明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(94)福島のお母さんたちの思いを聞かせていただいて

2011年05月04日 17時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110504 17:00)

現在、京都精華大学のキャンパスと寮を使って、福島から避難してきた親子
向けのキャンプが行われています。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/440/97/N000/000/000/130379410079516310294_gogocamp2.jpg

すでに関西で新しい生活を始めている親子もいれば、このときだけ、福島を
離れて、キャンプに来た親子もいます。

実はその中に僕の古い友人も参加していました。それで昨日の午後に現場を
訪れてきました。素晴らしい試みだと思いました。
福島から、また宮城から来た子どもたちが、思いっきりはしゃぎまわっていた!
今日は市内近郊の山に登るとの話でした。
京大から福島の調査に赴いた滝澤さんたちも昨日、今日と参加しています。


そんな場で、昨日、子どもたちが山菜採りにでかけている合間を利用して、
4人のお母さんたちからお話を聞くことができましたので、以下、紹介します。

Aさん 
4月20日に、小学校高学年の娘さんを連れて、福島市から大阪のある街に避難。
新たな生活を始めている。

Bさん
福島市内在住。事故後、小学校高学年の男の子と3週間、沖縄に避難。仕事の関係で
福島に戻ったが、できるだけ福島滞在時間を減らすため、週末ごとに県外に
でかけるようにしている。

Cさん
福島市郊外の農村に在住。中学生と小学生の女の子のお子さんとキャンプに参加。

Dさん
福島市内在住。6歳の女の子とキャンプに参加。


-Aさんはどのような経緯で、大阪に移られたのですか?

大阪市内に友人がいて、避難をするなら関西がいいと考えていました。
福島からの避難者を京都府と滋賀県が受け入れていると聞いて、それぞれに
メールで問い合わせを行いましたが、滋賀県からはメールでは詳しい話が
分からないので、直接電話をくれという回答があり、京都府からは回答が
ありませんでした。

そんなとき、大阪府は罹災証明がなくても、受け入れてくれるという情報が
入り、連絡を入れると、確かに証明がなくても大丈夫だといいます。詳しい話は
現地でというので行ってみたら、あっという間に手続きを進めてくれて、
今の街を紹介してくれました。

罹災証明があれば府営住宅に入れますが、ない場合でも雇用促進住宅に
入れます。それで落ち着く先を見つけることが出来ました。


-子どもさんは、避難することをどう受け止められたのですか?

子どもには事故があって以降、外出時に被ばくへのそなえを徹底させていました。
帽子にマスクに手袋にと、厳重なかっこうをさせました。
折に触れて被ばくの怖さも教えました。

当時は寒かったのでまだ良かったのですが、だんだんあたたくなり、そぐわない
格好になってきました。
子どもは女の子なので、こんなの嫌だ。おしゃれがしたいと言いだしました。
それじゃあ、移ろうかという話になりました。

友だちと離れるのは嫌だと言っていましたが、テレビを見ていて
仕方がないとなりました。


-地震のときの様子はどうでしたか

Bさん
福島市では当日は15分に1回、余震が起こり、本当に大変でした。
雪が降り出したのに、大きく揺れるたびに私たちは外に飛びなさなくては
なりませんでした。まったく寝ることができませんでした。

Dさん
断水で10日間、水がでなくて、お風呂にも入れませんでした。
電気は来ていたのでインターネットは使えたので、それで情報を取りまく
りました。あのときネットを使えた人は、みんな必死に情報を集めていたと
思います。


-水はどうしたのですか

Aさん
給水車に並んでもらいました。放射能が降る中、立っていたのだと思います。

Bさん
そうそう。とくに私たちの地域は同じ福島市内でも、電気も止まってしまいました。
それで原発事故のことも何も知りませんでした。3号機の爆発があって、初めて
知ったのです。そのため放射能が来ているときに何時間も水を得るために外で
並んでしまいました。

Dさん
まるで市内は戦時中のような感じでした。
爆発した・・・。でも安心しろ・・・。と断片的な情報がラジオなどで流れていました。

Bさん
新聞は配られていたけれど、とても読む余裕がなかったですね。

Aさん
お米もすぐになくなってしまったし。

Dさん
私も買いにいったけど、翌日にはもうなかったですね。
水は給水に頼るしかなかったのだけれど、福島市内には井戸を使っている
家が多数あり、「この井戸を使ってください」と貼り紙をしてくれるところも
あって、そこに行きました。

このころ放射能対策が新聞などに書かれました。放射性物質が身体についたら
シャワーを浴びればよいと書かれていましたが、水がない私たちはどうしたら
いいのと思いました。

移動は車を使うようにと書かれていましたが、ガソリンがありませんでした。
カッパを着るようにと書いてありましたが、どこにも売っていません。
頭が爆発しそうでした。


-農村にいたCさんの場合はどうでしたか

放射能汚染がどれほどか分からなかったのですが、友人がガイガーカウンター
を持ってやってきてくれて、周辺を測ってみたら針が振れて、汚染を実感
しました。

それで役場に連絡をしてみましたが、国が100ミリシーベルトまで安心と言っている
ので、独自の対応はできないし、考えてないと言われてしまいました。
それでも風が強くなってきていて不安なので、学校に、風の強い日は外で
子どもを遊ばせないでと申し入れをしました。子どもに聞いたら、実際に
強い風の日は外にでてはいけないと言われたそうで、先生たちが対応してくれた
ことに少しホッとしました。

でも私の周りはいたって平和で、誰もが何事もなかったかのように暮しています。
土壌の汚染も誰も気にしていません。実際には針が振れるのに。

私は内部被ばくも気にしていますが、農村では、「これはうちのばあちゃんが作った
ホウレンソウだ」と言われていただいたりすると、断るわけにはいきません。
おすそ分けしていただく山菜なども気を使います。

後で子どもが、家で食べたかどうかと聞かれたりするのです。
子どもにどう答えればいいかと聞かれて、「大人だけで食べたと答えておいて」
と言いました。

私の場合、夫と意見があうので、まだいいのですが、小さい子を抱えたお嫁さん
が、1人だけで心配している場合が多いのではないかと胸を痛めています。

とにかく放射能に対しては、人による温度差が激しいです。
子どもも学校で大きな声で言えないと言っています。


-福島市に話をもどしますが、それ以後はどのような感じですか。

Dさん
長崎大学の山下俊一という教授が、福島県の「放射線健康リスク管理アド
バイザー」になり、講演など行ったのですが、放射線の影響はない、大丈夫だ、
マスクもする必要はない。布団を外に干して大丈夫と語り、多くの人が
大丈夫だと思ってしまって、何の対処もしてない人が多いのです。駅前でも
高い放射線が測定されているのに。

-京大の滝澤さんたちが新幹線で向かったときは、栃木県北部の那須塩原
あたりから数値があがったそうです。福島駅では毎時2.5マイクロシーベルトが
計測されたとか。

Bさん
それでも福島市は、政府が100ミリまでは大丈夫だと言っているからと何の
対応も取っていません。学校での対応も教育委員会に丸投げされ、教育
委員会は、学校長に丸投げしている感じで、そのため学校ごとに対応が
違っています。

とにかく放射能については、周りとの温度差が激しいです。私が周りに安全な水を
飲むことを進めると、まるであやしい宗教への勧誘を行っているかのように
受け取られてしまいます。
地域がバラバラになっていっていることを感じます。

私自身は当初、息子と一緒に沖縄に避難しました。でもお金が続きませんでした。
今回のことは突然の出費で、たくさん使ってしまいました。
子どもも福島で卒業したいといいます。スポーツや習い事もしていて、
やりたいことがたくさんあるのですね。

それで学校が始まる時に、福島に戻りました。そうしたら周りから、「鬱はもう
治ったのか」と言われてしまいました。
今は週末などを利用して、なるべく福島から離れる時間を稼ぐようにしています。
それで今回もキャンプに来ました。

Dさん
私たちが望むのは、今、起こっていることは、福島だけのことではないことに
他の地域の方たちが気づいてくださることです。

とくに周りから子どもたちが危ないという声をあげてくれると、悩んでいる
親たちはその分だけ楽です。福島の中ではとても声があげにくい状態に
なっています。

ぜひ20ミリシーベルトが許容値になっていることは、福島の子どもだけの
ことではない。日本全体の問題だと考えて、周りからも声をあげてください。
私たちもできる限りのことをします。

********************

聞き取りを終えて。

お母さんたちから話を聞いた後、宿舎に一緒に向かいました。京都精華
大学が留学生用の寮を提供してくれています。そこに子どもたちが9人
集まっていました。子どもだけを他のお母さんに託された方もいるとの
ことでした。

お世話をしているのは、このプロジェクトを立ち上げた若者たち。
おいしそうなハンバーグが、子どもたちと一緒になって焼かれ、やがてテーブルに
並べられ、賑やかな食事が始まりました。子どもたちの笑顔が印象的でした。


お母さんたちが口々に語っていたのは、山下俊一教授の話や、それに
基づいた福島市の広報などで、「安全」が繰り返し強調され、多くの人が
放射線被ばくへの身構えをしていない福島の現状の異様さでした。

これに疑問を挟むことができないような雰囲気が作られており、そのことで
あちこちで共同性が壊されているとのことでした。女性たちの1人は、
放射能は地域をズタズタにしてしまう。それが一番、残酷だと語っていました。

またその点では小佐古さんのような「権威」のある方が、子どもたちが危ないと
言ってくれたことで、少しは流れが変わっていいかもとも。残念ながら周りの
人たちは権威に弱いのだと話されていました。


ちなみにその山下教授のことを少し調べてみました。
彼は4月6日に、「日経メディカル」で次のように断言しています。

「福島第一原発の原子炉が今回の地震で損傷なく生き延び、日本の科学の粋
をもって緊急炉心停止が行われたのは不幸中の幸い。今後大爆発は起こら
ないだろうし、炉心の中のくすぶりを抑えるため、いま懸命な努力がなされている。
ただ、チェルノブイリの100分の1程度の放射性物質が環境中に放出されたと
推測されるため、今後長期的なモニタリングと健康影響調査が必要だろう。
今回は、過敏と思われるほど情報が公開されており、また、農産物の出荷
停止などの対策も講じられている。いまの日本人に放射性降下物の影響は
皆無に近く、起こり得ないことだ」。
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/hotnews/int/201104/519274.html

原子炉が損傷なく生き延びた?現実に続く放射能漏れのことを一体どう
考えておられるのでしょうか。

さらに政府はこの5日後の11日に、今回の事故がレベル7に相当することを
告白し、とくに原子力安全委員会は、大気中への放射性物質の放出だけで、
67万テラベクレルにあたることを明らかにしました。チェルノブイリ事故の
1割以上の放射能が出たというのです。

・・・安全委員会が、SPEEDIの情報を握りつぶし続けていたことなどを
考える時、これとてまだまだ疑わしい数値とみなさざるをえませんが、それでも
山下教授が、放射能汚染量を かなり低く見つもっていたこと、放射線の
「専門家」としては、あまりにずさんな状況把握をしていたことが、はからずも
明らかになってしまいました。

ただしこれは「放射能は怖くないキャンペーン」というよりは、「放射能は
ほとんど漏れてないキャンペーン」であり、その論拠が、政府の発表によって
大きく崩れてしまったわけです。この点について、山下教授は何か県民に
対して釈明をしたのでしょうか。

・・・福島県はこのことを、アドバイザーの山下教授に、ぜひ問いただして
欲しいものです。県の側にも、これほど大きな誤りをおかして平然としている
人物を、そもまま採用していることに責任があります。


私たちが考えなければならないのは、国がこのようにとても科学的な誠実さを
持いあわせているとは言えない人物を、アドバイザーとして福島に送り込み、
マスクもする必要はない、放射性降下物の影響は皆無に近いと、最低限の
放射線被ばくへのそなえさせ、やめさせてしまっている現実です。これでは
被ばくを促進しているようなものです。

原発に近い人々が、それでもさまざまな事情の中で避難できないのなら、
せめて可能な限りの被ばく対策をするべきなのに、それに逆行することを
この国は行っている。あまりに酷いです。


私たちは、子どもたちだけでなく、福島県民全体を救うことも、考えなければ
ならないと思います。そのために、「これを福島だけの問題と考えないで欲しい」
という、あるお母さんの声を、みなさんとシェアしていきたいです。










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明日に向けて(93) どうして放射線の害は子どもにより大きく出るのか

2011年05月04日 14時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110504 14:30)

福島県下の幼稚園、小中学校等々が、高い放射線が飛び交っているにも
かかわらず、開校されています。笑顔の子どもたちが被ばくしており、一刻も
早く助け出したいです。

こうしたことから子どもたちを守っていくために、ここで、どうして放射線の害は、
子どもにより大きく出るのか。子どもが受ける放射線量を、同じものを浴びた
大人の3倍から10倍と捉えるのはなぜかということをまとめておきたいと
思います。


まず確認したいのは、次の点です。細胞の放射線感受性には、①細胞が
未分化なものほど、②細胞分裂が盛んなものほど高いといえることです。

この内容を説明します。
私たちの生命は、精子と卵子が出会って受精卵ができることから始まります。
受精卵は次々と細胞分裂を経て増えていきますが、次第に細胞分化という
変化を起こします。分化とは、細胞がある役割を担うものに変化することです。

例えば、筋肉になる細胞は、その役割を果たすために、それに見合った機能や
形になっていく必要がある。こうして筋肉になることを、「筋肉の細胞に分化
した」と呼びます。

この場合、似たような臓器や組織は、ある一つの細胞から生まれてくることが
多い。このあるひと固まりの集団のもとになる細胞を「幹細胞」といいます。

例えば血液には、赤血球、白血球、血小板などがありますが、これらは同じ
幹細胞から生まれてくる。血を造る細胞ですので、これは造血幹細胞と
言われます。

幹細胞には二つの特徴があります。自己複製能力を持っていることと、異なる
細胞に分化する能力を持っていることです。このため幹細胞は、自分で自分を
複製しながら、一方で、さまざまな役割を持つ細胞にも分化していくのです。
このことで私たちには非常にたくさんの機能が備わっていくわけです。

ところがここが放射線によって回復不能なダメージを受けるとどうなるでしょうか。
例えば造血幹細胞では、造血作用が壊されて、血液のがんである白血病が
発症したり、造血幹細胞がつまっている骨髄のがんである、多発性骨髄種などが
発症します。

同じように、他の幹細胞がダメージを受けると、その細胞がつかさどっている
細胞分化に支障がでる。細胞分化がうまくいかず、多くの場合、その部分での
ガンなどが発症しやすくなります。

胎児の場合はもちろん、子どもの場合もまだまだ細胞分裂だけでなく、細胞
分化も激しく起こっており、それが「細胞が未分化」という意味になりますが、
そのため当然にも放射線の影響を受けやすいわけです。分化の元が
ダメージを受けてしまうからです。


一方、私たちの体内では細胞分裂が繰り返し起こっていますが、これも
より年齢が小さいほど盛んです。細胞分裂では、細胞の核の中にある染色体が
まず二倍になり、二つに分かれ、やがて細胞そのものが二つになっていくと
いう過程を経ます。

ところが放射線は染色体の中にあるDNAを傷つけてしまうのです。DNAが
そのままの状態で分裂が行われると、正しい分裂ができずに、間違った
分裂がおこり、細胞が死んでしまったり、ガン細胞に変わったりします。

このため細胞分裂が活発に行われているときほど、DNAの損傷のダメージは
大きくなります。

一方で細胞には、活発に分裂を繰り返していくものと、それほど分裂を
しないものがあります。例えば皮膚では基底細胞が、毛根では毛母細胞が、
腸では腺か(せんか)細胞が、骨髄では骨髄細胞が盛んに細胞分裂します。

また血管、肺、肝臓の細胞のようにゆっくり細胞分裂しているものや、神経
細胞のようにあまり分裂しないものもあります。そのため、神経細胞や筋肉
細胞に比べて初めにあげた細胞の方が、放射線に対する感受性が高くなります。

このように細胞によっても放射線の感受性は違いますが、いずれにせよ、
子どもは細胞分裂が活発であるため、大人より感受性が高く、放射線の
害を受けやすいことがポイントです。


ここから被ばく量について考える場合、同じ量でも子どもの方がよりダメージ
を受けることを考え、子どもの場合はより数値を大きく見積もることが必要です。
概ね3倍から10倍と考えられています。

放射線の感受性は、性差や個人差もあります。女性の方が感受性が高く、また
個人で感受性が高い人もいます。この点も考慮されなければなりません。
放射線の感受性は測ることが難しいので、ある一定の量の放射線により、平均
した値よりもより強いダメージを受ける人がいることにも配慮する必要があります。

ただし子どもの方が、感受性が高いからといって、大人が影響を受けないのでは
まったくありません。放射性ヨウ素の甲状腺への取り込みをおさえるための
ヨード剤の服用が、40歳以上では必要ないとされていることから、高齢者への
放射線への影響はあたかもないような誤解もありますが、そうではありません。

これまで述べてきたように、私たちが生きている限り、私たちの体内では
新しく血液が作られたり、活発な細胞分裂も行われているのであり、放射線による
ダメージは、当然、大人であっても受けるのです。
それらから放射線被ばくはできる限り避けるにこしたことはないことを
知る必要があります。


まとめます。
子どもは大人よりも、細胞分化も細胞分裂も活発に行っています。
だからこそ、放射線のダメージを大人より激しく受けてしまうのです。

福島の学校では、年間の被ばく許容量が20ミリシーベルトとされてしまって
いますが、3倍から10倍で見積もった場合、60ミリシーベルトから200ミリ
シーベルトの被ばくに該当します。

放射線に関連する仕事に従事する人々が、やむを得ないものとしてがまん
しなさいとされているのが年間50ミリシーベルトであり、しかも5年間の総計で
100ミリシーベルト以上浴びることは許されていません。

そもそも放射線管理区域は、3カ月で1.3ミリシーベルト以上の被ばくをする
地域のことを指しており、そこでは飲食も眠ることも禁止されています。
子どもを連れ込むことももちろんご法度です。

これらから20ミリシーベルトを許容値にするのは子どもに対する暴力で
あり、ただちに止めさせる必要があることは明らかです。
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明日に向けて(92)市民が自ら情報を解析し、発信することの意義

2011年05月04日 13時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110504 13:00)

毎日新聞京都支局の太田裕之記者が、僕が行っている情報発信を記事に
してくれました。丁寧な取材を経てのことです。記事の下段に僕のことが
出てきますが、「行政や専門家に任せず、個々の市民が主体的に情報を
収集・交換する動き」として紹介してくれています。

これを読んでいて、自分が問われて語ったことであるにもかかわらず、こうして
情報発信をしていることの意義を、再度、確認するものがありました。


これまでも述べてきたように、僕がこのような情報発信を行っているのは、
七沢潔さんが書いた『原発事故を問う チェルノブイリからもんじゅへ』(岩波
新書)と高木仁三郎さんの『市民科学者として生きる』『原発事故はなぜ
くりかえすのか』(岩波新書)などの影響です。

とくに七沢さんは、旧ソ連と日本は似ている、チェルノブイリともんじゅに同じ
匂いがすると語ったのですが、それが強烈な印象として僕の脳裏に刻み込まれた。
深刻な事故が起こった時に、この国の電力会社や政府官僚たちは、まず
自己保身を考え、情報を隠してしまう。そのため深刻な被ばくが起こりうる。

だからそのときがきたら、事故が近ければすぐに逃げ出さなければならないし、
遠ければ、「逃げてください」というメッセージを発しなければいけないと
僕は考えてきました。


実際に福島原発事故がおこったとき、似たような考えを持った人々が、たくさん
関西に逃げてきました。同時に、情報解析と発信が始まった。

しかし今回は、幾つもの予想しえなかった壁が立ちふさがりました。
一つは大地震に大津波が重なり、膨大な数の人が被災してしまったことです。
その上に原発大災害が重なった。

人々を助けなければならない。
そのために救援隊が続々と入って行く。
しかし原発は、1号機が水素爆発し、3号機が、もっと深刻で激しい爆発をした。
大量の放射能が漏れ出しました。

救助隊もこれに振り回されたはずです。
原発事故のせいで、津波被災者への支援が各地で滞った。つまり原発事故の
二次被害が、救援の遅延として各地で起こった。


二つ目に、原発事故が、想像を超えた長期的展開に入ってしまったことです。
これまで原発推進派は、こうした深刻な事故が起こる可能性は、何万分の一で、
考えるに値しないと語ってきた。

したがって、事故の想定は、原発に批判的な人たちの間でしかなされて
きませんでしたが、その場合、事故が拡大するかどうかは、数時間が勝負だと
言われてきました。

今回の事態がおこってからも、多くの専門家は、事態を収拾できるか否かは
数日の間に決まる・・・と考えたようです。例えば京大原子炉実験所の小出さんも
1週間が勝負と考えたと述べられています。

ところが、福島原発事故は、ゆっくりと、長く、大量の放射能漏れを起こしながら
現在まで進行形で続いてきました。本当に長い間、危機が続いている。
その間に、これまでの常識を絶する量の放射能が漏れ出してきました。


当初、政府や「御用学者」は、大丈夫、大丈夫、安全、安全と繰り返し続けた。
はたしてそうなのか。事故は極めて危機的な局面にあるのではないか。
当初はそれを分析することが問われました。

そのとき思いもしなかったような壁も現れました。原発に批判的であったり、
政府に批判的である市民運動内部からも、原発の危機をあおって、被災地の
人を不安に陥れてはならないという声があがってきたのです。

僕があるところで、「ゆっくりしたチェルノブイリの中を生きる」というタイトルで
講演を行いたいと語ったら、「チェルノブイリのような爆発はありえない。この
ように被災地をまどわずことに与しえない」と猛烈な抗議をうけたこともあります。

しかし実際に、事故後の数週間、炉内では燃料の溶解が進み、炉が破断して
しまうような事故に発展する可能性があった。いやそれは過去形ではなく
何らかの要因で冷却がうまくいかなくなれば、すぐにも極限的な危機に陥る
状態に福島原発は今なお置かれ続けている。

・・・この状態を自分たちで把握することが問われました。原子力資料情報室に
ゲストスピーカーとして参加した後藤政志さんや、京大の小出さん、今中さん
等々、何人かの方が必死で事故の分析を発信し続けてくれましたが、データが
限られる中で、その方たちの間でも部分的には見解が分かれたりしていた。

そのためそれらの方たちの人となりは信頼しても、分析のすべてをただ信じる
ことはできず、自分の頭で情報を分析し、自分なりに危機を把握することが
問われました。それは1人ではとてもできない。そのため多方面の分野の
友人たちと、頻繁にメールを交わし、情報交換し、意見を闘わせ合った。


そうこうしているうちに、違う難題が出てきました。原発事故がどのような
状態に向かっているのかとは別の問題として、大量に漏れ出してくる放射能に
いかに向き合うのかが問われだしたのです。

このとき、僕の言う「放射能は怖くないキャンペーン」が始まりだした。それは
想像もしなかった形での、事故の新たな隠ぺいであり、人々を被ばくから
逃げさせない非人道的な方策でした。

その出所を探っていくと、下敷きになっているのは、まさにチェルノブイリ事故後の
旧ソ連、ロシア政府の対応であり、それを支援した「国際社会」=核クラブと
日本の動きであることが見えてきました。核武装を推進し、その延長で生まれた
原子力発電を擁護する国々が、チェルノブイリ事故後の被害を過小評価し
続けてきたことが見えてきたのです。

例えば1991年、IAEAはチェルノブイリ事故を非常に過小評価し、成人では
癌の被害はみられない。むしろ問題は、放射線被ばくを気にしすぎて、健康を
害したことの方にあるというデタラメな報告書を出しています。しかもこのときの
団長は日本人だった。広島の放射線影響研究所理事長(当時)の重松逸造氏です。
この人物は、かつて水俣病とチッソの因果関係を否定したことでも有名な方です。

それでこの放射線影響研究所とは何かを調べてみると、アメリカが広島原爆
投下後に、その威力を把握するために作った原爆傷害調査委員会(ABCC)
という組織の末裔であることが分かりました。それは核戦争のための組織
だった。

そしてその放射線影響研究所が、まさに今、朝日新聞や読売新聞の紙面を
大きく使って、「放射能は怖くないキャンペーン」をはじめた。僕はこれに
強い危機感を覚えました。


このとき問われたのは、それでは放射線は、人体に対してどのような影響を
与えるかでした。どれぐらいの量がどれぐらいの害を与えるのか。
・・・ところが、政府の安全キャンペーンばかりが語られて、これに対する
有力な説明が出てこない。

これまでの「放射線管理区域」や、被ばく労働に対する定義などがなし崩し的に
覆されているのに、では危険をどのように考えるのか、政府と距離を置いた
見解がなかなか出てこないのです。それでこちらが自力で調べなくてはならなく
なった。さまざまな数値との格闘が始まりました。


友人たちの頻繁にメールを交わしながら、途中ででてきた疑問は、どうして
われわれのような素人が、こうした分析をしなければならないのか。どうして
このことに関する深い知識をもっている専門家が声をあげないのかという
ことでした。

そのことに悩む中で、二つのことが見えてきました。おそらく問題を知りうる
専門家に対しては、事実上の緘口令が敷かれているのだということ。良心的な
人ほど、意見がいいにくい状態におかれていること。
これは後日、エントロピー学会に参加した時に、東大の中で、この問題について
発言するなという事実上の緘口令が敷かれているとの説明があり、一定の
確証を得ることができたと思っています。

同時に、気づいたのは、そもそもこうした問題を専門家任せにしていては
いけないのであり、多くのことを市民サイドが把握し、解析する力をつけて
おかなければならないということ。

なぜなら専門家は専門機関に属していることが多く、その機関をおさえられて
しまうと、必要な情報がでてこなくなるからです。とくに放射能の危険性について
は市民が自ら学んでいかなくては、自らを守ることができない。


今、そのことを象徴しているのが福島の学校をめぐる事態だと思います。
政府の政策に従わされていた「専門家」が、衆目の前で、涙を流して、自分の
子どもをこんな目にあわせたくないと、絶句するような状態が生まれている。
まさにこのことに、専門家任せの危うさがあらわれています。

特に今、政府は、さきほど紹介した1991年にIAEAが行ったチェルノブイリ事故
調査報告を首相官邸ホームページにそのまま載せるという暴挙を行っています。
1996年の同じくIAEAの報告や、さらにそれをも否定したWHO報告等々で
完全に否定されたデタラメな報告書をです。

しかも文科省は、そのうちの一部を抜き出したものをパンフとして成し、福島の
全ての学校に配っている。虚言であることが国際的に判明した文章をです。
このあまりに不正義な所業を、僕は自分自身が、チェルノブイリ事故報告を
追いかけることで、気づくことができた。ウソの出所を瞬時に見抜けたのです。


非常に残念なことに、この国の政府と官僚は、私たち国民と住民を、本当に
平気で欺きます。事故直後もそうでした。膨大な放射能が出ていて、それこそ
チェルノブイリのような大爆発にいたる可能性すら非常に高まっていたのに、
それを隠し続けた。そのために多くの人々が甚大な被ばくを受けてしまいました。

いやそもそもその前から、政府は原発の危機を隠し続けた。地震の可能性も
津波の可能性も指摘され続けていたのに、もみ消し続けていたことが今日
明らかになっています。まさに七沢さんが説いたように、旧ソ連と日本は
似ている。いや同じように民衆を軽視し、欺いているのです。


そして今も、放射線管理区域の放射線量を大きく超える地域で子どもたちを
学校に通わせている。先生たちも仕事に縛り付けられていますが、これはなに
よりも子どもへの虐待です。これまで絶対に子どもを入れてはならないと
されてきた地域で子どもたちを学ばせているのですから。

こうした状態から私たちが私たちの身を守るために、私たちは知恵をつけ
なければならない。そのために私たちはネットワークを作り、私たちの側で
情報解析能力をつけて行く必要があります。

私たちは一介の市民ですが、同時にそれぞれが仕事をしており、何らかの
領域の専門家でもあります。その知恵を横糸を通してつなぎあい、「今ここ」に
集め、そうして私たちの未来の方向を探りだしていく必要がある。

僕はその一つの交差するポイントに立っているにすぎませんが、これからも
多くの皆さんとともに、情報を集め、解析し、意見を交換し合いながら、
ポストフクシマをいかに生きていくのか、考察し、検討し、発信していきたいと
思います。

みなさんの変わらぬご協力をお願いします・・・。


****************************

再考のとき:“3・11”後の京都で/2 防災/下 /京都
 ◇「放射能に県境はない」 市民が情報収集・交換も
 「ここらの人は逃げられん」。福井県高浜町の関西電力高浜原発から直線で
約6キロの舞鶴市田井地区。住民で府漁協職員、倉内智さん(36)は不安を
募らせている。隣接の成生地区と合わせ約300人が暮らすが、避難するには
険しい山道を通らねばならず、同原発にいったん近づく形になる。「漁業被害も
心配だが、それ以前にどう避難するのか」。歴代市長に陳情してきたトンネル
整備は実現していない。

 同原発から約8キロの同市朝来中の農業、林茂義さん(82)は約1ヘク
タールの水田を営む。東京電力福島第1原発事故で避難生活を送る農家の
姿が他人事に思えない。「あのようになれば逃げるしかないが、先祖代々の
土地を離れ作物をあきらめるのは大変つらい」

 福島の事故では高齢者福祉施設などで高齢者が置き去りにされたり、避難
するバスの中で死亡する悲劇が起きた。高浜原発から約7キロの特別養護老人
ホームやすらぎ苑には70人の入所者がいる。大半が自力で歩けない高齢者だ。

 「認知症の人も多く、環境の変化でパニックを起こす危険がある」と大橋裕子
施設長(56)は懸念する。そばに同様の福祉施設と障害者支援施設もある。
「原発から離れた地域の福祉施設と事前に連携し、万一の場合に入所者を
受け入れてもらう体制が必要」

 舞鶴市は同原発から20キロ圏内に人口の9割以上の約8万6000人が
暮らす。4月8日、関電幹部らが市役所を訪れて原発の健全性を強調したが、
市は放射線のモニタリングポスト(現在市内7カ所。うち2カ所が関電)の増設を
求めた。

 市議会も同14日、初めて関電幹部を参考人として招へいし、住民説明会を
要求した。関電は福島での事故を受け、安全対策への対応状況を説明するビラを
福井県内で配布していたが、舞鶴市内では一度も無かった。議員らは「放射能
に県境はない。高浜原発から10キロ圏内だけでも住民は1万2000人。一番
多いのは舞鶴市だ」と不満をぶつけた。関電は20日付の新聞各紙に安全対策
などを説明する広告を掲載。ビラ配布や住民説明会も検討するという。

 多々見良三市長は言う。「8万6000人を緊急に避難させることは物理的に
不可能。市に出来るのは、逃げ方を考え、放射線量計で正確な情報を入手
することぐらいだ」

  ◇  ◇  ◇

 行政や専門家に任せず、個々の市民が主体的に情報を収集・交換する動きも
芽生えている。京都市左京区のフリーライター、守田敏也さん(51)は震災発生
当日から、東電・政府機関の「当局発表」や国内外の報道、原子力資料情報室
など在野の研究機関・研究者らの分析を比較検証してインターネットで発信。
当局の過小評価が報道にも表れていた当初から事故の深刻さを見通し、
訴えてきた。

 電子メールなどで意見交換するのは医療関係者や計測・分析機器技術者、
農家、報道関係者ら。複数の市民団体を経由して情報の受け手は1000人を
超え、ネット接続が困難だった被災地でも印刷されて届けられた。

 事態は結果的に警告通りの展開に。「そもそも当局が否定してきた原発事故が
現実に起きた。市民一人一人が自ら、互いに守り合うことが必要と気付く
転換点になった」と守田さんは言う。【岡崎英遠、太田裕之】=つづく
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20110503ddlk26040448000c.html
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