年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

御一新の嵐 鶴見俊輔著

2010年10月30日 | 福神漬
石井研堂の経歴から、この本を読むこととなった。季節はずれの台風が日本の東海岸を北上しているが、江戸時代の漂流民として海外へ行ってしまった人達の大部分は11月・12月に遭難したという。またこの季節は正月の江戸の物価高騰があるのでギャンブル的に無理して出航したと思われる。鎖国していた日本は意図しない日本人達の海外渡航で少しずつ日本の内情を世界に知らせていた。
 このことに気がついた石井研堂という人物は『異国漂流奇譚集』を著している。幕末、アメリカ商人等は日本を開国させようとする口実に漂流民を人道的措置で送り届け、交渉の糸口としようとした。日本ではモリソン号事件といわれる。14歳で浦賀与力見習いとして出仕した中島三郎助は16歳の時、この事件と関わりをもつこととなった。
 ペリーはモリソン号事件等の異国船に対する江戸幕府の対応を研究して日本にやって来た。また浦賀では中島三郎助の所属する浦賀与力たちも異国船の対応の準備をしていたが幕府の方針とは違った考えを持っていた。弘化4年に日光奉行から浦賀奉行になった戸田伊豆守氏栄に浦賀与力達が国防の現実を教えたと思われる。
 江戸湾にある全ての砲撃力より、黒船一船の砲撃力があることを知った浦賀衆は殺到する見物人を上手くさばき、平和裏に米国国書を受け取ることになり、日本の近代の始まりとなった。国防の最前線にいる人達が予算不足で対応しなければならない事態は今も昔もある。
 中島三郎助と西浦賀の塩問屋との関係も国防予算不足を補うものであったという。
 
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