年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

タクワン 糠の歴史2

2006年01月07日 | タクワン
三河島稲荷 (宮地稲荷) 荒川区荒川3丁目65  JR三河島駅より徒歩5分
三河島の総鎮守。脚気(かっけ)に霊験があり、成就した際に草鞋(わらじ)を奉納した。
江戸時代において、白米は贅沢品で、日常的に食べていたのは将軍や武士や、江戸・大阪など都会の一部の人間だけだった。白米を偏重した食事による脚気は「江戸わずらい」「大阪ばれ」とも呼ばれたのである。江戸から離れ地方に戻り精米していない米(玄米・ビタミンB1が豊富に入っている)を食べるので自然と直るのでそう呼ばれた。精米技術の未発達=未普及ということで脚気が日本全国に広まらなかった一因でもあった。八代将軍吉宗の頃より米価が下がり都市の庶民も白米を食べるようになり大衆病になりました。今では脚気はビタミンB1の不足で栄養障害とわかっているのですが、江戸時代には得体の知れない難病で死に至る病気で宮地稲荷に参拝するのが流行っていました。稲荷のそばに茶屋があり、玄米の食事を出していたので治療になっていたと言われてます。
 沢庵和尚は三代将軍家光の頃活躍していたので、和尚の使用した糠は別の用途で発生した糠と思われます。
江戸時代の米糠流通の研究の文献がほとんど無く、糠問屋、糠仲間が存在するのだが糠がどこから発生し、どこにいくらで行ったか?新河岸川の舟運の歴史によると、大阪糠、尾張糠等がある。大阪糠は酒米の精米によって、発生した赤糠と思われ、尾張糠も同様と思われる。尾張(主として知多半島)地方は当時として、摂泉十二郷についでの酒の産地であった。
 


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