年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

戦国時代の京都の酒と沢庵漬

2006年01月25日 | タクワン
京都の戦国時代の酒
鎌倉時代末期から室町初期にかけて一世を風靡した「柳酒」を頂点に、京都周辺に多くのの造り酒屋が現れたのには二つの理由がありました。
  京都には各地から年貢米が集まり、米の市場があって、酒の原料米が容易に手に入りました。また、酒造りには欠かせない米麹の製造と販売の権利を北野神社が持っていたので、この神社の周辺に麹製造業者が多数ありました(麹座)。その頃の酒造りは、壷に酒の素になる麹と蒸した米を入れて、その中で醸造するのです。壷を地面に埋めて、その中で酒を造る非常に原始的な造り方です。その為、アルコール分のうすい酒しか出来ませんでした。そうしてつくられた酒はいわゆる濁り酒でした。戦国時代末期の話ですが、当時日本にやってきたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、日本酒を買ってきたら、すぐに飲まないと酢になっていたという話が残っています。(『日本史』)また、フロイスは米を籾の状態で購入しており、酒の製造方法等考えると、当時の京都では大量の糠の発生と木の樽による仕込みは、江戸時代になってからのだろうか?信長や秀吉が賞味した酒は京都の「柳酒」でなく、河内の「天野酒」や奈良の正暦寺で造られた「菩提泉」といわれます。
 樽は戦国時代後期に京都周辺において広まっていき、江戸時代には日本国中へ普及しました。輸送性に優れ、作りやすい結樽が大いに発展し、清酒製造は樽が主役の座を占めることになりました。
沢庵漬に必要な米糠、塩、ダイコン、木の樽はは丁度、沢庵和尚が堺にいた時ごろ揃ったのです。塩は瀬戸内海の製塩技術の進歩と海運によって堺に運ばれ、ダイコンの掛け干しが始まり、吉野からスギの樽が堺に運ばれました。奈良から僧坊酒のための精米によって大量の米糠が発生したと思われます。沢庵は壷に漬けていた糠みそ(モチ米糠)から酒造りための精米によって発生した糠(ウルチ米糠)を使い、干し大根と瀬戸内の塩で木の樽に漬けた漬物を知り、そして出石で工夫したと思われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする