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とつぜんSFノート 第82回

「ゼネプロうっとうしいな」その小生のひとことが、すべてのはじまりであった。そのひとことで、その後の2年間、100人を超える人間が関西のSFファンダムを右往左往し、2年後の「その日」1000人を超える人間が大阪は吹田に参集したのである。
 1984年8月のある夜、小生と星群のYS、それにSF同人誌「S&F」主宰者の山根啓史の3人が、大阪は梅田の居酒屋「松屋」で飲んでいた。この3人、その年の8月27日から北海道で開催される第23回日本SF大会EZOCON2(北海道でSF大会が開かれるのは2回目)に参加する予定であった。山根は当時近畿日本ツーリストでアルバイトしていた。彼が北海道までの飛行機の切符を手配してくれたので、それを受け取るために松屋で会ってたのだ。だから、小生もYSも山根も、その数秒前は。2年後に「あれ」をするとは夢にも思わなかったのである。「あれ」第25回日本SF大会DAICON5である。
 ゼネプロ、SFショップゼネラル・プロダクツ。このゼネプロの中心人物岡田斗司夫、武田康広たちは、それより前年1981年DAICON3、1983年DAICON4を開催、成功をおさめている。ちなみに「シン・ゴジラ」の総監督庵野秀明もこの連中の一味だ。
 小生はこのゼネプロ一味に良い感情は持っていなかった。なによりDAICON=ゼネプロという風潮が気に食わなかった。1964年のDAICON1の実行委員長は筒井康隆氏、1971年のDAICON2の実行委員長は、小生が尊敬するSFファンの1人星群の会創立者高橋正則氏。DAICONはゼネプロの連中だけのものではないのだ。
「そうですね」山根が賛同した。
「大阪でSF大会やろやないか」
「DAICON5ということですね」山根が聞いた。
「そや」
 もう一度いう。小生の頭の中にも、いや、だれの頭の中にも、大阪で5回目のSF大会をやる。という構想は、小生たちが松屋に入って乾杯するまではカケラもなかったのである。
「本気でやるんやったら、北海道で立候補せなあかんな」YSがいった。
 日本SF大会を誘致実行するには、少なくとも2年前にはSF大会中に行われる日本SFファングループ連合会議に出席して、大会立候補を宣言しなくてはならない。その会議で賛成を得られれば、日本SF大会を開催できる。この翌年、1985年は新潟で行われることが決まっていた。だから1986年に大阪で日本SF大会開催を立候補するわけである。2年前だから規約にはそっている。
「北海道のファングループ連合会議でDAICON5立候補しますよ。いいんですね」山根が聞いた。
「ええ。やろ」小生が答えた。
 こうして3人は、大きな企てをいだいて、北海道への機上の人となったのである。
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