明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(116)気仙沼の渡辺さんのこと・・・東北の旅第7信

2011年05月17日 23時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110517 23:30)

みなさま。本日午前11時半に京都に戻りました。
9日から17日までの東北の旅が終わりました。お世話になったみなさま、
本当にありがとうございました。

東北の最後の夜の昨夜は、これまでの旅で原発に最も近い地域である
宮城県角田市のピースファームでのお話会になりました。近隣の方を
中心に25名ぐらいが集まってくださいました。

中には原発直近の双葉町から避難をしているご夫婦や、南相馬町から
避難しているお坊さん、浪江町にいたことがあり、双葉高校を母校と
する方などもおられました。原発事故への当事者性が濃い集まりでした。

その昨日の夜も、大変、深くて感動的なことが多かったのですが、その
報告は少し待っていただいて、もう少し気仙沼での話の続きを書かせて
いただきたいと思います。


今回、ご紹介したいのは、渡辺道徳さん(43)のことです。僕が届けたランド
ローバーを使われる方です。現在、ゲットバックス気仙沼というグループを
立ち上げて、被災者支援のボランティが活動をしています。

渡辺さん自身も、気仙沼市の鹿折地区のご出身です。ここの海側は、前回の
報告でも書いた大きな船が乗り上げているところです。渡辺さんの家はその
地区を流れる川の上流沿いにあり、津波の被害は受けられませんでした。

311までコンクリートミキサーの運転手をされてきました。地震当日は、
いつもは一番忙しく配達で稼働している時間ながら、なぜかこの日は
会社におられました。

地震が起こった時は、会社の外にいましたが、すぐに収まると思った
ものの揺れがなかなか止まらず、会社のプラントが倒れるのではと
思ったそうです。

実際には会社は致命的な被害は免れましたが、電気がこなくなったことも
あり、3週間くらいはストップしてしまいました。その時点で休業状態に
なり、すぐに自宅に戻りました。

その途中に娘さん二人が通う小学校があるので、助けに行きました。しかし
学校には娘さんたちはいませんでした。もう先生たちが高台に避難させて
くれていたのです。親が来れば渡すということなので、車で迎えにいきました。

そうしたら、自宅のそばの川まで津波があがってきました。その下流の方に
ご両親がおられたので、助けにいかなければならない。でも車ではとても
無理だということで、原付バイクで救助に向かいました。

お父さんは寝たきりで気管切開を行っており、痰取りの機械をつけている
そうです。それが停電で動かせないとのお母さんからの連絡があり、車から
電気を取れる電気コンバーターを探しました。

それをたまたま近くにいた車から分けてもらって、ご両親の家に急ぎ、車に
つないで機械を動かしました。ほとんど呼吸が止まっている状態でした。
普通だったらダメだったそうで、実際に5名ぐらいが亡くなったそうです。

それで一安心しましたが、知り合いが波に飲まれたと聞き、またおじさんの
家が火事の中にあったそうで、助けに向かいました。そうするとおじいさんが
倒れていました。波をかぶったのでしょう。真っ青になって震えていたそうです。

さらに助けに行こうと最もひどい現場に向かおうとすると、もう警察や消防が
ラインを張っていて入ることができない。それで自分に出来ることは何かを
考えて、どんどん逃げて来る人たちを助けだしたといいます。

逃げてきた人が水をくれといいます。渡辺さんの地域は市街と水源が別で
水道も止まらなかったのでそれをペットボトルに入れて振る舞い、冷蔵庫の
中のものを避難してきた人に食べさせました。

そうすると二晩過ぎた朝方の4時にごそごそと音がする。外をみたら45人ぐらい
の人が焼け出されて避難しているのです。お年寄りが多かった。その人たちは
渡辺さんの父親の里の人たちでした。それで近くの避難所に送り込みました。

その人たちはもう限界でした。寒さと空腹で。しかし避難所ももう限界だと
言われてしまいました。それでひとまずおいてくれといって、家に帰り、近所に
呼びかけて毛布や服を集めて、2トン車で2台分ほど運んだそうです。

その中で他の地域からトラックで入ってくる人との出会いができました。困った
人に配ってくれとどんどんと置いていってくれます。それを配る生活が始まり
今日にいたりますが、渡辺さんたちはみんな自腹でやってきました。

車の油代だけで2カ月で20万円はかかった。当初は会社が給料を出してくれた
のでそれを活動資金にしていましたが、渡辺さんは3月31日に仕事を辞めてし
まいました。焼け出されている人もいるので、仕事には戻れなかったのです。

「自分はまた平気な顔をして気仙沼市内を走れない」と感じたと渡辺さん。
こうした現実を見ない人は「何をやっているの、生活の保障はどうなる」と聞いて
くるそうです。「でも自分が今、動けば10人や20人は助けられます」。

「だから自分はやる。収入がなくてもいい。市民のみなさんが、ある程度復帰
できるまでやると決めました。それで会社を辞めました。みんなびっくりしました
ね。家のものも驚きました。妻には事後報告でした。」


渡辺さんは、その頃は本当に無我夢中だったそうです。アビスさんにもそんな
ときに会いました。もういつ寝ているか起きているか分からない状況で、14キロ
ぐらいやせてしまいました。寝るのも食べるのも忘れてしまったのです。

とくに「あの火事をみたからだ」と渡辺さんは言います。目の前でプロパンが、ボン、
ボンとはじけていたそうです。あの中に人がいるのだろうなと思って見ていた。
恐怖と同時に悲しさもあったそうです。

そのときは東京消防庁のハイパーレスキューの人たちがやってきて、少し高台の
国道沿いから一緒に並んでみていたそうです。レスキュー隊員の中にも悔しいと
泣いている人がいた。もう少し早く来れば、何人かは助けられたのではないかと。


逃げてきた人たちの話を聞くと、悲惨なことがたくさんあったといいます。一つの
例を上げると、ある男性の方は、親御さんを在宅介護をしていた。そこに津波が
迫ってきて、親も自分も首まで水につかってしまった。

これはもう助けられない。そう考えて、その方はひとたび親の手を握ってから
下に置いて、手を合わせ、そのままおいて逃げたそうです。「泣き泣き逃げたと
言っていました。究極の選択ですね。一瞬の判断だったと思います。」

そうしたら川の中を小学生の女の子が生きたまま流されてきた。
その方は、その女の子を必死で助けた。それが救いだと言っていた。
親を捨てたけれども、もう一つの命を救うことができて、救われたと。

そういう人たちが川沿いにはたくさんいたそうです。親子で手をつないで逃げて、
子どもだけが流されてしまった母親もいた。なんで手を離してしまったのだろうと
悔んでいましたが、波の姿がすごくて、すとんと持って行かれてしまったそうです。

それで一晩目は、うめき声が凄かったそうです。助けてーとか、おーいとか、うーと
うなっている声が響いていたそうです。しかしどこにその人がいるか分からない。
そのまま寒さの中で死んでいった人たちがたくさんいたのだと思うと渡辺さん。

山の方に逃げたので、一晩、そこにいて、寒さで亡くなった方もいたそうです。
そうした話を渡辺さんはたくさん聞いたといいます。それぞれにまったく違った
体験をしている。同じ話はない。それぞれがたくさんのことを見てきている。

ただサバイバルの知恵を知っているかどうかが一つの境目だったようです。
キャンプの経験などがある人は、自分で火を起して、流れてきた物資の中から
食料をみつけ炊いたりもした。そうしたことが全くできない人もいたのでした。

続く

コメント
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