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ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日光街道を歩く 第5回 古河宿から小山宿へ

2013年03月20日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2013年3月20日(水)

2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第5回目となるこの日は、古河宿(JR東北線古河駅)から小山宿(JR東北線小山駅)までの約16.5Kmを歩いた。
寒さが厳しい1月と2月は実施を見合わせたため、3カ月ぶりの街道歩きである。

この日出発地の古河駅に集まったのは10名。
2名が風邪のため急遽参加を取りやめることになったのは残念である。


古河駅前でUさんの指導によるストレッチ運動で身体をほぐす。


春分の日ということもあってか、駅前の人通りは少ない。
通行人の邪魔になることはない。


入念に身体をほぐして・・・
『いっちにっ さんっしっ』


9時6分、小山宿目指して、いざ出発!!


「古河桃まつり」の幟が町のいたるところに立てられている。
”日本一の花桃の里”と謳っているが、一度見てみたいものである。


昨年12月は、古河本陣跡まで歩いたので、今回はその続きを歩くことになる。
本町二丁目交差点を右折し、”日光街道古河宿”の幟を目印に進む。
古河宿は、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。
将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、
日光街道における主要な宿場の一つであった。


「左 日光道」の道標に従って進む。


この日の予報は曇りで気温も20℃以下とのこと。
長い距離を歩くには暑くも無く寒くも無くちょうど良い気温だ。
昨日までの強風も収まり、絶好のウォーキング日和になったといえる。


古河宿は天保十四年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣が1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒あった。
宿内の家数は1105軒、人口は3865人であったそうである。
古河の街には当時の名残を偲ばせる建物が多い。
鰻屋「武蔵屋本店」


ちょっと変わった鬼瓦が目を引く。


こちらは「大和屋薬局」


宿場を少し外れたところの道路の右側に塩滑地蔵菩薩があった。
お堂は車に隠れて見えずらい。危うく見過ごすところだった。


10mほど奥に進むと塩滑地蔵菩薩のお堂がある。


塩滑地蔵菩薩
顔の部分には赤い布が被せられていて表情は見えない。


この地蔵の塩を体の悪い箇所にすり込むと、ご利益があるとのこと。
お堂の前に塩が置かれていた。
果たしてこの塩で御利益があるのかどうか???


国道4号線との合流点近くに野木神社の鳥居が建っている。
参道がかなり長い。数百mはあるようだ。
調査によると、仁徳天皇の時代からの古社で、文化三年(1806)の火災によって社殿が焼失したが、
古河城主の土井利厚によって再建された、とのこと。
明治時代には、乃木希典からの信仰も篤く、度々参拝に訪れたという。
立ち寄っていきたかったが、日光街道を大きく逸れるので諦めた。


国道4号線との合流点
スミレの花が整然と植えられていた。


日光街道(日光道中・例幣使道・会津西街道)といえば杉並木が有名だが、この野木宿周辺は松並木だったとのこと。
『この辺は松並木が続いていたんだぁ』


しかし、今は松並木は全く姿を消している。


野木宿木戸跡
野木宿の江戸側入口の木戸(門)であり、夜間は閉じられていた。


野木宿の説明版に見入る。
野木宿は古河宿より約2.8Km、間々田宿へ約6.9KMにあった、人口527人の小さな宿場であった。
本陣と脇本陣が各1つ、旅籠(中)2軒、同小23軒があった。
また、高札場が1箇所、問屋場が4箇所あった。
『なるほど』


満願寺
野木神社の別当寺で、寺の前には十九夜塔がある。
十九夜信仰は、旧暦十九日の夜に女性が集まり念仏を唱え、安産や子供の無事成長を祈る月待信仰の一つという。
この日古河から栃木にかけていくつかの寺を巡ったが、多くの寺で十九夜塔を見かけた。
(月待信仰:十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する
仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事)
因みに土浦周辺では圧倒的に二十三夜塔が多い。


満願寺本堂
枝垂桜が間もなく満開を迎えようとしていた。
『この時期に桜も見れるなんて幸せっ』


古河駅を出発してちょうど1時間経過したところである。
本堂の前に用意されていた甘茶で一服だ。


野木宿一里塚跡
日本橋から17里目の一里塚ということだが、小さな看板が立つだけである。
塚の上に榎が植えてあったそうだ。


小山まで12Kmの表示。
まだ1/3しか歩いていない。
『頑張ろう!』


野木宿道標
「是より太平に至る」と記されている。
当時、この横道を行くと渡し場があり川を渡って大平山神社への参詣道であった。


観音堂


「日光道中絵図」にも描かれており、正観音が安置されている、そうだが観音様は見えない。


街道には大きな構えの農家が多い。
どっしりとした長屋門を構える農家。


10時46分、野木駅辺りを通過


法音寺
門前の桜の大木が印象的だ。


中門の前には芭蕉句碑が建てられている。
「道ばたの むくげは馬に 喰れけり」は、道端にむくげの樹が立っていて、一輪の花が咲いている。
と、思ったら芭蕉の乗った馬がそのむくげの花を食べてしまった。という句である。
碑は安永九年(1780)に門人の秋元性李叟により建てられたもの。


法音寺本堂
本堂横の桜の古木もなかなか見事である。


本堂へお参り
『今日も無事に最後まで歩けますように』


『ごぉ~ん!』
静寂した境内に鐘の音が響き渡る。
一撞き50円だ。


11時を少し回り、お腹も大分空いてきた。
菓子パンなどを分け合って一刻の間空腹を凌ぐ。


法音寺仁王門を出て国道4号へ。
本来、ここから入るべきであったが、駐車場側にあった中門から入ってしまった。
せめて出るときは正門から出よう。


門の横に昔の輿が展示してあった。
かつては、このような輿で信者(遺体)を運んでいたのだろう。
霊柩車の前身というべきか?


国道4号線を挟んで法音寺のほぼ正面に正(友沼)八幡宮がある。


正八幡宮は、徳川将軍の日光参詣の際、古河城を出発して最初に休憩した場所であった。


正八幡宮の本殿を裏から見たところ。
表からは想像できない重厚な造りである。


『うわぁ、このモクレン綺麗に咲いてるわねぇ』
ここのところの暖かさで春爛漫といった感じである。


若宮八幡宮
道路の反対側で、横断歩道が近くに無かったことから、カメラに収めるだけにした。
境内には大日如来坐像が安置されている、そうである。


乙女八幡宮は、鎌倉時代に創建されたと伝えられる。


乙女八幡宮の石造鳥居
参道2番目の鳥居は、元禄十六年(1703)に、当時別当寺だった光明寺の住職が願主となって建立したもの。
島木を持つ明神鳥居形式で、規模も比較的大きく、現存するものとしては、小山市で五番目に旧い石造鳥居である。
建立当初の位置を保っていると考えられ、目立った損傷もなく、近世前期の貴重な鳥居である。(説明板より)
鳥居は小山市指定文化財


乙女八幡宮拝殿


境内には土俵があった。
毎年10月初旬には奉納子供相撲大会が催されるとのこと。


時計は11時55分を回っている。
お腹も空いたことだし、乙女八幡宮境内で弁当タイムにしよう。


乙女八幡宮の道路向かい側に佛光寺がある。
近くに横断歩道もないことから、ここはパスして次へ進むことに。


12時39分、間々田駅を通過。


車屋美術館


平成19年に国の登録有形文化財に登録された小川家住宅の米蔵を、本格的な美術展示室として改装するとともに、
主屋・庭園なども一般公開し、平成21年4月に開館した。


龍昌寺りゅうしょうじ


慶安四年(1651)、徳川家光の遺骸を日光廟に葬送の途中で安置所が設けられた。
住職が有名な「間々田の蛇祭り」を発案した寺として有名。


不動堂
中には寝起不動尊(ねおこしふどうそん)が祀られている。


間々田宿問屋場跡
今は説明板が建てられているのみ。
説明板によると、間々田宿は日本橋から11番目の宿場で、江戸と日光のちょうど中間に位置していた。
本陣1、脇本陣1、旅籠50軒があった。
宿役人が人馬継立業務の一切を取り扱い、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などを行う詰所が問屋場であった。


間々田宿本陣跡
問屋場跡と同様、今は説明板が建てられているのみである。
江戸時代初めから、青木家が代々この地で本陣を維持した。
明治になって、明治天皇が一時休憩して過ごした。


間々田八幡宮の鳥居
通りがかった地元の人に聞いて間々田八幡宮の鳥居と分かった。


本殿までどのくらいの距離かを訪ねると、
『ウォーキングする人なら大した距離じゃないんじゃないっ?』と言われちゃあ、進まざるを得ない。
ところが、この参道?がまた長いのだ。
途中で本当に参道なのか、不安になったほどである。


6-7分歩いただろうか、やっと次の鳥居が見えてきた。


さらに参道を進む。
『この参道本当に長いわねぇ』


一番最初の鳥居から約10分、やっと本堂にたどり着いた。
間々田八幡宮の創建は古く、今から1,200有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。
この先の無事安全をお祈りした。


境内には樹齢250年の夫婦杉が。


境内には、さまざまな神様が合祀されている。
雷電神社・愛宕神社・淡島神社などの農業神・水神・厄除神・火神・婦人守護神が祀られている。


秋の例大祭で奉納子供大相撲大会が催される。
かつては大相撲の地方巡業で賑わった、そうである。
先ほどの乙女八幡宮と言い、この間々田八幡宮と言い、子供相撲が盛んなようだ。
映画「シコふんじゃった」(1992年)の夏合宿の撮影がここで行われたそうだ。


重さ二十八貫(110Kg)の力石
大正二年に神社から持ち去られた石を、3人の力自慢が友沼宿から一度も地上に下ろさずに
持ち帰ったと伝えられている。


一休みしていこう。
少し疲れが出てきた様子である。


再び国道4号線に戻る。


千駄塚に入ると浅間神社があった。


千駄塚古墳は墳頂に浅間神社を祀っているので、別名浅間山古墳とも呼ばれている。
墳丘の直径は約70m、高さ約10mの円墳である。


緩やかな坂道を古墳丘を目指して上っていくと・・・


墳頂の平坦部に浅間神社が祀られていた。


浅間神社を後にして国道4号線をさらに進むと、安房神社があった。
安房神社の参道も長い。


参道の先に鬱蒼とした古木に囲まれた本殿が見える。
どこか神々しい雰囲気が漂う。


安房神社の本殿
藤原秀郷が、平将門の乱の際に戦勝を祈って参拝し、将門を討ちとった後に多くの資材を寄進した、と伝えられている。


ここには太々神楽・古文書・絵馬など多数の指定文化財が保存されている、とのこと。
これはまた立派な神楽殿である。


この日訪れた神社はいずれも立派な造りで、境内が広いのに驚かされた。
さすがに徳川将軍の街道「日光街道」ということだからだろうか。
『いやぁ凄く広い境内だねぇ』


国道4号を進むと、コンビニの道路脇に大きな椋(ムク)の木が立っていた。
小山市の指定保存樹木になっている。
樹齢は、はっきりとは分からないが300年ほどではないだろうか?


15時4分、国道50号との立体交差を通過。
小山駅まであと2Kmほどだ。


天満宮
天満宮、稲荷神社、雷電神社の三社が合祀されている。
古くからの村社で、江戸時代には氏子は47戸あったと云われている。


小山宿に入った辺り。
”日光ゆば”などの看板が目立つようになってきた。
”早くゴールしたい”という気持ちの表れだろうか、早足になってきた。


須賀神社
地図を確認すると、参道は700mほどあるようだ。
『疲れているのにさらに脇道に逸れるのは勘弁してっ』ということで、須賀神社は写真に収めるだけにした。
調べによると、天慶三年(840)、藤原秀郷が戦勝成就に感謝して、京都の祇園社(八坂神社)から分霊し勧請した。
夏に行われる祇園祭は盛大で、江戸時代の『下野国誌』に「当国第一の祇園会なり」と記されているほどである。
と記されている。


小山市街地は電柱を取り除いてあるので、すっきりとしている。
最近はこのように電柱を取り除き電源・通信ケーブルを地中に埋設しているところが多い。


明治天皇小山行在所跡


小山駅が見えてきた。


15時30分、無事に小山駅に到着。


水戸線友部行きは15時36分だ。次の電車は16時25分で乗り遅れると50分も待たなければならない。
整理体操する時間もなく、駅構内を走り、まさに発車寸前で間に合った。
Mさん差し入れの缶チューハイ・缶ビールでこの日の完歩を祝して『かんぱ~い!』
『こんなに美味しいと思ったの本当に久しぶりだわぁ~』


『いやぁ今日はちょっと疲れたねぇ』
『だけど、歩き終わった後のいっぱいは美味しいわねぇ』


岩瀬を過ぎる頃には、皆さんほろ酔い気分で、話も大いに盛り上がった。
『Mさんっ 次も期待してるよっ』


『皆と一緒に歩くのって楽しいよねっ 次ぎが待ち遠しいねぇ』


3ヶ月ぶりの「日光街道」ということもあり、この日は結構疲れた、というのが実感である。
小山宿に入ってからは、見所を遠望するだけに留めた所もあったが、まあ仕方がない。
この日の小山宿で「日光街道」(千住宿から日光東照宮までの約140Km)のほぼ半分(73.4Km)を歩いた。
「日光街道」歩きもこれからいよいよ佳境を迎えることになる。
最後まで皆さんと一緒に楽しく元気に歩き、ゴールの日光東照宮を目指したい。


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日光街道を歩く 第4回 幸手宿から古河宿へ

2012年12月19日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2012年12月19日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第4回目のこの日は、幸手宿(東武日光線幸手駅)から古河宿(JR東北線古河駅)までの約19.5Kmを歩いた。

この日は朝からハプニング続き。
先ずは常磐線、前を走る電車の車両事故で荒川沖駅の次のひたちの牛久駅で約25分待たされた。
ようやく走り出した、と思ったらまた藤代駅でさらに20分以上待たされる始末。
結局柏駅には約50分近く遅れて到着だ。

次は東武線での乗り間違えというハプニングだ。
東武野田線柏駅を7時51分に発車し、春日部駅で藤原行きに乗り換えたまでは良かったが、乗ったのは”快速”電車。
東武動物公園駅に到着したところで、車内放送で次の幸手には停車しないことに気が付き、慌てて降りたのだが・・・
一人だけ見当たらない。何と。降り損なってそのまま乗って行ってしまった。
”快速”が次に停車する駅は板倉東洋大駅、この日のゴール古河宿よりもはるか先である。
急いで携帯に連絡し、板倉東洋大に到着後、上り電車で南栗橋駅まで戻ってもらい、
国道4号線沿いの「小右衛門一里塚跡碑」で合流することにしたのである。

9時14分、約1時間ほど遅れて幸手駅に到着。


幸手駅にほど近いところにお姉さんが住んでいて、この日も愛車でお姉さん宅へ直行し、
幸手駅で待ち合わせすることにしていたT子さんには、1時間以上もまちぼうけさせてしまった。
『遅くなって申し訳ありませんっ!』


この日集まった参加者は、12名。
最初は13名参加するはずだったが、1名はJRの出発を30分繰り上げる旨の案内メールをよく読まずに自宅を出たため
柏駅に到着したのは、我々よりもさらに30分以上も遅れてのことだったそうである。
携帯に電話をしてみたが、全く応答がない。一応伝言を入れておいた。
後で聞いた話だが、結局柏まで来て連絡がとれないため引き返したそうだ。
携帯電話は家に忘れてしまっていたとのこと。

予定より1時間近く遅れているうえ、南栗橋近くの国道4号線で合流する必要があるため、
9時23分、準備体操は省略し、すぐに出発だ。


一色館跡と陣屋稲荷
案内によると、
幸手駅付近一帯に、城山または陣屋という地名が残っているが、
ここは古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれている。
(後略)


幸手宿に立つ「日光街道」の案内板


薬局の表は今風の造りだが、屋根などは蔵造りのままである。


幸手宿の通り
この日は気温も低くて風が強い。
フードで風を凌ぐ。


宿の突き当り少し手前に菩提山東皐院聖福寺ぼだいさんとうこういんしょうふくじ)がある。
浄土宗知恩院の末寺として応永年間(1394~1428年)に開山したと伝えられている。
三代将軍徳川家光をはじめとした歴代将軍や、例幣使が休憩所として利用した、由緒ある寺である。
この寺の観音像は、運慶の作だと云われており、また左甚五郎の作といわれる彫刻も残されている、とのことだが、
あいにく中には入れなかった。


中を覗くと本堂に向かって右に立派な造りの鐘楼があった。


続いて宿の突き当りに、正福寺しょうふくじ)があった。
天明三年(1783)の浅間山噴火による飢饉の際、付近の名主達が食料を提供して救済に当たったことを称える碑が建っている。


こちらの鐘楼もなかなかのものだ。


幸手の通り
やや速足のためか、暑くなってフードはいったん外す。
街中なので、風も防げる。


幸手駅を出発して30分、国道4号線に合流した。


菜の花畑と桜の堤防で有名な権現堂公園の表示が見えてきた。


右側に権現堂公園の桜並木が見える。
権現堂公園の桜は写真やTVでしか見たことがない。
一度桜並木を歩いてみたいものだ。


古河まで14Kmの表示
幸手駅を出発して40分経過しているので、約3Kmは歩いた計算になる。


中川に架かる橋を渡る。
橋の上は風が強い。


中川を渡り、4号線に並行する日光街道を進む。


外国府間(そとこうま)道標があった。
この道しるべは安永四年(1775)日光街道と筑波道の分かれるところに建てられたもの。


「右つくば道」「左日光道」「東かわつま前ばやし」と刻まれている。
かわつまは現在の茨城県五霞村字川妻、前ばやしは同総和町前林のことで、筑波へ行く道順である。


権現堂公園
幸手権現堂桜堤から約1.5Kmは歩いた筈だが、こちらは多目的運動公園(1号公園)である。
因みに幸手権現堂桜堤は4号公園、とてつもなく広い公園である。


小右衛門一里塚こうえもんいちりづか
日本橋から14番目の一里塚で、埼玉県の日光街道では蒲生一里塚と小右衛門一里塚がかつての形態を留めている。
ここでようやく、板倉東洋大駅から南栗橋駅まで引き返したKさんと合流することができた。
一応全員揃って一安心だ。


一里塚碑の隣に権現堂川から移築された弁財天堂が建てられている。


権現堂川を右手に観ながら進む。


権現堂川の対岸のキューピー五霞工場
「健康ウォーキングの会」での工場見学も検討してみたい。


風が強く、『寒いっ!』
フードを被って進む。


前方に見えるのはボウリング場ラウンドワンスタジアム。


東北新幹線


ボートピア栗橋
埼玉県都市競艇組合が久喜市に設置している競艇場外発売場だ。
2010年2月25日オープンというからまだ新しい。


突然、スーパーベイシアが4号線横に現れた。
この日は寒いので弁当持参は止めて、途中のファストフード店、あるいはファミレスでと考えていたが、
街道沿いにそれらしき店は全くなく、どこで昼食を摂ろうかと悩んでいたところに、突然目の前に現れたのが、
このスーパーベイシアという訳。
軽い食事ならできる筈と考え、寄っていくことにした。


思ったとおり、軽い食事ができるフードセンターがあった。
昼前だったため、あまり混んでなく、ゆったりとしていた。


温かいラーメンやセットなどを注文。
軽い腹ごしらえとしては、上々である。


お腹も満たし、スーパーベイシアを12時ちょうどに出発。
午後最初に立ち寄ったのは焙烙地蔵ほうろくじぞう


昔処刑場があった地で、関所破りで火焙りの刑に処された人を哀れんで作られたと伝えられ、
今でも焙烙が奉納されている。
線香の灰が「えぼ」に効くことから「えぼ地蔵」とも呼ばれる。


街道沿いの旧い家は畳店だ。


浄信寺じょうしんじ


永正二年(1505)以前に開山した寺で、その後永禄十二年(1569)日譽源貞上人が再興したと伝えられている。


栗橋八福神の一つで、福神は寿老人(長寿延命・除難)である。


八坂神社


神輿倉
7月15、16日の夏祭りの御輿は100人で担ぐという大きなもので、関東の三大御輿と云われており、
町の自慢の一つとなっている、そうだ。中はよく見えない。
昭和四十五年の解体修理の時に「天王宮御輿文久三亥年(1863)十月吉祥日」の棟札が発見された、とある。


境内には八幡神社(左)や皇太神宮(右)なども祀られている。


八坂神社にお参り
ご神体は素盞雄命(すさのおのみこと


狛犬ではないが、阿吽の鯉だ。


いよいよ利根川を渡る。


茨城県古河市に入った。


橋の上は風が強い。フードが剥ぎ取られないように手で押さえて進む。
それに冷たくて寒い。


日光連山の男体山が見える。


日光街道は、利根川を越えると4号線を少し逸れて進む。


中田宿の説明版に見入る。
この中田宿碑の少し手前に日光街道中唯一の中田関所跡があるとのことだったが、見落としてしまった。


旧中田宿の通りは、昔の面影を伺うことはできない。


鶴峯八幡神社
鎌倉時代に創建されたとされる古社。
同時代に書き写されたとする法華経は、市指定文化財


享保年間(1716~36)に奉納されたと伝えられている太々神楽は、
市の無形民俗文化財に指定されている。


光了寺こうりょうじ
県指定有形文化財の木造聖徳太子立像が安置されている。


静御前のゆかりの地でもある。
寿永二年(1183)大変な日照りに見舞われた際、後白河天皇は、高僧を招き雨乞いをしても雨が降らないので、
百人の舞姫を集め次々に雨乞いの舞を舞わせた。
百人目の静が踊ろうとした時、天皇が静に御衣を与え、その御衣で舞ったところ、たちまち大雨が降ったという。


この辺りは寺が多い。真宗大谷派の寺院が目立つ。
円光寺
真宗大谷派の寺院


本願寺
浄土門の寺院


顕正寺
真宗大谷派の寺院


踏み切りを超えると茶屋松原に入る。
歩行者は歩道橋を歩くことになっているようだが、歩道のない車道をそのまま進んでしまった。


茶屋松原の名残りは全く残っていない。
松原復元のため、松の木が植えられていた。
草加松原のような立派な松並木になるにはまだ大分先になるだろう。


茶屋松原の真ん中辺りの茶屋新田に木製の看板が立てられていた。
日光二十里、日本橋十七里と表示されている。


茶屋松原の看板の裏にこじんまりとした香取神社があった。


古河宿への道
自転車専用道が青く色づけられている。
歩道いっぱいに広がって歩いている。
『自転車が来るよ~っ』


間もなく国道354号線の交差点に差し掛かる。
道路を横断して右側を進むことにした。


交差点を渡って少し進むと、県立古河第二高校の校庭の一角に古河一里塚が現存していた。
日本橋から16里目の一里塚である。


古河第二高校の門は閉まっていたが、頼めば中に入れてくれる。
じっくりと一里塚を見たい気もしたが、先を急いだ。


いよいよここから古河宿だ。


電柱が取り除かれ、整備された旧い町並み。


古河城御茶屋口門跡
徳川将軍の日光社参に伴い、休憩所として設けられた茶屋があったとされる。


徳川将軍の日光社参は江戸時代に19回行われているが、古河城は道中における将軍の宿城となることが通例であった。
将軍の古河入城に利用された「御成」の入口が、このお茶屋口である。


街灯に飾り付けられた「古河宿」の旗がたなびいていた。


「古河八萬石最中」の看板を見つけ、早速店の中に消えていったUさん。
奥さんと娘さんへの土産に、と最中を買い求めていた。


古河城下本陣址碑
古河宿の本陣は、117.5坪(約400㎡)の敷地であった。
現在は、石碑を残すのみである。


高札場跡の碑
高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとか云った幕府の法令や、
犯人の罪状などを掲げたところである。
道路を挟んで古河城下本陣址碑の向かい側に建てられている。


高札場跡碑に置かれているスタンプに行列だ。
『せっかくだから、記念に押しておかなくっちゃねっ』


高札場跡碑で一応この日予定していた最寄り地は全て終了した。
後はこの日のゴール古河駅を目指すだけだ。
14時58分、古河駅に到着。


幸手駅を遅れて出発したにも関わらず、古河駅には思ったより早く到着した。
時刻表を見ると15時1分発の上り上野行きがある。これに乗らなきゃ、しかし時間がない。
『急ぎましょうっ!』
整理運動も省略して、一目さんにホームへ急いだ。
しかし、一人がSUICAを持ち合わせていなくて、慌てて切符を買いに走ったが、結局間に合わず、
一人だけホームに取り残されることに。
後から携帯で連絡があり、次の電車で久喜を経由して、東武線に乗り換えたことが分かって一安心。
『申し訳ありませんっ』平謝りである。
最後までハプニング続きの一日だった。


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日光街道を歩く 第3回 粕壁宿から幸手宿へ

2012年11月21日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2012年11月21日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第3回目のこの日は、粕壁宿(東武日光線春日部駅)から幸手宿(東武日光線幸手駅)までの約12.5Kmを歩いた。

常磐線に乗り合わせたのは12名。春日部駅で残り1名が合流することになっている。
東武野田線柏駅で次の大宮行き待っているところ。


通勤通学時間も一段落し、東武野田線は1本待ったおかげで、楽に座って行ける。


9時6分、春日部駅に到着。
春日部にお姉さんが住んでいるというT子さんが合流し、13名全員が揃った。


駅前のKFC前でUさんに合せて準備体操だ。
『いっちにっ、さんっしっ』


9時17分、出発!
『今日は道を間違えないで歩こうねっ』


元気よく先頭を歩くのは女性陣だ。
『次の信号を左だよっ!』


春日部駅前の公園橋(西)交差点を左折して直ぐ、左手に山中千手観音堂があった。
江戸時代の俳譜師増田眠牛(ますだめんぎゅう)は、千手観音を背負ってこの地方を行脚していた。
そして粕壁宿の米問屋伊勢平の家に止宿するようになった。
その後、伊勢平が好意で建てた観音堂で生活し、やがてこの地で一生を終えた。
眠牛を慕う人々は、その観音堂の境内に墓標を建て、千手観音を祀って信仰したという。


店のシャッターにかつての粕壁宿を偲ばせる絵が描かれていた。


向いの建物の横に看板が。


永嶋庄兵衛商店(米屋)
屋根は葺き替えられたようで、新しい。


大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)を渡る。


この日は北風が強く、しかも冷たい。
『帽子が飛ばされるぅ』


小渕一里塚碑
江戸日本橋から十里目の一里塚である。
横には天保三年(1831)に建立されたとされる庚申塔が建っている。


国道4号線と合流する手前に追分の道標があった。


『左日光道って書いてあるっ』
『こっちは何て書いてあるか読めないねぇ』


9時46分、国道16号線を横断して国道4号線を進む。


『こんな看板初めて見たよ』
交通機動隊は、各道府県警察本部の交通部に設置されている部署の一つで、交通部の「執行隊」である。
主な活動内容は、白バイとパトカーによる幹線道路交通取り締まりであり、
自ら隊(自動車警ら隊)と並んで「パトカー・白バイのプロ集団」と言われている。


小渕山観音院の見事な仁王門
楼門は春日部市唯一で市の有形文化財に指定されている。
現在東日本大地震の影響だろうか、やや傾いている状態で、近寄れないようにロープが張られていた。


この寺は、この地方の観音信仰の霊場としても有名で、家内安全・商売繁盛の他、
いぼ・こぶ・あざに御利益があると云われている。(案内板より)
とりあえず観音様にお参りして行こう。


御本尊の正観音像
その昔、洪水でこの地に流れ着き、一度は元の寺へ戻したが、その後洪水でまたもこの寺に漂着したので、
お堂を建てて安置したものと云われる伝説がある。(案内板より)


3月にはかって馬寄せ祭があり、農耕に従事した牛馬がいろいろな飾りをつけて安全を祈願する祭があった。
本堂内には木像の白馬が安置されていた。(案内板より)


役ノ行者神変大菩薩
御参りの仕方は、合掌し、『南無神変大菩薩』(なむじんべんだいぼさつ)と唱えるよう指南されている。
何故か菩薩像の前には大豆が供えられていた。


ほぼ正面から風を受けて日光街道(旧4号国道)を進む。


10時9分、杉戸町に入った。


杉戸町は「北緯36度線上にある町」を売りにしている。
案内板には、中国ではチンタオ(青島)、米国ではナッシュビル、ラスベガス、グランドキャニオンが
イランではテヘランが同じ北緯36度線上にあるとのこと。


いったん国道4号線と分かれて左に進路を採る。


10時26分、六地蔵に迎えられて九品寺(くほんじ)に到着。


境内に道標があった。
左日光の文字が読み取れる。


境内の一角にたくさんの石像や無縁仏などの墓が集められていた。


寺の裏側には、大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)が流れている。


ここで、小休止して行こう。
お互いに持ち寄ったお菓子を配りあう、楽しく幸せなひと時である。


また国道4号線に戻り、しばらく進むと、道の反対側に寺が見えた。
旦照山馬頭院観音寺、真言宗智山派の寺院だ。
道路の反対側だったが、せっかくなので手押信号を渡り、お参りして行くことにした。


門前には弘法大師の像が建てられている。


旦照山馬頭院観音寺本堂
ご本尊の馬頭観世音菩薩は、伝教大師(最澄)の作と伝えられる。
中興開山は、宥盛和尚(ゆうせいおしょう)で慶安二年(1649)に入寂した。
杉戸七福神の大黒天にもなっている。


鮮やかな朱色に彩られた鐘楼


変わった形に選定された庭木。


石碑には次のように刻まれていた。
新四国霊場第七十八番 馬頭院御詠歌
馬のごと 悪と厄とを食い尽くす 旅をも守る 馬頭観音


道はまた国道4号線と分かれて東武動物園方向へ進む。


昔の面影を残す旧い酒屋


時計は11時43分を指していた。
お腹も空いてきたのでたまたま通りがかったうどん屋「梅喜」へ入ることにした。
殆どの人は弁当持参であったが、風も強く、食事をする場所を見つけるのが面倒のため、
『温っかいうどんでも食べて行きたいわっ』ということで全員揃ってうどん屋へという次第。


店内には、一人の恰幅のある愛想の良い女性がちょうど食事時だった。
我々一行が土浦方面から来て「日光街道」を歩いていることを伝えると、いろいろと話しかけてきた。
ブログに載せるために写真を撮っていると、一緒に撮りたいとのこと。
『はいっポーズ』


こちらのテーブルにも丁寧に名刺を配ってPRに余念がない。


配られた名刺には「ドリームハウス」株式会社代表取締役の肩書きが。
聞けば、この店もこの会社で作ったのだと云う。
それ以来、毎日この店で食事をしているそうだ。


「梅喜」の作りは古民家風で、木のぬくもりが感じられる落ち着いた雰囲気がある。


”天婦羅うどん”を注文した。
麺はやや細麺だが腰があり、讃岐風のダシが効いていて美味しかった。


「梅喜」を出て数分のところに近津神社(ちかつじんじゃ)があった。


2本の銀杏の大木が社殿を隠している。


社殿は平成13年に不審火により焼失してしまったそうだが・・・
これは拝殿か? とにかくお参りして行こう。


昔風の家が街道筋のところどころに建っている。
かつては商売でもやっていたのだろうか。


家は立派な蔵を備えており、かつての繁栄を偲ばせる。


杉戸宿を進むと「宝性院」というお寺があった。
この寺は幸手城主一色宮内大輔義直が亡妻の菩提を弔うために永禄三年(1560)に建立したとのこと。


明治七年(1874)、ここ宝性院に杉戸宿・清地村・倉松村の児童を教育するために「杉戸学校」が設立された。
児童数は、男117人、女35人、教員は5人であった、そうである。


宝性院の門を入ってすぐ右に観音堂がある。


堂の前には頭上に馬を乗せた馬頭観音像が建っている。


日光街道を歩いていると、今の時期あちこちに赤くたわわに実った柿木を見ることができる。
『これ甘柿だったら美味いんだけどなぁ?』
試しに食してみたら、残念ながら渋柿だった。


国道4号線をひたすら進む。


無人直売所があった。
『どれもみな100円だって、安いねっ!』
皆さん好物なのか、柿はたちまち売れてしまった。


茨島一里塚跡を示す看板に見入る。
江戸日本橋から十一里目の一里塚だ。
説明板は半分色褪せて殆ど読めない。


13時48分、いよいよ幸手市に入った。


「ジョイフル本田」だ。
土浦ではお馴染みの店である。
『へぇ~、こんなところにも店を出してるんだぁ』


東武日光線の踏切を渡ると・・・


高架橋の工事が行われていた。
『圏央道だっ』
『ここを走るんだ』


『んっ? ドリームハウス? どっかで見たような?』
うどん屋で貰った名刺を想いだした。
『店で貰ったパンフレットで見たよっ』


日光道中・日光御成道合流点
写真左が日光御成道である。
日光御成道は、川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る道で家光の時代に整備され、
徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行した道である。


鷹尾山誓願院神宮寺(たかおさんせいがんいんじんぐうじ
浄土宗のお寺で本尊は薬師如来
源頼朝が奥州征伐の折、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師様に祈って開基したとも伝えられ、
この故事から鷹尾山誓願院の名が付けられたと云われている。


門前の両側にはびっしりと石像・供養塔が並べられている。
反対側には六地蔵も並んでいた。


間もなくゴールの幸手駅、この日の無事を感謝しお参りだ。


本堂の前に大きな槇の木があり、ちょうど槇が実っていた。
『これ食べられるの? 知らなかったぁ』


再び東武日光線の踏み切りを渡る。
前方が幸手駅の方向だ。


神明神社


鳥居のすぐ脇に、螺不動尊(たにしふどうそん)と刻まれた碑があった。


境内には、いくつかの社がある。一番奥に少し大きめの社がある。
宝暦五年(1755)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社であり、
明治六年(1873)4月より旧幸手町の村社の一つとなった、そうである。


引き挙げようとした時に、一番手前の社が「たにし不動尊」(菅谷山)ということに気が付いた。


眼病の人が『たにし』を描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるという。
絵馬は持ち合わせていなかったが、引き返してお参りだけはして行くことにした。
皆さん、何がしかの目の病はあるようだ。


神明神社を過ぎて数百m進むと、小さな公園があった。


この日最後の訪問地、幸手宿問屋場跡だった。


幸手宿問屋場跡の説明板があるだけだ。
説明によると、問屋場は旅人の世話や荷物の運搬業務を行っていた施設。
近くには本陣や旅籠、茶屋などが軒を連ね、宿場の中心であった。
問屋場脇の道は、今でも問屋場横町と呼び親しまれている、そうである。


整理体操をして・・・・


幸手駅に向かう途中、いかにも古そうな構えの店だが、「チーズケーキ在ります」の看板が。
奥さん娘さんの土産を求めて迷わず中へ入るUさん。
律儀な人である。


15時17分、幸手駅に到着。
この後、東武線・常磐線を乗り継ぎ帰宅、心地良い疲れが眠気を誘った。

『今日は大変お疲れ様でしたっ』

いよいよ次回(12月19日)は利根川を越えることになる。
幸手~古河ということで、距離は長いが楽しみである。


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日光街道を歩く 第2回 越谷宿から粕壁宿へ

2012年10月17日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2012年10月17日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第2回目のこの日は、越谷宿(東武スカイツリー線越谷駅)から粕壁宿(東武野田線春日部駅)までの約13Kmを歩いた。

9時3分、この日の出発地東武スカイツリー線越谷駅に到着。
前回、ゴールした駅である。


この日の参加者は11名。
早速駅前でストレッチで身体をほぐす。


9時過ぎで人通りも少ない。


9時14分、粕壁宿(春日部駅)目指して出発!


前回歩いた道よりもやや狭いなとは思ったが、続きを歩いているのだと思い込み、
道路沿いにある江戸時代の面影を残す塗師屋を探すが見つからない。


出発して30分ほど歩いたところで、国道新4号線に行き当った。
『んんんっ???』
国道新4号線は、地図を見ると東武線を挟んで全く逆にあるではないか。
近くで農作業をしていた人に訊ねたところ、『そのまま進むと東京方面だよっ』 『え~っ!』
越谷駅で降りる方向(東・西)を間違ってしまったのだぁ。
既に越谷駅から3Km近く歩いていたが、そのまま進む訳にはいかない。どこかで戻らなければならない。
この先神明町交差点を右折すれば北越谷駅に戻れることを教えて貰った。
ということで、逆方向(春日部方面)へ歩いているところなのである。


国道新4号線をひたすら神明町交差点を目指して進む。


秋田犬売買の店があった。
見るからに賢そうな表情である。


日本橋から29Kmの表示。
農作業の人に言われたように、このまま進むのが正しいことを確認。


10時3分、越谷駅を出発して50分を経過。
車の排ガスが気になるが、ここで一休みしよう。


神明町交差点だ。
これを右折すれば、北越谷駅である。


前方は神明橋


神明橋を渡る。
交通量が多いため、車道・歩道分離となっているので、安全だ。


現在の元荒川は、江戸時代以前に荒川として下流で利根川へ流れていたが、江戸時代以降の河川改修により、
入間川へ切り離され、東京湾へ流れ込む様に川筋を人工的に変えてきた。
そのため名前だけが荒川として残っている。


10時27分、北越谷駅が見えてきた。


北越谷駅
越谷駅を出発して1時間15分以上経過していた。
大幅なタイムロスである。


とんかつが美味しそう。


東武線の高架に沿って進む。


この時期、金木犀の花が良い香りを漂わせる。
金木犀の木は各家に1本は植わっているのではないか。それほど多いということだ。


宮内庁埼玉鴨場に到着した。あいにく門は固く閉じられていた。
宮内庁が管理している鴨場としては、ここ埼玉鴨場と、千葉県市川市にある新浜鴨場の2ヶ所がある。
明治四十一年(1908)、皇族・政府高官らが賓客を招いて鴨猟を催すために整備された。
総面積12haにも及ぶ広大な敷地には、1万羽を越える野鳥が飛来する、そうである。
一般の立入は禁止されている。


『これあけびじゃなぁい? すっご~い』


立派なアケビが鈴なりである。
アケビとよく似たムベの生垣は見たことはあるが、アケビは初めてである。
盗んでいく人はいないのだろうか? 
アケビの美味しい食べ方を知らない人が多いからなのだろうと勝手に推測した。


東武線の踏み切り
電車が通り過ぎるのを待つ。
しかし、この踏切は実に頻繁に電車が通る。
踏切を通り過ぎたばかりだというのに直ぐまた別の電車が。
5分ほどの間に3回も踏切が開閉したのにはびっくりだ。


この辺りの道は歩道がなく危ない。


国道新4号線の高架


高架を抜けると、春日部は左側に曲っている。
旧国道4号線である。


春日部まで6Kmの表示。


道路沿いにファミレスが次々と現れる。
ファミレスが気になりだしたということは、お腹が空いてきた証拠である。


新方川(にいがたがわ)を渡る。
新方川は利根川水系の中川支流で、千間堀と呼ばれている。


千間堀に沿って進む。


道路の左側(向い側)に歓喜院(武里観音)があった。
五穀豊穣の神として崇められている「大枝香取神社」の鳥居が見える。
「大枝香取神社」は、明治期の神仏分離政策で、境内が分けられ、その後近隣の神社を合祀し、
付近(旧大枝村)一帯の鎮守となった、とのこと。


反対側、つまり歩いている側に”人生は六十から”の碑があった。
この碑にあるように、迎えが来ても『頃を見てこちらからボツボツ行く』と云ってみたいものである。


昼食場所を求めて越谷市立平方公園へ向かう。浅間神社が近くにあるらしい。
地元の人らしき人に場所を訊ね、直ぐ近くと言われ歩いたのだが・・・
国道4号を逸れて既に2Kmは歩いただろうか。
目印となる浅間神社らしきこんもりとした林が見えてきた。


浅間神社だ。小さな神社である。
これでは知る人ぞ知るである。


浅間神社の裏手に目指す越谷市立平方公園があった。


時計は12時20分になろうとしていた。
越谷駅を出発して歩きっ放しである。お腹も大分空いていた。
公園の東屋で仲良く昼食だ。


昼食後にもストレッチで身体を労る。


『これをやっておけば疲れは残りませんからねっ』


13時ちょうどに平方公園を出発し、国道4号へ向う。


”♪粋な黒塀 見越の松に♪” 昔懐かしい「お富さん」の一節を想いだす。
それにしても立派な松である。


林西寺りんさいじ
浄土宗の寺院で、「子育て呑龍様」の名で親しまれている呑龍上人の供養墓地がある。


平方公園から20分足らずで国道4号に戻った。


お地蔵さんが2つ並んでポツンと佇んでいた。


史跡備後一里塚跡の碑
日本橋から8番目の一里塚である。


善巧寺ぜんぎょうじ


浄土真宗を開いた親鸞聖人の像を熱心に撮る外人。
宗教に興味があるのだろうか?


東武野田線を通り過ぎ、日本橋方面を望む。


八坂神社
天王様の通称で親しまれ、六斎市が立ったところから市神様として信仰された。
真新しい社殿である。


境内に筆子塚が建てられていた。
筆子塚は、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算や実務教育を教わった教え子が、
師匠が死んだ際にその遺徳を偲んで、費用を出し合って建てた墓である塚または供養塔のこと。


東陽寺
曹洞宗の寺で、創建は文明年間(1469~)と伝えられている。
開基は寛永年間に僧熊巌(ゆうがん)が中興開山したと伝えられている。


江戸期には新西国三十三ヶ所30番で、参詣は引きもきらぬ勢いだったそうだが、寛永元年(1624)一切を焼失。
39年後に現在の地に旧名を復活して小庵が建立された。
その後も焼失と再建を繰り返し、現在に至っている。
これまでの無事安全を感謝してお参りした。
お参りを終えたところで、突然、小雨がパラついてきた。


東陽寺は、「奥の細道」で有名な芭蕉と曽良の第1日目の宿泊地と伝えられている。
本殿前には曽良の随行日記中の「廿七日夜 カスカヘニ泊ル 江戸ヨリ九里余」を刻む碑が建てられている。
今では一日で九里(約36Km)を歩くのは結構大変であるが、当時は普通の距離だったのだろう。


東陽寺の四脚門の山門を抜けると・・・


春日部の市街地が現れた。
本降りにならないうちにと春日部駅へ足を速めた。


電柱がないので、スッキリしている。


田村家の蔵
家の前のポストの反対側に「西南 いハつき」と刻まれた道標が立っている。
写真を撮っていると、地元の人が寄って来て『1,700町歩もの大地主ですよ』と聞かされた。


それにしても大きな屋敷である。
付近一帯は田村の表札がいっぱいである。


春日部駅前の道路の入口にあった可愛らしい像。


春日部駅前のロータリー、時計は14時25分になろうとしていた。
雨はいつの間にか止んでいた。


14時26分、東武野田線春日部駅に到着。本日のゴールである。
最後は雨に降られる前にと急ぎ足だったため、疲れが出て少々喉も渇いた。


駅隣のビル1階にVie De Franceがあったのでお茶タイムに。
めいめい好みの飲み物を注文
『お疲れさまでしたぁ~』


柏駅に向かう東武野田線の車内
『雨に降られなくて良かったわぁ』


この日は出だしから方角を間違って、逆方向に歩くなどハプニングがあったが、
無事ゴールの春日部駅に到着できて、ホッと一安心である。
当初約13Kmの歩行距離と見込んでいたのが、16Km以上は歩いたと思われる。
仲間の皆さんには、余分に歩かせることになって、申し訳なく思っていたが、
『ウォーキングにはつきものよっ』と慰めの言葉を貰ったのが、嬉しかった。
次回以降はちゃんと歩きたい。


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日光街道を歩く 第1回 千住宿から越谷宿へ

2012年09月26日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2012年9月26日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、続いて2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
一緒に歩いた仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を提案し、皆さんに賛同してもらった。
2012年9月から毎月1回、冬の1,2月と暑い7,8月を除いて来年の9月にかけて歩くことにした。

第1回目のこの日は、千住宿(JR北千住駅)から越谷宿(JR南越谷駅)までの約15Kmを歩いた。
日本橋から千住宿までは、「旧水戸街道を歩く」で既に歩き終えているので、出立は千住宿からとした。

この日朝8時に北千住駅前に集まった参加者は、新たに1名が加わり、計12名。
記念すべき第一回ということで、北千住駅前で揃って記念撮影だ。


Uさんの指導で軽いストレッチ体操


通勤時間帯だったが、この場所を通る人はまばら。


8時17分、日光目指して出立である。


見覚えのある千住宿場町通りを抜けて・・・


千住新橋南詰へ


螺旋階段を登ると・・・


千住新橋に出た。
国道4号線は渋滞になっていた。
平日は毎朝このような状態なのだろう。


中旬まで真夏日が続いていたが、秋分の日を過ぎて急に平年並みの気温になってきたのが嬉しい。
荒川を吹き抜ける風が心地良い。


『ほんと、風が気持ち良いわぁ』


荒川を渡り、旧日光街道を進むと、、耳の病に霊験あらたかと云われる石不動尊がある。
堂前のお地蔵さんは、元は荒川の土手下にあったものが移設されてきたとのこと。
堂前の「子育八彦尊道(やひこぞんどう)是より二丁」の碑は、子供の咳にご利益がある、
と云われる明王院(赤不動)への道標である。


旧日光街道を進む。
足立区梅田郵便局付近。


荒川から4Kmほど進んだところに、東武伊勢崎線の高架駅が見えてきた。
梅島駅だ。


9時3分、梅島駅の高架下で水分補給で一息入れる。
猛暑はなくなったが、リュックを背負って歩けばやはり暑い。
額に首筋に薄っすらと汗が滲む。
道路の向こうが梅島駅になる。


さらに1Kmほど進むと、環七通りだ。
『やはり交通量が多いねぇ』


『へぇ~っ珍しい地名だぁ』


その名もずばり、六月(ろくがつ)二丁目交差点。
奥州征伐に向かう八幡太郎義家公は六月の炎天下、この地で野武士に道を遮られてしまった。
義家公は進退窮まり鎌倉八幡を祈念したところ、太陽が背に回り無事敵を撃破したと云われる。


孫のような少学1年生らしき一団が通り過ぎるのを見守る。
『遠足かな? 楽しいよねぇ』


足立清掃工場
焼却場の紅白の煙突が印象に残る。


10時10分、いよいよ埼玉県草加市に入る。
北千住駅を出発して約2時間経過していた。


10時16分、谷塚駅近くの業務用スーパーで、体調を整える。


道路幅が広いと、歩き易い。
ただ、自転車の通行には気をつけたい。


浅間神社
江戸時代から富士山を祀る神社として厚い信仰を集め、多くの人に親しまれていた、と云う。
正式名称は富士浅間神社だ。


この日のウォーキングの安全を祈願してお参りして行こう。
現在の本殿は天保十三年(1842)に再建されたもので、市指定文化財になっている。
また、境内は草加百景の一つに選定されている。


境内の慶応元年の銘の手洗石に、現在の水準点にあたる高低測量几号(きごう)が刻まれている、
と案内板に書かれてあったので、探しているところ。
『どこに刻んであるんだろうねぇ』
結局几号を見つけられなくて、日光街道へ戻ることに。


草加市と言えば、「草加せんべい」である。
この辺りからせんべい屋をいくつも見掛けるようになった。
先ず最初に見掛けたのは「五楽堂」


火あぶり地蔵尊
千住宿に人柄の良い母親と娘が住んでいた。
父親は多額の借金を残してこの世を去り、母子は借金を返すために一生懸命に働いた。
奉公中の娘が母親の大病を知り、主に帰宅を願出たが許されず、
奉公先の主の家が火事になれば仕事が休みになると思って火を放った。
娘は放火後に掴まり、その罪で火焙りの刑に処せられてしまった。
里人はこの娘を哀れんで地蔵堂を建立し、供養したと云う。


一人のお年寄りがお参りに来た。聞いたところ、毎日の日課だそうだ。
四の付く日に花を供えるとのこと。二日前に供えられた花はまだしっかりとしていた。


「いけだ屋」
せっかく草加に来たからには、と”草加煎餅”を買い、皆さんと味見を。


お腹が空いてきたのも手伝ってか、
『すごく美味しいわぁ』
『いままで食べた草加煎餅とは一味違うわねっ』 最高の評価である。


この他にも煎餅屋は多い。
店の構えにもそれぞれ個性がある。


草加市役所の敷地の隅に浅古家地蔵堂(あさごけじぞうどう)があった。
江戸時代の豪商・浅古氏が赤堀用水を流れてきた地蔵を拾い上げ、子育て地蔵として祀ったものとの言伝えがある。
地蔵堂は十二月を除き、毎月24日に開帳される。
道路の反対側にあったため、撮影するに留めた。


ひと際古い蔵造りの構えの家は、浅古正三家。


草加駅前の道路を渡ったところにちょうど弁当屋があった。
この日は弁当持参としていたので、何人かがここで弁当を買っていくことに。


どれも美味しそうなメニュー揃いである。


草加宿「清水本陣跡」の碑
清水本陣は宝暦年間から明治初期に置かれた。
それ以前には、大川本陣が置かれていた。
この本陣には会津藩松平容頌、仙台藩伊達綱村、盛岡藩南部利視、米沢藩上杉治憲(鷹山)
らが休泊した記録がある、とのこと。


煎餅屋の「元祖源兵衛せんべい」


こちらは、せんべいの看板を掲げた「堀井商店」


久野家(大津屋)住宅(店舗部分)
草加宿では街道がほぼ直線状に設けられたが、北端では曲輪のように大きくカーブする。
久野家は宿の北端の曲がり端に位置している。
宿場は開宿以来、4回ほどの大火や震災に見舞われているが、この家は江戸時代の安政二年(1855)の大地震に耐え、
明治三年(1870)の大火をも免れた。
ただ立寄っただけにも関わらず、店の方から、「草加町歩きマップ」をいただいた。


草加宿の総鎮守の神明神社
元和初年(1615)に宅地内にご神体を祀ったのが始まりで、正徳三年(1713)に草加9ケ村の希望により、
宿の総鎮守として現在の地に移されたと伝えられている。
五と十の付く日に市が開かれ、大変な賑わいだったと云う。
幕末には宿の子を対象とした寺子屋が開かれた。


鳥居の沓掛には浅間神社では見つけられなかった、高低測量の几号(きごう)が刻まれていた。


おせん公園」の煎餅発祥の地の碑
草加松原で茶屋を営むおせん婆さんが、『団子が痛みやすい』と嘆いていたところ、
ある旅人に『団子を薄く伸ばして天日で乾かし、これを焼けばよい』と教えられた。
これが旅人には日持ちがして携帯でき、美味しい堅餅、と評判になり、
草加の名物になったと云われている。


伝右川に架かる草加六丁目橋を渡ると・・・


札揚河岸公園である。
公園の中央付近に五角形の望楼が聳(そび)えていた。
札場河岸は綾瀬川舟運の船着場で、綾瀬川は江戸に通じる重要な水路であった。


草加松原遊歩道にある県道を跨ぐための太鼓型の橋の一つ、矢立橋
奥の細道の「行く春や鳥啼き魚の目に泪、これを矢立の初めとして・・・」にちなんで名付けられた。


草加松原遊歩道は、「日本の道百選」に選ばれている。


綾瀬川沿いの遊歩道約1.5Kmに渡って松並木が続く。
天和年間(1681~1684)に綾瀬川開削の際に徳川幕府が命じて植えたと伝えられている。
一時は60数本まで減ったが、市民が中心となって600本余りまで回復させた。
東京スカイツリーの完成で、600本余りだったのを634本に急遽増やした、と先日TVで紹介されていたのを見た。


綾瀬川
お世辞にもきれいとは言えない。


11時45分、公園歩道のベンチで弁当タイム。
青空の下で食べるおにぎりは美味しい、格別である。


草加松原遊歩道にある県道を跨ぐためのもう一つの太鼓型の百代橋
奥の細道の「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ・・・」
にちなんで名付けられた。


橋から見た松並木
絶好のビュースポットとなっている。


百代橋を渡り切ったところに松尾芭蕉文学碑がある。


松尾芭蕉文学碑の脇で、食後のストレッチだ。
『いちにっ、さんしっ』


綾瀬川に架かる木製の橋
かつてのどこかの橋を模したものであろうか。


草加松原遊歩道を過ぎて数100m進むと東京外環自動車道路(外環道)が見えてきた。


外環道の高架下を進み・・・


槐戸橋(さいかちどはし)で綾瀬川を渡る。


綾瀬川に沿って進むと蒲生一里塚があった。
日本橋から五里目の一里塚である。
埼玉県下の日光街道で唯一現存している一里塚だそうだ。


塚の並びには六地蔵が祀られている。
この地面の高さは往時のままだそうである。


蒲生郵便局を過ぎると、道標と庚申像がある。
越谷市相模町へ続く、大相模不動(大聖寺)への道標だ。


この地域の人に「ぎょうだい様」と呼ばれている地蔵堂があった。
道中の安全を祈って、草鞋(わらじ)が奉納されている。


江戸時代中期の宝暦七年(1575)、日光街道の補修工事が行われ、
完成を記念して造られた砂利供養とされている、とのことだが・・・
裏に回ると正体はごつごつした岩であった。


隙間から覗くと、河童の顔の部分に似た形をしていた。
この地域の人は”わしの神様”と言っているそうだ。


旧道脇に天文三年(1534)創建の清蔵院(せいぞういん)がある。
山門は江戸時代初期、寛永十五年(1638)の関西の工匠の作と伝わる。


山門の龍は金網で覆われていた。
この龍は伝説的な彫刻職人左甚五郎の作とされ、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことから、
これを金網で囲った、と云われている。


銭湯
最近ではあまり見かけなくなった。


かつて蒲生に住んでいたことのあるT子さんが、『近くに友人がいるので挨拶していきたい』と言う。
街道沿いの家を訪ねてみたが、あいにく留守のようで、応答はなかった。
帰ってから電話してみるそうだ。


自動販売機で水分補給


JR武蔵野線だ。


JR武蔵野線を通り過ぎて1.2Kmほど進んだところにこの日最後の訪問地、照蓮院(しょうれんいん)があった。


照蓮院本堂で全員無事歩き終えたことを、感謝を込めてお参りした。


武田勝頼の遺児千徳丸の供養塔(両側の五輪塔に挟まれている小さな塔)がある。
千徳丸は、勝頼没後家臣が当地まで連れて逃れたが、天正十年(1638)に早世してしまった。
その菩提を弔うために建てられたもの。
思ったよりも小さく可愛らしい塔だった。


この日の訪問は全て終わり、照蓮院を後にして、東武伊勢崎線の越谷駅へ向かった。


いつも奥様や娘さんへのお土産を欠かさないU男さんには感心するばかりだ。
既に土産もの(お菓子)をぶら下げている。


14時36分、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)越谷駅に到着。


この後、次の新越谷でJR武蔵野線に乗り換え、新松戸を経由して柏に向った。
次回は、東武伊勢崎線の越谷駅から歩くことになる。
元気な再会を約して、それぞれ帰路についた。
この日、万歩計は28,000歩を越えていた。


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コメント
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