雫石鉄也の
とつぜんブログ
すっぱいもも
午前六時。桃子は目を覚ました。時間に正確な娘である。早起きも寝坊もしない。毎日、きっちり朝の六時に目を覚ます。
「おはよう。桃子」
芳江が部屋に入ってきた。手にトレイを持っている。トーストと牛乳、それに桃が乗っている。
「ごはんだよ」
桃子がわずかに微笑んだ。芳江は娘の朝食を済ませてから勤めにでる。
青い軽自動車に乗り込んだ。車で三十分。中規模の私立病院職員用駐車場に停める。ここが芳江の勤務先。ベテランの看護師である芳江は、主任とか師長という話をすべて断ってきた。
退勤時間になった。今日は担当している患者が二人退院した。患者が笑顔で退院するのが看護師とし一番大きな喜びである。
気分よく駐車場へ。青い軽自動車に乗る。ちょっとスーパーへ寄っていこう。牛肉、じゃがいも、にんじん。夕食の材料をひと通り買う。レジに行こうとした。あ、桃を忘れている。桃子は名前のとおり桃が大好き。朝食のデザートには必ず桃を食べる。
「おかえりなさい」
「木嶋さんありがとう」
芳江は娘の桃子と二人暮らし。夫と死別して、看護師をしながら桃子を育ててきた。
「お天気がいいので、桃子さんを散歩に連れて行きました」
木嶋はそういうとノートを芳江に手渡した。芳江はそれに目を通してサインをした。
「では、明日、また」
「ご苦労さま」
木嶋は帰った。これで、明日の朝まで、芳江と桃子の母娘の二人だ。
「少し、待ってね。すぐ晩ごはん作るから」
夕飯も作りましょうかと木嶋はいうが、昼食だけ頼んでいる。朝食と夕食は自分で作りたい。看護師は激職であるが、できるかぎり娘と食事をともにしたいと考えている。それにプロの家政婦である木嶋に桃子の昼夜二食の食事を作ってもらうと、それなりの料金を払わなければならない。木嶋もたいへんに良い人であるが、プロである。タダで食事の用意を頼むわけにはいかない。
肉じゃがと吸い物、ごはん。デザートに桃を出した。桃子はたいへん喜んで食べた。
「桃子、いまは季節外れだから缶詰ね」
「はーい」
桃子は、トーストとヨーグルト、ゆで卵、それに缶詰の桃を食べると、ランドセルを背負うと出て行った。それが立って歩く桃子を見た最後であった。
涙を流しながら禿げた頭を何度も何度も下げた。自分の父親と同じような男に、そんなに頭を下げられたのは初めてである。
風の強い日であった。コンビニの駐車場を出ようとした。大きなビニール袋が目の前に飛んできた。ハッとしてブレーキをかけた。踏んだペダルはブレーキではなくアクセルであった。
目の前に桃色の帽子をかぶり桃色のランドセルを背負った女の子がいた。衝撃。目の前の女の子が消えた。
救急車が到着した。芳江の職場である病院に救急車が着くのは珍しくない。毎日、いろんな患者が救急車で搬入されてくる。
病院に到着したら自分で歩いて救急外来まで来る人もいるし、すでに死亡している人もいる、血みどろな人もいるし、頭にコブを作っただけの人もいる。芳江は今まで数え切れないほどの救急患者を見て来た。しかし、その日午前九時四十二分に搬入された患者ほど芳江にとって衝撃的な患者はなかった。そして、その瞬間から芳江の人生が大きく変わった。交通事故で搬入された九歳の女児は娘の桃子だった。
頭部打撲による脳震盪。脊髄損傷。病院に着いて、意識はほどなく戻った。しかし脊髄損傷は桃子を半身不随の身にした。事故は桃子から歩くこと奪った。そして言葉も奪った。桃子はその時から、しゃべらない/しゃべれない子になった。
加害者の男は充分な補償をした。芳江は障害者の桃子を介護しながら働く決心をした。
あれから五年。医学的には歩行は可能で話すこともできるはずだ。しかし、桃子の心理的な傷害があまりに大きい。
「桃子、ごめんね。きょうは桃がなかったの。かわりにすももを食べてね」
芳江がすももを桃子の口に入れた。
「すっぱい」
事故以来、初めて桃子が口を開いた。それがきっかけで桃子は言葉と歩行を取り戻した。
「おはよう。桃子」
芳江が部屋に入ってきた。手にトレイを持っている。トーストと牛乳、それに桃が乗っている。
「ごはんだよ」
桃子がわずかに微笑んだ。芳江は娘の朝食を済ませてから勤めにでる。
青い軽自動車に乗り込んだ。車で三十分。中規模の私立病院職員用駐車場に停める。ここが芳江の勤務先。ベテランの看護師である芳江は、主任とか師長という話をすべて断ってきた。
退勤時間になった。今日は担当している患者が二人退院した。患者が笑顔で退院するのが看護師とし一番大きな喜びである。
気分よく駐車場へ。青い軽自動車に乗る。ちょっとスーパーへ寄っていこう。牛肉、じゃがいも、にんじん。夕食の材料をひと通り買う。レジに行こうとした。あ、桃を忘れている。桃子は名前のとおり桃が大好き。朝食のデザートには必ず桃を食べる。
「おかえりなさい」
「木嶋さんありがとう」
芳江は娘の桃子と二人暮らし。夫と死別して、看護師をしながら桃子を育ててきた。
「お天気がいいので、桃子さんを散歩に連れて行きました」
木嶋はそういうとノートを芳江に手渡した。芳江はそれに目を通してサインをした。
「では、明日、また」
「ご苦労さま」
木嶋は帰った。これで、明日の朝まで、芳江と桃子の母娘の二人だ。
「少し、待ってね。すぐ晩ごはん作るから」
夕飯も作りましょうかと木嶋はいうが、昼食だけ頼んでいる。朝食と夕食は自分で作りたい。看護師は激職であるが、できるかぎり娘と食事をともにしたいと考えている。それにプロの家政婦である木嶋に桃子の昼夜二食の食事を作ってもらうと、それなりの料金を払わなければならない。木嶋もたいへんに良い人であるが、プロである。タダで食事の用意を頼むわけにはいかない。
肉じゃがと吸い物、ごはん。デザートに桃を出した。桃子はたいへん喜んで食べた。
「桃子、いまは季節外れだから缶詰ね」
「はーい」
桃子は、トーストとヨーグルト、ゆで卵、それに缶詰の桃を食べると、ランドセルを背負うと出て行った。それが立って歩く桃子を見た最後であった。
涙を流しながら禿げた頭を何度も何度も下げた。自分の父親と同じような男に、そんなに頭を下げられたのは初めてである。
風の強い日であった。コンビニの駐車場を出ようとした。大きなビニール袋が目の前に飛んできた。ハッとしてブレーキをかけた。踏んだペダルはブレーキではなくアクセルであった。
目の前に桃色の帽子をかぶり桃色のランドセルを背負った女の子がいた。衝撃。目の前の女の子が消えた。
救急車が到着した。芳江の職場である病院に救急車が着くのは珍しくない。毎日、いろんな患者が救急車で搬入されてくる。
病院に到着したら自分で歩いて救急外来まで来る人もいるし、すでに死亡している人もいる、血みどろな人もいるし、頭にコブを作っただけの人もいる。芳江は今まで数え切れないほどの救急患者を見て来た。しかし、その日午前九時四十二分に搬入された患者ほど芳江にとって衝撃的な患者はなかった。そして、その瞬間から芳江の人生が大きく変わった。交通事故で搬入された九歳の女児は娘の桃子だった。
頭部打撲による脳震盪。脊髄損傷。病院に着いて、意識はほどなく戻った。しかし脊髄損傷は桃子を半身不随の身にした。事故は桃子から歩くこと奪った。そして言葉も奪った。桃子はその時から、しゃべらない/しゃべれない子になった。
加害者の男は充分な補償をした。芳江は障害者の桃子を介護しながら働く決心をした。
あれから五年。医学的には歩行は可能で話すこともできるはずだ。しかし、桃子の心理的な傷害があまりに大きい。
「桃子、ごめんね。きょうは桃がなかったの。かわりにすももを食べてね」
芳江がすももを桃子の口に入れた。
「すっぱい」
事故以来、初めて桃子が口を開いた。それがきっかけで桃子は言葉と歩行を取り戻した。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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「すっぱい」で言葉が戻るところが、現実っぽくていいです。桃子ちゃんは、お母さんに甘えていたのかもしれませんね。
これからは、たくさん親孝行してほしいです。
ハッピーエンドでよかった。
実は、わたし果物のすっぱいのは苦手で、すっぱい刺激ということを考えて思いついた話です。
熟すのを待っていて、柔らかくなっても、
酸っぱいのもあります。
酸っぱいと、健康には良さそうですし、
入院生活をしていても、桃が差し入れられると、
嬉しいと思います。
この美味しさは、そうした過去の補正があるように感じました。
すっぱい果物をおいしく思いません。
これは、小説なので私の嗜好とは違います。
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