明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1731)ニューメキシコ報告にロッキーフラッツのことを重ねてお話します!(20日すみれやにて)

2019年09月19日 17時00分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です(20190919 17:00)

今週末にあちこちでお話しますが、それぞれについてもう少し詳しい予告編を出したいと思います。
明日20日午前10時半から京都市左京区のすみれやさんでお話します。まずはその案内をご紹介します。

守田敏也さんのアメリカ・ニューメキシコ訪問報告会
https://www.facebook.com/events/644684566024363/

なおすみれやさんは叡山電車元田中駅下車5分です。606-8227 京都市 左京区田中里ノ前町49-1
今回は、すみれやの春山文枝さんがFacebookにアップしている「宣伝」を春山さんの承諾を得てそのまま転載します。お読み下さい。

● 春山文枝さんの思い・・・

ちょびっと宣伝を。すみれやでは9月20日(金)の午前中に守田敏也さんのニューメキシコ訪問報告会を開催します。

会場のすみれやさん

核のこと、いつもとは違った視点で考えてみたいと思います。原発の燃料はどこから来て、そこに住んでいる人がどんな思いでいるのか。それから核兵器工場のことも結構ひどいです。  
実は私は大学生の時、アメリカにいて元核兵器工場(ロッキーフラッツ)の近くに住んでいました。 私が住んでいた時は既に工場は閉鎖されていたのですが、新聞で地下水が放射能で汚染されていると読んだときはどうしていいかわかりませんでした。息止められないし、水も飲みたい。

ロッキーフラッツ工場全景 NHKスペシャルより 

私の大切な友人は多分同じ工場のせいで、数年前に多発性骨髄腫で亡くなりました。高校の交換留学で1年間アメリカに住んでいたのです。
その時その工場はまだ稼働していて、彼女のいた街はその風下にありました。その時は、まさかそんな空気を吸っているとは彼女は思いもよらなかったと思います。
その、「まさかそんなことになっているとは思いもよらなかった」というのは私たちの今ここかもしれないと思ってしまいます(核以外のことでも)。

そして多くの場合、それは検証されることはないままで、検証してもうやむやのままになってしまう。
いろんな意味で、核の話は私にとっては全然遠い話ではないのです。
守田さんが、実際に見て聞いてきた貴重な報告をぜひ一緒に聞きませんか。お近くの方は、ぜひご参加ください。

● ロッキーフラッツとは

今回のニューメキシコの旅、僕にとっては「アメリカはこれほどまでに被曝していたのか」と実感する旅でした。実際に、ウラン鉱を掘り続けたネオティブ・アメリカンの方たちをはじめ、たくさんのアメリカン・ヒバクシャとも出会いました。
その旅に触れて、春山さんがこのように思いを書いてくれて、僕の心もロッキーフラッツに飛びました。春山さんが書いている「大切な友」は僕にとってもとても「大切な友」です。
その彼女もまたロッキーフラッツの被害を受けた可能性大なのです。
今回この点を再度、きちんと踏まえるために、2010年にNHKが放映した『私たちは核兵器を作った』というドキュメントを観なおしました。
https://www.youtube.com/watch?v=UUSqTgK9hi0



それによるとニューメキシコ州の北隣のコロラド州のデンバー近郊にあるロッキーフラッツは、水素爆弾の起爆装置を作っている工場でした。プルトニウムをテニスボールぐらいに丸めて加工し、圧力加わると核分裂し水爆の炸トリガーとなります。
恐ろしいことにこの工場はきちんとした被曝対策をたてないままに操業してしまった。そのため工場労働者の被曝がさまざまな形で起こりました。1957年から1966年まででなんと462件もの深刻な被曝事故が起こり、1707人が負傷していました。
当時、核対立の激化の中で核弾頭の拡大再生産にあけくれていたアメリカは、一方で放射能の人体への影響を知りたくて、ビーグル犬を使った実験を行っていたそうですが、なんとこの工場に目を向け始めます。そこには多様なヒバクシャがいたからです。


「グローブボックス」と呼ばれた設備の中で手でプルトニウムを成形する

ロッキーフラッツの労働者を観察せよとの提言

ところがロッキーフラッツは1969年5月11日に深刻な事故を起こしました。なんと加工中のプルトニウムが次々と燃えだし、工場全体の火事に発展してしまったのでした。
この1969年の火災は駆けつけた消防士が化学物質用の消火剤をまいたものの太刀打ちできず、最終的に水を撒く決断を強いられます。しかし相手は燃えているプルトニウム。水が「減速材」の役割を果たすと臨界爆発が起きる可能性すらありました。
しかし消防隊は工場の屋根が焼け落ち、大量のプルトニウムが近郊のデンバーの街などに降ることを阻止するために水をかけました。結果的に臨界爆発は起こらず鎮火しましたが、それまで大量のプルトニウムを含んだ煙が工場から出続けました。


プルトニウムは常温でも発火する。内部から燃え上がったグローブボックス


● 
核兵器を持つ=作ることは自国民を被曝させることだ!

この事故のときに驚くべき事実が発覚しました。なんと同工場では同じような事故を1957年9月にも起こしていたのでした。大火災事故でした。 しかしなんと工場は、周辺の汚染調査もせず、さらには火災を教訓とした対策すら施さないままに操業を続けていたのでした。この時に漏れ出したプルトニウムの量も分かっていません。 そればかりか長年にわたる操業を通じてなんと1万トンものプルトニウムが行方不明になってしまってすらいます。頭がクラクラするような数値です。


次々と火が広がっていった

ロッキーフラッツはそうして周辺にプルトニウムを飛散させ続け、想像を絶する数の人々を被曝させたに違いない。
そしていまも現場には膨大な汚染物が残っており、それがさらなる被曝を生み出している可能性、未来にわたっても生み出す可能性が大きくあります。
核兵器を持つとはそういうこと、自国民を確実にかつ残酷に被曝させることなのです。この点にこそ「核抑止論」の大きな限界、というよりも大ウソがあることを暴き続けねばです。

そのためにも僕は10月末から11月にかけて再度、アメリカを訪問します!
さらにアメリカの被曝実態や放射性廃棄物問題の実態をつかむとともにアメリカン・ヒバクシャとの連帯をより強いものとしてきます。
みなさん。ぜひお力をお貸し下さい。そのためにも各地の報告会にご参加下さい。

コメント

明日に向けて(1730)核なき未来に向けて全世界のヒバクシャの連帯を!(講演予定をお知らせします)

2019年09月16日 10時30分00秒 | 講演予定一覧

守田です(20190916 10:30)

日韓問題に学び、核なき未来とアジアの平和について語り、被爆2世3世問題についてアピールしてきました!

光陰矢の如し!前回の記事をアップしてから10日余りが経ってしまいました。この間、ずいぶんたくさんの場で講演したり、スピーチしました。また積極的に自らが聴講者となった学びもしました。
この他、実に多くの会議にも参加しました。参加したもののうち今後、記事として紹介したいものを列挙しておきます。

9月7日 在日韓国研究所を主催する金光男(キムクァンナム)さんの学習会に参加。日韓関係と同時に韓国内部の問題をかなりリアルに教えてもらえました。
9月8日 15周年を迎えたビックイベント「山水人」に参加してスピーチさせていただきました。ニューメキシコ訪問報告から入り、民衆の平和なアジアをみんなで築いていくことを訴えました。前日にキムさんに教わったことの一部も盛り込みました。     
「なまえのない新聞」を編集発行してくださっているアパッチさんが録画し、アップしてくださったのでご紹介しておきます。

20190908 守田敏也トーク 山水人
https://youtu.be/fX5nWFlmr0Q

9月10日 原発賠償京都訴訟の大阪での控訴審を傍聴。その後の集会で一言挨拶させていただきました。その後に吹田市ももの家に行って「支援法しねま」のミーティングに参加しました。
9月13日 おなじく吹田ももの家にて「新潟からようこそ!保養の未来を語り合うごはん会」に参加。きゅうきょでしたが30分ほど「ニューメキシコ訪問報告」をさせていただきました。
9月14日 「反核医師のつどいin京都」に参加。京都「被爆二世三世の会」を代表して会の活動、とくに二世三世への遺伝的影響の解明に真正面から取り組んでいることを紹介して反響を得ました。
9月15日 「何核医師のつどいin京都」二日目に参加。元福井地裁裁判長の樋口英明さんと、長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)中村桂子准教授の講演をがっつり聞きました。
なお今日16日は、ICRP勧告案を検討する集会に赴きます。講師は山田耕作さん。高橋博子さんと藤岡毅さんがコメントされます。

・・・ともあれそれぞれがものすごく内容が深く学ぶものがたくさんありました。 自分の中で温め、血肉化していくためにも記事として紹介したいと思いますが、いかんせん追いついていません。
この他にかなり多数のミーティングに参加しているためでもあるのですが、論じなければならないことがあまりに多い。
まるで巨大な山脈の前に立ってるような感じですが、なーに、だったらファイトを燃やせばいいのですよね!頑張ります。

● 核なき未来に向けて各地でお話します!

続いて今後の講演スケジュールをお知らせします。今日のところは列挙させていただきます。 なおブログにチラシの画像をアップしておきます。メルマガの方はそちらから詳細情報をおとりください。

9月20日(金) 京都市左京区
「すみれや」さんでニューメキシコ訪問報告を行います。午前10時半から12時です。
https://www.facebook.com/events/644684566024363/

この情報を僕がワードに落としたものもご紹介しておきます。

9月21日(土) 城陽市
城陽市の「文化パルク寺田コミセン」で「福島原発の自主避難者の裁判の判決を受けて~大阪高裁の闘いと課題~」というタイトルでお話します。午後1時半から4時です。 原発賠償京都訴訟原告団共同代表の福島敦子さんとのジョイント講演です。

9月23日(月) 京都市右京区京北町
【注意】
9月22日、23日に京北町で予定されていた「ツクル森」は大型台風接近のため11月9日、10日に順延となりました。このため23日午前午後に予定していた僕の講演も中止になりました。


9月23日(月) 南丹市美山町芦生

【注意】
この企画も台風の進路をにらみながら判断中です。
9月21日午前7時のニュースで台風が強さを増し電柱をなぎ倒すような力をもって北上していると伝えられています。23日夕刻にはすでに遠ざかっているでしょうが、山道の安全が確認できるかが懸念されます。もうしばし判断をお待ちください。(21日午前9時記)

*****

芦生の「ちしゃの木庵」にてお話します。この日は「会場からの質問になんでも答える」という形にします。午後7時半から9時です。

9月26日(木) 京都市下京区
京都駅近くの「しんまち会館」にてお話します。ニューメキシコ訪問報告です。午後1時半から3時半です。

9月29日(日) 愛知県日進市
ベタニア・チャペルにてお話します。ニューメキシコ訪問報告です。午後5時から7時です。

10月5日(土) 京都市左京区
平安教会で行われるフリーマーケットで「親子で知りたい原発のこと放射能のこと」のタイトルでお話します。午前11時から12時です。

なお「土日でないと講演会等に参加できない!」という方にお応えし、土日ではなく祭日になってしまいますが、10月14日(月・祭日)の午後2時から京都市左京区のハリーナさんでも報告会をさせていただくことになりました。

みなさま。ぜひお近くの講演会にご参加下さい!

コメント

明日に向けて(1729)東京オリンピック開催に反対します!小出裕章さんの声明を心から支持します!

2019年09月04日 13時30分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です(20190904 13:30)

これまで講演などで繰り返し語ってきていることですが、あらためていま、東京オリンピック開催反対を声高く主張します。
一番の理由は、福島原発事故が収束しておらず、原子力緊急事態宣言が解除されてないこと。また福島原発から放出された大量の放射能がまだまだ東日本に危険な影響を及ぼしているからです。
今後、これらの点を継続的に論じていきますが、今回は、昨年8月にいち早く小出裕章さんが出された「フクシマ事故と東京オリンピック」という声明を転載させていただきます。
すでに賛同させていただいていますが、オリンピック1年前とされるこの時期、より強く反対の思い、小出さんの声明への支持を打ちだすためです。

みなさま。ぜひお読み下さい!そして一緒に東京オリンピック反対の声を高めましょう!
(なお僭越ながら少し読みやすくしようと適度に改行を入れさせていただきました。文面そのものにはもちろんタッチしていません。あしからず)

引用先も示しておきます。元駐スイス大使の村田光平さんのWebサイト上です。 http://kurionet.web.fc2.com/fukushimaolympic1.html

*****

フクシマ事故と東京オリンピック 
小出 裕章(元京都大学原子炉実験所助教)

 2011年3月11日、巨大な地震と津波に襲われ、東京電力・福島第一原子力発電所が全所停電となった。全所停電は、原発が破局的事故を引き起こす一番可能性のある原因だと専門家は一致して考えていた。
その予測通り、福島第一原子力発電所の原子炉は熔け落ちて、大量の放射性物質を周辺環境にばらまいた。日本国政府が国際原子力機関に提出した報告書によると、その事故では、1.5×10 の16 乗ベクレル、広島原爆168発分のセシウム137大気中に放出した。
広島原爆1発分の放射能だって猛烈に恐ろしいものだが、なんとその168倍もの放射能を大気中にばらまいたと日本政府が言っている。

 その事故で炉心が熔け落ちた原子炉は1号機、2号機、3号機で、合計で7×10の17 乗ベクレル、広島原爆に換算すれば約8000発分のセシウム137が炉心に存在していた。
そのうち大気中に放出されたものが168発分であり、海に放出されたものも合わせても、現在までに環境に放出されたものは広島原爆約1000 発分程度であろう。
つまり、炉心にあった放射性物質の多くの部分が、いまだに福島第一原子力発電所の壊れた原子炉建屋などに存在している。これ以上、炉心を熔かせば、再度放射性物質が環境に放出されしまうことになる。

それを防ごうとして、事故から7年以上経った今も、どこかにあるであろう熔け落ちた炉心に向けてひたすら水を注入してきた。そのため、毎日数百トンの放射能汚染水が貯まり続けてきた。 東京電力は敷地内に1000 基を超えるタンクを作って汚染水を貯めてきたが、その総量はすでに100万トンを超えた。敷地には限りがあり、タンクの増設には限度がある。近い将来、東京電力は放射能汚染水を海に流さざるを得なくなる。

 もちろん一番大切なのは、熔け落ちてしまった炉心を少しでも安全な状態に持って行くことだが、7年以上の歳月が流れた今でも、熔け落ちた炉心がどこに、どんな状態であるかすら分からない。なぜなら現場に行かれないからである。
事故を起こした発電所が火力発電所であれば、簡単である。当初何日間か火災が続くかもしれないが、それが収まれば現場に行くことができる。事故の様子を調べ、復旧し、再稼働することだって出来る。
しかし、事故を起こしたものが原子力発電所の場合、事故現場に人間が行けば、死んでしまう。国と東京電力は代わりにロボットを行かせようとしてきたが、ロボットは被曝に弱い。
なぜなら命令が書き込まれているIC チップに放射線が当たれば、命令自体が書き変わってしまうからである。そのため、これまでに送り込まれはロボットはほぼすべてが帰還できなかった。

 2017年1月末に、東京電力は原子炉圧力容器が乗っているコンクリート製の台座(ペデスタル)内部に、いわゆる胃カメラのような遠隔操作カメラを挿入した。
圧力容器直下にある鋼鉄製の作業用足場には大きな穴が開き、圧力容器の底を抜いて熔け落ちて来た炉心がさらに下に落ちていることが分かった。
しかし、その調査ではもっと重要なことが判明した。人間は8シーベルト被曝すれば、確実に死ぬ。圧力容器直下での放射線量は一時間当たり20Svであったが、そこに辿り着く前に530あるいは650シーベルトという放射線が計測された。
そして、この高線量が測定された場所は、円筒形のぺデスタルの内部ではなく、ペデスタルの壁と格納容器の壁の間だったのである。

東京電力や国は、熔け落ちた炉心はペデスタルの内部に饅頭のように堆積しているというシナリオを書き、30年から40年後には、熔け落ちた炉心を回収し容器に封入する、それを事故の収束と呼ぶとしてきた。
しかし実際には、熔けた核燃料はペデスタルの外部に流れ出、飛び散ってしまっているのである。やむなく国と東京電力は「ロードマップ」を書き換え、格納容器の横腹に穴を開けて掴み出すと言い始めた。
しかし、そんな作業をすれば、労働者の被曝量が膨大になってしまい、出来るはずがない。

 私は当初から旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故の時にやったように石棺で封じるしかないと言ってきた。そのチェルノブイリ原発の石棺は30年たってボロボロになり、2016年11月にさらに巨大な第2石棺で覆われた。 そ
の第2石棺の寿命は100年という。その後、どのような手段が可能かは分からない。今日生きている人間の誰一人としてチェルノブイリ事故の収束を見ることができない。ましてやフクシマ事故の収束など今生きている人間のすべてが死んでも終わりはしない。
その上、仮に熔け落ちた炉心を容器に封入することができたとしても、それによって放射能が消える訳ではなく、その後数十万年から100万年、その容器を安全に保管し続けなければならないのである。

 発電所周辺の環境でも、極度の悲劇がいまだに進行中である。事故当日、原子力緊急事態宣言が発令され、初め3km、次10km、そして20kmと強制避難の指示が拡大していき、人々は手荷物だけを持って家を離れた。家畜やペットは棄てられた。
それだけではない、福島第一原子力発電所から40~50kmも離れ、事故直後は何の警告も指示も受けなかった飯舘村は、事故後一カ月以上たってから極度に汚染されているとして、避難の指示が出、全村離村となった。

人々の幸せとはいったいどのようなことを言うのだろう。多くの人にとって、家族、仲間、隣人、恋人たちとの穏やかな日が、明日も、明後日も、その次の日も何気なく続いていくことこそ、幸せというものであろう。
それがある日突然に断ち切られた。 避難した人々は初めは体育館などの避難所、次に、2人で四畳半の仮設住宅、さらに災害復興住宅や、みなし仮設住宅へ移った。
その間に、それまでは一緒に暮らしていた家族もバラバラになった。生活を丸ごと破壊され、絶望の底で自ら命を絶つ人も、未だに後を絶たない。

 それだけではない。極度の汚染のために強制避難させられた地域の外側にも、本来であれば「放射線管理区域」にしなければいけない汚染地帯が広大に生じた。
「放射線管理区域」とは放射線を取り扱って給料を得る大人、放射線業務従事者だけが立ち入りを許される場である。そして放射線業務従事者であっても、放射線管理区域に入ったら、水を飲むことも食べ物を食べることも禁じられる。
もちろん寝ることも禁じられるし、放射線管理区域にはトイレすらなく、排せつもできない。

国は、今は緊急事態だとして、従来の法令を反故にし、その汚染地帯に数百万人の人を棄てた。棄てられた人々は、赤ん坊も含めそこで水を飲み、食べ物を食べ、寝ている。当然、被曝による危険を背負わせられる。
棄てられた人は皆不安であろう。被曝を避けようとして、仕事を捨て、家族全員で避難した人もいる。子どもだけは被曝から守りたいと、男親は汚染地に残って仕事をし、子どもと母親だけ避難した人もいる。
でも、そうしようとすれば、生活が崩壊したり、家庭が崩壊する。汚染地に残れば身体が傷つき、避難すれば心が潰れる。棄てられた人々は、事故から7年以上、毎日毎日苦悩を抱えて生きてきた。

 その上、国は2017年3月になって国は、一度は避難させた、あるいは自主的に避難していた人たちに対して、1年間に20ミリシーベルトを越えないような汚染地であれば帰還するように指示し、それまでは曲がりなりにも支援してきた住宅補償を打ち切った。
そうなれば、汚染地に戻らざるを得ない人も出る。今、福島では復興が何より大切だとされている。そこで生きるしかない状態にされれば、もちろん皆、復興を願う。そして人は毎日、恐怖を抱えながらは生きられない。
汚染があることを忘れてしまいたいし、幸か不幸か放射能は目に見えない。国や自治体は積極的に忘れてしまえと仕向けてくる。逆に、汚染や不安を口にすれば、復興の邪魔だと非難されてしまう。

 1年間に20ミリシーベルトという被曝量は、かつての私がそうであった「放射線業務従事者」に対して初めて許した被曝の限度である。それを被曝からは何の利益も受けない人々に許すこと自体許しがたい。
その上、赤ん坊や子どもは被曝に敏感であり、彼らには日本の原子力の暴走、フクシマ事故になんの責任もない。そんな彼らにまで、放射線業務従事者の基準を当てはめるなど、決してしてはならないことである。
しかし、日本の国はいま、「原子力緊急事態宣言」下にあるから、仕方がないと言う。緊急事態が丸1日、丸1週間、1月、いや場合によっては1年続いてしまったということであれば、まだ理解できないわけではない。

しかし実際には、事故後7年半たっても「原子力緊急事態宣言」は解除されていない。
国は積極的にフクシマ事故を忘れさせてしまおうとし、マスコミも口をつぐんでいて、「原子力緊急事態宣言」が今なお解除できず、本来の法令が反故にされたままであることを多くの国民は忘れさせられてしまっている。
環境を汚染している放射性物質の主犯人はセシウム137であり、その半減期は30年。100年たってもようやく10分の1にしか減らない。実は、この日本という国は、これから100年たっても、「原子力緊急事態宣言」下にあるのである。

 オリンピックはいつの時代も国威発揚に利用されてきた。近年は、箱モノを作っては壊す膨大な浪費社会と、それにより莫大な利益を受ける土建屋を中心とした企業群の食い物にされてきた。
今大切なのは、「原子力緊急事態宣言」を一刻も早く解除できるよう、国の総力を挙げて働くことである。フクシマ事故の下で苦しみ続けている人たちの救済こそ、最優先の課題であり、少なくとも罪のない子どもたちを被曝から守らなければならない。  
それにも拘わらず、この国はオリンピックが大切だという。内部に危機を抱えれば抱えるだけ、権力者は危機から目を逸らせようとする。
そして、フクシマを忘れさせるため、マスコミは今後ますますオリンピック熱を流し、オリンピックに反対する輩は非国民だと言われる時が来るだろう。
先の戦争の時もそうであった。マスコミは大本営発表のみを流し、ほとんどすべての国民が戦争に協力した。自分が優秀な日本人だと思っていればいるだけ、戦争に反対する隣人を非国民と断罪して抹殺していった。
しかし、罪のない人を棄民したままオリンピックが大切だという国なら、私は喜んで非国民になろうと思う。

 フクシマ事故は巨大な悲劇を抱えたまま今後100 年の単位で続く。膨大な被害者を横目で見ながらこの事故の加害者である東京電力、政府関係者、学者、マスコミ関係者など、誰一人として責任を取っていないし、処罰もされていない。
それを良いことに、彼らは今は止まっている原子力発電所を再稼働させ、海外にも輸出すると言っている。

 原子力緊急事態宣言下の国で開かれる東京オリンピック。それに参加する国や人々は、もちろん一方では被曝の危険を負うが、一方では、この国の犯罪に加担する役割を果たすことになる。

 2018年8月23日 小出裕章

コメント (1)

明日に向けて(1728)被爆して「夕焼け小焼け」を聴きながら亡くなった「南方特別留学生」、サイド・オマールさんの法要に参加して

2019年09月03日 23時00分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

田です(20190903 23:00)

  広島で被爆し、祖国に帰る途中の京都で亡くなられたオマールさん・・・

本日9月3日、サイド・オマールさん(正確にはサイド・オマール・ビン・モハメッド・アルサゴフさん マレー語表記は Syed Omar bin Mohamad Alsagoff)の法要に参加してきました。左京区の圓光寺においてでした。
サイド・オマールさんは今のマレーシアから日本留学中に広島で被爆され方です。帰国のために東京に向かう車中で容態が悪化。途中に立ち寄った京都市で京都帝国大学病院に入院。そのまま回復することなく9月3日に亡くなられました。19歳でした。
遺体は南禅寺大日山の共同墓地の墓に葬られましたが、1957年に妹さんが訪れたものの朽ちていて見つけられませんでした。これを聴きつけた京都洛北平八茶屋のご主人が墓の建立を目指し、圓光寺が土地を提供して実現。以来法要が続けられてきました。


法要には約70人もの方が参列された

オマールさんはイギリス領マラヤのジョホールバルに生まれ育ちました。イギリス領マラヤは18世紀から20世紀にマレー半島とシンガポール島近辺をイギリスが支配し植民地化していた地域です。「英領マレー」とも呼ばれていました。
第二次世界大戦がはじまると「南方」に侵攻した日本軍がイギリス軍を追い払い1942年から45年まで占領、軍による統治を行いました。日本はマレーを「大東亜共栄圏」に組み込むため、マレーのエリートの若者に日本教育を施すことをめざしました。
このため「南方特別留学生」を選抜しましたが、同時に人質のような要素も持つ中で、ジョホール州の王族出身のオマールさんが一期生に選ばれて1943年来日。広島高等師範学校を経て1945年5月旧制広島文理科大学(現広島大学)に進学しました。


植民地化された東南アジアと英領マラヤ(マレー州連合)「世界の歴史まっぷ」より

8月6日朝、オマールさんは爆心地から900メートルの留学生寮「興南寮」にて被爆。背中に大やけどを負いましたが、倒壊した建物の下から自力で脱出。その後、留学生仲間と合流し、大学で野宿しながら被災者救援に奔走しました。
一緒に野宿をした人たちによると、オマールさんは自らの怪我も顧みずに、ひたすら被災者を助け続けたそうです。大八車で友人を20キロも離れた親せき宅に送り届け、その後に見舞いにも行っています。少ない食べ物を子どもたちに分けたりしたそうです。
やがて日本が降伏しGHQが進駐する中で8月25日に帰国許可が下り、東京経由でマレーに向かうことに。しかし汽車の中で悪寒を覚えだし、26日京都到着後に病状が悪化。30日に京大病院に入院したもののもはや手遅れで9月4日に亡くなりました。


興南寮跡 「広島ピースツーリングHP」より

● 夕焼け小焼け・・・を聴きながら

写真のオマールさんをみるととても美しい青年です。涼やかな顔、素敵な顔をされています。オマールさん、イギリス支配下のマレーで育ち、日本占領下に代わって日本に来ることになり、どんなことを思ったでしょうか。
残された方の思い出ではとにかく明るく、礼儀正しく、清潔好きで、いつも真っ白なシャツを着ている王子様だったそうです。同年代でともに野宿をした女性は「あのうっとりするような素敵な笑顔」と回想されています。
連日空襲警報がなり、食料も不足する生活の中で しかし留学生たちはいつも明るく、陽気にそれぞれの国の歌をうたってかえって日本人の若者たちを励ましていたとか。


オマールさん(圓光寺の会場の展示より)

京大病院では若き浜島義博医師が治療を担当されました。初めての原爆症患者を前にして治療方針が定まらない中、「輸血しかない」と考えて自らの血を抜いてオマールさんに与えました。
すると一度はかなり元気になったそうで、毎朝、大量の輸血を続けたそうです。おそらく最も妥当な対応だったでしょう。日本語が上手だったオマールさんは『荒城の月』などをこよなく愛した青年で、病床でも「夕焼け小焼け」を口ずさんでいたそうです。
しかしオマールさんはそれ以上回復せず、急速に衰弱していきました。


次々と参列者が花を手向ける 当日スタッフをされていた榊原さん

浜島医師がそんな彼にこう聞いたそうです。「日本にさえ来ていなかったらこんな苦しい目にあわなかったのに・・・。オマール君、君は日本人を恨んでないかい?」と。
「先生は毎日僕に血を分けてくださっているでしょ。先生と僕はもう兄弟です。僕の身体の半分はもう日本人です」。オマールさんはそう答えたそうです。
そして「ドクター、夕焼け小焼けを歌ってくれますか」とオマールさん。「ああいいとも」と浜島先生が答えられ、「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」と歌い出す中で、オマールさんは力つきていったそうです。


「私もオマールさんと一緒に被爆したのよ」と語り、深い祈りをささげる被爆者の花垣ルミさん

● オマールさんの遺したのもの

オマールさんが亡くなられてから74年目のこの日、法要には約70人もの人が集まりました。京都の平和運動を担っているたくさんの方が参列されていましたが、広島から駆けつけた方もおられました。
圓光寺住職の読経に続いて人々がお墓に献花。僕もその一員として祈りを捧げさせていただきました。そして読経と献花が終わってから、オマールさんがこよなく愛し、今わの際に耳にした『夕焼け小焼け』をみんなで合唱しました。
その後、部屋に戻っていろいろな方とお話し、資料などを頂きました。帰ってきてページを繰り始めて、はまってしまったのが『オマールさんを訪ねる旅』(早川幸生編 かもがわ出版 1994)でした。


僕も献花し祈りを捧げました!本木喜幸さんのFacebookへの投稿より

この本は圓光寺を校区の中に含む修学院小学校の生徒が主人公で編まれたものです。同小学校の子どもたちが校区にある圓光寺のオマールさんのお墓を訪ね、住職さん建立に尽力した人々、浜島医師などに話を聞き、やがて広島を訪れたのです。
しかもオマールさんにゆかりの方たち・・・留学生寮の世話をしていた方の息子さんや、オマールさんに日本語を教えた先生、一緒に野宿をした方などにあらかじめ手紙を出して質問し、返事をもらうなどしてやがて会いに行きました。
この本はその体験記、感想文で編まれているのです。子どもたちがオマールさんの悲劇に胸を痛め、その足跡を辿り、優しかった彼に心を寄せながら、心から戦争反対を考え、平和への愛を深めていく過程がつづられています。


『オマールさんを訪ねる旅』・・・ぜひご一読を!

感動しました。「ああ、オマールさん、あなたはこんなに素晴らしものを遺してくれたのですね。あなたの誠実で優しい思いが、私たちに命の尊さ、戦争のむごさを教えてくれています。素晴らしい」そう思いました。
同時に「これだけの子どもたち、キラキラした目に何度も囲まれて、オマールさん、きっと少しは心が癒えましたよね。あなたの19年の生はいまこんなにも光輝いています。ありがとうございました」と彼に語り掛けたくなりました。
そうです。誠実に生きたオマールさん、政情はどうあれおそらくは日本の中にある一番いいものを愛してくれたオマールさん。あなたを思う気持ちが大きく平和の心を育ててくれているのです。


オマールさんへの思いをさまざまに語り合う参加者

そうだ。この気持ち、平和への切なるこの願いをこそ、もっと大きく伝えていこう。そのことでオマールさんに報いていこう。そう思いました。本当に素晴らしい法要でした。
素敵な法要・・・オマールさんと平和への祈りの場を作り続けて来てくださったみなさまにも感謝しつつ、この日の報告をしめたいと思います。


献花で埋まったオマールさんの墓 

コメント