年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

惺々暁斎(せいせいきょうさい)

2010年10月25日 | 福神漬
石井研堂は大正4年3月13日の夜、河鍋暁斎の遺児であった暁翠(きょうすい)女史より、親しく暁斎の経歴を聞いた。梅亭金鵞(瓜生政和)の編集した『暁斎画談』で猩々暁斎というのは誤りで、暁斎自身は一度も猩々暁斎といったことはないという。猩々(しょうしょう)という言葉は酒飲みという意味がある。石井研堂は梅亭が戯作者の出で惺と猩の文字の差が解らなかったと思われると書いている。暁斎は幼いころ病弱で母親が惺々星に願を掛けていたという。狂斎から暁斎に改名したが読み方はキョウサイである。
 石井は晩年下谷根岸に住んでいて、河鍋暁斎も根岸で死去した。また石井研堂は福島二本松出身の友人であった高橋太華の少年雑誌に協力し、名声を得る。高橋は根岸党の一員でもあった。ただ石井は酒を好まず、根岸党の一員とみなされない理由と思われる。ここに根岸党の人々の酒のつまみであった福神漬の缶詰が接点として浮かんでくる。石井研堂が明治事物起源という書物に缶詰の始まりという項目があって、少なくとも2回山田箕之助という名前が出てきて、池の端の某店と書いてある部分が『酒悦』と思われる記述がある。石井も福神漬を食べていたと思われるが福神漬の命名の奥にある福島事件の事や幕末における,河野広中の三春藩の仕打ち等から具体的に記述したくなかったと思われる。彼が明治事物起源の中で自由民権運動の福島事件は扱わず、加波山事件を記述しているが同郷の割に実に冷たい書き方であった。
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