明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(553)篠山、丹波、舞鶴、宮津の訪問を終えて

2012年09月30日 23時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120930 23:30)

27日に予定通り帰国し、そのまま関空から兵庫県の篠山市に向かいました。ここで「どろんこキャラバンたんば」の方たちにお迎えいただき、講演会に向かいました。会場で先に夕御飯。実行委の方たちが一品を持ち寄って集まってくださいました。
ハンサム食堂の神谷さんが、僕が食べていると聞いて、酵素玄米をおにぎりにして持ってきてくださったのを始め、それぞれが新鮮な野菜などで作ったお惣菜を持ちよってくださいました。

この日の講演会は50名弱ぐらいの参加でしょうか。今回は内部被曝のメカニズムと危険性とともに、原発災害のときにどうするのかについてお話しました。篠山市は高浜原発から約50キロの町。深刻な原発災害があったとき、被害を受ける可能性は高い。そのことを踏まえた話をして欲しいという要請があったからです。

そこで強調したのは、災害心理学に言う「正常性バイアス」の問題でした。現代人は危機に瀕する可能性が少なくなっている。そのため危機に直面すると、しばしば危機を認めず、事態は正常なのだというバイアスを自分でかけてしまうことです。

災害心理学は、この正常性バイアスのロックを外さないと人は避難できないことを強調しています。ではそのためにはどうしたらいいのか。最も有効なのは避難訓練を繰り返すことです。では原発災害における避難訓練とは何か。「今日の集まりがその一つです」と僕はお話しました。

またぜひみなさんに家にかえって、避難訓練をして欲しいとお願いしました。ただし図上訓練でいい。ではどんなことを想定するのか。原発事故が起こったときにどこに逃げるのかを決めておくのです。その際、大事なのは家族がどこで落ち合うかです。家族の居場所が分からないというのが、しばしば避難を遅らす理由になるからです。

次に大事なのは、避難するときに持っていくものを決めておくことです。この点で参考になるのは、国連に勤めていて、あるときアフガニスタンで、急きょ、逃げなくてはならなくなった友人の経験です。そのとき彼女はお気に入りの服をバックにつめて逃げたそうです。それであとでそんなものはお金で買えたのにと大変後悔したという。

彼女は言いました。「人間、逃げるときはそこに戻ってこれなくなるとは考えたくない。だからついつい変なものを持ち出してしまう。そうではなくてお金で買えないもの、日記や手紙や写真や、自分の大事なものを、もう戻ってこれないと考えて持ち出すのが核心だ」と。非常に参考になる言葉です。みなさん、これらの話をとても真剣に聞いてくださいました。


さてこの日は「ささやま荘」に泊めていただきました。実は台湾に行っている間に、内部被曝問題研究会の実務がたくさんたまっていて、部屋で処理しようと思っていました。しかし温泉があり、旅の疲れを癒していたら、なんだかもういいやという気になり、翌朝に仕事をまわしてのんびりすることにしました。

ところがそうしてゆったりしていたら、台湾のおばあさんたちのことが思われ、とくにまだ報告を書いていませんが、最後に会った呉秀妹(ウーシュウメイ)阿媽が、あまりに老いてしまい、げっそり痩せてしまい、可愛かった笑顔が消え、終始、暗くうつむいていたことが胸に去来し、悲しくてたまらなくなり涙がポロポロでてきてしまいました。

それで実は篠山の話のときでも、自分が悲しみをおさえて前向きなことを話していたことが分かりました。まるで封印を解いたようになり、暫く涙が止まりませんでした。そんなとき、舞鶴復興ミーティングの今井葉波さんからメールが来たので、ちょっとそのことを書きました。

「僕はひょっとして篠山では、悲しみのためにパワーが落ちていたかもしれない。そうだとしたらとても申し訳ない。明日に向けて、一晩寝て、アジャストします」とメールしました。すると葉波さんは、あなたが悲しいのなら悲しいままでいいのではというメールを送ってきてくれました。ああそうだなと思いました。


それで翌日、悲しいといっても必要な事務仕事は朝おきてこなしましたが、その後に、神谷さんに丹波市に送っていただき、会場に入り、講演の始めにこのことを話しました。台湾にいってきて、おばあさんたちの老いている姿を見舞って、今、とても悲しい思いにいるということをお話したのです。

そうして僕は、原子力発電所と、性奴隷問題など、戦争のことが根底でつながっていると思うという、この間、深めてきた自論をお話しました。みなさん、とてもいい目で聞き入ってくださっていたように感じました。悲しみを隠さずに話して良かったなと思いました。


さて丹波市でのお話が終わってから、どろんこキャラバンたんばのみなさんが、お昼を食べに連れて行ってくださいました。それが車何台かをつらねて30分ぐらいも走っていく。それである谷の中をはいっていき、ついたのは10割そばをうってくれるお店でした。ここでのそばは本当に美味しかった。古い民家を使ったお店も心地よくとても気持ちがよくなりました。

その後、今度は舞鶴への移動です。車で丹波市を出て、京都府の福知山市を経て、舞鶴へ。今井さんのお宅で少しだけ横にならせていただいて、今度は舞鶴の市民会館につきました。ここでも有機農家の方が作ったおいしいおいしい野菜が入ったお弁当をいただけました。なんというグルメの旅・・・。

この日の一番の話は、舞鶴市のお隣の高浜町で行われようとしている、震災遺物(がれき)焼却問題です。しかも持ち込まれるのは、僕がボランティアで何回がいった大槌町のもの。それで大槌の写真をお見せして、震災遺物(がれき)が復興の邪魔をしているなどとはとても言えないことを説明しました。

大槌町は津波で大きな被害が出ていて、広大な更地が広がっていて、震災遺物をおくのに困りなどしていないのです。いや正確にはその広大な大地には、まだ解体を待っている建物がたくさん存在しているのです。復興の予算が足りないことがわかります。それどころか海沿いには津波で壊れた防波堤がまだそのままゴロゴロ転がっている。そんなものも手がついていないのです。

また震災遺物(がれき)だけでなく、膨大な放射能の降った東北・関東での焼却の危険性についてもお話しました。焼却炉の図を示し、それが放射能対応で作られてなどいないこと、だからあちこちから放射能が漏れてしまうこと、その結果、最初に危険性が焼却場職員の方に迫ってくることをお話しました。

この日の会合でとても大きかったのは、当事者である高浜町、あるいは大飯町の方がたくさんみえられたことです。現地の状況が厳しいので人数は書きませんが、とても沢山!とご報告しておきます。


この会合が終わってから、この間立ち上がった新しいネットワークのミーティングにも参加しました。とりあえずは「がれきネット若狭」の名で立ち上がり、「がれき」という言葉を変えようということで今、新しいネーミングが進行中ですが、ここには現地、若狭の方を中心に、丹波の方たち、福井県嶺北(敦賀市より北)の方たちなどが参加しています。

ちなみに丹波というのは広い概念で、市町村区分でいと、京都の京丹波町や南丹市などが加わっているのですが、今回のことなどを通じて、この方たちが、兵庫県の篠山市と丹波市とのつながりも深くしています。ここのミーティング、僕は23時半で失礼したのですが、なんと午前1時までやっておられたそうです!直前に迫った焼却を止めんとする情熱に感謝です。


この日の夜の宿は、葉波さんが管理人をしている「雲の上のゲストハウス」でした。舞鶴市のある山の中にあります。実は宿泊は2回目なのですが、前回はまるでプラネタリウムの中にいるような満点の星空を見れました。いやこの表現はおかしいですね。この星空を再現したのがプラネタリウム。でも当然、実物の方が100倍美しい。この日は残念ながら曇っていましたが静かな夜を過ごせました。

それで翌日29日。予定にはなかったのですが、葉波さんが宮津市の食べ物と放射能を話題とした楽しいイベントでライブをされるというのでついていくことにしました。そうしたら不思議なことに、前日に宮津市の自治会の方が講演を依頼してきてくださいました。せっかくだからお会いしましょうということになりました。

この企画は春に僕を綾部に呼んでくださった溝江さんという方が企画されたものでしたが、とにかく有機農、自然農の若い農家さんたちがたくさん出店して下さり、そこに子連れの若いお母さんたちがたくさんみえられて、ライブやトーク、それぞれの農家のお話が進む素敵なものでした。僕も一言をとのお願いを受けて少しだけお話しましたが、そのお礼にとまたまた凄くおいしい野菜たちを中心にしたご飯をいただいてしまいました。

それだけではありません。自然を大事にし、本当に美味しい野菜を作ってくださっているお店から、コシヒカリ2合を無料でいただき、野菜ひと袋を500円で供給していただきました。他にもロケットストーブだとか、手作り石鹸だとかそれやこれやが踊っていてとても楽しい場でした。午後3時過ぎのJR特急で京都に戻りましたが、帰りの電車の中で心地よい疲労に包まれました。


いろいろなことがあった3日間ですが、篠山市、丹波市、舞鶴市、宮津市と回って、どこもかしこも自然が美しく、なおかつ出てくる食べ物がおいしいことが印象的でした。これらの町の運動の中に、たくさんの有機農、自然農の方たちがいるのもとても印象的で、僕は若狭原発を囲むこれらの地域、日本の農村部の町々に、大きな可能性が宿っているのではないかとの思いを深くしました。

僕など、ここにくると土いじりのひとつも知らずに、環境のことを話している「頭でっかち」でしかありませんが、それでもここから何かが始められる、始まっているという実感を得ることができました。それだけに震災遺物の高浜町での焼却、埋め立てを止めたいし、同時に、原発立地地域にいろいろな意味での矛盾を押し付けてきた構造をかえていきたい、それをこの新たにどんどんつながりを増やしているこの地域の方たちと進めたいと思いました。

篠山、丹波、舞鶴、宮津で出会ったすべてのみなさんへの感謝を述べて、この文を閉じます。

 

 

 

 

 

 

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明日に向けて(552)タイヤル族のアマアのこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の4

2012年09月27日 01時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120927 01:00)

今日(26日)は呉秀妹(ウーシュウメイ)アマアにお会いする日。その前に、台中に入院しているアマアを訪ねることになりました。朝10時30分の新幹線に乗って約1時間。台中の駅に着きましたが、ここはまだ市の郊外。さらにバスに30分乗って、目的の病院につきました。お会いしたアマアは、タイヤル族の方です。台湾島の中央山脈地帯にある苗栗(ミャオリ)県に住まわれていますが、今は入院されています。

アマアが受けた被害は次のような形でもたらされたものでした。あるときアマアの村の男性たちが「高砂義勇隊」として、他の国での日本軍の戦いに狩り出されました。アマアの夫もその一人でした。男たちが日本軍に連れ去られていなくなった村に、やがて日本人警察官が訪れ、夫たちにあわせてやると女性たちを集めました。

連れて行かれたのは日本軍の施設のそば。そこで女性たちはレイプを受けたのでした。軍は彼女たちがそこにとどまるために小さな小屋を建て、彼女たちを押し込めて、性奴隷を強制しました。

やがて夫たちが帰ってくることになり、その直前に、アマアたちは解放され、部落に戻ることが出来ました。アマアは帰ってきた夫に、辛かった日々のことを打ち明けました。夫は「自分がいないあいだに、あなたに辛い思いをさせた」と苦しみ、悲しみを分かち合ってくれたそうです。以降、アマアは夫が亡くなるまで仲良く寄り添い続けました。

このように山の女性たちへの性奴隷の強制は、人々に対する駐在所を通じた警察支配のもとに行われました。霧社事件を経て、警察官は人々にとってより怖い存在であり、逆らうことができませんでした。また警察官は、どこの家の男性が今、戦争に行っているとか、どこの家が困窮しているとかも知っていました。生活のすべてが把握されていたのです。その警察に軍が「慰安婦制度」への協力を依頼したとき、アマアたちには抵抗する術がありませんでした。

さて、このような過酷な仕打ちを受けた後、長い時間が経って、アマアは婦援会の呼びかけに応じ、日本政府を相手取った裁判に参加しました。名前は明らかにせず、訴状にはAなどの記号で登場しました。その後もアマアの住んでいたところが山の深いところで、台北に出るのも大変だったこともあり、アマアはそれほど表にはでませんでしたが、日本政府をただし、尊厳を取り戻すのだというしっかりとした意志を持ち続けてきました。

しかしそんなアマアにも老いが迫ってきました。次第に認知症が進むと共に、足に打撲傷をこうむったところ、血の循環が悪くてなかなか治らず、どんどん悪化してしまいました。大腿部より下の血の流れが非常に悪く、足の指先が黒くなってしまいました。同時に食欲もなくなってきてしまった。栄養素が十分にとれないことが回復をさらに遅らせ、長く入院することになりました。この入院がアマアには辛く、毎日のように、家に帰りたいと泣いて過ごしているのだそうです。

僕らが病院を訪れたのはそんな状態のアマアが横たわる病室でした。かたわらにはアマアの娘さんが雇ったインドネシア人のワーカーが付き添ってくれていました。彼女は30歳、お子さんが二人いる女性で、北京語を上手に話します。台湾の病院の付き添いのワーカーの多くがインドネシアの女性だとのこと。アジアの経済格差の一端を見る思いもしましたが、とりあえずは彼女の細やかな優しさが、アマアのためにありがたい気がしました。

僕らが入っていくと、アマアは、柴さんの顔をみて泣き出しました。たぶんそれまでが淋しく辛かったからだと思います。柴さんの顔を見て、気持ちが緩んだのでしょう。僕には泣きながら柴さんの訪問を喜んでくれているように思えました。「どうしたのアマア、泣かなくていいのよ。ねえ、泣かないで」。柴さんが枕辺によって優しく語りかけます。「私のことが分かる?日本からみんなできたのよ。アマア、よくなっておうちに帰ろうね。そうしたらアマアの家にまた遊びにいくからね」。アマアは日本語で「はい」と語って、うなづきます。

事前にホエリンさんから、アマアはもう娘さんのことしか分からないと聞いていたのですが、柴さんの語る日本語ははっきりと分かる様子。柴さんの顔もまじまじとみていて、しばらくするとまた目から涙が流れてきます。付き添いのインドネシアからきている彼女が優しく涙をふきとってくれる。のちにホエリンさんが確かめて、柴さんのことははっきりと認識してくれていることが分かりました。

でもアマアは多くを語れません。ときどき何かを話しますが、何語なのかがよく分からない。タロコ語のときもあり、北京語のときもあり、日本語のときもあり。でも僕が手を握り、「アマア、よくなってくださいね。きっとよくなりますよ」と語ると、しっかりとした日本語で「ありがとうございます」と答えてくださいました。そのときもアマアの目がウルウルとしていました。

僕はアマアとは初対面です。次に会えるかどうかも分かりません。でもこうして僕の人生の中で一度でもアマアとお会いしたことが、きっと彼女のためになるのだと僕は思います。そのためにも辛い過去と向き合って、尊厳の回復に立ち上がった彼女の生を、僕はしっかり受け止めようと思います。そしてその意義をさらに拡大するために、僕は今、こうしてみなさんにこのことを書き伝えています。

これを読んでくださり、アマアたちの闘いに共感を抱いてくれる人が増える分だけ、アマアの生は豊かになるのだと僕は思うのです。アマアの生き方は私たちの中に熱をもたらす。その熱が私たちを何かに駆り立てます。そしてその分だけ、世の中は温かくなるはずです。それはアマアの心が作り出している温かさです。どうかそんな風に考えて、アマアの思いを分かち持ち、それを何でもいいですから、世の中を少しでも温かくするためのエネルギーとしていただければと思います。

さて病院を出て、今度は新幹線ではなく在来線の台中駅にタクシーで辿り着きました。ここから呉秀妹アマアの待つ桃園県まで2時間の電車の旅。駅から再びタクシーでアマアのお宅に向かいました。僕にとっては3回目のアマアのお宅の訪問でした。

続く

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明日に向けて(551)タロコ族のアマアたちのこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の3

2012年09月26日 09時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120926 09:00)

昨日午前11時に台北市の松山駅を出る特急に乗り、台湾東海岸の花蓮に向かいました。車中でお弁当やパンを食べながらの2時間の旅でした。花蓮につくとすぐにタクシーに乗り換えて、病院に向かいました。15分ほどでついた病院の一室に、イアン・アパイアマアが入院されていました。

イアンさんは、まだ少女だった17歳のときに、日本軍の手伝いに狩り出され、基地の近くの洞窟に連れ込まれててレイプされ、そのままそこでの性奴隷を強制されました。その場に通うことを強制されたのですが、彼女たちはそれを家族に話せなかった。タロコの厳しい掟のもと、結婚前に処女を失うと、激しい罰に会う可能性があったからです。

そうした社会的制約もあって、なかなか被害を訴えられなかった、タロコの被害女性たちが名乗りを上げたのは、韓国で初めて被害女性が名乗り出て、この問題が大きくクローズアップされたときのことでした。台湾婦女援助会が、同様の被害者はいなかと台湾全土にひろく呼びかけを行い、台湾の中からそれに応じて手をあげる人がではじめ、タロコの女性たちもようやく声をあげたのでした。

このとき手をあげた原住民の女性は全部で16人だったそうです。その中からカムアウトにいたった女性、カムアウトはできなかったけれども、尊厳を回復する運動には積極的に関わった女性、調査には協力したけれども、それ以上は動けなかった方などがいましたが、イワンさんは、自らの名をはっきりと告げ、それ以降に始まった日本政府を糾弾する運動の先頭に立たれたのでした。

彼女が普段話しているのはタロコ語、そのため彼女の証言のときには、おなじタロコ族で北京語の上手な方が通訳につき、タロコ語→北京語→日本語という通訳が行われますが、重要な部分になると、自ら日本語を上手にあやつって話されることもあります。

いつも威厳をたたえている彼女ですが、一緒にいると茶目っ気を披露してくれて、カメラを向けると必ずおどけたポーズをとってくれます。これは台湾のおばあさんたちに共通のことでもあるのですが、とくにイワンさんはおどけ方がうまい。

そんな彼女の病室に入ると、付き添いの娘さんと二人で静かに過ごされていました。今回は僕の連れ合いの浅井桐子さん、証言集会を共に担ってきた京都の村上麻衣さん、東京の柴洋子さん、ホエリンさんが一緒です。2010年秋に霧社まで訪れたときに、村上さんのお腹にいた2歳9ヶ月の灯(あかり)ちゃん、ホエリンの娘さんで2歳になる直前のリーシンちゃんも。この二人のかわいい子たちがいつも回りに笑いを広げてくれる。

病室にホエリンさん、柴さんが入っていくと、イワンさんの顔がほころびました。さらに僕と浅井さん、村上さんが入ってきたのを見て、一瞬、とても驚いた顔になり、続いてはじける笑顔を見せてくれました。「モリタさん・・・」僕の名前をしっかりと覚えていてくださいました。

お見舞いのお金(台湾ではお見舞いのときに赤い封筒に入れてお金を渡す風習があります。赤を使うのは、「よくなりましたね、お祝いです」の意です)とお土産を渡すと、遠い日本から来てくれて十分だ、こんなことをしなくていいのにと、ちょっと顔をしかめられました。そんなときの説得はホエリンさんが大得意。アマアの手にお金を握らせ、これで元気になってみんなを喜ばせてアマアを納得させました。

それからはとりとめもないお話。実は浅井さんは、この7月にもワークショップに参加しており、元気なイワンさんにお会いしています。ところがその後に、黄疸がはじまり、それが長引くので入院したところ、他にも悪いところが見つかったのだそうです。病状はまだまだよくはないらしい。

「この間、会ったときには元気だったのにねえ」と浅井さん。「でも顔色はいいね」と柴さんが語ると、「上等でしょう?」とイワンさん。台湾のおばあさんたちは好んで「上等」という日本語を使います。

そんなアマア、病状のよいときには家にかえることもできて、つい数日前も帰ったそうなのですが、家でぐっすり寝ることができたものの、翌日にはすぐに病院に戻ると言い出したそうです。病院に戻ってしっかりと病とたたかいたい。早く治療をしてもらってよくなりたいからとのことでした。アマア、病に前向きに立ち向かっているのですね。本当によくなって欲しいです。

ちょっと不思議なことがありました。ホエリンさんが、「何か心配なことはない?」と質問したときのこと。アマアは耳もちょっと遠いので、ホエリンさんが北京語で話し、付き添っていた娘さんが、タロコ語でアマアに伝え、タロコ語の答えが返り、北京語でホエリンさんに伝わり、英語になって僕らに届くのですが、アマアがタロコ語で答えたときに、なぜか僕らには意味が分かったのです。

これは「心配」という言葉が、タロコ語でも「シンパイ」と発音されていたためもあったと思いますが、なぜかこのとき、日本人一行には話の全体がすっとわかってしまった。台湾の部族の言葉にも、台湾語にもかなりの日本語が混じりこんでいるせいもあるのかもしれませんが、「シンパイ」という単語以外は分からないはずなのに、本当にすっと意味が入ってきた。

ともあれ、「ああ、アマアは心配なんかしないで、穏やかだけれどもここで前に向かって歩んでいるのだな」とそれが伝わってきて嬉しく思いました。アマアの手に点滴の針を何度も通した跡が残っていたので、そこを少しさすってあげました。そんな風にしながら、ゆっくりと時間がすぎていき、やがて病室を後にするときが来ました。みんなで記念撮影をし、アマアの手を握って、口々に「よくなってね」と伝えて、病室を出ました。

続いて向かったのはイワル・タナハさんのお宅でした。イワルさんは敬虔なクリスチャン。タロコ族にはクリスチャンが多い。彼女も知人が病で苦しんでいると聞いては、その家を訪ねてお祈りをあげてあげるような信徒さんです。でも彼女も最近は足が悪い。以前ほど活発には動けません。

その彼女の家を訪れるために、僕ははじめてタロコの方たちが多く住む地域を訪れることになりました。最初に驚いたのは、彼女たちの村をうしろから包み込んでいる山の圧倒的な存在感です。日本のどの山とも違う。急峻で背中に覆いかぶさるような威厳を持っている。畏敬の念が自然と沸いてくるような山です。

しかもはるか上のほうに霞がかかっている。何度も訪れている柴さんが、いつきても霞が見えるといっていましたが、それがさらに山の存在感を強いものにしています。そんな山が奥へ、奥へと連なっていることがわかります。

実はこの山をこちらから登って、えんえんと進んでいくと霧社につくのです。花蓮はそこから台湾の東海岸に降りてきた地域です。東海岸はいつも激しい台風に襲われてきたため、自然の荒々しさが、この急峻な山並みを作ったのかもしれません。典型的なリアス式海岸で、深く切れたった渓谷もある。かつてはこの地域も、漢族の入りにくいところだったのでしょう。自然の要害に囲まれて、タロコの人々はここに自分たちの楽園を築いてきたのかもしれません。

さてそんな急峻な山の裾野の家で、しかしイワルさんはとても穏やかな暮らしをされていました。私たちが入っていくと、ニコニコと笑わってくださいましたが、その目元はどこまでも穏やかです。あるいは信仰が彼女の精神生活を豊かにしているのかもしれません。

ここでも私たちはアマアを囲んで静かでやわらかい時間を過ごしました。子どもたちだけはキャッキャッとかしましい声をあげていましたが、イワルさんはかわいいねえと目を細めていました。アマア、いつまでもお元気でと握手をして、彼女の家を後にしました。

続いて花蓮を始めて訪れた僕のために、ホエリンさんが、少しだけ観光を入れてくれました。松園別館というハウスですが、旧日本軍が公館に使っていた建物が歴史遺産として展示されているものでした。台湾歴史百景の一つにも選ばれているのだとか。そこを訪れると、近くに高級将校が住んでいて、さまざまな儀式に使われた建物であることが分かりました。儀式の中には、特攻隊の兵士を集め、天皇から下賜されたお酒を出撃前に振舞うなどのことがされと書かれていました。

「そうなると、ここに慰安所もあったのでは?」そんな目で中を探索すると、本館の洋館の裏に、屋根が純日本風の建物のなごりが残されていました。名残というのは建物は往時のままには残っていなくて、ここを訪れた人々のためのカフェに変わっています。

しかしそれらに付されている展示案内を読み込んでいって、その一つに、「ここには階級の低い兵士たちが住んでいたり、慰安婦たちが住んでいて、ここで働いていた」というような記述がみられました。「やっぱりあったね、きっと特攻隊の兵士たちに前夜にいかせんたんだろうね」と話し合いました。

こうした話は実際に台湾の新竹という海軍基地に作られた慰安所で確認されています。そこには韓国のイヨンスさんというおばあさんが送り込まれました。彼女はある日自宅からさらわれて船に乗せられ、台湾に連れてこられて、特攻隊兵士の相手にした性奴隷をさせられたのでした。

こうした彼女たちの被害体験に比較は禁物なのかもしれませんが、特攻隊の兵士たちは、多くが純真な青年で、何より人を殺した経験のない若者でした。その点で、獰猛な殺戮部隊だった中国戦線の陸軍兵士たちとは様相を異ならせています。イヨンスさんも、さらわれて「慰安婦」にされた彼女の境遇を悲しんだ兵士と、ほのかな恋心を交わしています。

一度、イヨンスさんを我が家にお招きして泊まっていただいたことがあり、そのときに、僕が特攻隊について書かれた写真つきの書籍を彼女に見せてあげたのですが、航空帽をかぶって腕組みしている若い兵士たちの写真をみたせいか、彼女の夢枕に、かつて彼女と恋心をかわした兵士が立ったそうで、彼女は一晩中泣き明かしたと語っていました。

僕はその後、新竹の海軍基地から出撃した特攻機の記録を調べ、彼女との話から使われた機体を特定し、10数機の中の一機にまでその兵士の乗った飛行機を絞り込みましたが、それ以上、調べることが彼女の幸せにつながるのかどうかが分からなくて、そこまでで調査を終えたことがあります・・・。

そんなイヨンスさんの思い出から、この洋風の会館で、天皇から下された酒を飲み干している青年たちの顔が目に浮かぶような気がしました。そしてその彼らを迎えるためにそこに住まわされた女性たちの顔。彼女たちもあるいは韓国からの女性だったのかもしれません。

確かにその「行為」がここでなされながら、すべては霞の中に埋もれてしまっています。そのときここにいたおばあさんは、今、韓国のどこかでひっそりと生きているのかもしれない。そうであるとすればせめて幸せであって欲しいと思いました。ともあれしっかり記録しておかねばとビデオをもってぐるぐると建物の周りをめぐりました。

続けて、再びタクシーを飛ばして、タロコの方たちの住まう地域にもう一度行きました。イワル・タナハさんのおられたところとは離れたところで、その地域でとても印象的だったのは、町の中の家々の壁のいたるところに、タロコ族の姿をタイル模様のようなものであらわしたものがはめ込んであることでした。

「前からこうではなかったのよ」と柴さん。2004年に「タロコ族」として認められて以降、民族の尊厳をあらわしたこうしたものがたくさん設置されたのだそうです。タロコの誇りを全面に掲げている人々の息吹が伝わってきました。

お訪ねしたアマアは、僕にとっては初めての方でした。さまざまな事情からカムアウトはされていませんが、婦援会の活動は他のアマアたちと積極的に担ってきたのだそうです。カムアウトしたアマアたちを支えて頑張ってきたのですね。

そんなアマアはびっくりするほど日本語がお上手でした。ちょうどお連れ合いもいらしたのですが、このおじいさんも日本語が上手。話を聞いたら、夫婦の会話の多くが日本語なのだそうです。町の中での年寄りの挨拶も日本語が多いらしい。「こんにちは。どこにいくのなんて、毎日、話してるんだよ」とアマア。

「日本語が本当にお上手ですね」と語ったら、「私のときは小学校が3年しかなかったんだよ。少したったら6年になったんだけど、私は3年しか習えなかった」ととても残念そうに語られました。学校でもっとたくさんのことを習いたかったというアマアの気持ちが伝わってきました。

ここでもゆったりとしたやわらかい時間を過ごすことができました。アマアの家を去るときは、アマア、おじいさん、娘さん、それに飼い犬が並んで私たちを見送ってくださいました。アマアが終始、とても嬉しそうにしてくれていたので、来てよかったなと思いながら、アマアの家を離れました。

さてそれから花蓮から特急にのって帰ってきたので、台北到着は午後10時をまわっていました。僕は特急列車の中でレポートを書き続け、友人宅に帰って、まずはタロコ族のことを投稿しました。

そのとき、柴さんに被害の様子を質問したのですが、今、ここに紹介したアマアたちは、みなさん、いい仕事があると騙されて基地に連れて行かれ、軍が管理していた近くの洞窟に連れて行かれてレイプされたのだそうです。しかも次々と若い女性を呼び出していった。被害にあった少女は泣きながら戻ってきますが、その理由を友達に伝えることができない。

そうしてまた一人、また一人と日本軍兵士に呼び出されて、洞窟に連れ込まれ、レイプをされたのだそうです。そんな少女たち。それからみんなで手をつないで数珠繋ぎになり、おいおいと泣きながら自分たちの村への坂道を歩いていったそうです。「凄い聞き取りだったわよ」と柴さん。今、こうしてレポートを書いていてもその姿に涙が出てきてしまいます。

アマアたちを少しでも幸せに。そのためには、たとえ何時のことになろうとも、日本政府のきちんとした謝罪を引き出さなくてはいけない。そう再度、心に誓った花蓮への旅でした。

続く

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明日に向けて(550)台湾・霧社事件と原住民と「慰安婦」・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の2

2012年09月25日 23時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120925 23:30)

台湾の友人宅にいます。今朝、ここで東京から来る柴洋子さんと合流し、電車で東海岸にある花蓮まで行ってきました。

花蓮にはタロコ族の方々が住んでいて、その中のイアン・アパイアマアとイワル・タナハアマア、そうしてもう一人のアマアを訪ねたのですが、昨夜、いつも威厳を称えながら、どこかお茶目なイアン・アパイさんが、病にかかって入院中であることを聞きました。ショックでした。あらためて多くのおばあさんたちが本当に弱ってきていることを感じました。

さて、今回はこのタロコ族のことについて書いておきます。台湾には中国大陸からわたってきた多くの漢族の方たちがいますが、それ以前にこの島に住んでいた方たちを「原住民」を総称しています。日本では「原住民」という言葉が差別的に使われてきたことから、「先住民」という言葉が使われるのが通例ですが、台湾ではほかならぬ「原住民」の方たちが、「先住民」だと先に生きていてもういないみたいなので「原住民」の方がいいと選択したそうで、この言葉が使われています。

台湾の原住民は現在では14族が台湾政府によって公認されているのですが、今もその区分けが新たに進んでいる最中です。タロコ族も、独立民族として認知されたのは2004年のことで、それまでは「タイヤル族」に含むものとされていました。しかし言語に違いがあり風習も違う。またほかならぬタロコの方たちから、自分たちは「タロコ族」だという声があがって新しく12番目の民族として台湾政府に認知されたという経緯を辿っています。

台湾の原住民は、その多くが山の民ですが、もともと山に住んでいたわけではない。大陸からたくさんの漢族が断続的に移住してくる中で、しだいに平地から押し出され、山にあがっていった経緯があります。それ以前には記録として残された歴史がなく、実態は分かっていません。各部族はそれぞれに独自の言語を持っており、近隣の部族間で言葉が通じることもありますが、台湾全体でみたときの統一言語はありませんでした。

日本は1895年から50年間にわたって台湾を植民地支配しましたが、このとき日本は原住民を「高砂族」として総称していました。そしてこの「高砂族」が第二次世界大戦に突き進んだ日本軍に重要な存在となっていったのですが、その遠い原因を形作ったのが、1930年10月に行われた霧社事件でした。霧社は、台湾中部の山岳地帯にある町で、現在は南投県仁愛郷に属します。

日本は台湾統治において、さまざまな文化政策も推し進め、その中には現在もなお台湾社会の中で評価されているものもあります。その一つが、日本語教育の普及によって、はじめて台湾全土の統一言語ができたこともその一つでした。それまでは大陸から移ってきた人々が話すビンナン語(現在の台湾語)、漢族の一部で、アジアのユダヤ人とも言われる客家(ハッカ)の人々が話す客家語、それぞれの原住民が話す言葉が乱立していて、共通言語がなかったのです。

日本語が初めての統一言語だったということに、なんとも複雑な思いを抱かざるをえませんが、そのため実際に、戦前に教育を受けた多くの方々が、流暢な日本語を話します。僕が出会ったおばあさんたちの多くも、日本語を話す。それも僕らがもう使わなくなった、古く、情緒のある日本語をです。

性奴隷の被害を受けたおばあさんたちが他に話す言語もそれぞれに違うので、おばあさんたちにとっても日本語が共通語であったりします。そのため高齢の漢語を話さないおばあさんたちからの聞き取りは、日本人が行った方がうまく進む場合もあります。

ただし受けることのできた教育によって、日本語能力が違っています。今回、メインにお会いするつもりできた呉秀妹アマアは、貧しく教育を十分に受けられなかったので、日本語は片言です。それでいつも「わたし、日本語、うまく話せない」と恥ずかしそうに言う。「話してるよ。上手だよ。よく分かるよ」という会話からいつも話が始まります。

ただし客家であるアマアは客家語と台湾語が話せます。北京語はあまりわかりませんが、これに片言でも日本語を話せるので、3つの言語が使えるわけです。このように台湾の多くの人々が複数の言語を話します。親戚が一同に集まると、一つの言葉では通じない人がいるのが普通のあり方だそうです。そのため会話の途中でしばしば言語が変わるのだとも聞きました。

日本統治下では、これ以外にも、水利工事を進めたこと、ダムを作って発電を始めたことなど、台湾社会の近代化の基礎が作られていきました。近代化自身がいいことであったかどうかという問題もありますが、今はそこには踏み込まないでおきます。

大事なことは、こうした近代化への「功績」がハイライトされることでみすごされがちだったのが、日本が過酷な原住民支配を行ったことでした。山の中に住み、独自の風習を持つ人々に対して、統一政府を持たない漢族は、支配をおよぼすことができませんでした。彼らは山の民を蕃族と呼び、文化的に見下しつつ、一歩でその存在を畏怖していました。

これに対して日本は軍や警察の力をも総動員して山の民を日本の統治の中に組み込んでいきました。その重要な基地となったのが、各地に作られた警察の駐在所と学校でした。暴力機構としての警察の存在と、一方での文化的統治の要としての学校の存在をもっての統治化は、次第に効果を及ぼし、日本による山岳民族の統治はひとたびは成功したかに思われました。

しかし山の民を見下し、何かにつけて暴力を振るう日本人警察官を中心とした支配は、山の民の尊厳をしばしば傷つけ、深い矛盾を作っていきました。そしてそれが爆発したのが、霧社事件でした。

霧社の部族長の息子を日本の役人がステッキで殴ったことをきっかけにして、この部族の人々による蜂起が発生。人々は駐在所を襲った後、ちょうど運動会を行っていた小学校に乱入し、日本人ばかりを狙って、140人も殺害しました。これにすぐに日本政府が対応。日本軍精鋭部隊をこの地に送り込んで、掃討作戦を行いました。

しかし山の人々は頑強な抵抗を行いました。急峻な山に立てこもり、縦横無尽に山を駆け巡る山の民を前に、近代的は兵器で武装した日本軍は苦戦。大砲の使用はもちろん、航空機や毒ガス兵器なども使用したものの、山の人々の俊敏さにはかないませんでした。

そこで日本軍は蜂起に参加しなかった山の民に目をつけ、掃討作戦への参加を要請、政治的圧力とともに金銭による勧誘や、待遇の改善の約束などを加え、多くの民が掃討作戦に狩り出されていきました。山の民に山の民をぶつけたのです。

日本軍を相手取っては、圧倒的な優位を示していた山の民はこのもとで次第に追い詰められていき、戦闘不能に陥って、やがて全面的に投降しました。その間に殺されたものが700名、投降者は500名だったといわれています。これらの人々は、その後、長きにわたって、過酷な監視下での生活を強いられました。

さてこの霧社事件から、日本軍は重要な教訓を引き出しました。山岳戦闘における山の民の圧倒的な戦闘力を積極的に活用すべきだということでした。これ以降、各地の部族の若者への軍からの勧誘が行われました。一部は正式な軍人として、一部は民間人のままの徴用として、若者たちの多くが「皇軍」に参加しました。彼らは日本軍が参戦したアジア各地での戦闘、とくに山岳地帯、森林地帯での戦いの最先端部隊の位置を担わされていくことになります。

そのなかでも有名なのが、1941年12月8日に開始されたフィリピン上陸作戦でした。この作戦でフィリピンのジャングルに入っていった部隊にはその先頭に台湾の山の民が立っていました。小さいころから大きな刀をもって山の中に入り、道なき道を切り開くことになれてきた彼らは、日本軍のジャングルの中での格好の水先案内人となりました。そのため多くの台湾の若者が、日本軍が展開する苛烈な戦線に送り込まれて命を落としていきました。

一方、男性たちがこぞって戦場に狩り出された山の民の村々には、日本人警察官がやってきて、女性たちに軍隊への奉仕を要請しました。夫や恋人、父親が日本軍に献身しているのだから、女性たちも献身せよというのです。そしてその中から、性的「奉仕」の強要がはじまりた。

さらに男性の多くが狩り出されてしまったことで、人々が生活に困ったことにもつけこまれました。日本軍は割りのいい仕事があるといっては、原住民の女性たちを軍のもとに連れて行き、レイプを行い、「慰安婦」の生活を強制していったのです。日本軍は山の民の戦闘力を利用すると同時に、男たちが留守になった村に入り込み、残された女性たちに性奴隷となることを強制したのでした。

これは同じ性奴隷とされた台湾の漢族の女性たちとの大きな違いでした。漢族の女性は、台湾の中で性奴隷を強要されることはあまりありませんでした。基地は地域との関係が強く、台湾人の兵士もいて、漢族の女性を台湾で「慰安婦」にすると、反発を生む可能性があると判断されたからです。そのため台湾の漢族の女性たちは、台湾以外の日本軍展開地に連れて行かれて、そこで性奴隷にされました。それに対し、原住民の女性たちは台湾の中で性奴隷たることを強いられたのです。

こうした歴史を作り出す一つの原因であった霧社事件の地を、僕は2010年の秋に訪問しました。台湾のおばあさんたちの支援組織である婦援会が、おばあさんたちのためのワークショップを、台中の日月潭という湖のそばで開き、そこに日本から何名かで参加させていただいたのですが、そのとき、僕の霧社をみたいという要望を聞いたホエリンさんが、おばあさんたちを伴った霧社見学をスケジュールにいれてくれたのです。

実は軽い気持ちで頼んでしまったのですが、霧社はずいぶん、山の上にありました。いつまで続くのかと思われるワインディングロードをえんえんとあがった先に霧社はあった。おばあさんたちを乗せた車で、この悪路を走らせてしまって申し訳ないと思いながら、僕は80年前にこの道を、「蕃族」討伐のために重武装で登っていった日本軍のことを思いました。

どこまでも続く深い山、それこそ霧がかかり見通しの悪い山々で、日本軍の兵士たちは、その山を自由にかける民を恐怖したことでしょう。そうして山の民は、自分たちの愛する山の精霊に祈りながら、登り寄せる日本軍を撃退するために果敢に戦ったのでしょう。

やがて車が霧社までつき、蜂起のリーダー、モーナ・ルダオをまつる碑などをみながら、僕はそこで行われた戦闘について思いをめぐらせました。そしてその場ではじめて、これまでもご一緒してきたイアル・タナハアマアのお父さんが、彼女がまだお母さんのおなかの中にいたときに、この事件で命を落としたのだということを聞きました。お父さんがどのような立場で亡くなったのかまでは分かりませんでしたが。

ちなみにこの蜂起を起こした部族は長い間、タイヤル族であるとされてきました。しかし実際はそうではなくて、セーダッカ族という人々なのでした。セーダッカ族は日本の学者によってタロコ族とともにタイヤル族の一員と分類され、「セーダッカ」という部族名はなかったのです。ところが最近になって、セーダッカの人々の自己認識が高まり、自分たちは独立の民族であると主張しはじめ、それが認められて、「セーダッカ族」が誕生しました。つい最近のことです。

こうしたことを背景にこの霧社事件をモチーフにした映画が台湾で作られました。その名も「セデック・バレ」です。多くの無名の人々が俳優として抜擢されたそうですが、主人公の妻であり、ヒロインの「オビン」をビビアンスーが演じました。

ちなみにそのオビンにもっとも早くから親しくなり、ベーシックな聞き取りを行ったのが、東京でアマアたちを長らく支援してきた「台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会」の中村ふじゑさんでした。今回も同行している柴洋子さんのお仲間で、僕も台湾の旅を何度かご一緒しています。

このようなことがあって霧社事件は僕にとって歴史の中の一つの「事件」ではすまなくなりました。僕が直接に交わってきた人々の近親者が主人公だった「事件」なのです。その捉えかえしが台湾の中で進んでいますが、日本の中でそれに手を染めたのは(最近の研究は知らないのですが)僕は中村ふじゑさんだけだったのではないかと思います。

だから今、それを僕が担いたい・・・そう2010年の秋に思いつつ、しかしその後の原発事故で、研究が途絶えてしまっていたのでした。あるいは今回はそれを再開させる旅なのかもしれない。そんなことを考えながら、花蓮へと向かいました。

続く

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明日に向けて(549)篠山市、丹波市、舞鶴市でお話します!(9月27日、28日)

2012年09月24日 01時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120923 16:00)

明日から台湾に行ってきますが、帰ってきて、そのまま篠山市、丹波市、舞鶴市を訪問します。篠山市、丹波市は高浜原発から約50キロにある町、高浜町のとなりの舞鶴市はもっと近くて、20キロ圏内に入ってしまいます。
どちらもこの原発で深刻な事故が起こったら、大変な被害を被る町です。しかしご存知のように政府はその高浜町のとなりの大飯町で原発の再稼働を強行してしまいました。

この地域で想定される事故が恐ろしいのは、何といってもたくさんの原発が集合していることです。高浜、大飯、美浜、そしてその北にある敦賀半島には、敦賀原発ともんじゅがあります。福島第一原発事故が起きた時に、同時に第二原発や女川原発も危険な状態に陥りました。地震や津波が、広範な地域を襲ったからです。
そのためにこれらの地域では、こうした原発災害への備えを真剣に考えておく必要があります。まずは原発を止めることが一番大切ですが、政府が運転を強行している中で、では事故が起こったときにはどうするのか、本当に真剣に考えておく必要がある。
今回、とくに篠山市、丹波市ではこのことについて、みなさんと検討してきたいと思います。

同時に、すでにお知らせしたように、震災遺物(がれき)の広域処理が、なんと高浜町と敦賀市におしつけられようとしています。しかも急ピッチでそれが進められようとしている。原発をおしつけてきたところに震災遺物(がれき)を持ってくるのはなんとも許しがたい。
しかも持ち込まれようとしているのは、岩手県大槌町のもの。同町では、津波で壊された防波堤を作り直すために使いたい、鎮魂の森を作りたいと言っているにもかかわらず、こんなひどいことが強行されようとしているのです。
高浜町の隣の舞鶴市では、とくにこのことについて、みなさんと検討してきたいと思います。

お近くの方、どうかお越しください!
以下、案内を貼り付けておきます。

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守田敏也さんに聞こう!
原発50キロ圏内の私たちが知るべきこと

昨年の311東日本大震災から1年半。今もなお福島第一原発から大量の放射能が漏れ続けている。子どもたちは放射能を吸い込まないようマスクを付けて生活し、「外部被曝」を避けるために大好きな外遊びもできない。虫取り、川遊びなどはもちろんできない。そんな生活を強いられながら、見えない放射能と戦っている。そして「内部被曝」から子どもたちを守るために、周りの大人たちが日々の食事に気をつけ、体内に放射能を取り込まないように懸命の努力をしている。この現実を知っている人がどれだけいるだろうか?どれだけのメディが真実を報道しているのだろうか。

今この時も被曝している人がいることを忘れてはならない。

そんな取り返しのつかない事故の後、再稼働を始めた大飯原発。その大飯原発から50キロ圏内、丹波地方に住む私たちが「知るべきこと」「原子力災害対策」を守田敏也さんに学び、考えて活かしていきましょう。

守田敏也さん講演会

日時:9月27日(木)午後7時~9時
場所:篠山市民センター 1F多目的ルーム
兵庫県篠山市黒岡191 TEL:079-554-2188

資料代 500円

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守田敏也さんを囲んで

日時:9月28日(金)午前10時~12時
場所:丹波市柏原住民センター 2F会議室
兵庫県丹波市柏原町柏原5528
TEL:0795-72-2552

資料代 500円 託児あります(要予約)
080-2533-6972(足立)23日までにご連絡ください。

主催 『放射能から子どもを守る丹波ネットワーク』加盟団体
どろんこキャラバン★たんば実行委員会
丹波篠山避難移住者ネットワーク・こっからネット
新しい風プロジェクト
3.11を憶念する会
ピースたんば
つなぎ村こどもプロジェクト
NPO法人バイオマスフォーラムたんば
NPO法人風和

後援 篠山市 丹波新聞社

なおチラシは以下から見れます。
どろんこキャラバン☆たんば オフィシャルブログ
http://doronkocaravantanba.seesaa.net/

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今、一番に知っておかなければならない事があります。

守田敏也講演会
「子どもたちを放射能から守る」
~東北被災地のこと、内部被曝のこと、ガレキのこと~

9月28日(金)
午後6時半開場
午後7時開演

舞鶴市中総合会館(中央公民館)
舞鶴市余部1167

参加費無料(運営費カンパを募っています)

主催 がれきねっと若狭

共催 復興ミーティング
   子どもたちのふるさとを守る「ままコモ会」ほか

お問い合わせ(今井)
hadashi088i4rest@yahoo.co.jp

以下は舞鶴市民新聞社の記事です。
http://www.maipress.co.jp/menu/topix.html

 

 


 

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明日に向けて(548)台湾のおばあさんのこと・・・福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている(中)

2012年09月23日 10時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120923 09:30)

明日のお昼頃、関西空港から台湾に向けて飛び立ちます。27日までの短い旅です。
今回の旅の目的は、私たちの義理の親子のような関係にある呉秀妹阿媽(ウーシュウメイアマア)さんを訪ねることです。阿媽(アマア)とは台湾語で「おばあさん」のこと。秀妹阿媽と初めて出会ったのは2006年秋のこと。証言をしてもらうために京都にお招きしました。

そのとき大変、仲良くなり、2008年秋にもお招きしました。台湾にも何度か阿媽を訪ねていきました。阿媽は90歳を越えているのに、とても元気で好奇心も旺盛。新しいことを見ると何でも挑戦したがるとても可愛らしいおばあさんです。
ところが今年になってその阿媽が弱ってきました。だんだん衰弱してきて、ふっくらしていた顔がかなり痩せてしまった。夏になり、入退院を繰り返すようになり、ご飯もあまり食べれなくなったと聞きました。「これはお見舞いに行くしかない!」阿媽に「日本の娘」と呼ばれている連れ合いや、一緒に活動を担ってきた友人と相談し、急きょ、訪問を決意。
それを台湾に伝えたところ、阿媽はまた元気になってくれて、退院してくださり、自宅で私たちを待ってくれています。運の良いことに、阿媽の誕生日が9月24日なので、台湾の支援者も集まって、誕生日パーティーを開く予定です。

今回はそれとともに、花蓮というところにも行くことになりました。タロコ族の方たちが住んでいるところで、その中のイアン・アパイ阿媽が、秀妹阿媽が来てくださったときに、ご一緒してくださいました。これへの返礼として友人たちが2007年2月に花蓮を訪ねたのですが、僕は急用が入ってどうしても行けなかった。それだけに今回の訪問は嬉しいです。
この他、台中にも訪れて、やはり入院している他の阿媽をお見舞いします。この方は僕はお会いしたことがない方なのですが、新しく阿媽とお会いできるのもとても嬉しいことです。27日に関空に帰り着いて、そのまま兵庫県篠山市、丹波市、舞鶴市を訪れる慌ただしいスケジュールになってしまったのですが、阿媽たちと温かい時間を過ごしてこようと思います。

さて、今回、この阿媽たちのことを紹介したいと思うのですが、そのために2006年秋に、初めて阿媽たちをお招きしたあとに、僕があるところに書いた報告文を掲載することにしました。2006年12月に書いたものです。これを読んでいただけると、阿媽の人となり、また阿媽たちと接することの意味をご理解いただけると思うからです。長くなりますがどうかお読みください。

*****

台湾からアマアたちを迎えて 2006年12月
証言集会京都 守田敏也

「あなたの名前は何というんだい。名前を教えておくれ。名前が分からないから、今日はあなたのことを何て呼んだらいいか、分からなかったよ」
アマアたちに泊まっていただいた宿舎から、私が帰ろうとしたある晩のこと、呉秀妹(ウーシュウメイ)アマアが、パジャマ姿で玄関まで出てきて、こう語りだしました。アマアの話している言葉は台湾語、婦援会から付き添いできていた呉慧玲(ウーホエリン)さんが、英語で通訳してくれます。そこにみんなが集まってきました。
「あなた」とは私の連れ合いの浅井桐子さんのことです。彼女が「桐子と言うのよ」と答え、それが英語になり、台湾語になってアマアに伝わりますが、「きりこ」という発音は少し難しかったらしい。何度か「何て言うんだい?き・り・こ?」というやりとりが繰り返されました。やがてアマアは語りだします。「桐子は、今日は実の娘のようだったよ。こんなに優しくされたことはないよ。なのに私は名前も呼べなかったよ」。

この日、私たちは、アマアたちに秋の京都を楽しんでもらおうと、紅葉の名所として名高い鞍馬温泉にみなさんをお連れしました。そこに大阪での証言集会のために来日した、イオクソン・ハルモニが大阪の方たちと合流してくれました。
一行は、紅葉を楽しんだあとに、鞍馬温泉にゆっくりつかり、釜飯を食べて楽しい一時を過ごしました。その後に、蓮華寺というお寺によって抹茶を飲み、さらに衣料品店のユニクロによってショッピングも楽しみました。
宿舎に戻ってからは、アマアたちとハルモニを囲んで宴会を開き、シュウメイアマアも、かわいらしい美声を披露してくれた後のことでした。

「きりこはね。ずっと一緒にいてくれたんだよ。温泉でね、私の身体を洗ってくれたんだよ」「私はね、子どもが産めなかった。だからとても淋しかったんだよ。でも今日は実の娘がいるようだったよ。こんなに嬉しい日はなかった。」そう語りながら、シュウメイアマアは、ポロポロと涙を流します。
「洋服のお店でね。きりこは私のそばにいて選んでくれたんだよ。ホエリンはどこかにいってしまったよ。でもきりこがずっとそばにいたよ」。
私が語りました。「アマア、僕もね、もうお母さんがいないんだよ。だからアマアのことを本当のお母さんだと思っているよ」「ここにいるみんながね、アマアの娘や息子だよ」。すると若い仲間たちから「違う、違う、私たちは孫だよ」という声が出て、その場に笑いの渦がおこります。

「そうかい。そう思ってくれるかい。でもね、私は貧しいんだよ。息子や娘のお前に何もしてやれないよ」アマアはまたそういいながらポロポロと涙を流します。「いいのよ。こうして来てくれただけでいいのよ」と浅井さんが返すと「でも私は何かをしてあげたいんだよ」とアマア。「それなら台湾に行くから、アマアの手料理を食べさせて」。そう私が答えると「私は料理が上手じゃないんだよ。おまえたちにおいしいものを食べさせてあげられないよ」と言う。
「いいんだよ。何でもいいんだよ。台湾に会いにいくよ」。アマアは「ウン、ウン」とうなずいて、また涙を流しました。周りのみんなももらい泣きしながら、笑顔が絶えません。そのままゆっくりと時が過ぎて行きます。

やがて私は車に乗り込み、自宅に向かいました。ハンドルを握り、暗闇の中に照らし出された道路に目を凝らしながら、「ああ、良かったなあ」という気持ちがこみ上げてくることを感じました。アマアたちに京都に来てもらい、証言をしてもらうのは、直接には政府の謝罪を引き出して、この問題の解決を目指すためですが、今すぐそれを実現することはあまりに難しい。ならばせめて、アマアたちに日本に来て、自分の思いを語って良かったと思って欲しい。日本の若者が分かってくれた、思いが伝わったと感じて欲しい。そのために、心を尽くしたおもてなしをしよう。それが私たちのグループが心がけて来たことだったからです。
この日は来日から3日目。まだスケジュールの後半が残っていましたが、今回のアマアたちとの出会いが、すでに素晴らしいものになりつつあることを、私は感じていました。あと2日間、何でも望みを叶えてあげたいなと思いながら、私は車を走らせました。


「今度は台湾からおばあさんたちを呼ばない?」
そんな話が私たちの間で出てきたのは、2005年秋に、フィリピンからピラール・フリアスさんをお招きした前後のことでした。
私たち証言集会京都がスタートしたのは、2004年の春。この年は韓国から、イ・ヨンスハルモニをお招きしました。翌年、春にも、桜咲く京都を楽しんでいただきたくて、彼女に来ていただき、秋にはフリアスさんをお呼びしました。
春過ぎから準備として、フィリピンのことに関する学びを深めましたが、それぞれの国や地域によって、同時にまた連れ去られた戦場によって、被害女性の辿った体験が、大きく違うことを私たちは学びました。

一方で、辛い過去を、勇気を持って告発し、社会的正義の実現を求めて行動しているおばあさんたちには、共通の、深い、人間愛があることを感じました。このような経験を経たあとだったので、ある方から「台湾は支援組織もしっかりしていて、ユニークな活動を行っている。お呼びしてみては」と持ちかけられたとき、私たちは、二つ返事で応じることにしました。違う地域のおばあさんたちと交流することで、より私たち自身が成長できるようにも感じたのです。

台湾からお招きすることを決めてから、私たちはまず台湾の歴史を学び始めました。すぐさま分かったことは、私たちがほとんど何も台湾のことを理解していないことでした。またそこには台湾の複雑な歴史の問題自身も横たわっていることを知りました。
自分たちで文献を探したり、大学の研究者をお招きしてレクチャーを受けたり、台湾からの留学生と交流して話を聞いたり、いろいろな角度から学びを深めましたが、その中で私自身は、1997年に発行された『台湾を知る(原題は認識台湾)』という台湾国民中学歴史教科書の日本語版と出会いました。

そこにはこう書かれていました。「1997年の台湾で、大きな話題になった一つが、初めての台湾史教科書(国定)、つまり本書の登場である。「初めて」というと、日本人には意外かもしれないが、実は台湾の学校教育で、これまで「本国史」として教えるのは中国大陸の歴史だけだったのである」「この国における「民主化」とは文字通り、台湾の「民」がよその土地から来た政権の統治から脱却し、初めてこの島の「主人公」になったことを意味している。」
つまり台湾の人びと自身にとっても、歴史は、ようやく自分たちの手で書き始められたところなのでした。日本の植民地時代への評価も含めて、台湾では今、歴史の捉え返しが進行中であることが分かりました。

しかしそのことに触れて、私は考えてみれば、日本も大して変わらないという気持ちを強く持ちました。とくに現代史について、日本の学校ではまともに教えていません。第二次世界大戦についてもそうです。それどころかわずかに教科書にあった性奴隷問題に関する記述も、なくなりつつあります。
それは同時に、太平洋戦争末期において、アメリカが行った大量虐殺の歴史が不問にふされていることも意味します。今、日本は世界中でも際立った親米国家ですが、アメリカには広島・長崎に原爆を投下され、沖縄は島民の三分の一が亡くなる上陸戦をしかけられ、さらに全国80以上の都市が、空襲によって焼け野原にされました。
私はそのことを、アメリカに謝罪させる必要があると思っています。アメリカは民間人の大量虐殺であった原爆投下も、都市空襲も、いまだに悪かったとすら思っていないからです。そして朝鮮、ベトナム、アフガン、イラク等々、大量虐殺の戦闘を繰り返し続けています。

このことを不問に付して来たことと、日本のアジア侵略の徹底した反省を深められなかったこと、そのもっとも非人間的なあらわれである性奴隷問題に、政府の真摯な謝罪がなされていなことは、密接にからみあっているのではないか。私はそう思うのです。
私自身、広島原爆後に、陸軍兵士として救助にかけつけながら、爆心地に入らなかったために二次被曝をまぬがれた父と、東京深川に生まれ育ち、東京大空襲の爆心地にいながら奇跡的に助かった母の間から生まれた子どもです。その私のルーツを探ることと、アマアたちの受けた傷をとらえかえしていくことは一つにつながっている。台湾の歴史を捉え返し、書き換えて行くことは、私たちの歴史を書き換えることであり、よりよきアジアの未来を探ることだと感じたのです。


さてそのような準備を経ながら、だんだんと予定の日にちが近づきだしました。私たちは、台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会の柴洋子さんと連絡を取り、台湾のアマアたちのことをさまざまに教えてもらい、やがて婦援会のホエリンさんと直接メールのやりとりを始めました。
10月には二人のアマアと、ホエリンさんが埼玉を訪れるになったので、メンバーの浅井さんと村上麻衣さんが埼玉まででかけ、たくさんのことを学んで帰ってきました。
ホエリンさんとの連絡のメールは、浅井さんが担当しましたが、私が英訳を行ったので、だんだん自分がメールのやりとりを行っている気持ちになってきました。

ところが来日が迫ってくるのに、なかなか来られる方が決まりません。こちらはアマア一人と付き添いの方一人分の旅費を用意していると伝えていたのですが、決まらないのです。スケジュールのディティールを教えて欲しいというので、証言集会のあとにウェルカムパーティーを用意していることや、鞍馬温泉へ遊びにいくこと、証言は他に仏教大学にいくこと、観光にも案内することなど、一緒に楽しみたいことを伝えようとしました。
それに対する回答は、なんと3人のアマアがやって来るとのことでした。さきほど紹介した呉秀妹さん(91歳)と、陳樺(チンホア)さん(83歳)、イアン・アパイさん(78歳)です。それにホエリンさんの他、楊麗芳(ヤンリーファン)さん、高秀珠さんが付き添ってくるとのこと。2人の予定が6人です。渡航費用は2人でいいとのことでしたが(後に台湾政府から援助が出ていることを教えてもらいました)、これには驚きました。
「えーい、やるしかない」と決断。すぐさま車の手配などに入りました。大きなレンタカーを借りる、2台、いや3台の車を使うなど、候補が二転三転します。

と、ところが、肝心のフライトスケジュールがこれまたなかなか決まらない。迎えに行く時間がきまらず、車の手配ができません。いやそれどころか本当に来日できるのか、だんだん不安になってきます。
ホエリンさんに問い合わせたところ、どこかのんびりした回答が帰ってくる。それが一層不安を募らせるのですが、間際になって彼女からのメールにも焦りが反映しだします。「まだチケットが取れないので、スケジュールの確定はもう少し待って欲しい」そんなメールが届きましたが、とうとう直前になって「帰りのフライトがまだ取れません。ここまできたら、私たちが行けるかどうかは運にかかっています」というメールが。しかも“See you soon”(直訳は「すぐにお会いします」)と結ばれていたメールが“I hope see you soon”(直訳は「すぐにお会いできることを願っています」)に変わっている。ホ、ホープ?
結局、このメールを最後に、連絡は途絶え、不安を抱えながら関空まで出迎えることになりました。最悪の場合、埼玉の集会のときに撮ったビデオを流すしかないと腹をくくりつつ、空港に向かいましたが、そこには一行6人がちゃんと来て下さいました。合流できた時の嬉しさは一塩でした。

その後に、怒濤のような毎日が始まりました。その詳細は取材日記として書かせていただいて、台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会のホームページに載せていただきましたので、それにゆずりますが、とにかく毎日がハプニングの連続でした。
もっとも意外だったのは、アマアたちが3人ともとても元気だったこと。行動力があり、好奇心旺盛で、体力も抜群でした。高齢のおばあさんたちだからと、ふんだんにとってあった休憩時間は、すべて何かのスケジュールに変えられました。ホエリンさんが“Morita-san, Do we have time?”と尋ねてきては、あれをしたい、これをしたいと話してくるのです。その横でおばあさんたちが目をキラキラさせている感じがして、その都度、ご要望に応えることになりました。
今から思えば、アマアたちの身体の調子や疲れ具合を一番知っているのがホエリンさんでしたから、ざっくばらんに要望を出してもらえてとても良かった。結果的に、楽しそうにはしゃぐアマアたちの顔をたくさん見ることができました。紅葉や金閣寺を見て、日本語で「きれい、きれい」と語るアマアたちの顔、ショッピングにでかけて、たくさんの洋服を手につかんで、夢中になっている顔、どれも今でも思い出すと楽しくなります。

肝心の証言は、私たちの集会と、仏教大学での講演会の都合2回お話してもらいましたが、どれもが尊厳に溢れていて、強く感動させていただくものでした。そのすべてをご紹介したいところですが、あえてそのうちの一つを紹介したいのは、陳樺(チンホア)アマアの証言です。なぜなら彼女は、今回が初めての証言だったからです。とくに圧巻だったのは、二度目になる仏教大学でのお話でした。

彼女はフィリピンのセブ島に連れて行かれ、性奴隷の生活を強制されました。それだけでなく、フィリピン奪回のために大軍で押し寄せたアメリカ軍と、日本軍の戦闘に巻き込まれ、地獄のような戦場をさまよいます。私はフィリピンからフリアスさんをお招きする過程で、このセブ島やその対岸のレイテ島などで戦った、旧日本軍兵士のおじいさんからの聞き取りも行っていたため、とくにその背景がよく見えるような気がしました。
 
陳樺アマアは、戦闘の激しさを身振り手振りで表現しました。米軍は海から凄まじい艦砲射撃を加え、さらに徹底した空襲を加えて日本軍を圧倒していくのですが、アマアはそれを「かんぽうしゃげき」と日本語で語り、「パラパラパラ」と空襲や米軍の銃撃の様子を伝えました。装備の手薄な日本軍兵士とて、鉄兜ぐらいはかぶっています。そのなかを粗末な衣服で逃げねばならなかったアマアのみた地獄はどのようなものだったでしょうか。

そればかりか彼女たちは弱ったものから次々と日本軍に殺されていったのです。そして20数名いた彼女たちはとうとう2人になってしまいます。そこで米軍に投降した日本軍とともに米軍キャンプに収容されるのです。
ところがそこまで一緒だった女性が、そのキャンプの中で日本兵に殺されてしまいます。そのことを語りながら、アマアは号泣しました。過酷な地獄を励まし合って逃げたのでしょう。その友の死を彼女は、泣いて、泣いて、表現しました。
聞いている私も涙が止まりませんでした。20数名のなかの1名の生き残りは、この地域の日本軍兵士の生き残り率と気味が悪いぐらいに符合します。日本軍が遭遇した最も過酷な戦闘の中にアマアはいたのです。

この話を聞いているときに、私は不思議な気持ちに襲われました。被害女性たちが共通に受けたのは、言うまでもなく男性による性暴力です。その話を聞くとき、男性である私は、いつもどこかで申し訳ないような気持ちを抱かざるを得ませんでした。いや今でもやはりその側面は残ります。私たち男性は、自らの性に潜む暴力性と向き合い続ける必要があるのです。
私たちの証言集会では、このことを実行委メンバーの中嶋周さんが語りました。「男性ないし、自らを男性と思っている諸君。われわれはいつまで暴力的な存在として女性に向かい合い続けるのだろうか」「われわれは、身近な女性の歴史を自らの内に取り込んでいく必要がある。まずは女性の歴史に耳を傾ける必要がある」。すごい発言だなと思いました。正直なところ進んでいるなと思いました。そうあるべく努力をしてきたつもりでも、どこかでそこまで自信を持っていいきれないものが私の内にはある。

ところが戦場を逃げ惑う陳樺アマアの話を聞いているうちに、私にはそれが自分の身の上に起こっていることのように感じられました。まるで艦砲射撃の音が聞こえ、空からの攻撃が目に映るようでした。そして友の死。その痛みが我がものとなったとたん、それまでのアマアの痛みのすべてが自分の中に入ってきました。
騙されて船に乗せられ、戦場に送られ、レイプを受ける日々の痛みと苦しみ。同時にそこには、これまで耳にしてきた被害女性全ての痛みが流れ込んでくるような気がしました。私は私の内部が傷つけられ、深い悲しみに襲われました。そのとき私は、男性でも女性でもなく、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、台湾人でもなく、同時にそのすべてであるような錯覚の中にいました。陳樺アマアの体内に滞ってきた悲しみのエネルギーの放出が、私に何かの力を与え、越えられなかったハードルがいつの間にか無くなっていくような感じが私を包みました。
残念ながら、その感覚はすでに去り行き、私は今、やはり男性で日本人です。しかしあのとき垣間みたものを追いかけたいとそんな気がします。そこにはここ数年、この問題と向かい合う中での、私の質的変化の可能性がありました。今はただ、それを私に与えてくれたアマアのエネルギーに感謝するばかりです。

このようにしてアマアたちをお迎えした5日間は、あっという間に過ぎて行きました。それは夢のような素敵な日々でした。私たちは今、来京へのお礼をするために、2007年2月に台湾を訪問することを計画中です。
どなたとの再会も楽しみですが、とくに私が心にかけているのは、イアン・アパイアマアの山を訪れることです。アパイアマアは、独特の尊厳あふれる風貌を持ち、その上、いつも静かに笑っている方でした。その横に、アマアと同じ苦しみを受け、痛みを分け合ってきながら、先年、亡くなられた雷春芳(レイチュンファン)アマアの娘さんの高さんが寄り添っていました。
今回の短いお招きでは、タロコ族のなかで、被害女性として生きてきたアマアの思いに、十分、耳を傾ける時間を持つことができませんでした。それをアマアの愛する山に行って聞けたらと思うのです。そしてそのお話も、きっといつかまた、私の体内に流入してくるでしょう。

私たちは、彼女たちの受けた苦しみを、私たちの中に取り込むことで、人間的に豊かになり、平和を紡いでゆく力を、私たちの中に育んでいけるのだと思います。その可能性に触れることができることは喜びであり、誇りでもあります。そのことをしみじみと感じることのできた経験を、私は積極的に生かしていきたいと思います。

続く

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明日に向けて(547)今こそ私たちはアメリカから独立すべきだ!

2012年09月22日 08時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です(20120922 08:00)

このところ、アメリカによる東京大空襲や原爆投下が正されてこなかったこと、だから今こそ、正さねばならないことを論じてきました。またそのためには私たち自身が、自分たちの国の侵略の歴史も正さなければいけないということも論じ、旧日本軍性奴隷問題にも触れてきました。

今日はその続きを書こうと思っているのですが、重大なニュースが飛び込んできたので、先にそれを論じておこうと思います。今朝の東京新聞が一面トップで報じていることです。記事のタイトルは「原発ゼロ「変更余地残せ」閣議決定回避 米が要求」です。

ご存知のようにこの間、野田内閣は「二〇三〇年代に原発稼働ゼロ」をうたいだしました。これは度重なる首相官邸前行動など、広範囲に広がった「原発再稼働反対」の動きに耐えられなくなったが故の譲歩としてなされたものです。民意が政府を動かしだしたのです。

もちろんこの「原発稼働ゼロ」宣言は、随分、怪しいシロモノです。何より原発を止めても再処理は続けるのだと言っている。再稼働は、通常の原発よりももっと危険で、なおかつ実用化のめどなどまったく立っていない高速増殖炉の燃料(プルトニウム)を使用済み燃料から抽出する作業です。

どう考えてみても、「原発稼働ゼロ」と「再処理継続」は論理的に整合しません。その意味で「原発稼働ゼロ」宣言には真実味がないし、誠意がありません。しかもかりに本気でこれが目指されているのだとしても、三〇年代では遅すぎる。今すぐ、大飯原発を止め、すべての原発を廃炉にすべきです。

その点を踏まえて、しかしそれでも政府に、原発稼働ゼロを目指すべき目標として掲げさせたことは、私たちの度重なる行動が作り出した成果であり、未来にむけた展望が少し拓けだしたことを物語るものでもあります。さらに政府にすべての原発の即時廃炉を求めていく必要があります。


ところがこれになんとアメリカがいちゃもんをつけてきたというのです。それで野田政権が折れてしまい、「原発稼働ゼロ」の閣議決定が見送られてしまった。アメリカに脱原発の道が捻じ曲げられたのです。このアメリカの横暴をゆることはできません。

東京新聞によれば、アメリカは一つに「将来の内閣を含めて日本が原発稼働ゼロの戦略を変える余地を残すよう求めた」のだそうです。また「核技術の衰退による安全保障上の懸念なども表明した」とも報じられています。アメリカの意図ははっきりとしています。核戦略を守り抜くことです。

そのために日本政府に圧力をかけてきた。そうして政府はたやすく屈してしまった。繰り返し言いますが、僕は右翼ではないけれども、こういうのは「屈辱的」というのだと思います。これらからはっきりとしたことは、こうした横暴なアメリカの傘下にいる限り、私たちは平和と安全のための自主決定ができないということです。

ではどうしたらいいのか。今こそ、まさに、真の意味で、アメリカから独立することです。では独立するとは何を意味するのか。ほかならぬ私たち民衆がもっとパワーをつけ、政府をアメリカに屈させなくすることです。いやそれだけでは足りない。アメリカの嫌がる方向に私たちは歩む必要がある。

嫌がる方向とは脱核戦略の道です。そのためにはアジアをはじめとした近隣諸国との友好関係を私たちは自ら推し進めていく必要があります。だからアジア侵略の真摯な捉え返しも必要になるのです。そしてそれをしながらアメリカの戦争犯罪を訴えること、原爆投下や都市空襲、沖縄地上戦による無差別殺戮の非を問うことが必要です。

いや、それだけではない。タリバン政権に、証拠も示さずに「アサマビンラディン」を差し出せと迫り、それが拒否されただけで全面侵攻を行ったアフガニスタン侵略戦争、さらに「大量破壊兵器」など何もなかったのに、その「破壊」を名目に行ったイラク侵略戦争、その非も問わなくてはいけません。

大事なのはそのイニシアチブを握る民衆的力をさらに育て上げることです。まさにPower to the people!です。僕はそれで何も政権をとらなくたっていいと思う。どんな政権が登場しようが、民衆の力を無視できなくさせること、それだけの力を持つことです。今、私たちが示している力を育てれば絶対にそれは可能です。

先に変わるのは議会ではありません。議員とは民衆の後ろからついてくる人たちです。同じように大新聞の紙面を変えるのが先ではない。大新聞もまた民衆の後ろからついてくるのです。それを雄弁に物語っているのがこの間の首相官邸前動です。国会議員の誰があれを呼びかけたでしょうか。どの新聞が呼びかけたでしょうか?

呼びかけるどころか、大新聞は、首相官邸前行動が数万人に膨れ上がるまで報道すらしなかったのです。10万人を超えたぐらいからやっと報道し始め、さらに20万近くになると、例えば朝日新聞が、「なぜ首相はこの声を聞かないのか」とか書き出した。自分たちもつい数週間前まで無視していたことを忘れてです。

いわんや国会議員など、何の役にもたちはしなかった。民衆の力が強まって初めて声をあげられたのです。だからももうそれはいいのです。国会議員や大新聞に何かができるのなら、この国はとっくに良くなっていたのです。国会の場から、マスコミの場から世の中が変わるなんてことはありえない。世の中が変わる中で変わるのが国会とマスコミです。

だから私たちは、私たちの側からのさまざまな行動を重視しましょう。もちろん、その中に議員や、マスコミを動かすということはあります。またこの問題を一面トップで掲げた東京新聞のように、大新聞の狭間で頑張っているマスコミもある。それは私たちの仲間です。マスコミの内部で奮闘している記者さんたちもそうです。

横に、横にと手を広げ、手をつなぎ、私たちの足元のパワーを強めましょう。あらゆる意味でアメリカの横暴に負けない力を培いましょう。大地を耕し、農の営みをたくましくして、アメリカ流の市場万能主義に負けてしまわないのも大事なことです。地に根をはり、心を強くし、そうして私たちを逞しくしましょう。

まさに今こそ、アメリカからの独立を!暴力がはばをきかせる野蛮で理不尽な世、暴力の世紀を終わらせる可能性が大きく開けつつあると僕は思うのです!

 

以下、東京新聞を引用しておきます。

*****


原発ゼロ「変更余地残せ」 閣議決定回避 米が要求
 
2012年9月22日 07時07分 東京新聞
 
野田内閣が「二〇三〇年代に原発稼働ゼロ」を目指す戦略の閣議決定の是非を判断する直前、米政府側が閣議決定を見送るよう要求していたことが二十一日、政府内部への取材で分かった。米高官は日本側による事前説明の場で「法律にしたり、閣議決定して政策をしばり、見直せなくなることを懸念する」と述べ、将来の内閣を含めて日本が原発稼働ゼロの戦略を変える余地を残すよう求めていた。

政府は「革新的エネルギー・環境(エネ環)戦略」の決定が大詰めを迎えた九月初め以降、在米日本大使館や、訪米した大串博志内閣府政務官、長島昭久首相補佐官らが戦略の内容説明を米側に繰り返した。

十四日の会談で、米高官の国家安全保障会議(NSC)のフロマン補佐官はエネ環戦略を閣議決定することを「懸念する」と表明。この時点では、大串氏は「エネ戦略は閣議決定したい」と説明したという。

さらに米側は「二〇三〇年代」という期限を設けた目標も問題視した。米民主党政権に強い影響力があるシンクタンク、新米国安全保障センター(CNAS)のクローニン上級顧問は十三日、「具体的な行程もなく、目標時期を示す政策は危うい」と指摘した。これに対して、長島氏は「目標の時期なしで原発を再稼働した場合、国民は政府が原発推進に突き進むと受け止めてしまう」との趣旨で、ゼロ目標を入れた内閣の立場を伝えていた。また交渉で米側は、核技術の衰退による安全保障上の懸念なども表明したという。

エネ環戦略は十四日に決めたが、野田内閣は米側の意向をくみ取り、「エネ環政策は、柔軟性を持って不断の検証と見直しを行いながら遂行する」という短い一文だけを閣議決定。「原発稼働ゼロ」を明記した戦略そのものの閣議決定は見送った。

大串、長島両氏は帰国後、官邸で野田佳彦首相に訪米内容を報告している。

政府関係者は「事前に米側に報告して『原発稼働ゼロ』決定への理解を求めようとしたが、米側は日本が原発や核燃サイクルから撤退し、安全保障上の協力関係が薄れることを恐れ、閣議決定の回避を要請したのではないか」と指摘している。

◆「判断変えてない」大串政務官

原発ゼロをめぐる米国との協議について、大串博志内閣府政務官は二十一日、本紙の取材に対し「個別のやりとりの内容は申し上げられないが、米側からはさまざまな論点、課題の指摘があった。米側からの指摘で日本政府が判断を変えたということはない」と話した。

◆骨抜き背景に米圧力

<解説> 「原発ゼロ」を求める多数の国民の声を無視し、日本政府が米国側の「原発ゼロ政策の固定化につながる閣議決定は回避せよ」との要求を受け、結果的に圧力に屈していた実態が明らかになった。「原発ゼロ」を掲げた新戦略を事実上、骨抜きにした野田内閣の判断は、国民を巻き込んだこれまでの議論を踏みにじる行為で到底、許されるものではない。

意見交換の中で米側は、日本の主権を尊重すると説明しながらも、米側の要求の根拠として「日本の核技術の衰退は、米国の原子力産業にも悪影響を与える」「再処理施設を稼働し続けたまま原発ゼロになるなら、プルトニウムが日本国内に蓄積され、軍事転用が可能な状況を生んでしまう」などと指摘。再三、米側の「国益」に反すると強調したという。

当初は、「原発稼働ゼロ」を求める国内世論を米側に説明していた野田内閣。しかし、米側は「政策をしばることなく、選挙で選ばれた人がいつでも政策を変えられる可能性を残すように」と揺さぶりを続けた。

放射能汚染の影響により現在でも十六万人の避難民が故郷に戻れず、風評被害は農業や漁業を衰退させた。多くの国民の切実な思いを置き去りに、閣議での決定という極めて重い判断を見送った理由について、政府は説明責任を果たす義務がある。 (望月衣塑子)

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012092290070744.html

 

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明日に向けて(546)福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている(上)

2012年09月21日 17時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120921 17:00)

昨日、東京大空襲のことを書いたところ、幾人の方から共感のメッセージが届けられてありがたい気がしました。それでもう少しこの点について述べたいと思います。その際、長野県千代田湖で行われた「ちいさないのちのまつり」での自分の発言を紹介することにしました。

この発言は、まつりの主催者の田村寿満子さんに「触れて欲しい」と頼まれて挿入したものです。もちろん僕にとっても強く訴えたい点です。またこの中にも出てきますが、実は9月24日から27日に緊急に台湾に行くことになりました。旧日本軍性奴隷問題の被害女性を見舞うためです。

台湾から戻るのが27日で、そのまま兵庫県篠山市に向い、丹波市、舞鶴市と連続講演を行うことになりますが、なぜこの時期に台湾に行くのかについても発言に続いてみなさんに紹介しておきたいと思います。

まずは9月9日の「ちいさないのちのまつり」での僕の発言を掲載します。なおタイトルは、掲載に合わせてつけたものです。

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福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている
~「ちいさないのちのまつり」での発言から~

1、核兵器開発から生まれた原子力発電

放射線の問題を辿っていくと、どうしても軍事問題にいきあたります。放射線学自身に非常に強い圧力が入っています。政治によって、軍事によって歪められています。それはなぜか。放射線を使ったものが兵器から発展してきたからです。原子炉もそうです。もともと原子炉はプルトニウムを作る装置です。

核分裂はウランに中性子があたって行われますが、自然界の中のウランで核分裂するのは0.6%しかない。あとは核分裂しないウランです。ところがそこに中性子が取り込まれると、新しい物質が生まれます。それがプルトニウムなのです。プルトニウムの方がウランよりも核分裂性が高い。

そのためプルトニウムで作った原子爆弾の方が性能が高い。それでプルトニウムを作るためにできた装置が原子炉なのです。アメリカでは発電所と軍事工場を分けています。そして軍事工場のことはちゃんと「プルトニウム生産炉」と言っています。

ところがこのプルトニウムを作るときに、さきほど述べたように自然界の中には、核分裂するウランは0.6%しかありません。この0.6%のままでは核分裂を連続で起こさせることが難しい。なので比率を上げなくてはいけない。これがウランの濃縮です。

「北朝鮮が濃縮ウランの製造に成功」などというニュースが流れたことがありますが、なぜこれがニュースになるのかというと、濃縮に成功すると、それを原子炉にいれて回転させれば、プルトニウムができるからです。しかし濃縮はなかなか難しい。300ぐらいの工程を経るそうです。

こういう技術的に難しいものは、ごく少量だけを作るのも難しい。いったん工場を立ち上げて回してしまうと、そのまま運転しないと大きなロスを生むことになるのです。運転を止めて、また立ち上げるのに随分時間がかかるからです。1950年代の技術だと3ヶ月ぐらいかかってしまっていた。

そのため、核戦争体制を継続するためには、工場を経常運転するのが理想なのです。ところがそうすると濃縮ウランが膨大にできてします。とても全部を核兵器では使いきれない。だからその需要先が欲しかったのです。それででてきたのが「原子力の平和利用」です。それが原子力発電なのです。

しかも原子力発電を一番最初に搭載したのは潜水艦です。核ミサイルを搭載したものです。当時、アメリカとソ連はどういうことでしのぎを削っていたのか。相手の核ミサイルがどこにあるかを把握することです。先にそれを叩けば有利になるからです。

そうなると発射地点を相手に察知されないことが大事になる。理想的なのは潜水艦だったのです。海の中にいるとどこにあるのか分からない。ところがそれまでの潜水艦は重油で走っていたので、油がなくなるとすぐに浮上してきます。そのときに見つかってしまう。

そのためにごく少数のウラン燃料を搭載して、ずっと浮上しないで潜っていられる原子力潜水艦の開発が重要になったのです。つまり原子炉は核戦略の中で生まれたわけですが、最初の原子力発電も、核兵器体系の開発の中で生まれたのです。そしてそれを応用した原子炉がマーク1型だといいます。福島の原発に投入されたものです。

なので原子炉の由来自身も、核戦略のもとづくものだし、原子力発電も、ウラン濃縮を支えるために普及が目指されたのです。しかもアメリカにとって、それを日本で広げることが重要だったのです。なぜか。日本が被爆国だからです。被爆者のたくさんいる日本が、原発を進めることが「原子力の平和利用」の一番いい象徴になるからです。

したがってもともと原子炉は、採算など度外視の産物なのです。軍事ほど、採算を考えないものはありません。さらに環境のことなどまったく考えていません。みなさん、「環境に優しい戦闘機」とか聞いたことがあるでしょうか。「環境に優しい基地」とかありえないですよね。一番、環境を度外視しているのが軍事です。

そのように作られてきたのが原子力発電なのだということを、みなさん、ぜひ押さえてください。


2、戦争犯罪が見過ごされてきた

さらにですね、僕は実はアメリカのことを訴えなければいけないとずっと思っているのです。あのような原爆を落として、未だにアメリカは悪いことをしたとは言っていません。僕はアメリカ軍の原爆投下は、日本軍の南京虐殺と同じ戦争犯罪だと思っています。ところが南京虐殺に対しては右翼の人たちは、そんなことはなかったとけしからんことを言います。

そんなことはまったくの嘘ですが、しかし右翼の人々でも、南京虐殺を正しかったとは言わないのです。ところが原爆はどうか。あったかなかったかなど、論争になっていませんよね。あって当然、落として当然、それでアメリカ兵士50万人を救ったのだといまでもいい続けています。

右翼の人は何の反論もしませんが、僕はこれは絶対にひっくり返さないといけないと思っています。日本全土で行われた大空襲もそうです。80以上の無防備な都市がやられたのです。僕の母は東京深川の生まれで、310大空襲の爆心地にいて、本当に奇跡的に助かっているのですね。

みなさん、寅さんの映画を見たことがありますか。あの映画の登場人物の話す言葉を思い出してください。江戸っ子弁です。ああいう言葉をしゃべっている下町の人々の頭の上に、アメリカは焼夷弾をばら撒いたのです。しかも最初にマグネシウムの入った焼夷弾を落として消防車を集結させたのです。それで消防車をやっつける。

その次に行なったのは、焼夷弾で火の壁を作ることでした。それを幾つも作っていく。そうするとその間は火炎地獄になるのです。それで母が言いました。「火の玉が機関車のように転がっていった」。つまり燃え移るのではないのです。火の玉が飛び移るのです。それで一晩で十万人が焼き殺されました。

広島・長崎とどちらが酷いか。それはもう究極の選択の問題ですね。ただし一晩の死者の数では東京大空襲の方が多いのです。しかしどちらが酷いとかいっても意味のないことだと思います。

こうした数々の空襲に対して、アメリカは何も詫びてないのですよ。しかもこれは行なったのは、カーチス・ルメイという将軍です。彼の前の将軍は、市街地は爆撃してはいけないとこだわって、工場だけを爆撃しようとしたのです。兵士の安全も考えて、高高度から爆撃していた。

カーチス・ルメイはそのやり方は手ぬるいと言って、低空で市街地に侵入して焼夷弾を徹底してばら撒きました。彼はそれで出世しました。それでその後に何をしたのか。原爆の投下、さらに朝鮮戦争における北朝鮮の爆撃、そして北ベトナムの爆撃です。

しかもこのカーチス・ルメイに日本政府は旭日大勲章という最高の勲章を送っているのです。まあ、別に僕が「最高」と思っているのではありませんが、なぜそれを送ったのかというと、日本の航空自衛隊の育成に貢献したからだそうです。日本本土空襲の最高責任者カーチス・ルメイに対して、私たちの国は勲章を送っているのです。

僕は右翼ではないですが、国辱という言葉を使うのだったら、こういうときではないかと思うのですね。

そういうことがずっとないがしろにされてきました。そしてこの戦争犯罪を反省しなかったアメリカが、次々と同じ戦争犯罪を犯してきたのです。今でもアフガニスタンやイラクで続いています。私たちはだからそういうことを止めることを本気になって考えなくてはいけません。

そして止めることを考えるときに、同時に私たちの国の側も、侵略戦争を行ってきたことを考えることがとても大事だと思うのですね。僕はいわゆる軍隊慰安婦問題(旧日本軍性奴隷問題)にずっと関わって、多くの被害者のおばあさんたちと親しくしてきました。今、台湾で96歳のおばあさんが非常にしんどくなっているので急きょ、24日から台湾にお見舞いに行くことにしました。

彼女たちは、僕が日本人として、「おばあさん、ごめんね」と言うと、「なんであんたが謝らなければいけないの。悪いのは日本の軍人だよ。あんたは謝る必要はない。あんたは好きだよ」と言ってくれるのです。「日本人は大好きだよ」と必ず言ってくれるのです。「だから二度と若い人たちに苦しい思いをして欲しくない」とそう言っているのです。

だからみなさん、私たちが糾弾されているのではないのですよ。当時の軍人と罪を認めない政府が糾弾されているのです。だから彼女たちは私たちの味方なのです。日本人が権利をきちんと言えなかった政府に抗議を行ってくれている唯一の方たちなのです。そこを理解して欲しいのですね。

日本の軍人、兵士も本当に酷い目に合わされました。ゴミのように扱われました。漫画家の水木しげるさんが、『総員玉砕せよ』という作品を書いています。ラバウルで玉砕を強いられた兵士たちの話です。名著なのでぜひ読んでください。その冒頭が慰安所のシーンから始まっています。

日本軍の兵士たちにも人権などありませんでした。酷い状態でした。だけれどもその兵士たちの間にたまった矛盾をはらすために、彼らは慰安所に連れていかれたのですね。慰安所はもともとなぜ作られたのかというと、兵士が、普段、ものすごい虐待を受けているので、野に放つと凶暴化して、略奪や殺人、レイプを頻発させたからです。

このレイプの頻発に対して日本軍は困ったのです。何を困ったのだと思いますか。レイプをすることで性病にかかる兵士が多かったのです。兵士として使い物にならなくなる。それで兵士が性病にかからないように作ったのが慰安所だったのです。だから慰安所には処女の女性たち、女の子達が連れてこられたのです。

そうした歴史の流れ、その中で正されてこなかったものの流れ、アメリカの今も止まらない横暴、その流れが、僕は原子力発電所に集中していると思います。ある意味では福島原発事故はその象徴だと思うのですね。

だからこの事故の問題を何とかしていくということの中に、私たちが歪んだ過去をただし、本当に幸せで豊かな世の中を作ることを考えなくてはいけないし、そのために、広島・長崎に原爆が投下されて以降、被爆者の方たちがどんな立場に置かれたのかも見つめ直さなくてはいけないと思います。

これがきちんとできなければ、福島の人々、いや大なり小なり被曝を強いられている私たち全体が同じ目に合うので、二度とそういうことはさせないということを、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。

****

発言はここまでです。
これに引き続いて、次回に台湾のことをもう少しお話したいと思います。

続く

 

 


 

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明日に向けて(545)丹後半島与謝野町と、舞鶴「復興ミーティング」を訪れて

2012年09月20日 16時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20120920 16:00)

9月16日に京都府北部丹後半島の与謝野町にお招きいただき、お話してきました。講演に先立って、今回の講演会の準備で動いてくださった吉田真理子さんとそのお友だちのかたに案内していただいて、天橋立を歩いてくることができました。

日本三大景勝地といわれる天橋立は、松並木が海の中にえんえん3キロも続いているところで本当に美しく、歩いていて気持ちのいいところです。その半分ほどをいろいろなお話をしながら歩きました。その中で、吉田さんと僕に大きな共通点があることが分かりました。なんと吉田さんのお母さんが先の戦争のときに東京におられて310大空襲に遭遇されているのです。子どもの頃から何度もその悲惨さをお母さんからお聞きになったそうです。

僕の母も東京深川の生まれで、310大空襲の爆心地にいました。僕も何度となく話を聞きましたが、今にして思えば、あの業火の中を母が生き延びたのはほとんど奇跡でした。その母から僕が生まれたわけで、吉田さんも僕も東京大空襲のサバイバーだというわけです。僕の場合、父も広島に原爆が投下されたときに、四国の善通寺に駐屯していた陸軍部隊にいて、広島の呉まで救援に向かいました。しかし偵察隊以外、市内に入らなかった。そのため深刻な被曝はまぬがれました。(偵察隊の方は亡くなったそうです)僕はその意味で、東京大空襲と広島原爆の狭間から生まれた命です。

東京大空襲に関してはいろいろな書籍が残されていますが、その中でぜひ読んでいただきたいと思うのは、岩波新書の『東京大空襲』早乙女勝元著です。この中で早乙女さんは、東京大空襲が、用意周到に計画された大量殺戮作戦であったことを告発しています。作戦の指揮をとったのはカーチス・ルメイ将軍。彼はそれまでの高高度から軍事工場を狙って行っていた空襲戦略を一変し、東京の市街地に低空で侵入して、住宅地に焼夷弾を雨あられと落とす作戦を採用しました。

しかも初めマグネシウムを仕込んだ焼夷弾を落として東京の消防車を集結させ、それを航空攻撃によって壊滅させてから本格的な空襲を始めました。カーチスがとったのは、焼夷弾を線上に落としていき、業火の壁を作ること。これに挟まれた地帯は火炎地獄となり、あたり一体が高温化したため、火は延焼することなく、飛び移るように広がっていったといいます。母も、「火の玉が機関車のようになって通っていった」と語っていました。

こうした東京市民焼き殺し作戦に対し、日本軍部が、バケツリレーによる消火という、まったく無意味な「抵抗」を指示していたこともあり、逃げ遅れた人も続出して、東京では一晩に10万人が焼死させられました。これは史上空前の空襲被害です。一晩での殺害では広島・長崎を上回ります。最もそんな比較など意味ないかもしれませんが。

ちなみにこの東京大殺戮を指揮したカーチス・ルメイはその後、米空軍の要となり、原爆投下はもちろん、朝鮮戦争で北朝鮮への空襲を指揮、ベトナム戦争でもB52による北爆の総指揮をとりました。空からの非戦闘員の虐殺を延々と行い続けたわけですが、なんと私たちの国は、このカーチス・ルメイに「旭日大勲章」を与えています。航空自衛隊の育成に功績があったからだそうです。僕は右翼思想は持ち合わせていませんが、「国辱」という言葉を使うのであれば、こういうときにこそ使えばよいではないかと思います。


さて当日はそんなお話しから、戦争と平和の問題と、原発の問題が重なっていることに触れて話をさせていだきましたが、もう一つ、この日の講演会で印象的だったのは、与謝野町町長がこの企画に丁寧なメッセージを寄せてくださっていたことでした。これまで150回ぐらいの講演に出向いてきましたが、首長さんからメッセージを頂いた企画はこれが初めてだったように思います。なんというか、規模の小さい町は、行政や首長と町の人々の距離が近いように感じられていいなと思いまいた。せっかくですので、僕も町長さんのメッセージへの返信を心を込めて書かさせていただこうと思います。

与謝野町は、高浜原発からほぼ30キロの地点。天橋立も高浜で何かあれば被曝してしまいます。それだけにここは当事者性の強い町です。古くから伝えられてきた天橋立も、被曝をしてしまえば、人が憩うことのできない場になってしまう。三大景勝地の一つが失われるのです。えいえいと続いてきた美しい場を私たちの代で絶ってしまってはいけない。だから福井原発銀座は・・・他のすべての原発と同じように・・・動かしてはいけないし、止めなくてはいけないのです。

当日の講演には50名以上の方が参加して下さり、盛況なうちに企画を終えることができました。


その後、「舞鶴復興ミーティング」の方がお迎えに来てくださっていて、車で舞鶴市に向かいました。ちょうど夕方のラッシュ時で少し予定より遅くなりましたが、無事に舞鶴市内の会場につきました。そこには舞鶴の方たちだけではなく、南丹市、京丹波あるいは福井県嶺北地域の人たちもかけつけてくださいました。課題は、高浜と敦賀に急きょ、押し付けられようとしている震災遺物(がれき)の焼却と埋め立て処理反対についてです。高浜の方も参加してくださいました。

ミーティングでそれぞれからさまざまな意見が出されました。また高浜町が非常に声があげにくい地域であること、昔から原発反対で動いてきたからも、高浜町民との連携がとても難しいことなどが語られました。これをどうやって突破するのか。細かい戦術のようなことは紹介できませんが、僕は考え方としては、「地元」という枠組みを私たち自身が見直す必要があるのではという話をしました。

これはどこの原発にも言えることですが、一度原発事故が起こったときに、被害は非常に広範囲に及びます。その意味で、誰もが「地元」であり、「当事者」なのです。にもかかわらずこの国は、ごく小さい行政単位を「地元」とし、そこに巨額のお金をつぎ込むと同時に、地縁血縁をフル動員し、場合によってはヤクザの暴力をを使って、「地元」から反対の声が出ることを押しつぶしてきました。そのことが「現場」で声を出しにくい状況を作り出してきた。

これを真っ向から打ち破っている祝島の例もあり、それは本当に立派で素晴らしことですが、しかしすでに原発が作られてしまい、雇用も発生し、たくさんの利権が出来上がってしまった地域で、同じ「地元」での反対運動を作り上げることは難しい。そのため、「地元」が声をあげ、周りが「応援」「支援」に入るという他の住民運動に多くあるパターンは作りにくいのが現実です。だからこそ、近隣の人々がまさに「地元」として声をあげることが大事なのではないか。その声を大きくする中で、直近の人々もそれにあわせて声をあげられるような運動を作り上げるのがいいのではと思いました。


それにしてもあらためて思ったのは、脱原発の声、あるいは震災遺物(がれき)広域処理の声の広がりの強さ、深さです。本当にあちこちの地域の人が、それぞれに必死になって自ら勉強し、データを調べ、あちこちの会合に顔を出し、それぞれで人脈を広げながら歩んでいる。そうしてそれぞれが触手を伸ばして、関係を広めています。そうしてだんだんと大きなネットワークが形成されてきている。とくに関西から北陸にかけての日本海側、丹波山塊から北陸に連なる地域の人々が、明日に向けて連携を強めていることに感動しました。

ちなみに丹波という名の由来に僕は格別な思いを持っています。といっても、幾つかの由来が考えられ、決まった定説はないのですが、僕が山の中でさる人から聞いたのは、丹はもともと谷であったという説です。谷(たに)は古くから「たん」とも発音されてきました。今も、沖縄県の読谷村(よみたんそん)にその発音が残されています。ちなみに沖縄には大和古語の発音が今でも残っています。那覇をNAFAと発音するなどです。それらから、丹波は、谷波であり、まさに谷が波のようにどこまでも続く丹波山塊を意味していると言うのです。

実はこの日のミーティングのあとも、僕は舞鶴にある「雲の上のゲストハウス」に泊めていただき、夜に満点の星空をご馳走になってしまったのですが、朝おきたら、今度はどこまでも続く山と谷の波が僕の目を楽しませてくれました。そんなときに胸に熱く去来するのは、「この山々に放射能を降らせたくない。降ることなどあってはならない」という思いです。この美しい山並み、日本の原風景と呼べるようなはるか遠くまで次々と続いていく波のような山々の美しさを、何世代もあとの人々にきちんと送りたいとそう切実に思うのです。

丹波そして若狭には、9月27日、28日にも伺います。27日篠山市、28日丹波市、舞鶴市で講演します。この地域での温かく豊な輪の広がりに貢献していきたいです。

*******

なおこの篠山・丹波を含む、今後の講演予定を示しておきます。

明日は京都市北白川いずみ保育園で講演します。

以下、フェイスブックでの紹介から
http://www.facebook.com/groups/125195297587402/permalink/302337139873216/

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左京区、北白川いずみ保育園での企画です。
保護者からの紹介でしたら、どなたでも御参加いただけます。(参加費300円)
ご希望の方は、詳細を送りますのでメッセージをお願いいたします。

知りたい、放射能のこと。守りたい、こどもたち」
?内部被曝とは?食べ物は大丈夫?できることは何??

お話:フリージャーナリスト 守田敏也さん
とき:2012年9月21日(金曜日)18:00?20:00(質疑応答含む)

守田敏也氏
同志社大学社会的共通資本研究センター客員フェローなどを経て、現在フリーライターとして取材活動を続けながら、社会的共通資本に関する研究を進めている。311以降は原発事故問題をおいかけている。2012年3月に物理学者の矢ヶ克馬氏とともに岩波ブックレットから『内部被曝』を上梓。

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9月27日28日

兵庫県篠山市・丹波市にて講演

日時:9月27日(木)午後7時半~
場所:篠山市民センター 1F多目的ルーム

日時:9月28日(金)午前10時~
場所:柏原住民センター 2F会議室

主催 「どろんこキャラバン☆たんば」
http://doronkocaravantanba.seesaa.net/

チラシ
http://doronkocaravantanba.seesaa.net/upload/detail/image/E5AE88E794B0E6958FE4B99FE6B08FE8AC9BE6BC94EFBC88E8A1A8EFBC89-thumbnail2.jpg.html

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9月28日

京都府舞鶴市にて講演
詳細未定

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9月30日

京都市梅小路公園 ベジタリアンフェスティバルで講演

午前10時から午後5時まで開催

トークショーに参加
放射能よろず相談所を終日開設

スケジュール
10:40~11:10 守田 敏也氏「放射能の時代を生き抜くために」
11:50~12:05 長谷川 羽衣子氏「これからのエネルギーと私たち」
12:45~13:00 木下黄太氏「放射能被害の今と今後」
13:00~13:15 平氏 X 長谷川氏 X 木下氏 トークセッション
15:30~16:00 小山 直美氏「人間と生きものと地球」
16:30~16:50 平 智之議員 「放射能汚染と今後の日本。エネルギーシフトを京都から」
同ステージにてパフォーマンスライブもあります。時間は多少前後します。
隣接する 雅なイベントホール「緑の館」でも、平氏 X 長谷川氏 X 木下氏 トークセッションを行います。(完全予約制)

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明日に向けて(544)内部被曝と被爆者差別(下)

2012年09月16日 08時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です(20120916 08:00)

今朝はこれから京都府北部に出発します。与謝野町でお話し、その後、舞鶴市に移って市民の方たちと懇談します。今宵は舞鶴宿泊です。舞鶴でも景勝地にちょっと連れて行ってもらいます。こんな美しいところが奪われてはいけない・・と本当にそう思いながらですが、なんとも役得を続けてしまいます。

その前に、「内部被曝と被爆者差別」の(下)、完結編をお届けしておこうと思います。今回は核心部分、差別の問題に切り込んでいます。その際、取り上げたものに「ダウン症児の出生前診断」の問題があります。9月以降、「共同臨床研究」の名のもとに、国立成育医療研究センターをはじめ、10施設が参加して行われようとしているものです。

僕はこの間、放射線被曝と差別の問題を一番深く話し合ってきた小寺さんという女性からこれを教えられました。ちなみに小寺さんの息子さん、アキト君もダウン症児です。それでこのことを一緒に掘り下げて考えてきたのですが、9月8日の大阪梅田教会のお話のときは、主催者の中のお一人で、自らも障がいをお持ちの方が、これを報じた新聞記事を、当日資料の中にコピーして挟み込んでくださったのでした。

当日、配られたのは朝日新聞でしたが、ネットでは全文を読めないので、毎日新聞の記事を紹介しておきます。

ダウン症の出生前診断:来月から妊婦血液検査を試行
http://mainichi.jp/select/news/20120829k0000e040200000c.html

問題のポイントは次の点にあります。ダウン症に関する出生前診断はこれまでも行われてきており、中絶が選択されたり、妊婦さんが事実上、中絶を迫られたりしてきたのですが、今回、大きく事態が変わったのが、診断の精度が格段にアップしたとされていることです。99%の確率だといいます。そのためこれまでは、ダウン症の可能性もあるけれど、そうでないかもしれないという中での「選択」だったものが、99%の可能性の中でのそれに変わる。そのため実際には、中絶が促進される可能性がきわめて強いということです。

私たちの国の法律では、障がいを理由に中絶することは認められていません。それが当然なのですが、実際には黙認されているのが現実です。命が障がいを理由に選別されているのです。新技術はこの選別を促進する意味を持ち、障がい者は生まれないほうがいいという暗黙の強制力を強めるものになりえるので、僕はその採用に反対です。

とくになぜ放射線被曝が深刻にひろがったこの時期に始めるのかという点に、深い疑義を抱かざるを得ないのですが、発言にあたって、この記事のコピーがあったおかげで、話をスムーズに進めることができました。感謝したいと思いますが、その方自身が後で、「今日は守田さんが僕の言いたいことをみんな言ってくれました」とおっしゃってくれたので、なんだか嬉しい気がしました。

以上を、前提として、発言の終盤部分をご紹介したいと思います。

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内部被曝と被爆者差別(下)

今日のシンポジウムでは「差別」ということが大きな課題として掲げられています。放射線の被害は先ほど述べたように、激しく細胞分裂をしている子どもの方が、被害が大きく出ます。もっと被害を受けやすいのは胎児です。胎児の場合は、細胞分裂だけではなくて、細胞分化もしています。細胞がいろいろなものに分化することです。当たり前ですね。最初の受精卵がただ分裂を繰り返すだけでは人間の体になっていきません。

その分化する前の細胞を、幹(みき)の細胞と書いて、幹細胞(かんさいぼう)と呼びます。分化は大方は胎児のときになされますが、生まれてからも続くものがあります。血液がそうです。この場合は、血の元を造る造血幹細胞というものがあって、その細胞から赤血球、白血球、血小板が造られます。なのでこの造血幹細胞がやられてしまうと、赤血球、白血球、血小板が造られるときにあやまったものが出てきてしまいます。そうすると免疫上の問題などいろいろな深刻なことが起こります。放射線傷害が引き起こす白血病はその典型です。

となると胎児が放射線に被曝した場合、受ける影響は大変深刻だということが分かると思います。まず流産、死産の可能性が高まります。次に障害が発生する確率が高まります。障害者が生まれてくるわけですが、この問題をいかに捉えるのかがとても重要です。

その点で、今日は主催のみなさんが作ってくださった資料の中に非常に重要なコピーを入れていただいています。ご覧になってください。ダウン症児の出生前診断をめぐる記事です。今、この時期に、この臨床試験が合法化されたのです。非常に高い確率で、ダウン症児を発見できるというのですが、なぜよりによってこの時期にこれを推し進めようとするのか、僕は強い疑いを持っています。

なぜかというと、放射線被曝の影響で、ダウン症児の出生の確率が高まることは、これまでの核実験や原発事故後のデータで確認されています。それに対して新たな精度が高いとされる出生前診断をこの時期に始めたら、ダウン症児だったら中絶しなさいということにしかならないのではないでしょうか。

ここは非常に重要な点です。僕は放射線被曝の危険性を説いています。とくに胎児が被曝することの危うさを強調しています。しかし「放射線に胎児が被曝すると障がい者が生まれてくる。だから原発は怖い」と言ってしまったらどうなるでしょうか。それは障がい者の尊厳を踏みしだくことであり、間違いです。そこの問題に関して、僕は踏み込んでいかなくてはいけないと思っています。

ではどう踏み込んでいくべきなのか。これだけの被曝がある限り、私たちの社会には病気を持った方、障がいを持った方が増えます。間違いないです。否定のできないことです。何せ避難すべきところに今もなおたくさんの方がおられ、日々、被曝が進行しているのですから。しかも食べ物に混入した放射能が、全国に出回っているわけですから。そうした影響はどこで出てくるかわかりません。ならばもはやそうした病気や障がいを持った方が、少しでもよりよく生きれる社会に、今の世の中を変えていくこと、そうした方たちの尊厳がより守られるための社会的整備そ進めていくこと、その方たちと一緒に生きれる世の中の創出を、私たちは目指さなければなりません。

僕は放射線防護を強調していますが、もうそれだけでは足りない。防護できなかった面がたくさんある。被曝が進んでいる。だからこそその結果と正面から向かい合うことが必要なのです。腹をくくって、みんなで進んでいく必要があります。

それでこの間、実際に、ダウン症児のお母さんとこうした話をずっとしています。その方はこの出生前診断の問題が出てきてから、本当にブルーになってしまって、「うちの子どもは存在が許されない社会になっていくのだろうか」と嘆かれているのですが、そのお母さんに、では「実際にダウン症児を育てていてどうなの?」と話を聞きました。すると彼女が語ったのは「ダウン症の子どもがいることが、一概に不幸だとは思わないで欲しい」ということです。「私たちには私たちの幸せがある。ダウン症の子どもがいることは楽しいことなんだ」と。

僕は「どこがどう楽しいの?」と聞きました。そうしたらこう言っていました。彼女はアキト君というダウン症の息子さんがいて、今は小学校の高学年なのですが、アキト君が学校に入ると、子どもはすぐによってきてアキト君と親しみだすのだそうです。でもそれで「おばちゃん、俺、アキトの言うてること、ようわかれへん」とか言ってくる。

そうしたら「しめた!」と思うのだそうです。「アキトはな、こうこうこういうことでな、言葉がうまくないねん。だからよく面倒みたってな」などと説明してあげる。大人がいると「そんなこと、聞いちゃいけません」と子どもをたしなめてしまうそうですが、実はこんなときこと、アキト君と周りの子の関係が進むチャンスなのです。

そしてそこがつながって半年も経つと、「おばちゃん、おれな、アキトの言うこと、分かるようになってきたわ」と言い出し、そんな子が、大人たち、学校の先生に、アキト君のいいたいことを通訳してくれるのだそうです。そうやって子どもたちはアキト君を囲んだ素晴らしい関係をすぐにも作り、育てていってしまう。そうしてみんなで豊かに成長していくのです。もちろん、アキト君もそのうちの一人としてそこにいます。

さらにそのお母さんが言っていたのは、「言葉がうまくつながらない分だけ、愛情が深くなります」ということでした。いろいろなことが言葉にならない分だけ、より愛情を細やかに伝えようとしあう。だから「あの子と私の間の愛情で凄いんですよ」と彼女はニコッと笑って言うのですね。僕は、ああ、素晴らしいことだなと思いました。

しかしそういうことが知らされないまま、ダウン症のお子さんと生きていることがどういうことなのかを知らないままに、何かそれが「不幸だ、欠落したものだ」と決めつけられて、中絶を迫られてしまう。命の尊厳が選択されていく。そんなことはあってはならないわけです。

もちろん、だからと言って、すべての人に病気をもたらし、障がいをもたらす放射線の害はとめなければいけないと思います。ここは非常に難しいことですが、僕が思うのは人間の自然なあり方として、ある一定の数の方が今は「障がい」と言われる特徴を持って生まれてきているわけです。僕はそこには、それこそ神様が与えた役割があると思うのです。誰にも役割があるのです。それが人間存在そのものだとも言えると思います。だからそうした障がい児のまわりにいくと、「あの子がいることによって、特別な幸せを得ることができた」と、そう話される方がたくさんおられます。その子を通じてしか結ばれない素敵な縁がそこに存在しています。

でもそのことと、人為的に自然の摂理が捻じ曲げられ、人体に害のあるものがばら撒かれていく。その結果、流産・死産が多発する。生まれ前に奪われてしまう命が発生する。これは許すことができないことで、とめなければならないと思います。僕はとりあえずはそのように整理しています。

その上で強調したいことですが、僕はあちこちで、内部被曝の危険性を説いています。これからも説きます。さきほど、西山さんが、福島の中で「そういう怖がらせることを言うのはやめてくれ」という声があることが紹介されましたが、しかしそれは事実なので、僕は話し続けなければいけないと思っています。ところがその部分だけを聞かれてしまって、「障がい者がいっぱい生まれてくるから危険なんだ」と、逆にその話から差別的な見方が出てきてしまう可能性があることととも、闘わないといけないと思うのです。

放射線被曝から人々を守るということが大事なことの一つですが、でももう大変な被曝をしてしまったのです。だから被曝の結果に対して、手厚い対処をしていかなくてはいけない。どういう形であろうとも、多くの、多様な方と共生していける方向を目指すことがもう一つの大事なことなのです。

国はまったく逆を向いています。みなさん、ご存知でしょうか。この4月から介護保険がきり縮められてしまいました。1時間の枠が45分に削減されてしまいました。僕は明らかに厚生官僚は、これから医療費が跳ね上がることを理解しているのだと思います。放射線被曝のためにです。理解して、彼らが突き進むのは、医療費のカットです。

この出生前診断についても、その中で出てきた可能性があると思います。つまり国は障がい児が生まれない方がいいと思っているのだと思います。障がい児が増えると、原発の危険性が表面化するし、社会的費用もよりかかるようになる。だから障がい児はその前に殺してしまえということですよ、これは。こんなことは絶対に許せない。

そうではなくて、障がいを持った方、ハンディキャップを持った方が、それを障がいやハンディキャップと感じなくていいような世の中に近づいたほうが、全ての人が、生きやすくて、幸せな世の中になるのです。また誰もがいつどこでどのようにハンディキャップを負うことになるかも分からないわけで、そのことからも、こうした世の中こそが、私たちにとってより良い世の中なのです。そのことを頭に入れて、放射線被曝とたたかいながら、同時に差別を越える豊かな世の中をみなさんと一緒に作っていきたいと思います。どうもありがとうございました!

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