年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

藤岡屋日記を借り出す。

2021年03月10日 | 宅老のグチ
何も読みたい本がとぎれた時,ふと思い出して藤岡屋日記嘉永3年の部分を借りる。この本は今の感覚だと江戸市中の噂を集めた本だが本来は幕府の人事情報が中心となっていた。歴史学者には面白い本だが市井の噂話の方が面白い。それでも欠けている史実もあって、どのような基準で集めたかは全体を読んでいないので解らない。嘉永3年は高野長英が惨殺された時期で、前後の関係が市井の噂話でどこまで伝わっているか知ることが出来る。
 土浦市にある高野長英の墓は江戸日本橋堀留町二丁目の薬種問屋神崎屋の子孫が立てた墓のようだ。水沢出身だったばかりに、長英を居候させたり、金を貸したりしていた。高野の遺体を掘り起こし、神崎屋の墓に入れ、昭和40年に土浦に浄真寺に墓が移転し、名前が公になった。現地の墓に行けば解るが表向きは高野長英の墓ではないが墓誌に高野長英の名前がある。この墓は墓地の中心部にあって、土浦博物館の学芸員の案内が無ければ多分寺の関係者以外知らないだろう。墓には何かのこだわりがあるようだ。
 藤岡屋日記に幕府の人事情報が載っているが、そこには素人がついていけない言葉が多数ある。嘉永3年11月の御用番のリストに井戸対馬守の名前がある。これは当時の北町奉行の番という事を示しているのだろうか。そうなると12月は南町奉行となって遠山左衛門尉となる。確認できる資料は無いのだろうか。
江戸幕府諸役人御用番名鑑と言う本があった。この本で前記の北町奉行が11月で南町奉行が12月と確認できた。高野長英の捕縛は10月30日夜なのでかろうじて南の担当となる。この辺の記述はいかなる高野長英の本には載っていない。何か無理して南の担当与力たちが捕縛した気がする。
 明治に入って高野長英の子孫・藤田茂吉・松林伯円(講談師)大槻文彦、南町与力たちの記録があるが、個別の記録の不自然さが残る。10月30日になぜ捕縛行動に南町与力たちは動いたのだろうか。なぜ殺さねばならなかったのだろうか。
蘭書翻訳取締令(らんしょほんやくとりしまりれい)
嘉永2年(1849年)から翌年にかけて江戸幕府が出した一連のオランダ語の翻訳規制があって、高野長英が翻訳した本が写本として出回り、軍事用語の翻訳の見事さで高野が生きていることが疑われた。
嘉永3年のオランダ商館員の江戸参府は結果として最後の江戸行きとなって、多くの記録が日本とオランダに残っている。嘉永3年の9月に老中阿部伊勢守は長崎通詞立石得十郎にオランダ商館員から献上された書物の翻訳命令が出ている。何の本だったのだろうか。
出典 カピタン最後の江戸参府と阿蘭陀宿-歩く、異文化交流の体現者
 片桐一男著
 また勝海舟の証言で嘉永3年9月に高野長英が偽名を使って、訪問し、匿うように依頼したが断られたという話もあるが信憑性が薄い気がする。(国会図書館の鑑定では事実のようだ)
 小伝馬町の牢獄仲間によって高野が見つかった話があるが何か作り話の様のも思える。
 明治文芸と薔薇と言う本を著した中込重明 氏は若くして亡くなったがもう少し生きていて、松林伯円の取材先の二番町の筒井政憲邸での分析が鮮明になったと思われる。伯円は長英の講談を時期が来るまで発表していなかったのではないのだろうか。

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