年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

上野繁昌史・続編から 上野観光協会編

2024年06月05日 | 宅老のグチ
台東区の図書館郷土資料室で、時間切れで上野繁昌史の続編を読みそこなって、近所の図書館で借り出した。台東区で読んでいた時は、下谷・上野の人は江戸時代からの住民が多く、寛永寺の恩恵の記憶が残っていて、明治の初めから終戦までの維新史史観によって、うっぷんが貯まっていて、普通の地域の史観とは離れている。さらに続編はほぼ彰義隊の逸話の話で、事実検証は難しいが言い伝えとして広く知られている。これには明治の言論機関が旧幕臣知識人が多く、さらに江戸東京の出版関係が神田周辺にあったこともあると思われる。
 この続編は見出しから、彰義隊の部分が多く、小説風の話が多い。敗北した東軍・彰義隊の武士たちの想いが伝わる。
 多くの上野本は下谷の人達と上野寛永寺の僧たちとの交流が伝わる。そこには相互の依存関係がみられ、特に池之端の商人たちは、幕府の認可だと思うが寛永寺の掃除で不忍池の土手に茶屋を設け、営業して繁華街となっていた様子が解かる。江戸時代は風俗が乱れると、規制が厳しくなり、掘っ建て小屋の茶屋は簡単に撤去される。そこで再復活となるのだがその口実で寛永寺の知恵が必要となり、寛永寺としては広大な敷地の掃除、桜の花見の後始末等々の利権、寛永寺御用という権威付けもあったと思われる。福神漬の文献で酒悦の店名は輪王寺宮から頂いたという話もある。
 多くの上野周辺の商人は時代の変化と幕府の規制と緩和で老舗がきえ、新しい文明開化の影響のある店が繁盛する。今の令和でも起きているアメ横の変化も激しく、魚店が減り飲食店が増え、観光客用のホテルも激増し、それに伴う風俗街も変わりつつある。この変化は想像以上に早く、記録を残していないと時代・時期の整合性がとれないのでAIの誤検索を訂正できない内に多数事例となる気がする。どこかで元祖とか日本初と言っても検証が出来ないこともありそうだ。
コメント
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