明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(128) 政府・東電・安全委のドタバタ劇をどう読み解くのか

2011年05月27日 17時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110527 17:30)

福島原発事故の初期対応をめぐって、うんざりするような論議が繰り返されて
います。海水注入に対して、斑目原子力安全委員長が、臨界の可能性があると
言ったとか、言わなかったとか、それで注水が中断されたとか、されないとか、
その場合、管首相に責任があったのか、なかったのかなどです。

このやりとりが、うんざりするのは、実は今につながる情報がないからです。
今、必要なこと、原発はどうなっているのか、事態はいかに推移しているのか、
そして私たちは今、どのような姿勢で福島原発に対応しなければならないのか、
肝心な内容がまったく出てこない。だから聴いているのも嫌になってくる。

しかしそんなときに思いだすのが、自民党の往年の歴代首相、とくに大平正芳
氏や、竹下登氏の国会演説でした。とくに大平氏は「えー、」とか「うー」を連発する
ばかりで何を言っているのかよく分からなかった。鈍重な印象だけが残って、野党
側が度々、言い逃れられてしまっていた。実はこれ、「戦略的愚鈍」だったのです。

実は今も同じようなことが起こっているのではないでしょうか。意図的にせよ、
非意図的にせよ、海水注入中断問題?などが騒がれる中で、他のもっと大事な
ことから論点がずらされている。政府や東電に本当に問いただすべきことが
あいまいになり、私たちの安全に関する論議が深まっていかない。


この責任の一端はマスコミの報道姿勢にあります。そもそもほとんどの大手
マスコミは、事故当初、政府の虚偽の発表をまるで広報のように報道し続けた
わけです。進行する危機の実態を明らかにした大手マスコミは一つもなかった。
端的に言えば、政府の流すガセネタを報道し続けた。

今、大手マスコミに問われるのは、この報道姿勢の自己検証なのではないで
しょうか。意図的だったのか、非意図的だったは分かりませんが、政府の偽の
情報に踊らされ続けてきたことを、真剣にとらえ返すべきです。そうでなければ、
今も、未来もまた、虚偽情報をうのみのままに流してしまうことになるからです。


では大事なこととは何か。最も重要なのは、1号機から3号機まで、事故初期に
メルトダウンしていた事実を、政府はどうして発表しなかったのかです。
これは二つの場合分けによって検証される必要がある。まず第一には、枝野
長官などが繰り返している「知らなかった」説です。

ようするに何が起こっているのか、さっぱりつかめなかったのだという。だから
自分たちは、情報隠しをしたのではない。ウソをついたのではないと言いたい
わけですが、それならそれで政府は重大なミスを犯したことを認めたことになり
ます。これは事故に対する対応能力がゼロであったことの自己暴露です。


この点で、注目すべき記事が朝日新聞に出ています。
「炉心溶融「震災数日後には確信」米NRC事務局」という記事です。
記事の中で、米NRCは次のように述べています。

「東日本大震災が発生した数日後には、そう(炉心溶解を)確信していた」
「(当時観測されていた)高いレベルの放射線は、かなり深刻な燃料損傷が
起きない限りあり得ないからだ」
(原発から80キロ圏内の米国人に対する避難勧告を出していることに
ついては)「(炉心溶融など)深刻な事態が起きていることがぐにわかったことが、
そう勧告した理由の一つだった」。

地震数日後に、米NRCはこのような認識を持っており、だからすぐに80キロ圏外
避難指示を出した。端的に言って、日本政府はどうしてこの当たり前の認識に
立てなかったのでしょうか。またなぜ、このことを米NRCから聞かなかったの
でしょうか。どうして米NRCの指示の根拠を調べなかったのでしょうか。

もし本当に知らなかった、聞くこともしなかったというのならば、日本政府が事故
への対応能力がまったくないこと、それこそ「素人以下」であることが明らかです。
それは国民と住民の生命と財産を守るべき義務を負っている政府にとって
致命的欠陥であることは明らかです。

枝野長官も、管首相も、「知らなかった」と言っているわけですから、何より
それが追求されなければなりません。これだけで内閣総辞職をし、民主党が
下野するに足る十分な事実なのです。しかし大手マスコミも、野党の自民党も
そこだけは責めない。その点では党内反対派の小沢氏も同様です。


第二に、そうでないとするならば、政府はこの事実をひた隠しにしていたことに
なります。僕はこちらの方が、かなり可能性が高く、かつ部分的に本当に
能力が低くて、知らないこともあったぐらいに思っていますが、ともあれその
場合、政府は国民と住民に対する重大な背信行為を働いたいことになります。

核心問題は、炉心がメルトダウンし、しかも格納容器までが損傷することによって、
非常に深刻な放射能漏れが起こっていることを、何ら私たちに伝えなかったこと
です。チェルノブイリのような爆発の危険性があることも伝えなかった。たくさんの
放射能が漏れているのに、「危険です、防いでください」とも言わなかった。 

今、一番大事なのは、この点の責任問題です。海水の注水を中断したかどうか、
再臨界しうると判断したのかどうかなど、この事実の前にはあまりに瑣末なことで
しかない。それは判断の問題であって、ある意味でミスもありうることだからです。
しかもその前提すらくるくる覆り、それでマスコミも踊らされている・・・。

それよりも、メルトダウンという重大な事実をまったくつかめず、米NRCの80キロ
圏外退避勧告の根拠も聞こうとせず、ただただ、無為に住民を危険にさらし続け
たのか、あるいは事実を知りながらそれを伏せ、避難すべき人にそれを
知らせなかったのか。そのどちらか一方の可能性が濃厚です。

そしてどちらであっても重大問題です。どちらの場合も、そのことを的確に見抜け
ず、結局、政府と等しく住民に最も重要な情報を伝えられなかったマスコミの
責任問題も浮上してきます。その点では「野党」の自民党も何ら変わらない。
問題はこの点を事故当初に指摘し、避難を主張したか否かなのですから。


さらにここから問われるべき第三の点が浮上します。端的に、現在の政府情報が
信用できるのかどうかという点です。第一の場合、つまり本当にメルトダウンを
知らなかったのだとしたら、現状もまたほとんど何もつかめていないことが濃厚
です。つまり能力的に信用するに値しない。

第二の場合、知っていたのに隠していたのだとしたら、当然にも現在もまた重大な
情報を隠している可能性が濃厚にあるわけです。そして重要なのはどちらであって
も、私たちは今、政府によって、非常に危険な状態に立たされている可能性が
高いということです。事故初期に大変な危険性が告げられなかったように。


ここでも僕は第二の可能性の方が強いと思っています。その場合、隠されている
ことは何でしょうか。一つには、現在の原発の状態が、安定化などにはほど遠く、
まだまだ非常に危険な状態におかれているということです。破局的な爆発への
発展の可能性はまだまだありうる。そうとしか考えられません。

第二に、繰り返し述べているように、すでに大気中に飛び足した放射能汚染の
深刻な実態に、かなりのマスクがされている可能性が高いということです。とくに
ストロンチウムや、プルトニウムなどが、意図的に計測されてない可能性が高い。
少なくとも、きちんとした計測がほとんど行われていないのは事実です。


その意味で、現在の政府・東電・安全委のドタバタ劇を読み解くと出てくるのは、
現在の私たちの危機です。真実がまったく告げられていない。政府自ら解析
できないのか、事実が隠されているのか、そのどっちかによってです。
そのことをマスコミが覆い隠す形での、ドタバタ報道が続いています。

うんざりする喧騒につられて、報道から目をそらしてしまわずに、
情報解析を続けていこうと思います・・・。


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炉心溶融「震災数日後には確信」 米NRC事務局長

2011年5月27日10時17分 朝日新聞
 米原子力規制委員会(NRC)のボーチャード事務局長は26日、東京電力福島
第一原子力発電所で、核燃料の大部分が原子炉圧力容器の底に落ちる炉心
溶融が起きていた可能性について「東日本大震災が発生した数日後には、
そう確信していた」と述べた。

 日米交流団体「ジャパン・ソサエティー」がニューヨークで開いた講演会のあとの
会見で述べた。根拠について「(当時観測されていた)高いレベルの放射線は、
かなり深刻な燃料損傷が起きない限りあり得ないからだ」と述べた。

 NRCは大震災発生から5日後、同原発から50マイル(80キロ)圏内の米国人に
対する避難勧告を出しているが、「(炉心溶融など)深刻な事態が起きていることが
すぐにわかったことが、そう勧告した理由の一つだった」と話した。

 炉心溶融の可能性は専門家がかなり早い時期から指摘していたが、東京電力
が同原発1~3号機について正式に認めたのは大震災発生から約2カ月後
だった。(ニューヨーク=勝田敏彦)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105270114.html

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福島第一の海水注入中断せず 東電所長、本社に無断

2011年5月27日0時16分 朝日新聞
 東京電力福島第一原発1号機の海水注入問題で、東電は26日、一時中断
したと説明してきた海水注入を、実際には中断せずに継続していたと発表した。
東電本社と発電所の協議では、海水注入をめぐる検討が官邸で続いていたこと
から中断を決めたが、福島第一原発の吉田昌郎所長の判断で継続していた。
国会でも追及された問題が根底から百八十度くつがえされた。

 東電によると、3月12日午後2時53分に真水の注入が停止したため、午後
7時4分から海水の注入を始めた。しかし、午後7時25分、官邸にいた東電の
武黒一郎フェローが「首相の了解が得られていない。議論が行われている」との
状況判断を本社に連絡。本社と発電所がテレビ会議で協議し、注入の中断を
決めた。

 海水注入をめぐって政府と東電は21日、東電が自主的に中断していたとの
見解を公表。首相が注入を指示した後の午後8時20分に再開したと説明して
いた。午後7時4分からの注入は、東電から経済産業省原子力安全・保安院の
担当者に口頭連絡されたものの官邸に伝わらなかったとされた。

 だが、こうした経緯は本社の社員や社内に残るメモなどから判断し、吉田所長
を含め発電所側に確認していなかった。今月23日の衆院復興特別委員会で、
自民党の谷垣禎一総裁が、菅首相の責任を追及する事態に発展。東電が24、
25日に吉田所長や発電所の社員らから事情を聴いたところ、中断していな
かった事実が判明した。

 吉田所長は、東電の調査に対して「事故の進展を防止するためには、原子
炉への注水の継続が何よりも重要と判断して継続した」と説明。新聞や国会で
問題になっているうえ、国際原子力機関(IAEA)の調査団が来日したこともあり、
事実を打ち明ける決意をしたと話しているという。

 事故時の注水は発電所長の判断で基本的にできることになっていた。東電は
当日も保安院に対して午後8時20分に海水注入開始とファクスで通報。今月
23日に法に基づき提出した事故分析の報告書にも同様に記していた。

 吉田所長の注入継続の判断について、原子力・立地本部長の武藤栄副社長は
「現場の安全を考える上で技術的には妥当な判断」と評価した。だが、その後、
長期にわたって事後の報告をしていなかったことから、東電は吉田所長の処分
を検討している。
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105260339.html
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明日に向けて(127) 山羊と原爆(現代のことば・・・岡真理さん)

2011年05月27日 11時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110528 11:00)

友人の京都大学の岡真理さんが、京都新聞の「現代のことば」という
コラム欄に「山羊と原爆」と題した文章を投稿されました。お父さまの
ことを書いておられます。(掲載は5月16日夕刊)

読んでいて、心が震えました。
「山羊と原爆」というタイトルが、心に染み込んできました。
悲しい歴史が書かれているのですが、しかし悲しみばかりではない。
それを一つの話に練り上げている文章が、あまりに美しい。

今、まさに、このときに、文学が必要なのだと、なぜか、
深くそう思わされてしまいました・・・・・。

まずはともあれ、以下の文章をお読みください。

*************************

山羊と原爆

1928(昭和3年)、富山のさる旧家に男児が誕生した。
父親は帝国陸軍の将校。待望の長男だった。だが、
赤ん坊は衰弱しており、生き永らえそうに見えなかった。
父親は下男に赤ん坊を埋めるよう命じた。
下男は息のある赤ん坊を埋めるに忍びなく、
生きている間だけでもと、山羊の乳をやった。
この乳が赤ん坊の命をつないだ。

瀕死状態で生まれたのが嘘のように腕白な少年に成長した
長男は、父親と同じ道を歩むべく、広島の陸軍幼年学校に
入学した。皇国の大義を純粋に信じていた。
1945(昭和20)年8月、幼年学校を卒業して、どこかの街で
任官を待っていたとき、日本降伏の噂が伝わった。
彼は同志とともに、国民に徹底抗戦を呼びかけるビラを刷り、
飛行機で空から撤くことを画策するが、上官に見つかって
営倉に入れられる。営倉から出されたとき、部隊はすでに
解散していた。

除隊後、彼が向かったのは郷里ではなく広島だった。
彼にとって第二の故郷であるその街が新型爆弾で壊滅したと
聞いたからだ。当時の市内は民間人立ち入り禁止だったが、
軍関係者であった彼が街に入るのは難しくはなかった。
変わり果てた街を、彼は何日も彷徨い続けたという。

敗戦後、「アジアの解放」が帝国による侵略に過ぎなかった
ことを知り、彼は共産主義者となって、レッドパージの時代、
地下生活を送る。やがて業界紙の記者となり、結婚したのは
30を過ぎてからだった。子どもも生まれ、幸せな結婚生活も
束の間、1963年、彼は突然、肺癌を発症、余命半年と宣告され、
その3カ月後に亡くなった。2歳半の娘を遺して。35歳だった。
これが、私が父について知るすべてである。

自分がなぜ癌になったのかも、父は知らなかっただろう。
当時はまだ「入市被爆」などという言葉も存在しなかった。
だが、あの夏、17歳の彼は、残留放射能の中をたしかに
長時間、彷徨ったのだ。母校は爆心地のすぐ近くだった。
学校にいた1学年下の後輩たちはみな、原爆で亡くなったと
いう。廃墟となった街を彷徨いながら彼は、わずかな偶然で
自分が免れた運命がいかなるものであったのかを焦土の中で
幻視していたのだと思う。

このとき、彼の体内で時限爆弾が仕掛けられた(放射能によ
る晩発性障害、すなわち「ただちに健康に害があるわけではな
い」というのは、こういうことだ)。あのとき広島に行きさえ
しなければ、父が癌で死ぬこともなかった。しかし、「もし」
と言うなら、小さな命を隣れんだ下男が赤ん坊に山羊の乳を含
ませてくれなかったら、彼の人生そのものがなかったはずだ。

父の35年間という人生は、一人の心根の優しい人間と山羊の乳
が与えてくれた贈り物だ。1年早く生まれていれば、南洋に送
られ、戦死していただろう。1年遅ければ、原爆で死んでいた。
1年前でも後でもなく、あの年に父が生まれ、そして山羊の乳
と、放射能の晩発性障害の発症までの時差のおかげで、今、
私という人間が存在している。
(京都大教授・現代アラブ文学)


*****************

岡さんは、自転車を集めるプロジェクトに協力して下さり、おまけに
車の提供まで受けてくださったり、被災者の京都での受け入れのために
走りまわってくださるなど、色々なことをご一緒しています。

同時に、この時期に、パレスチナの朗読劇を監督さんとして実現して
下さいました。

その岡さんとは、もう長い間の友人ですが、お父さんの話は、この
投稿を読んではじめて知りました。


・・・僕の父も、広島に原爆が投下されたときに、香川県善通寺の基地から
陸軍の救援部隊として駆けつけたものの、呉でとどまって「入市」はしません
でした。父の部隊の偵察隊と、もともと、呉にいた海軍部隊が、市内に入って
いき、その方たちの中から、急性症状で亡くなった方や、入市被ばくされた
方がでました。

僕の父は重度の被ばくは、免れました。しかしどうでしょう。内部被ばくによる、
低線量被ばくはしていたのかもしれません。その父は、59歳で脳溢血で
他界しました。1980年。終戦から35年後のことでした。


僕の父は、岡さんのお父さまのように、共産主義者にはなりませんでした。
平和な日本社会の建設に情熱を燃やし、一会社員として猛烈に働きました。
働いて、働いて、脳溢血に倒れました。

一方、彼の妹と弟は、戦後すぐに共産党に参加し、非合法時代を含めて
活動しました。
とくに叔母は、戦時中に代理教員となって、教え子を少年航空兵に志願させて
しまったことを生涯にわたって悔い、「二度と戦場に教え子をおくらまじ」という
スローガンを掲げた戦後日教組運動を担いました。

のちに叔母の属していた日本共産党山口県委員会は、共産党中央から分裂して
「日本共産党(左派)」を名乗るようになりますが、彼女は山口県で計画された
豊北原発反対闘争を、「婦人部の闘士」として担い、多くの方々と一緒に原発
建設を中止に追い込みました。

その後、原発計画は、山口県上関(祝島)に移ったわけですが、叔母は豊北
原発を中止に追い込んだ地域の女性たちとともに、祝島の女性たちと深い絆を
作りだしていたようです。その叔母も1996年に他界しました。


・・・被ばくはあまりに悲しいことです。
1963年、あまりに若くして、岡さんのお父さまは亡くなられてしまわれた。

でも、コラムの中で、岡さんは原爆と山羊の乳の話を対比しておられます。
偶然と時差の中で、岡さん自身の命が灯されたことがそこに書き込まれている。

なんだか岡さんと一緒に、今を歩めていて良かったと深々と思いました。
そんな風に思う僕の姿を、どこかで岡さんのお父さまと、僕の親父や叔母が、
笑って見ているのではないかと、ふと思う、ひと時でした。

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