝を展示している「さきたま史跡の博物館」と同様に”フラッシュでの撮影禁止”
としても問題ないのでは、と思うのだが・・・
この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第32回(2019年第4回)、「太古の歴史探訪・さきたま古墳」ウォーキングに参加した。
三中公民館でバスを待っているところ。
『いやぁ 今日は風が冷たいね~っ』、
土浦市のこの日の最高気温は8℃、これから向かう行田市は7℃の予想である。
7時22分、ほぼ予定時刻にバスがやって来た。
この日の参加者は21名、皆さん、今日も元気いっぱいだ。
『随分積もってるわねぇ』 『真っ白じゃないっ』
昨夜降った雪がかなり残っている。
これから向かう行田市は大丈夫だろうか?
7時44分、つくば・牛久ICを通過し、
圏央道を久喜白岡方面へ。
筑波山が雪を被っている。
『あんなに雪を被った筑波山は初めて見るよっ』
朝食弁当
前々回(2018年10月26日 白糸ハイランドウェイを歩く)の時と同じ弁当だ。
バスは圏央道を順調に走る。
周りは真っ白な銀世界である。
8時15分、五霞IC付近を通過。
左手に富士山が見えて来た。
『雪を被った富士山ってやっぱりきれいね~っ』
『一晩で雪を被った富士山に戻って良かったよねっ』
8時16分、利根川を渡る。
『この辺は雪は降らなかったようだねぇ』
8時28分、久喜白岡JCTを通過し、鶴ヶ島JCT方面へ。
菖蒲PAまで2Km地点を通過し、
8時35分、菖蒲PAに到着。
ここで昼の弁当を受け取り、バスのトランクに積み込んだ。
15分の休憩を摂った後、
圏央道桶川加納ICへ。
8時53分、桶川加納ICを通過
バスは国道17号、
県道77号を行田市街へ。
桶川加納ICから35分ほどで、正面に秩父鉄道行田市駅が見えて来た。
9時30分、秩父鉄道行田市駅に到着
『もう着いちゃったのっ? やっぱり圏央道は早いねぇ』
『行田って意外と近いんだねっ』
秩父鉄道行田市駅
弁当はバスの中で食べることにしているので、バスに積んだままにしておく。
『弁当がない分身が軽いよねっ』
準備が整い、9時34分、いつものようにTKさんを先頭に忍城目指して出発だ!
さきたま古墳2.6Km、忍城址1.0Kmの標識に従って進む。
駅前通りの武蔵野銀行の角を右に曲がり、国道125号を忍城址へ。
行田市商工センター前を通過
行田市街の通りに並ぶ童の銅人形を眺めながら進む。
市役所入口交差点の横断跨線橋に”埼玉県名発祥の地 行田”の文字が。
『行田が埼玉県名の発祥の地なんだぁ』
『知らなかったなぁ』
行田市役所は道路反対側に建っている。
”行田ゼリーフライ本舗”の看板
ゼリーフライとは、衣のないコロッケのようなもので、日露戦争に従軍した飲食店の主人が、
帰国後に中国の野菜まんじゅうをアレンジしたのが始まりといわれる。
大量のおからを使うのが特徴で、店によって食感も味も違う、とのこと。
初めて聞く品名だし、まだ食べたことはないが、一度味わってみたいものである。
国道125号を横断すると、忍城址の堀と復元された御三階櫓が見えて来た。
御三階櫓
忍城は文明十年(1478)頃、成田顕泰(あきやす)により築城された「守り易く攻め難い」
難攻不落の名城であったと伝えられている。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、
この城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。
”秀吉が唯一落とせなかった城”としてその名を知られた。
昭和63年(1988)に復元された。
続日本100名城に指定されている。
堀に架かるあずま橋を渡り、東門を潜って城内(行田市郷土博物館)へ。
東門を潜ると、右手に鐘楼が建っている。
吊り下がっているのは、江戸時代の忍城ゆかりの遺品の時鐘(じしょう)である。
文政六年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴って、忍城へ移された鐘、とのこと。
鐘楼は、城内二の丸の東隅にあったが、明治十年(1877)に取り崩され、
当時の進修館小学校校庭に再建され、時を報じていた。
昭和28年(1953)東照宮に移転の後に、平成4年(1992)4月、鐘楼から鐘を取り外され、
現在は行田市郷土博物館に展示されている。
総高151cm、口径79.5cm、重さ600kg、市指定有形文化財になっている。
大晦日には除夜の鐘となる、そうだ。
行田市郷土博物館は、忍城の本丸の跡地にあり、隣接する御三階櫓とともに、
行田の歴史と文化を紹介している。
通常の入館料は、1人200円だが、20名以上の団体は1人160円だ。
なお、館内は撮影禁止になっているため残念ながら写真はない。
(展示品などは殆どがレプリカと思われるので、撮影禁止の意図が理解出来ない。
せめて「さきたま史跡の博物館」並の”フラッシュ撮影禁止”に出来ないものなのだろうか)
博物館の見学を終え、渡櫓のような通路を御三階櫓へ向かう。
御三階櫓からの眺望(1)
御三階櫓からの眺望(2)
御三階櫓からの眺望(3)
これから向かう「さきたま古墳公園」方面と思われるが、古墳は確認できない。
御三階櫓からの眺望(4)
富士山が見えた。
続日本100名城のスタンプを押した後、東門を出てあずま橋を渡り、
10時35分、忍城に別れを告げた。
忍城向かい側の「浮き城の径」へ。
冠木門を潜って、
「浮き城の径」を進む。
『散歩にちょうど良い径だねっ』
「浮き城の径」を抜け、
行田市産業文化会館前から、2.4Km先のさきたま古墳へ。
『この道を真直ぐ行けば良いのかなっ』
本丸児童公園にC57型蒸気機関車が展示されていた。
C57は、「貴婦人」と呼ばれ親しまれた蒸気機関車で、速度が速く、主に旅客列車用として活躍した。
水城公園へ向かう。
ほどなく水城公園に到着した。
今も満々と水を湛えている「しのぶ池」は、かつて忍城の外堀だった、そうだ。
『広くてきれいな公園だよね~っ』
古代蓮の池があった。
水城公園を過ぎ、市道を進む。
”未来への螺旋”モニュメント
次のように記されている。
古代から受け継がれた文化は、近世の文化を生み、現在において必要とされる環境へと変貌し、
次世代が引き継ぐ未来へと進化します。
過去、現在に支えられながら希望に満ちた未来へと躍進する姿、そんな意思を込めたモニュメントです、
とある。
少し先に今度は”過去からの螺旋”モニュメントがあった。
古代から受け継がれた文化は、近世の文化を生み、現在において未来へと進化します、とある。
さきたま古墳公園へ向けて、
市道を進む。
さらに市道を進む。
『ようやく身体が温まって来たわっ』
「教育文化センターみらい」前を通過
『立派な建物だよね~っ』
さきたま古墳公園を目指す。
左に折れて武蔵水路に沿って進むと、県道77号の野合新橋交差点に出た。
県道77号野合新橋交差点を右に曲がって進むと、
さきたま古墳公園の駐車場があり、既に常南交通のバスが待機しているのが見えた。
この日は気温が低く風が強いので、外での弁当は酷であり出来れば避けたい。
ということで、この日はバス車内で食べることにしてもらっている。
弁当には少し早いので、先に博物館を見学することにする。
ひとまず駐車場は通り過ぎて、さきたま史跡の博物館へ。
11時25分、さきたま史跡の博物館に到着した。
約20分のVTRで予備知識を学び、
展示場を見学(1)
展示場を見学(2)
展示場を見学(3)
展示場から国宝展示室へ
国宝展示室の展示品(1)
国宝展示室の展示品(2)
国宝展示室の展示品(3)
国宝展示室の展示品(4)
国宝の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)
見学の様子(1)
見学の様子(2)
見学の様子(3)
博物館で予備知識を学んだ後、バスへ。
『弁当が楽しみだねっ』
12時15分、バスに到着し、
弁当を受け取って車内へ。
この日の昼食弁当は朝食弁当に似ている感じだ。
食事の様子(1)
食事の様子(2)
弁当も食べ終わり、次は古墳公園内を歩くことにした。
敷地面積約320,000万㎢の中に、5世紀から7世紀にかけて造られた9基の大型古墳が集まっている。
公園内は広いので纏まって歩くのが賢明だろう。
再びさきたま史跡の博物館のある公園へ向かう。
埼玉県名発祥の地碑
碑の横に埼玉県名の由来の説明板があった。
明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。
それが、埼玉県の誕生である。
以後、幾度かの変遷を経て、明治九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。
「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが埼玉郡であったことによる。
(中略)
ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。
おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
昭和六十二年 四月 埼玉県
12時51分、古墳巡りスタート!
フルコース(歩行距離約3.5Km 所要時間目安1時間30分)を回ることにする。
最初に現れたのは奥の山古墳だ。
奥の山というのは、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、
一番奥にあることから付けられた。
主軸長70mで前方部幅47m、高さ7.4m 後円部径43m、高さ6.8m
6世紀中頃の築造と推定されている。
続いて中の山古墳
渡柳地区にある三基の古墳の中央に位置するのでこの名がある。
かつて石棺の如きものが発見されたと伝えられることから、別名唐櫃山(かろうとやま)古墳
と呼ばれている。
主軸長79mで前方部幅44m、高さ5.4m 後円部径42m、高さ5.1m
6世紀末から7世紀初めの築造。
埼玉古墳群に所属する前方後円墳の中では、最後に築造されたと考えられている。
公園内を進む。
浅間塚古墳、前玉(さきたま)神社がこの辺りにあるはずなのだが、鬱蒼とした林に囲まれており、
見つけることは出来なかった。
フルコースの案内にも載っていなかったので、諦めることにした。
左手に鉄砲山古墳が見える。
「鉄砲山」という名前は江戸時代に忍藩の砲術演習所(角場)があったことに由来する。
古墳群中3番目の大きさの前方後円墳である。
主軸長109mで前方部幅69m、高さ10.1m 後円部径55m、高さ9.0m
周濠を含めた全長は163mと推定されている。
6世紀後半の築造と推定されている。
瓦塚古墳
古墳群中6番目の大きさの中型前方後円墳だ。
明治時代の初期、付近に瓦工が住んでいたことから、この名がある。
軸長73mで前方部幅47m、高さ4.9m 後円部径36.5m、高さ5.1m
6世紀前半の築造と推定されている。
古民家旧遠藤家
埼玉県幸手市大字千塚(ちづか)から移築された民家で、江戸時代末期に建てられたもの。
面積は222.453㎡(67.41坪)、稲作農家らしく土間が広く屋内での仕事がし易くなっている、そうだ。
古民家内(台所)
古民家の台所(土間)から茶の間の座敷を見たところ。
縁側で一休み。
『日向ぼっこしてると気持ちが良いねぇ』
古民家を後にして二子山古墳へ。
二子山古墳
埼玉県では最大規模の古墳で、二つの山があるように見えることからこの名がある。
軸長138mで前方部幅90m、高さ14.9m 後円部径70m、高さ13m
6世紀前半の築造と推定されている。
二子山古墳
『いやぁ さすがにでかいね~っ』
将軍山古墳へ
将軍山古墳
軸長90mで前方部幅68m、高さ9.4m 後円部径39m、高さ8.4m
埼玉県下で8番目の規模の前方後円墳である。
明治27年(1894)に横穴式石室が発見され、多数の副葬品が出土した。
この石室には、千葉県富津市付近で産出する”房州石”が用いられており、
古墳時代の関東地方における地域交流を考える上で重要な古墳、とのこと。
造営年代は、古墳時代後期の6世紀末と考えられている。
前方部・後円部・造出に副葬品の復元模型(円筒埴輪など)が置かれている。
古墳東麓にある将軍山古墳展示館
石室の内部を見ることができる。
実物の横穴式石室
武具を付けて馬に乗った騎馬武者の模型
古墳時代の馬の装い
わが国に騎馬の風習が始まるのは、4世紀末ころからで、朝鮮半島との交流のなかで、
はじめて騎馬術と馬具がもたらされました。
馬具は5~6世紀の古墳に、副葬品として納められていますが、金属部分をつないでいた
革や布・木質部分は、腐食してしまうため残りません。
馬への装着方法は、馬具の形状や馬型埴輪を参考に復原しました。
将軍山古墳のような、金色に輝くきらびやかな馬具や旗を付けて飾りたてる馬は、
儀式や祭典などの際に重要な役割を果たしました。
時には馬冑を付けて武装し、威信を高めることもあったと考えられます。
将軍山古墳展示館を後にして、稲荷山古墳へ。
左手に丸墓山古墳を見ながら稲荷山古墳へ。
稲荷山古墳
国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されている。
金錯銘(きんさくめい)を有する鉄剣が出土したことで知られる。
埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳
軸長120mで前方部幅74m、高さ10.7m 後円部径62m、高さ11.7m
古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。
埼玉古墳群中では最初に築造された。
埼玉古墳群内の大型古墳で登ることができるのは、丸墓山古墳とこの稲荷山古墳である。
稲荷山古墳の頂上へ。
もともと墳頂部に稲荷社が祀られていたのでこの名がある。
稲荷山古墳の頂上に到着
『いやぁ けっこうきついよねぇ』
稲荷山古墳から見た古墳公園、
将軍山古墳、
丸墓山古墳
稲荷山古墳の後円墳へ。
稲荷山古墳はかつて前方の円部分が干拓工事の埋め立て用の土として削り取られてしまった。
現在のものは2003年に復元されたもの、だそうだ。
後円部の円頂には埋葬施設の復元模型(礫槨れきかく)が展示されている。
1968年の発掘調査で後円部の頂上から発見された埋葬施設で、
金錯銘鉄剣という国宝に指定された剣が出土されている。
他にも甲冑や馬具なども出土している、とのこと。
石室の復元模型(粘土槨ねんどかく)
この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定される。
盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片だったが、
礫槨出土品とともに国宝に指定されている、そうである。
稲荷山古墳を下って丸墓山古墳へ。
林の先に丸墓山古墳が見える。
丸墓山古墳
日本最大規模の円墳である。
直径105m、高さ18.9m
築造年代は6世紀の前半と考えられている。
丸墓山古墳の頂上へ
高さは19mほどしかないが、段差が大きいのでこれがけっこう堪える。
13時54分、丸墓山古墳の頂上に到着
行田市の市街地が一望できる。
忍城
天正十八年(1590)、小田原征伐に際して、忍城攻略の命を受けた石田三成が
丸墓山古墳の頂上に陣を張った。
三成は忍城を水攻めにするため、丸墓山を含む半円形の石田堤を28kmほど築いた。
丸墓山古墳からの眺望
稲荷山古墳
丸墓山古墳を下り、
駐車場へ向かう。
石田堤
この一段高い桜並木は、天正十八年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、
忍城を水攻めした際の堤の一部である。
長さ28Km(一説には14Km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川の水を
流入させたと言われている。
駐車場へ
14時6分、バスに到着
1時間15分余りかかったことになる。
車内で会費徴収などを済ませ、バスは県道77号、国道17号を走り、圏央道へ。
15時5分、菖蒲PAに到着
土産物を見て回っていると、
常南交通の運転手さんに『だまされたと思って買ってみてっ』と奨められ、
”うまくて生姜ねぇ”(648円)を買った。
『熱いご飯と一緒に食べると美味しいよっ』
(食べてみて実際に美味かった。かみさんがすっかり気に入ったようだ)
帰りのバス車内
帰りのバス車内
筑波山
雪はすっかり消えて、いつもの筑波山に戻っていた。
つくば・牛久ICは間もなくだ。
16時11分、つくば・牛久ICを通過し、
16時19分、三中公民館に到着した。
『いやぁ こんなに明るいうちに帰れるとは思わなかったな~っ』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
寒空と強風の下、太古の歴史探訪・さきたま古墳ウォーキングを無事終了した。
広大なさきたま古墳公園内を歩いてみて、古墳の多さに圧倒された。
これだけ多くの古墳を間近で見たのは初めてである。
現在、世界遺産への登録を推進している、とのことだが、応援したい。
「行田市郷土博物館」内の撮影禁止には正直がっかりした。
忍城の歴史と行田市の文化を広める良い機会だと思うのだが、
撮影禁止にする理由がよく分からない。
国宝を展示している「さきたま史跡の博物館」と同様に”フラッシュでの撮影禁止”
としても問題ないのでは、と思うのだが・・・
この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。
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