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3月11日(水) 入学願書の提出は生徒本人がやろう

 入学願書を担当の教員が大学に提出するのを忘れて、高校生が志望する大学の入試を受験できない事件がある。高校が大学に事情を話しても、特例は認められないとして、当該生徒の受験は認められなかった。生徒には大いに同情するが、大学側の措置も一見非情に見えるが、大量の受験生を扱う大学としては伴止むを得ない措置ではあったと理解はできる。
 高校は、ただ「申しわけありません」と謝罪するしかできないだろう。もちろん、その教員に対しては厳重な処分を下す必要がある。かようなうかつな人物は、教員という将来ある子供たちの未来に関わる仕事には、不向きであるとの判断の元、別の職業を選択するように、校長ならびに教育委員会は指導すべきだと思う。
 毎年この季節にはこのニュースに接するが、いつも思うことがある。入学願書の提出はなぜ高校が行うのか。本人が提出してはいけないのか。繁多な事務的な処理は学校が行うとして、最後の一番大切な入学願書の提出という仕事は生徒本人が行えばいい。もし忘れたら自己責任だ。こういう大切な仕事を生徒本人にさせることは、それはそれで貴重な教育の機会になる。いまのように学校が生徒に代わって提出するのならば、うかつな先生に当たれば、不運とあきらめるしかない。入学願書の提出は生徒本人がやろう。
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20世紀少年


浦沢直樹      小学館  
 全24巻。長大な漫画である。この長大な漫画は何を描いているかを、ひと言でいうこと、「け~んじくん、あ~そびましょ」ということ。これだけではレビューにならない。   1970年。少年たちは草むらに「ひみつきち」を作っていた。そこで「よげんの書」なるものを書いて遊んでいた。 
 それから月日が流れ、20世紀の世紀末、「ともだち」なる謎の人物が出現、救世主として人々に崇拝されていた。ともだちを教祖とする教団は「友民党」なる政党を結成して、政権与党となり、日本を牛耳り世界征服を企む。 
 謎の疫病が蔓延し、東京に巨大ロボットが出現。1970年、草むらで少年たちが書いた「よげんの書」の世界滅亡のシナリオが現実となり、世界各地で多くの人が死んで行く。この災厄が「ともだち」の仕業であることを見抜いているのは、あの草むらの少年たちだけ。 
 大人になった少年たちは、レジスタンスを結成して「ともだち」に立ち向かう。そしてもう一人、単身「ともだち」に立ち向かう少女がいた。草むら少年のリーダーけんじの姪で「聖母」の娘カンナ。物語の前半はけんじが、後半はカンナが主人公を務める。      1970年から1996年の20世紀と2014年の21世紀、二つの世紀を行き来しながら物語は進む。そして、20世紀を象徴するイベントとして、1970年「人類の進歩と調和」をテーマとする大阪万博が物語に大きく関わる。21世紀2015年には「ともだち」は東京で万博を開催する。  

   

 前半では「ともだち」の正体がなかなかあかされない。草むら少年の一人であることは間違いない。ヒントをいえば、その正体は顔に書いてある。すべてはこの少年の「孤独」から始まった。だれかにかまってもらいたい。遊びたい。20世紀末から21世紀にかけての壮大な人類滅亡劇は、少年の「遊び」であった。そして「遊び」は創造主の手を離れて暴走する。 映画のレビューでも書いたがオウム真理教を思い浮かべるが、「ともだち」は麻原彰晃ほど邪悪ではない。無邪気である。なんせやっていることが「遊び」なのだから。ゆえに無邪気なだけに恐い。不気味だ。   

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