年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

宮城信四郎と宮野信四郎

2024年06月27日 | 福神漬
嘉永3年10月30日(旧暦)この日の闇夜に逃亡中の高野長英が死去した。江戸南町奉行の配下与力たちが青山の潜伏地に夜間に捕縛に向かった。江戸時代は生かして捕まえるのが基本であった。そこで色々な生かして捕まえる方法が文献に残る。
 長英の死後に青山の隠れ家と逃亡先を手配した人たちが捕まった。嘉永3年12月の終わりに南町奉行遠山影元(金さん)が判決を出し、松下寿酔,松下健作と御賄い伊藤弥十郎祖母ひでと宮城信四郎の4名が流罪となった。松下寿酔は取り調べの獄中で死去したという伝聞が藤岡屋日記に見える。
 この件で都立中央図書館の司書さんに1階の東京の地方史の新島村史流人編の本を持ってきて、宮野信四郎の所を見せ高野長英を調べてもらった。
 すると司書さんの検索で国会図書館の蔵書がパソコンの画面に現れ、基本の文献が高野長雲という人のようだ。多くの高野長英の研究はこの人の文献から始まる。この流人記録の件に関してコロナ期間中に、東京都の公文書館で聞いたところ、流人の記録は出版されたものしかなく、松下健作と御賄い伊藤弥十郎祖母ひでの記録が見つからない。伊豆の流人島は新島・三宅島・八丈島で他の島は不祥事の時に移動されたようで記録が少ない。流罪となった人は幕府の恩赦があった時に釈放される。この恩赦による釈放も江戸での支援が無いと釈放される人選から漏れる。さらに島での扱いも、流人の支援者の資金によって異なり、生かされるようだ。
 地獄の沙汰も金次第という言葉が今に残る。江戸時代は多くの縁故者の支援で牢獄での待遇が良くなったりして生き残る。また牢関係者はこの賄い金で生活を維持している。従って長い未決期間でも牢関係者は良かった。この仕組みは中国の刑法制度から来ているように見える。同様の事例が文献に見える。やはり実際の死罪より、投獄中の衛生環境で病死の例も多いようだ。ここから明治の不平等条約改正で取り調べの拘置所の衛生問題が出て来る。これは法制度以前の問題で明治政府の歴史観がロシアを負かして条約改正となった記述は誤りで、監獄の衛生環境がようやく日露戦争の時代に追いついたということである。日清・日露の戦争で多くの日本兵士が亡くなったが、特に日清戦争では戦闘で亡くなった人(1417人)より、脚気等による病死(11894人)、台湾征討戦では台湾の風土病で朝鮮半島の死者をはるかに上回った(台湾では10236人)。またこの台湾での死者数の扱いは、今の日本史でも少なく扱われている。それは朝鮮半島の戦病死者数だけが日清戦争の死者数となっている記述が多い。このほかの日清戦争の死者は中国人3万人、朝鮮人3万人、そのほかの非軍事関係の死者数もあるという。いわば災害関連死のような死もあるという。
 宮城信四郎(宮野信四郎)の生存は高野長英の死亡後の記述はどの本が正しいのか判らないが明治の自由民権運動福島事件の被告人の花香恭次郎の出生に関連してくる。恭次郎の恭は内田弥太郎の諱(いみな)が恭である。今の千葉県旭市にある花香家の東福寺墓地に恭の名前がある人物は養子で迎い入れた人であって和算系の人と思われる。関流和算家内田五観(弥太郎)から名前の一字を付けたと推測される。また東福寺内には内田五観の撰文による花香安精の碑がある。花香安精の集めた和算書は今は千葉県の県立博物館に寄付されている。房総数学文庫という。
 嘉永3年末の遠山裁きは明治維新に繋がり、明治の改暦と西洋の計測と日本の計測との整理統合が内田弥太郎によって行われた。従って、彼が長英逃亡の罪で流罪となったら、明治日本史はかなり遅れた日本となる気がする。上野の国立科学博物館には内田の集めた一升桝と物差しが所蔵されているという。
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