goo

ひとつ手前の駅で降りる

 私の通勤時間は一時間だ。毎朝、七時には起きる。寝坊はめったにしない。洗顔、歯磨きのあと、食卓で朝刊を読んでいると、妻がトーストを焼き、コーヒーをいれてくれる。七時四〇分には家を出る。
 最寄りのJRのA駅までゆっくり歩いて十五分。八時ちょうどの普通電車に乗る。会社の最寄り駅まで八駅。駅から会社まで歩いて一〇分。始業の九時には充分まにあう。残業はない。五時に終わって、六時には帰宅できる。ナイターの開始時間には家に帰れる。夕食を食べながらひいきチームのピンチ、チャンスに一喜一憂する。九時半にはナイターは終わる。入浴をすませたら一〇時。ベッドに入って本を読む。十一時には寝る。
 そして一時間かけて会社へ。会社では一日中、数字の計算とハンコ押し。五時に退社。毎日毎日、これの繰り返し。何も変わらない。何も起こらない。何も出ない。何も消えない。毎日毎日カーボンコピーのような生活。私は、この生活が嫌ではない。かといって嬉しくもない。
 今朝も八時発の電車に乗る。快速電車だともっと早く会社に着くが、快速は混んでいて座れない。普通だと座れる。だから、普通電車に乗り、座って読書している。固い本は読まない。文庫の時代劇を読んでいる。
 普通だから電車は一駅ごとに止まっていく。考えてみれば、それぞれの駅にそれぞれ縁がある。
 自宅の最寄り駅A駅の次のB駅は、帰宅のときは、ここで降りる。健康のため、帰りはBで降りて自宅まで歩いているのだ。
 C駅は近くに桜の名所があり、お花見の時はこの駅を利用する。
 Dは墓参する時、ここからタクシーに乗る。 E駅は、ひいきのプロ野球チームの本拠地球場の最寄り駅で、応援に行く時はここ。 Fは簡易裁判所の支部がありスピード違反した時にここで降りた。もうこの駅は使いたくない。
Gは大きな商業施設があり、時々買い物に行く。
 H駅。会社の最寄り駅の一つ手前の駅だ。この駅を電車が出ると、本を閉じ、電車を降りる用意を始める。
 この中で私が一度も降りたことがない駅はH駅だ。子供のころから、この電車に乗っているが、この駅で乗り降りした記憶がない。なにも用のない駅で、私とは縁のない駅だ。 Gを電車が出た。読んでいた本を読み終わった。本をバックにしまった。読む本がなくなった。こんな事はめったにない。私は、読み終えそうな本を持っていると、必ず次に読む本をバックに入れておく。今朝はその本を忘れた。
 ボーと座席に座っている。手持ちぶさた。ふと、心の中に空白ができた。私の中で何かが変わった。心の空白に小さな風が吹きこんだ。
 H駅で降りてみよう。毎日、通過はするが一度も降りたことがないHで降りてみよう。 電車がHに着いた。座席から立ち上がり、電車から降りた。
 会社?会社は休めばいい。課長に電話して、急病で休むといった。
 改札を出る。レンタルビデオ屋がある。牛丼屋がある。コンビニがあって、銀行がある。交番もある。そこには、ごく普通の駅前の街がある。毎朝、電車に乗る、自宅の最寄り駅のA駅前とよく似ている。
 別に特段変わった駅前の風景を期待していたわけではない。H駅の駅前に立って、ある意味安心した。「日常」の街が目の前にある。とはいえ、当然ながら違いはある。最寄り駅の銀行はMS銀行だが、ここはR銀行だ。牛丼屋はY屋だが、ここはN屋だ。それぐらいの違いか。
 駅前の横断歩道を渡って、向こう側の商店街に入ってみる。この商店街も同じようなものだ。八百屋のところがパチンコ屋だったり、ペットショップのところが花屋だったり。ところどころシャッターが閉まっているのは似ている。
 商店街を抜けると、住宅地だ。小さな建て売り住宅が何軒か並んでいる。そのうちの一軒に目が止まった。ウチとよく似ている。
 私の自宅も建て売りだ。同じメーカーの住宅と思われる。規格品だから、よく似ているのだろう。近寄って見る。うり二つ、というより全く同じ住宅だ。ドアの色、郵便受けの形状、カーテンの色。もの干しに干してある洗濯物も私が休日に来ているTシャツとそっくりだ。
 駐車場に軽自動車が駐車してあるが、S自動車のTだ。私の車と同じだ。色も白。ナンバープレートを見る。同じだ。これは私の車だ。そして確信した。これは私の家だ。
 I駅発八時ちょうどの電車に乗る。会社は八駅向こうのA駅が最寄りの駅だ。D駅を過ぎたあたりで、電車がすれ違った。電車に乗っていて上下線の電車がすれ違うくらい、普段は気にも留めない。オレが乗っているのは下り電車だ。すれ違った上り電車が妙に気になった。あの電車にオレが乗っている?
 Cを電車が出た。ふとB駅で降りたくなった。毎日通過はするがBで降りたことはなかった。会社、会社は休めばいい。
 B駅で降りた。よく似た駅前だ。商店街を抜けて、住宅地に行くとオレの家とそっくりな家があった。 
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
« 阪神はハムよ... とつぜん対談... »
 
コメント
 
 
 
エアポケット (まろ)
2012-05-18 16:21:16
いいですねえ、コレは!
荒唐無稽な話もいいですが、ありふれた日常の中にふと生まれる「エアポケット」のような話が僕は好きです。
最初はいつもの日記かと思って「え、雫石さん、会社休んじゃったの?」などと驚いたりしました。(笑)
謹厳実直で判で押したような通勤ルートを行き来するだけのサラリーマンが、ある日、故のない衝動で初めて途中駅に降り立ったことから、意外なドラマが幕を開ける・・・
などという展開にはワクワクしてしまいます。「非日常」は日常のすぐ隣にもある筈ですし、ありふれた日常の中にある「裂け目」のようなものが描けたら、とても面白いと思うのですが・・・またまた余計なお世話でした。
 
 
 
まろさん (雫石)
2012-05-18 18:58:13
毎日、電車で通勤していると、ふと、あまり降りたことのない駅で降りてみたいと、思うことがあります。
でも、会社に行かなくてはならないので、結局は降りません。
日常の中の、非日常を書いてみたくて、こんなショートショートを書きました。
 
 
 
いいですねー (海野久実)
2012-05-18 20:46:50
ほんと、タイトルからすると日記のようですね。
「雫石鉄也ショートショート劇場」カテゴリなので、そのつもりで読んだのですが、ドギュメントだと思って最後まで読んだ方が楽しめたかもしれませんね。
また、駅名も実際にある駅名だと、よりリアリティーが出たかもしれません。

ところで「私」と「オレ」の関係ですが。
「私」の住んでいる家と全く同じ家が会社の最寄り駅(I駅)の一つ手前にあるんですよね。
そのI駅から「オレ」が電車に乗って、「私」の家があるA駅の一つ手前のB駅で降りて、同じ家を見つけるんですね。
そうするとそれは「私」の家ではなくまた別の主人公と同じ人物が住んでいるという事になりますね。
それは仮に「わし」としましょう。
その「わし」もある日、会社の最寄り駅より一つ手前の駅で降りて、同じ家を見つけるそこに住んでいるのは「おいら」なんでしょうか(笑)
これはもうどんどん増えるばかりですね。
この続きがあるとして、「私」と「オレ」の二人だけが主人公で、いつの間にか入れ替わっているなんていうスケールの小さい話ではなくてもっと広がって行きそうな感じがしますね。
全ての駅が同じ街になってしまう?
筒井さんの「模倣空間」をふと思い出しました。
 
 
 
海野久実さん (雫石鉄也)
2012-05-19 03:59:27
私は、ドキュメントだなんて、まったく意識しないで書きました。なるほど、そういう手がありましたか。
これ、架空の作りモノとしましたので、あえて、具体的な名称を使わず、一人称で書いたしだいです。
日記と思わせておいて、あれ、なんかおかしいな、と読者に思わせておいて、すとんと落とすというやり方も面白いかも知れませんね。
これ、パラレルワールドものと考えましたので、「私」と「オレ」は同一人物のつもりです。住んでる世界が違うんです。
 
コメントを投稿する
 
現在、コメントを受け取らないよう設定されております。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。