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岩が落ちた

「あら、割れてるわ」
 これから夫婦で食事に行くところだ。妻が財布やスマホ、ハンカチなどをハンドバックに入れている途中にコンパクトを見た。確かに鏡が割れている。
「どうしたのかしら。べつにどこかにぶつけたわけでもないのに」
「お前があんまりべっぴんやから、鏡がびっくりして割れたんやないか」
 妻に冗談をいうのはこれが最後かもしれない。
「ちょっと待って。別のコンパクト持ってくわ」
「早くしろよ、レストランの予約時間に間に合わないぞ」
「ちょっとぐらい遅れてもいいわよ。あら、これも鏡が割れてるわ」
「行くぞ」
「二つも鏡が割れてるなんて、ゲンが悪いわ。なんか行く気がしない」
 結局、レストランでのお食事は中止。二人で店屋物を取って夕食をすませた。
 私は出前のカツ丼を食べた後、風呂に入る。
「おおい。洗面所の鏡が割れてるぞ」
「そう、知らないわ」
 湯船から出てヒゲを剃ろうした時、風呂場の鏡も割れている。鏡の下半分が割れて落ち、顔の上しかうつらない。これじゃヒゲを剃れない。
「風呂場の鏡も割れてるぞ。ヒゲがそれないじゃないか」
「そんなん私のせいじゃないわ。それよりたいへん、鏡台の鏡も割れてるわ」
 もしやと思って、玄関へ行った。姿見の大きな鏡にひびが入っている。ガレージに車を見に行く。フェンダーミラー二枚。車室内のバックミラー。みんな割れている。
昨日はこんなことはなかった。ふと気がつくと家中の鏡が割れていたということだ。
「家中の鏡が割れているじゃないか」
「なぜ私を責めるのよ」
「女のお前の方が鏡を見ることが多いじゃないか」
「昨日の晩、車で酒屋にウィスキーを買いに行ったでしょう。ミラーはどうだったのよ」
「ミラーが割れた車を運転できるか。バカ」
「バカとはなによ」
妻は怒って寝室に行った。
 落ちそうで落ちない岩というのがある。岩場で微妙なバランスで崖の端に立っている岩。大昔から立っているから、それなりに安定していて落ちないのだろう。ところが長年の風雪にさらされて、支点となっているところが侵食され、ギリギリのバランスで立っている岩もあるだろう。そんな岩なら、息のひと吹き、指のひと押しでバランスを崩して岩は落ちる。
 私たちの夫婦はそういう状態だ。妻の嫉妬心と私の不注意が重なって、夫婦の支点を少しづつ侵食していった。そして岩は落ちた。
「待って。私もいっしょに出るわ」
 会社へ出かけようとすると、妻が後ろから声をかけた。お出かけの服装をして肩にハンドバックを下げ、手に旅行カバンを持っている。
「お前、どうしたんだ」
「実家へ帰るわ。こんなお化粧もできない家には居りたくないわ」
「俺はどうしたらいいんだ」
「好きにしたら」
 そういうと妻はさっさと出て行った。
 ピンポーン。ピンポーン。二度チャイムを鳴らす。おかしいなあ。あいつ、どうしたんだ。
 あ、そうか。妻は実家に帰っているんだ。昼間仕事をしている時は、妻のことは意識に無かった。
自分で鍵を開けて入る。電灯がひとつも点いていない家の中は暗い。壁のスイッチを入れる。灯りが点いた。だれもいない。
 まいったな。夕食を食べていない。駅前に串カツ屋ができた。あそこにでも行ってみよう。
 もう妻は帰ってこないだろう。確かに部下の女の子になんどか食事をおごったこともある。男女の関係になったことはない。
 女は夫が家で夕食を食べないときは、取引先との夕食か、会社の女の子かは、確実に見抜くものだ。
 少しづつバランスを崩していた岩が、今朝、落ちたというわけだ。その衝撃で鏡が割れたのだろうか。

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