4月2日、新築となった歌舞伎座の演目広告が新聞に載っていた。河竹黙阿弥の作品が4月にある。そういえば福神漬調査の過程で筒井政憲のところへ出入りしていた松林伯円(講談師)の作品を河竹黙阿弥が歌舞伎の台本としたことがあった。
杮落とし興行だから当分は満席となるが数年たって人口の本格的減少に入ったとき本物の興行が残る気がする。明治に入って政府の規制で九代目市川団十郎、五代目菊五郎が新時代に合わせた興行を創ろうとした。しかし観客は江戸の雰囲気を求めていた気がする。そんな時、アメリカのグランド将軍の歌舞伎観劇(明治12年新富座)が今の歌舞伎の興隆に繋がっているように思える。
外国の高官の鑑賞にも薦められる日本の演劇として歌舞伎が認知され、天覧歌舞伎(明治20年)となり最下層民扱いされ、川原乞食と蔑称されていた役者の地位が社会的に認められ、地位の向上があったのがこの時期からである。
この時期福神漬が上野で創製され販売拡大の工夫をしていた時期である。酒悦主人が五代目菊五郎と交友があったというがお互いに創意工夫していた時である。