年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

力道山生誕100周年のイベント

2024年06月24日 | 宅老のグチ

5月の終わり頃、キムチの歴史で資料調査に行っていた麻布十番駅付近の在日韓人歴史資料館からメールが届いていた。確か土曜日は訪問するビザ取得者が少ない日だと思い、力道山生誕100周年のイベントに行ってみることにした。コロナ以前はキムチの歴史で3階にある受付の奥に図書室があって、日本語とハングルの本がある。そこの日本語の背表紙を見ているだけで、複雑な気持ちが出る。この気分は横浜にある海外移住資料館 閲覧室の時の気分に似ている。今の移民・移住の事情は知らないが明治のハワイ等の移民は出稼ぎの意識があって、今日本に来ている不法移住者とほぼ同じと思う。普通の日本人は知らないが戦前・戦後の昭和60年代まで、海外に在住している日本人とその子孫へ故郷を偲ぶ日本食品の貿易は業界用語で(たくわん貿易)といっていた。
 朝鮮半島と日本との付き合いは記録の無い時代からの付き合いで、そこには争いの歴史だけが記憶に残る。ただ朝鮮の人は逃げる所があって、いまいち統一感が無い。昔は日本に逃げたが今はアメリカに逃げている気がする。アメリカの青果市場は昔はイタリア系だったが今は韓国人経営が多く、日本食のレストランも働くのは日本人であっても、経営者が韓国系というのも多い。
 安倍晋三元首相銃撃事件のテロから、アメリカの日本食材の業者が統一教会系と初めて知った。真面目な人たちという印象だった。
力道山が生きていた時は朝鮮半島出身とは知らず、傲慢な態度で東京を走り回っている米軍兵士に対して嫌悪感が自分にはあって、苦々しい記憶が今でもある。テレビ放送が昭和の29年頃あって日本テレビの街頭テレビで多くの人が、仕事が終わって金曜日午後8時の今のJR駅前の広場に設置されているテレビのプロレス中継を見ていた。最後に悪役米国人プロレスラーに力道山の逆転勝ちとなり、9時の時間には終わる。ビデオの無い時代で、きっちりと時間には終わる。
 力道山の功績は確かにある。それは新しい戦後の娯楽。それも企画されたスポ-ッというものだろう。
 
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