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とつぜんコラム №180 日本人の責任者

 小生は民間企業のサラリーマンである。お役所勤めの経験はない。サラリーマンであるからして会社なる組織に属して仕事をしている。そんな小生は長い会社員生活のほとんどを、購買仕入れという仕事にたずさわってきた。会社の金でモノを買う仕事である。会社の金で買物をするのであるから、いくら金を使ってもいいということはない。それなりの金を使うにはそれなりの立場の人の決済がいる。
 いち担当者である小生の判断で使える金もある。ある程度の金額になれば課長決裁、それ以上は部長決済のハンコが要る。さらに大きな買物となると社長の判断をあおがねばならない。小生の独断で億の買物をすることは絶対にない。こんなことは民間企業では常識である。ところが、かような常識が通用しない組織があるらしい。
 東京都という組織がそうらしい。なんでも2020年のオリンピック・パラリンピックの予算が当初の構想をはるかに超して、膨大なものになっている。さすがにこれではダメだということで、小池都知事は見直しの検討を指示した。ボート会場などは当初予算の7倍もの予算に膨れ上がっている。IOCに届けているいから、いまさら見直しだといわれても。と、森組織委員会会長は渋っているが、ここは小池都知事の見解どおり見なすのが正解だろう。
 莫大な費用を使って、かような施設を造って、オリンピックが終わったあとはどうするつもりだ。無用の長物にならないとだれが保証しよう。2020年の東京オリンピック・パラリンピック全体で3兆円もの金がかかるそうだ。その金の一部を割けば東京都内の鉄道の駅全駅に、転落防止用の昇降式防護柵が設置できるのではないか。
 そもそもなぜオリンピックが、こんな膨大な予算になったのか。各セクション、各施設、各計画、各プロジェクトで企画立案設計して予算を計上。そこで予算書を見て決済する人はいなかったのか。計画全体を俯瞰してみる人はいなかったのか。ここは予算が不足している。だったらこちらの予算を削って補填しよう。といった調整を行う人はいなかったのか。
 小生が社長決済も部長決済も、課長決裁すらうけずに億の買物をするがごときことをしていたのだろう。だいたいが最終判断を行うべき「社長」がいたのだろうか。
 ことはオリンピックだけではない。例の豊洲への中央市場移転問題もそうだ。この計画もどうやら「社長」不在で進められたらしい。結局、地下の盛り土なしで、空洞の上に市場の建屋を建設することを承認したのは誰か判らない。当時の石原都知事は「自分は被害者」「オレも怒っている」などと卑怯千万なことをいっているが、最終決済の書類には自分のハンコが押されているのではないのか。それともろくに吟味もせずにハンコを押したのか。確かに都知事ともなると決済を要する書類は山ほどあろう。いちいち精査できないのは理解できる。しかし、精査すべき書類かハンだけつけばいい書類か判断するのも知事とか社長とかいう立場の人の能力、腕のみせどころだろう。
 日本人の得意技に突貫工事がある。とても間に合いそうにない工事を、大勢がよってこって、一丸となって不眠不休で、いきおいと間のもんで、ワーと一気にやって間に合わせてしまう。で、そのあと功労者はだれかというと誰もいない。で、むりやり一人を壇上に上げてインタビューすると、「いやあ私なんか。みんなの力です。みんながエライんです」ヒーローはいないわけだ。
 ヒーローはいない代わりに戦犯もいない。正反対の結果が出て、大失敗すると誰が失敗の元凶か判らないわけだ。
 小生が気になる言葉がある。大勢でなにかを行う時、発案者が「では、○○を始めようと思います」この「思います」が気になる。なぜ「○○を始めます」といい切らないのか。これは「私は○○を始めようと思います。つきましては、皆さんのご賛同を得たいのです。いいですか、いいですか、では、始めます」と、いう心理があるのだろう。もし○○が失敗しても、「私一人の責任ではありません。皆さんも賛同なすったでしょう。共同責任です」
 日本人がなにかやる時、責任者が誰か判らないことが多いのだ。人生幸朗師匠じゃありませんが「責任者」出て来いである。
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