百代の過客
-日記にみる日本人-下(朝日選書)ドナルド・キーン著
下巻に井関隆子日記がある。全体の内容を簡単に掌握するには適切な本だった。この井関隆子の日記は後で他人に読ませることを想定して日記が始まったが天保の改革の時期にあたったので井関家の知りうる情報と彼女自身の感想が記述されている。彼女は蘭学嫌いで蛮社の人達の弾圧は当然のことと思っていたようである。もし井関隆子が嘉永6年まで生きていて、ペリーを浦賀で応接した戸田氏栄とどの様な会話をしたのだろうか。
どうやら戸田は天保の頃はまだ『開国やむなし』とは思っていなかったようで浦賀に赴任して浦賀与力衆から国防の現状を知り、対応策を考えたようである。戸田が印旛沼工事の目付から左遷されて、天保14年閏9月駿府町奉行に転進させられた時、水野忠邦に代わって阿部正弘が老中に昇進した。後に戸田は駿府町奉行・日光奉行となり、阿部正弘によって浦賀奉行を任命させられた。
-日記にみる日本人-下(朝日選書)ドナルド・キーン著
下巻に井関隆子日記がある。全体の内容を簡単に掌握するには適切な本だった。この井関隆子の日記は後で他人に読ませることを想定して日記が始まったが天保の改革の時期にあたったので井関家の知りうる情報と彼女自身の感想が記述されている。彼女は蘭学嫌いで蛮社の人達の弾圧は当然のことと思っていたようである。もし井関隆子が嘉永6年まで生きていて、ペリーを浦賀で応接した戸田氏栄とどの様な会話をしたのだろうか。
どうやら戸田は天保の頃はまだ『開国やむなし』とは思っていなかったようで浦賀に赴任して浦賀与力衆から国防の現状を知り、対応策を考えたようである。戸田が印旛沼工事の目付から左遷されて、天保14年閏9月駿府町奉行に転進させられた時、水野忠邦に代わって阿部正弘が老中に昇進した。後に戸田は駿府町奉行・日光奉行となり、阿部正弘によって浦賀奉行を任命させられた。