明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1338)使用済み燃料プールも危ない―トルコへの手紙-2

2016年12月25日 10時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20161225 10:00)

トルコへの手紙の続きです

今回は使用済み燃料プールの抱える恐ろしさについても書きました。

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使用済み燃料プールも危ない

この熊本地震が教えたことが幾つかあります。一つに熊本地震が地震大国の日本でもこれまで観測されたことのない新たなタイプの地震となったことでした。何せ日本の地震の震度のクラスで最大に位置づけられている震度7の地震が、立て続けに起こることはこれまで観測されたことがなかったのです。これまでの日本の地震学の常識を上回る事態でした。反対に言えばまだまだ日本とて、自分たちの足下で繰り返し起こっている地震について十分に科学的に把握できていないことが明白になりました。

しかもその地震の揺れの規模(ガル)は原発の設計上の想定をはるかに上回っていました。つまり日本の原発が、激しく壊れる可能性があるだけの地震に襲われる可能性があることがはっきりしたのです。

そんな地震が2回連続で来たことがはじめて観測されたのです。同じ事が原発の直下で起こることを考えると寒気がします。あの福島原発が、あのとき、あれだけの事故のあとに、さらに大規模な地震にさらされたことを考えれば、それがどんな破局的な事態を生むのか想像できると思います。

日本は有史以来、たくさんの地震に見舞われてきた地域であり、この島国に住む私たちには、世界の地震の少ない地域の方々たちに比べれば、地震への「慣れ」のようなものがあると思うのですが、しかしその私たちの経験からしても、今回はあり得ないことばかりが続いたのでした。

にもかかわらずこの国の政府は、観測史上初めての事態に遭遇し、避難経路が寸断されてしまったにも係らず、原発を停めようとしませんでした。それどころか今年の8月には、中央構造線に非常に近いところに位置している四国の愛媛県の伊方原発3号機も再稼働させてしまいました。

この国の中ではこのため2箇所で3つの原子炉が動いています。本当に恐ろしいです。

また実は原発は動いていなくても危ないのです。原発を運転するときにウランを加工した核燃料を使います。原子炉の中でウランが核分裂を繰り返してエネルギーを出すわけですが、同時にたくさんの放射能が産み出されます。

もとのウラン燃料も放射能を持っていますが、運転が終る頃には放射能量は約1億倍になっています。同時にこの使用が終った核燃料が大変な熱を持つのです。

どうしてかというと、放射能は原子から放射線を出して違う物質に変わっていきます。これを物理学で崩壊というのですが、その崩壊の時に熱を出すからです。このため放射線がまったく出なくなるまで熱が出続けるのですが、そこまで落ち着くのに実は10万年を越す時間が必要なのです。核燃料の中にはたくさんの放射能がありますが、ものによっては100万年かからないとなくならないものまであります。

このため運転が終ったばかりの核燃料は大変な熱量を持っていて、冷やし続けないと溶け出してしまいます。実際に福島原発事故でも、地震のときにブレーキである制御棒が原子炉の中に入れられて、核分裂自身は停まったのですが、その後に冷やすことができなくなってしまって、炉心が溶けてしまい、原子炉の下部に落下していくメルトダウンが起こってしまったのでした。

この恐ろしい事態を引き起こさないために、すべての原発では、運転が終った核燃料をいったんプールの中に収納します。そこには水がはってあります。水は核燃料から出続ける熱をとるためのものですが、同時に核燃料から激しく出てくる放射線をシールドする役目も果たしています。

このためこのプールを冷却している装置が壊れると、水温が上昇し、水が減り始めます。もしそれで核燃料が水面から出てしまうと、シールドが無くなって放射線が激しく周囲に飛び出すので、人が近づいて作業する事ができなくなってしまいます。そうなると最悪で原子炉の外でメルトダウンと同じことが発生します。

実は日本中の原発で、この原子炉のすぐ横にある燃料プールに、使用済み核燃料がひしめいています。理由は核燃料のその後の処理方法が確立しておらず、持ち運び先が決まっていないからです。このため日本中の原発が、燃料プールの中に使用済み核燃料を抱えており、激しい地震が原発を襲ってプールが壊れた場合に、破局的な危機に見舞われる可能性があるのです。だから私たちは大きな地震があるたびに、飛び上がるような恐ろしさを感じざるを得ません。本当に怖いです。 

実際にこの11月22日未明にも福島県沖でマグニチュード7.4の海底地震が起きたのですが、その時に事故を起こした福島原発のすぐ近くにある福島第二原発3号機の燃料プールの冷却装置が壊れて停まる事態が起こりました。幸いにも暫くして復旧したのでメルトダウンに向かうことはありませんでしたが、この時も、あらためて日本中の原発が抱えている燃料プールの危険性がクローズアップされました。

トルコのみなさん。トルコも地震大国です。そのトルコにいま、原発がないのはとても安全なことです。トルコと日本は同じ地震大国ですが、核事故を考えるなら、トルコの方が、格段に安全性が高いです。どうか私たちの幸せの元であるこの安全性を手放さず、危険な原発を導入しないように努力を続けてください。

ご存知のようにトルコのシノップに作られようとしている原発は日本の三菱重工とフランスのアレバによるものです。

私は日本人として強い怒りと責任を感じています。またシノップはもう3回も迎えてくださった場で、もはや私にとってはとても親しみがあり、懐かしい場でもあります。このため私も美しいシノップを守るためにも、日本からの輸出をなんとしても食い止めるために頑張ります。

そのためにも今回、4月に起こった熊本地震と川内原発の関係、地震大国に原発がある危険性をお伝えしましたが、次回に11月22日に福島沖で起こった地震によって、実際に燃料プールの冷却が停まってしまった事態についてももっと詳しくお伝えしたいと思います。

トルコと日本の民衆の協力でシノップへの原発の輸出入と建設を食いとめましょう!

続く 

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明日に向けて(1337)トルコへの手紙―日本での地震の頻発と原発の危険性について-1

2016年12月24日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20161224 23:30) 

ちょうど一月前、11月22日に福島県沖で大きな海底地震が起こり、福島第二原発3号機燃料プールの冷却システムがダウンしました。すぐさま記事を書いた事に対し、トルコの友人であるプナール・デミルジャンさんからトルコ人向けの解説記事を書いて欲しいという依頼が来ました。

申し訳ないことになかなか時間が取れなかったのですが、ようやく記事に着手したのですが、まずは先に熊本地震と川内原発のことを伝えたいと思い、とりあえずそこまでを記事にしました。

今後も続編を書いて、トルコへの原発輸出を食い止める活動に寄与していきたいと思います。

これは日本人としての責任においてやらなければならないこと。みなさんのご支援をお願いします!

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日本での地震の頻発と原発の危険性について

トルコのみなさん。これまで3回トルコを訪問した守田敏也です。いま日本で起こっていることをお伝えします。

今年になって日本では大きな地震が何回か起こりました。小さな地震は無数に起こっています。

一番、大きかったのは4月に起こった熊本県での地震でした。最初に地震がおこったのは4月14日、震度7、マグニュチュード6.5の地震が起こりました。震度とは日本の気象庁が定めている地震の揺れの大きさを階級で表す言い方で7が最高値です。

熊本県ではさらに4月16日に、震度7、マグニュチュード7.3の地震が起きました。二つの地震のエネルギー量の差はなんと16倍もあります。

しかも震度7という非常に大きな地震の直後にそれをはるかにうわまわるエネルギーの地震が起こるのは日本の地震観測史上初めてのことでした。前例のないことが起こったのです。 

このとき、日本中の人が原発の関係で強い不安を感じました。このとき全国で唯一、動いている原発が、大地震のあった熊本県の隣の鹿児島県にある川内原発だったからです。(1号機、2号機が稼働していました。)

日本のそれぞれの原発には「設計基準動」というものがあります。設計時に「これだけの揺れが来る可能性があるので、それでも壊れないように」と設定された数値ですが、川内原発の場合、これが620ガルなのです。このガル(Gal)というのも日本で使われている地震の揺れの加速度の単位ですが、この時の14日の地震の震源地の益城町の揺れはなんと1580ガルでした。川内原発の安全基準の2.5倍にもなる値でした。

もちろんこれは益城町での値で、このとき川内原発地震はそんなに大きく揺らされてはいません。しかし今回の地震は、かつて地震が起こった痕跡が残っている「断層」と言われる場で起こったのですが、その断層をたどっていくと川内原発の近くまでつながっており、今回もその方向に余震が次々と起こっていったのです。

このため川内原発も設計基準を大幅に超える地震に見舞われる可能性があります。そのとき、原発が動いているとどこまで被害が拡大するか分からないのです。

しかもこのとき、九州では多くのものが地震でストップしてしまいました。鹿児島から熊本を通って博多まで走っている新幹線も、地震で脱線して停まってしまったのですが、実は新幹線は川内原発が大きな事故を起こした時の主要な避難経路に指定されているのです。

九州全体を貫いている「九州自動車道」という高速道路も停まってしまいました。熊本では大きな橋が地震で落ちてしまったところもあり、各地で道路が寸断されていました。熊本空港も、激しい揺れによって安全点検が必要になったために、閉鎖されてしまいました。

このため万が一、さらに原発の事故があったら、とても人々が逃げ出せない状況に熊本県とその周辺がおかれていました 。

しかも熊本県の避難所には人が溢れていました。震度7の地震が2回も続いたことで多くの家屋が倒壊し、1回目の地震で7人、2回目の地震で30人の犠牲者が出ていました。地震ではこの他に土砂災害も発生して10人が犠牲になりました。2回の地震での死者は合計で50人にも上りました。

そんな状態で余震が頻発していたため、多くの人が家に帰られなくなってしまいました。日本では地震等があった場合、地域の学校や公共施設が避難所になりますが、どこもこんなにたくさんの人が押し寄せてくる事は考えておらず、中に人が入りきれなくて、周りにたくさんテントがはられ、さらにそれでも足りなくて、自家用車の中に寝泊まりしている人もいました。

車に停まった人の中には、地震があまりに激しく繰り返すため、避難所の建物の安全性も信頼できず、何かあった時にすぐに逃げられるようにと車を選んだ方もいたようでした。

しかし狭い車の中で寝泊まりしていると、「エコノミー症候群」と言われる症状が発生します。飛行機でエコノミークラスに乗っていて長いフライトをしたときに起こることがある症状で、足などの血管の中に血栓という血の固まりができてしまい、それが血管を通じて頭に入って脳梗塞を起こしたり、心臓に入って心臓を止めてしまったりする恐ろしい症状で、これが合計で51件も発生しました。

この症候群で命を落とした方も含め、地震の時には命を長らえたけれども、その後の辛い避難生活の中で亡くなった方の数は全部で102人に登りました。あわせて152人が亡くなったのでした。

一方で川内原発とは反対の方向にも断層に沿って揺れが続いていきました。日本列島は一番西に沖縄島などのたくさんの島を抱えていて、さらに九州、四国、本州、北海道から成り立っています。

熊本県は九州にありますが、そこで起こった地震が九州の南の鹿児島県側と、東の四国側に移っていったのでしたが、実は九州と四国の間ぐらいから、四国を貫き、本州の紀伊半島を貫いてのびている大きな断層帯があります。中央構造線と名付けられているのですが、そこにも原発が建てられています。

四国の愛媛県にある伊方原発で、今年の8月に3号機の再稼働が強行されました。

このためこの地震は原発の危険性をあらためて大きくクローズアップさせるものとなりました。熊本で起こった地震と同じ規模の地震が原発を直撃したら、少なくとも設計上はとてももたないのです。

しかも多くの人々が地震ですでに犠牲になっていたし、ものすごい数の人々が避難所に集まって、家に帰れないでいる。そんな状態でしたから、各地から「川内原発を停止せよ」という声が上がりました。もちろん僕もあげました。

何せ避難経路の中心の一つである新幹線も停まっていたのです。道路も激しく壊れていました。空港も一時期でしたが閉鎖されていました。

ところが日本政府と九州電力はこれらの声を無視して、川内原発を動かし続けました。鹿児島県の知事も原発の稼働を支持し続けました。この姿に全国で怒りが高まりました。

続く

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明日に向けて(1336)李容洙ハルモニの思いに応えたい!(開設式に参加して4)

2016年12月15日 11時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20161215 11:30)

イヨンスハルモニのお話の続きです。

1992年に名乗りを上げて以降、被害女性の先頭で奮闘を続けてきたイヨンスハルモニ。そんなハルモニを私たちは2004年に京都にお招きしました。

その少し前に私たちは、ナヌムの家を訪れた僕の親友の娘さんが「この罪はいま謝らないと永遠に許してくれる人がいない罪になってしまう」と言った事をきっかけに、被害女性を招いた証言を行うグループを立ち上げていました。そのグループで最初にお呼びしようとなったのがイヨンスさんだったのでした。これまで僕が書いてきた彼女の被害体験も、その時語ってくれた証言録から抜粋してご紹介しています。

その際、重要なことがありました。ハルモニの歌った歌についてです。ハルモニには何箇所かで証言していただいたのですが、二度目の証言でハルモニがこの歌を歌われたとき、冒頭の「カンコウ」という音に僕があることをひらめいたのです。

実はハルモニも「カンコウ」の意味を分からずに音だけを覚えていたのですが、僕はこれは艦上攻撃の「艦攻」のことではないかとピンと来たのです。

旧日本軍の攻撃機には航空母艦などから発進する艦上攻撃機と陸地から出撃する陸上攻撃機がありました。それらはつづめて「艦攻」「陸攻」と呼称とされていました。さらに97式艦攻、96式艦攻など「カンコウ」の名がそのまま機体名になっていた艦上攻撃機もありました。

これはハルモニにとっても非常に大きなポイントでした。ハルモニたちには被害体験の正式な記録があるわけもなく、関係書類の多くも日本軍によって消滅されており、主に自分の記憶しか頼るものがない。その中で自分の発言の信憑性を裏付けなければならないという過酷な立場におかれて続けてきたのです。

その点で「カンコウ」を「艦攻」と解釈するといろいろなことが見えてくる。

それで僕は新竹基地からの特攻隊の出撃を調べてみました。するとここは旧日本海軍の基地で、約130人の兵士たちが特攻に飛び立ったことが分かりました。使われた機体を調べてみると、97式艦攻や96式艦上なども確かにある。この他に99式艦上爆撃機、零式戦闘機(ゼロ戦)、彗星艦上爆撃機、天山艦上攻撃機、銀河陸上爆撃機、さらに93式練習機などがありました。零戦は戦闘機なので本来は機銃しか積んでいないのですが、特攻用には重い爆弾をくくりつけて使われました。

ハルモニの話のなかで兵士は「二人で乗っていく」と語ったというのですが、そうなるその飛行機は96艦攻だったのかもしれない。あるいは99艦爆も2人乗りでした。

このことを調べていて何とも言えない悲しさがこみ上げました。例えば96艦攻は戦争末期ではまったく時代遅れの複葉機でした。いや当時の日本軍の最新鋭機ですら米軍機と比べると遥かに性能が劣っていて、空中戦になるとほとんど米戦闘機の餌食になっていました。

そんな戦闘に、特攻作戦の最末期には練習生が使っていたばかりの複葉機(93式練習機)に、そのまま爆弾をつけて出撃させた例すらありました。

しかもこれらの飛行機には零戦をのぞいて2人から3人の兵士たちが乗っていた。もともとこれら「攻撃機」や「爆撃機」は空中から艦船めがけて魚雷を落としたり爆弾を落としたりするもので、そのために落とす係が必要なために、複数が乗る必要があったのですが、特攻の時にそんな乗員は必要なかったはずなのです。にもかかわらずこれらの機は、必要のない人員を詰め込んで特攻させられてしまったのでした。

僕はこのとき調べた事をハルモニに告げましたが、ハルモニを助けてくれた兵士が乗ったかもしれない飛行機が、当時からみてもまったく時代遅れのものであったことなどは話しませんでした。いや話せなかったのです。日本軍の愚かさで、ハルモニをさらに悲しませたくはなかったからです。

ハルモニは京都の証言集会でこの兵士とのふれ合いについてこう述べました。

「みなさん。日本人の中にはこのような人もいらっしゃいました。彼は私に対して『同じように私たちは被害者だ』ともいいました。『あまりにも愛している』とも言いました。韓国で私がこのような話をすると、嫌がる人もいると思います。しかし私は、いい人はいい人だ、愛すべき人は愛すべき人だと言わなければならないと思います。」

そのイヨンスハルモニと、私たちはその後にとても仲良くなって、京都の観光にもお招きしました。このときは僕と連れ合いが二人で住んでいる狭い我が家に、ハルモニに一週間近く泊まっていただきました。

そのとき僕は『ホタル帰る』という本をハルモニに紹介しました。九州の知覧特攻基地の兵士たちと、そのそばにあって、兵士たちの憩いの場となっていた富屋食堂のおかみさんの触れ合いを語った本です。映画『ホタル』の原作でもあります。

ある日、出撃を前夜に控えた宮川という兵士が「おばちゃん、俺は死んだらホタルになってここに帰ってくるよ」というのです。そしてその兵士が特攻で散った夜、実際に食堂にホタルが舞い込んできたのでした。

これは実話です。これをベースにした映画『ホタル』は、出撃前夜にアリランを歌った実在の朝鮮民族の兵士のことをクローズアップしつつさらに創作を加えているのですが、戦争の悲劇や、日本が朝鮮を植民地化し、戦争にも朝鮮の若者を動員していたこととどう向かい合うべきかなどを的確に描いており、多くの人に観ていただきたい作品です。「かの石原裕次郎氏が激怒した作品」と紹介した方が、観てみようという気持ち強めていただけるかもですね。

その原作である『ホタル帰る』の中に、食堂に集っていた実際の兵士たちの写真が載っているのです。航空帽をかぶって腕組みしている姿などが何枚かあるのですが、みんな泣きたくなるぐらいにイケメンなのです。

僕はそれをハルモニに見せてあげたかった。するとハルモニはとても興奮し、食い入るように何枚かの写真を見て「そうそう。こんな顔して、こんな風に帽子をかぶっていた」と何度も語ってくれました。 

その夜、ハルモニの枕元に、あのときハルモニを助けてくれた兵士が立ったのだそうです。ハルモニは彼を見て一晩中泣き続けたそうです。

翌日、目を真っ赤にはらして彼のことを語るハルモニの姿を見て、僕の心の中にもハラハラと涙が流れました。「この写真を見せたのはよくなかったのだろうか」という動揺もよぎりました。でも自分がいた基地のことを、執念をもって調べ続け、台湾の新竹にも何度か訪れたハルモニに何らかの手助けをしたかったのです。

そんなことがあったので、ハルモニは僕たちのことをとてもよく記憶してくださいました。そして今回、台北の式典でお会いするとそれはもうすごく喜んでくださった。それだけでなく、周りにいた人たちにあの歌を披露しだしました。そして言うのです。「日本人がすべて酷い人だったというのは間違いです。いい人もいました。そのことも伝えていかなくてはいけないのです」と。

16歳のとき、ハルモニは300人の日本海軍の兵士たちと同じ船に乗せられ、何度もレイプされました。台湾に渡ってからも酷い暴力を受け、電気拷問を受けて瀕死の状態にすらなりました。そんなハルモニをかばってくれたのは共に被害を受けていた女性とともに、たった1人の21歳の特攻を前にした若者でした。

それでもハルモニはこのように語り続けてくれています。 

ハルモニに深い感謝を捧げるとともに、ハルモニの思いとすべての努力に全身で応え続けたいです。

続く


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明日に向けて(1335)李容洙ハルモニのこと(開設式に参加して3)

2016年12月14日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20161214 23:30) 

12日に台湾から戻りました。素晴しく充実した旅で、まだまだ報告する内容がたくさんあります。今回は開設式に韓国から駆けつけてくださった李容洙(イヨンス)ハルモニのことをご紹介したいと思いますが、その前にお詫びを一つしんければなりません。

前回、台湾の陳蓮花(チェンレンファ)アマをご紹介する時に、誤って蓮華と書いてしまいました。その後、ブログなどを訂正しましたが、シェアしていただいた記事に訂正前のものも流れてしまいました。再度、書きますが正しくは「蓮花」さんです。どうも申し訳ありませんでした。

さて、イヨンスハルモニのことをご紹介します。

今回、ハルモニは、式典に参加してくれたたった二人の被害女性の1人として台湾を訪れてくれたのですが、彼女の参加には特別な意味がありました。少女のときに拉致されたイヨンスハルモニが連れてこられたのが、台湾の新竹だったからです。

拉致されたときのハルモニは16歳。台湾には船で移送されましたが同じ船にハルモニを合わせて5人の少女たちが乗っていました。一番上で18歳でした。

そこに300人の海軍兵士が乗り合わせ、ハルモニは他の女性たちとともにこの船の中でレイプを受け続けたそうです。

やがて台湾に着いたハルモニが連れていかれたのは特攻隊の出撃基地でした。沖縄周辺にいたアメリカ艦隊を攻撃するために次々と特攻機が出撃しましたが、そのほとんどは上空で待ち伏せしていたアメリカ軍の迎撃機に落とされ、艦隊にたどり着くことすらできませんでした。成功率のものすごく低い作戦でした。

そんな基地の「慰安所」に辿り着いたとき、ハルモニをみとめた少し年上の女性が「ああ、あなたはこんなことをする年ではないのに」と嘆いて自分の部屋に連れ込み、押し入れに隠してかくまってくれたのだそうです。

しかしやがて日本兵に見つかり、かくまっていた女性は兵士が取り出したナイフでズタズタに切り裂かれてしまいました。怖くなって押し入れからでてきたハルモニも同じ目にあいました。

死ぬほどの虐待をともに受けた後で、その年上の女性が、自らもぼろぼろに傷ついているのにハルモニを介抱してくれたのだそうです。でも彼女は「お前はもうあの人たちの言うことを聞くしかない。そうでないと殺される」と語ったそうです。

その後、何日か経つと、軍人が訪れてその女性と何やら話し、ハルモニは彼女に化粧をされてある建物に連れて行かれました。

そこは部屋ごとに仕切りがあり、戸の代わりに布が吊るされていて、中には軍人が待っていました。ハルモニは怖くなって逃げ出そうとしましたが、錠前のついた部屋に押し入れられ、とても固い軍靴で腰を蹴られました。

ハルモニが悲鳴をあげると髪をつかんでいすにすわらされ、刀で太ももをえぐられてしまいました。今もその痕が残っているそうです。

さらに両手をテーブルの上に出せと言われ、何かを結ばれました。暫くすると体中にひどいしびれが走ったそうです。おそらくは電気拷問だったのでしょう。ハルモニは「オンマ(お母さん)」と叫んで気を失ってしまいました。

その後の記憶をハルモニは失っているのですが、ある軍人がやってきて、残りの4人の女性たちに、「あの部屋に一番若い女の子がいる。生きているかどうか分からないから一度いってみろ。もし死んでいたら僕が埋めてあげるよ」と言ったのだそうです。彼女たちは夜になってから軍人が残していった電灯をたよりにその部屋に忍び込み、瀕死のハルモニを見つけました。

するとその軍人がやってきて栄養剤を飲ませてくれたそうです。それでもハルモニは目を開けなかった。それで女性たちが自分の指を切って血を飲ませました。軍人も同じ事をしてくれたそうです。

何日か経ってやっとハルモニは目を開けました。すると軍人はそれからも栄養剤を運んでくれたのだそうです。ハルモニは名前を尋ねられ、日本名の「安原」と名乗りました。しかし下の日本名はなくて答えられなかった。するとその兵士が「それなら僕がつけてあげる」といって「としこ」と言う名を付けてくれたのだそうです。

その兵士は、自分は特攻隊だと言ったそうです。夜の川べりの堤防のようなところに座り「飛行機で特攻に行く。二人で乗っていく」「僕は21歳だ。何日かすると僕は死にに行く」とも語ったそうです。ハルモニが「私も連れて行って」というと「ダメだ」と言いながら、こんな歌を歌ったのだとか。ハルモニは今もそれを日本語で朗々とうたうことができます。

「カンコウ離陸よ 台湾離れ 金波銀波の雲乗り越えて 誰だって見送る人さえなけりゃ 泣いてくれるは としこが一人だ」

「カンコウ離陸よ 新竹離れ 金波銀波の雲乗り越えて 誰だって見送る人さえなけりゃ 泣いてくれるは この子が一人だ」

結局、その兵士とハルモニは二日間、一緒にいたそうです。そして最後に自分の洗面道具を渡してこう語ったと言います。「としこ、隠れていろ。僕が死んだら僕が神様になってお前をお母さんの元へ連れて行ってあげる」「お母さんの胸に託してやるから、としこ、死なないで。どうか人に見つからないで」。

そう言い残して去っていった彼をハルモニは泣きながら見送ったそうです。

そんなことがあってから暫くして、ハルモニのいた基地は空襲を受け、ハルモニたちの建物にも爆弾が落ちました。ハルモニは地下の防空壕にいて無事でしたが、彼女をかくまってくれた女性が死んでしまったそうです。

その後のある日、中国人を名乗る男性がやってきて、「戦争は終った。もうこんなところにいてはいけない」と語り、ハルモニたちを収容所に連れて行きました。ハルモニたちはようやく解放され、朝鮮の故郷へと連れ返されたのでした。 

その後、長い時が流れました。そして長い間の沈黙の末、最初に名乗りをあげた金学順(キムハクスン)さんの叫びに刺激され、1992年6月25日にハルモニは名乗りをあげられたのでした。勇気をもって名乗り出て以降、ハルモニは被害女性たちの先頭にたって奮闘し続けてこられました。

続く

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明日に向けて(1334)陳蓮花アマのこと(開設式に参加して2)

2016年12月12日 10時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20161212 09:00台湾時間) 

台湾での最後の日となりました。

昼過ぎの便で関空に向かいますが、その前にもう一つ、記事を投稿しておきたいと思います。 

今回はアマミュージアムの開設式に参加する事を最大の目的にして台湾にやってきましたが、そこで二人の被害女性のおばあさんと会う事ができました。陳蓮花(チェンレンファ)アマと李容洙ハルモニです。二人ともお元気で私たちとの再開をとても喜んでくれました。

これには特別な理由があります。今回はレンファアマのこと、彼女と私たちのふれ合いのことをご紹介したいと思います。

レンファアマは今年で92歳ですが、もう少し若いとき、2006年に82歳で京都に訪問してくださいました。もう亡くなられた呉秀妹(ウーシュウメイ)アマと、イアン・アパイアマと3人揃っての訪問でした。私たちにとって初めての台湾からのおばあさんたちの招請でした。

このときアマはまだ公の場でのカムアウトをしたことがなくて、京都でも話をする予定はありませんでした。ところがシュウメイアマやアパイアマの証言と、それに対する会場のなんとも言えない温かくて親密な反応に触れたレンファアマは「私も話す」と決然と言い出してくれて、京都の地で初めての証言をしてくれたのでした。

レンファアマが日本軍につれていかれたのはフィリピンのセブ島の激戦地帯でした。アマを待っていたのは日本軍兵士にレイプされる過酷な日々に加えての米軍の猛攻撃でした。

フィリピンでは日本軍は多くの場合、直接に女性たちを連れ回していましたが、このため戦闘にもそのまま巻き込まれてしまったのでした。

マッカーサー将軍の威信をかけたフィリピン上陸作戦に向けて米軍は艦砲射撃(艦船からの砲撃)と空からの猛攻を加え、日本軍をボロボロ、ズタズタにしていきました。兵士たちの死傷率はおよそ95%。1万人の大隊のうち500人ぐらいしか生き残りがいないという戦闘というよりは空からの虐殺を受けていったのですが、なんとその最中にアマもいたのでした。 

このときアマは20人の女性たちの中にいて日本軍と一緒に逃げなければならなかった。装備な粗末な日本兵とてヘルメットぐらいはあったでしょうが、もちろん女性たちにはそんなものはなにもなかった。それどころか、傷ついたり疲れて動けなくなった女性たちは日本兵に殺されてしまったのでした。

そのときの情景をアマは身振り手振りで説明しました。空からの攻撃を手でまねながら「パラパラパラ」とアマは叫んだ。続いて日本語ではっきりと「カンポウシャゲキ」とアマは連呼した。

ちなみにこのとき、アマの話す台湾語を話せる京都におられた台湾人の方が通訳をしてくださったのですが、彼女はこの言葉を理解できませんでした。それはそうでしょう。日本人だって若い人はもう知らない言葉です。

反対に言えば、この言葉をアマが連呼したことには、日本軍に連れ回された戦場での過酷な体験の信憑性が裏付けられてもいました。そうです。アマは艦砲射撃の中をすら逃げまわらなければならなかったのです。 

その末にアマたちはたった二人になってしまいました。アマの親しい友達とでした。命がけの逃避行の末に二人は米軍キャンプに保護されました。ところがその場でともに手を取って逃げ合ったその友達が日本兵に殺されてしまったのでした。

このときのことをアマは号泣しながら話しました。ワーワーと声をあげてアマは泣いた。友だちの遺髪や爪を持ち帰った事を話しながら、アマはおいおいと声をあげました。今、思い返しても僕も涙がこみ上げてくる情景です。

鮮明に覚えているのは、このとき、アマに連れ添ってきて、その後に私たちの親友になった呉慧玲(ウーホエリン)さんが「よし、やった。これでいいのよ。泣く事が大切なのよ」と拳を握って話したことでした。

そうです。この場はアマの初めてのカムアウトの場なのでした。アマは60年以上も心の中に秘めていた悲しみを私たちの前で爆発させたのでした。爆発させてそれを思い切り外に発散させもした。

ホエリンさんたち台北市婦女援助会は、アマたちへの心理療法に取り組んできました。たくさんのプログラムを通じてアマの心身の痛みを和らげてきました。心の痛みに優しく入り込み、癒してきたのでした。

その過程をともにしてきたホエリンはアマたちが人前で声を上げて泣く事の重要性をとても良く知っていた。だから思わず拳を握ったのでした。

僕にとってもこの場は本当に忘れられない場でした。僕自身の何かがはじけた瞬間だったからでもあります。

実は僕はこれ以前にフィリピンの島々で戦ったおじいさんからも体験談の聞き取りを行っていました。そのためにセブ島の戦況も理解していて、だから一層、アマの叫びが胸の奥まで入ってきました。

アマは20人の女性たちの中のたった1人の生き残りになってしまったわけですが、それは日本軍兵士たちの死傷率とも不気味な形で一致しています。わずか5%しか生き延びられず、周りで仲間がバタバタと死んでいく地獄の中にアマはいたのでした。

そのアマのリアルな語り、叫びを聞いたとき、彼女の悲しみは僕の心の悲しみと一体化し、彼女のすべての体験は僕の体験となりました。いや正確にはなった気がしたのでした。その一瞬、僕は女性でも男性でもなく、台湾人でも日本人でもなかった。いやその全てであり同時にそのどれでもなかった。

それは僕が日本人男性としてこの問題にどう向かい合うのかを考え抜いてきた臨界点で体験した事でもありました。男性でも日本人でもある前に、僕は1人の人間としてアマの痛みに合流した。あのときの理屈を越えたところでの一体感、まるでアマに起こった全ての情景が見えたような感覚、そして悲しみの奥底での「解放感」とでもいうべきものが、今も僕を大きく支える力となっています。 

そんな魂を揺り動かすような初めてのカムアウトを京都で行ってくれたレンファアマは、その後も各地で決然と発言するようになりました。しかも回を重ねるだけ、アマは堂々と語るようになっていった。80歳を超えて、どんどん成長していったアマの姿はとても感動的でした。

その間に、レンファアマをカムアウトへと誘ったたくさんの先輩アマたちが次々と亡くなっていき、そして今回、迎えたアマミュージアム開設式で、レンファアマはついに公式の場で発言できる最後のアマとしてテープカットに参加してくれました。とても感慨深いシーンでした。

レンファアマのこれまでのすべてに深く感謝したいです。

続く

 

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明日に向けて(1333)阿媽博物館を女性とすべての人権を守る砦に(開設式に参加して1)

2016年12月11日 03時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20161211 03:00 台湾時間)

台湾に来てから3日目の夜を迎え、報告を書く時間を捻出しました!

今日は今回のメインイベントであるアマミュージアムの開設式に参加してきたのでその報告を記したいと思います。

式典はアマミュージアムの近くの公園で行われました。ミュージアムにとても入りきれない人が世界中から参加したからです。

 朝10時に会場に着くと、すでに公園内にさまざま人々が集まっていました。被害女性を代表して参加してくれたのは陳蓮華(チェンレンファ)アマと李容洙(イヨンス)ハルモニ。イヨンスハルモニは韓国から駆けつけての参加でした。
さらにおばあさんたちのサポートの中軸を担ってきた台北市婦女援助会の面々、この組織を支援してきたさまざまな社会団体や企業、そして新政府からも多くの方が参加していました。
世界からの参加も豊かで中国、韓国、アメリカ、日本から約60人が参加していたそうです。

式典はミュージアムのシンガーソングライターの素敵な歌のあとに、婦援会の黄淑玲理事長のスピーチで始まりました。黄さんは次のように発言されました。

婦女援助会理事長 黄淑玲 発言要旨

イヨンスハルモニ、アマ、国内外のお客様、セレモニーに参加していただきありがとうございます。

台湾では58人のアマが声をあげ、長い活動を展開してきました。女性のため、人権のために声をあげ、韓国、中国のおばあさんたち共に性奴隷問題の解決のための運動に取り組んできました。これは世界の女性の活動にとってとても重要なことです。

女性の人権と平和にアマたちは寄与しつつ、日本政府に謝罪を求めてきました。国連もアマたちを支持し、日本政府を譴責してきました。アマたちは二度とこんなことが起こらないようにと頑張ってきました。

そのアマたちを記念するミュージアムはカンパで成り立ちました。そのミュージアムが世界人権デーの今日、開設できた事は、アマたちの女性の人権への寄与を讃えることだと思います。

アマミュージアムは20世紀以来、女性たちが受けてきたあらゆる被害や現代の被害を明らかにする場です。世界の人権運動と連携しつつ、この場を、人権を守り抜く場として発展させ、台湾の外交にも寄与できるものとしたいです。また人々のエンパワーメントにも寄与したいです。

ここまで資金調達がとても大変でしたが支えてくれた全ての方に感謝します。政府関係者のみなさまや、前総統にも深く感謝します。

最後に、天国から見ているアマたちにこう報告したいです。「アマたちのミュージアムがついに開館しましたよ」と。

ありがとうございました。

 

続いて台湾政府を代表して、文化部長のチェンリーチェンさんが発言されました。(発言要旨)

台湾政府文化部長 チェンリーチェン 発言要旨

この場に出席できてとても嬉しいです。

第二次世界大戦の終焉から70年が経ちました。戦争は大変な被害をもたらしました。その中でアマたちは深い傷に耐えてきました。家族も涙を流し続けました。

幸い、みんなの力に支えられながら、アマたちはこの被害を忘れるなとアピールしてきました。その発言は女性の人権や世界の人々の人権に大きく寄与してきました。その勇気に感服するとともに感謝に絶えないです。

私たち文化部は、文化の力を用いて、歴史の教訓に学んでいこうと呼びかけたいと思います。これまでの婦女援助会の努力に感謝します。

私たちはホットラインを作ってさらに調査を行います。歴史の教訓を忘れない努力を続けます。

アマの家がオープンされ、資料が展示されています。そこには一人一人のアマの命の物語があります。私たちはここでアマたちの心の傷と向かい合い、考えていくべきです。二度とこのような過ちを犯さないために手を携えて努力すべきです。

本日は長年、アマを支えてきたみなさんの努力に感謝を捧げます。そしてこの場を女性の人権をサポートしていく場としたいです。将来に向けて、女性と男性の同権を実現していく拠点としたい。すべての暴力から解放された同権的社会の実現を祈ります。

 

この他、たくさんの発言が続きましたが、日本からの支援者を代表して東京から参加した柴洋子さんが、心あるとても素敵なスピーチをしてくださったのでご紹介したいと思います。

多くの日本からの参加者の気持ちを代弁するナイススピーチだったと思います。少なくとも僕は「そうなんだよな。そう思うのだよな」と終始、共感しながら聞きました。

動画をFacebookのタイムラインにUPしましたが、ここでは文字起こしして紹介します。ぜひお読みください。

阿媽とともに・台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会 柴洋子

日本の東京でアマたちを支援してきました柴と申します。

最初にレンファアマ、シュウメイアマの家族の方々、そしてたぶんここに来ているであろうたくさんのアマたち、それから長い間、苦労なさってきた婦援会のみなさま、台湾のみなさま、今日のアマの博物館、アマミュージアムのオープン、本当に嬉しく思います。おめでとうございます。

私たちがアマと知り合いになったのは1999年にアマたちが裁判を提訴したときのことでした。私自身はもう少し前からアマたちに会う機会を得ていましたが、そのときは「アマたちは誰もカムアウトしない」と聞いていましたし、私も「そうかもしれない」と思っていました。

だから99年になってから裁判を起こすと聞いた時は本当にびっくりしました。あれほど顔も名前も出さないと言っていた人たちがなぜ裁判を起こすのだろうと思いましたけれども、裁判を起こす以上は、それまで台湾の慰安婦問題を考えるという勉強会をちょっとずつやっていたのですけれども、裁判を支援する具体的なことをしなければいけないと考えて、「裁判を支援する会」を立ち上げました。

その中でアマたちと具体的に知り合ってくる中で、台湾のアマたちのなんと言うのでしょう、心の穏やかさ、深さ、そして強さを感じて、私たちも知り合った事を大変嬉しく思っていました。

台湾のアマたちの裁判が起きたのは99年ですが、実は日本では韓国やフィリピン、あるいは在日の人たち等、もっと前から裁判が起きてきまして、敗訴してしまって、もう裁判の運動はこれで終わりだろうというころに台湾のアマたちが遅れて提訴したのでした。そのためそれぞれの裁判を支援したグループが「もう終わりだ」と思っていたのにもう一度、元気になりました。

それでそのあと、台湾のおばあちゃんたちの行った裁判も、東京高裁、最高裁と全部、敗訴になりました。フィリピンの裁判と同じで、事実も認定されなかった。とても過酷な、弁護士に言わせると「血も涙もない判決」が出されました。

それでもチンタオさんが「自分たちはまだやるし、負けていない」とおっしゃって、その後も私たちを受け入れてくれて、今日、現在にいたりました。

裁判は終ったけれども私たちは「裁判を支援する会」という名前はそのままにアマたちとの交流を重ねてきました。

実は婦援会が96年からワークショップを開いて、アマたちの心理治療を行っているということは、最初は知らなかったのですが、途中からワークショップに参加させてもらえることになりました。それで私はアマたちがなぜみずから裁判に名乗り出たのか、提訴すると決意したのか、アマたちが本当に強くなっていく経過を知るとともに、婦援会の長い間の働きかけがあったからだということを本当に強く感じました。

婦援会のスタッフの力強い支えが会って、アマたちも少しずつ、少しずつ自分のことを隠さずに元気になって、自分たちが悪くないということを、みんなの前でアピールすることができるようになり、やがて人々の先頭に立ってきたのだと思います。

そういう意味で私たちは、長い間の婦援会の働きは、地味だったはずなのに凄いことをしてきたんだなと感じています。ありがたいことだと思っています。私たちもいろいろなことを学びました。

日本では、みなさんご存知だと思いますけれども、政府はけして「慰安婦問題」を認めようとしません。解決しようとも、謝罪しようとも、賠償しようともしないで、完璧に無視しようとしています。けれどもアマたちがこうして闘っていますし、さらに婦援会の人たちの努力の賜物で、いまここにアマたちを記憶し、記録していくアマミュージアムができました。中国、韓国、日本等に、幾つかのこうした博物館ができていますけれども、それに続くもので、アジアの中でこのように被害を記録していくことがこうしてどんどん広がっていくことがとても大事だと思っています。

日本では情けない状態が続いていますけれども、私たちも最後まで諦めることなく、みなさんの気持ちを受け止めながら、そして連帯しながら、学びながら、今後も一生懸命にやっていきたいと思っています。

今日は本当におめでとうございました。

続く

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明日に向けて(1332)放射性廃棄物問題とアメリカ大統領選についてともに学ぼう

2016年12月07日 10時30分00秒 | 講演予定一覧

守田です(20161207 10:30)

明日8日より台湾を訪問してきますが、その後、帰国後のスケジュールをお知らせしておきます。17、18日に連続して二つの3つの企画に参加します。17日午前中のくらしとせいじカフェ@ながはま、午後の放射性廃棄物問題学習研究会の第4回、18日夜の「トランプ「勝利」、ヒラリー「敗北」の謎を解く!」です。

それぞれのチラシの案内文などをご紹介しますが、二つのチラシの文章も僕が書いています。

お近くの方、それぞれの企画にぜひご参加ください!

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12月17日 滋賀県長浜市

くらしとせいじカフェ@ながはま

「くらしとせいじカフェ」はいまや滋賀県のいたるところで行われている自由な企画。それぞれの場で集った方たちが好きに企画を発案して行っていますが、今回、僕が参加するのは、ながはま、まいばら、ひこねで2月に一度、持ち回りでもう2年近く続けられてきたカフェです。

毎回、民進党の衆院国会議員で滋賀2区選出の田島一成さんと僕が30分ぐらいずつ発話してからみんなで議論を深めています。

今回の僕の発話はトランプ現象についてです!

日 時 : 12月17日(土) 10:00〜12:00

場 所 : 六荘公民館(長浜市勝町490)

参加費 : 500円 

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12月17日 京都市 

放射性廃棄物拡散問題に関する第4回学習研究会

福島第一原発事故で放出された放射能にさらされ、除染作業などによって集められた膨大な放射性「汚染土」。これを8000Bq/kgのものなら公共事業で再利用してしまえというあまりにひどい政策が進められつつあります。私たちは、このあまりにひどい対策についての学習研究会を立ち上げ継続してきました。

第4回研究会では放射性廃棄物問題に関する3つの報告を行います。1つは今年7月1日に起こった京大火災問題です。放射性物質が燃えながら京大はまともな対応をしませんでした。この点について大学側を追及してきた石田先生から報告していただきます。

また2つに毎回大阪から参加してくださっている石川和広さんに報告をしていただきます。石川さんは大阪での放射性ガレキ受け入れ焼却問題の際に反対運動を担われました。その経験を沢田嵐編『日本が核のゴミ捨て場になる日』に「浮上したのは民主主義の機能不全」というタイトルで書かれています。今回も大阪での経験とその後考えられたことをお話いただきます。

3つ目は8000Bq/kg問題のその後です。これまでの3回の学習会を踏まえつつ守田敏也さんが報告します。ぜひご参加下さい。 

日時 12月17日(土曜日)午後3~5時

場所 市民環境研究所(京都市左京区田中里ノ前21石川ビル305)

主催 NPO法人・市民環境研究所

呼びかけ 石田紀郎(市民環境研究所代表理事) 守田敏也(フリーライター・市民環境研究所研究員)

参加費 若干のカンパをお願いしています。

連絡先 090‐5015‐5862(守田) 

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12月18日 京都市

トランプ「勝利」、ヒラリー「敗北」の謎を解く!

アメリカ大統領選でトランプ候補が勝ちました。なぜあの暴言ばかりのトランプが勝ったのでしょう。なぜオバマ政権を継承しようとした「リベラル」なはずのヒラリーは負けたのでしょう?日本の報道をみていると皆目分からない。

でもここ10数年ぐらいの間に激変してきたアメリカの社会状況を追いかけてみると見えてくる事がたくさんあります。端的に言えば激烈に貧富の格差が開き、どんどん社会が酷くなっている。しかもブッシュ・ジュニア政権、ビル・クリントン政権、オバマ政権と何ら変わらずに悪くなり続けてきました。

一例をあげるならばアメリカでは激太りする人が増えています。しかも貧しい人がどんどんファットになり病気にもなっている。ジャンクフードしか買えない人々が増えているのです。背景には食べ物までマネーゲームの対象にしだしたアメリカ社会の腐敗があります。その中で1%の人々だけが億万長者になっている。その大金持ち、ウォール街の金融家たちがこぞって支持していたのがヒラリーだったのです。

そればかりではありません。ヒラリーのバックについたのは戦争で大もうけしている軍産複合体でもありました。これに対して戦争はもう止めて欲しいと訴える退役将校たちがトランプの支持にまわりました。

だからといってトランプのあのあまりに排他的な発言を許す事もできません。

本当のところアメリカで何が起こっているのでしょう。トランプ現象をどう捉えたら良いのでしょう。私たちは何を学び何に備えたらよいのでしょうか?一緒に考えてみましょう。

日時 12月18日(日)午後6時から

場所 すみれや2階(叡山電車元田中駅近く)詳しくはHPから http://sumireya.org

講師 守田敏也(『内部被曝』『原発からの命の守り方』の著者)

参加費 1000円 申し込み haruyama@sumireya.org(春山)

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明日に向けて(1331)台湾のアマミュージアム開設式に参加してきます!

2016年12月06日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20161206 23:30)

このところたくさんの企画を駆け抜けてきました。その一つ一つで感慨深いことがあり、報告したいこと、しなければなあと思う事が多いのですが、残念ながらとても追いつきません。なんとももどかしい限りですが、なんとか来年はこれらをもっとまとめて出せるようにしていきたいと思います。

さて今宵はこの8日から12日まで再び台湾を訪問してくることをお伝えしたいと思います!

今回の訪問の目的は12月10日に行われるアマミュージアムの開設式に参加すること。ミュージアムのFacebookの公式ページができたのでご紹介しておきます。

https://www.facebook.com/pages/阿嬤家-和平與女性人權館-AMA-Museum/1704462136500653?pnref=story

 アマたちは軍隊「慰安婦」問題=旧日本軍性奴隷問題の犠牲者です。でも膨大な数の犠牲者のほとんどが名乗りをあげられなかった中で、各国で勇気をもって告発をしてくれた方たちがいました。被害者の推定総数20万人の1%にも満たない数でしたが、彼女たちはそれぞれに大変な痛みを通して辛い過去を話してくださいました。同時にそれは彼女たち自身にとって、蹂躙された尊厳を取り戻していく過程でした。

 僕はこの問題には言うなれば「前半」と「後半」があると感じています。「前半」はアマたちの本当に辛い経験であり、旧日本軍のあまりに惨い姿です。それは聴く側にとっても辛い時間です。

僕自身、ある大学の図書館でこの問題を調べている時に、中国戦線で日本軍の兵士たちが慰安所で行った蛮行の数々を読んで、ショックのあまり書架の間にへたり込んでしまったことがありました。行われたのはレイプだけではない。反抗した女性たちをみせしめになぶり殺すことまでがなされていた。しかも他の女性たちの前で。

その報告書を読んだとき、僕は怒りを通り越して呆然となり、人間不信の奥底に引きずり込まれるような感情に襲われました。正直なところ、あのとき僕は「もうこの問題に関わり続けたくない」とすら思った。もうこれ以上、人間の酷さを知りたくないという思が沸き起こってきたからでした。

これに対して「後半」は、そんな体験をくぐり抜けてきた女性たちが、カムアウトし、自ら体験を語る中から尊厳を取り戻していく階梯でした。僕は本当に幸運でもここに関わらせてもらうことができて、たくさんの勇気と感動を与えてもらえました。

僕が知り合えたのは全部で20人ぐらいのおばあさんたち。個人的にも知り合いになり、名前も覚えてもらい、幾人かはお宅まで訪ねてそのさまざまな横顔を知ってきました。

中でも親しくなったのは台湾のおばあさんたち。そのほとんどはもう亡くなってしまったのだけれど、京都に招いてみんなで合宿生活を行い、証言集会に出てもらった後に、金閣寺などの観光地で遊びまくったりもしました。そのとき、おばあさんたちの凛々しい姿と同時にチャーミングな姿もたくさんみました。

お酒の杯を重ねてゲラゲラと笑い合ったこともあった。ユニクロやドラッグストアで買い物に夢中になるおばあさんたちと店内をかけめぐったこともありました。

そんなおばあさんたちに、僕がかつて日本軍が行った事をあやまると、異口同音に「なんであなたが謝るの。謝る必要なんかないよ。私たちが謝って欲しいのは日本政府とあの時の軍人だけだよ。日本の若い人は大好きだよ」と言ってくれるのでした。

同時に多くのおばあさんたちが「もう二度と若い人にあんな思いをして欲しくない。だから私は頑張るよ」とも繰り返し語っていた。何度聴いても感動する言葉でした。

アマたち、おばあさんたちはみんな深い愛情も持っていました。そして若い人のためにと思って行動してきた。だから高校などに呼ばれて若い子たちに語りかける時など、目を細めて高校生たちを見て、とても嬉しそうにしてくれていた。亡くなったあのあばあさん、そしてまた今回もお会いできるあのおばあさんのそんな横顔が彷彿とします。

「あれほど過酷な経験をしたのに、人間はまだこんなにも豊かに愛情深くあれるのか」、僕は何度もそのことに驚嘆しました。

自分なりに調べた「前半」の事態の過酷さを知るが故に、おばあさんたちの勇気、尊厳、そして愛に心を洗われる思いがしたのでした。

同時に男性の立場からこの問題に関わってきた僕は性の問題についても本当にたくさんの事を学べました。男性であることの捉え返しを繰り返し、その中からこの問題の奥底に男性自身の解放の可能性があることも見えてきました。そこにはなんとも清々しいものがあった。それらはすべておばあさんたちとのふれ合いの中からつかめたことです。そのことも含めて、勇気をもって行動してきたすべての女性たちに心からの感謝を捧げたいです。

確かに「前半」の事実を知り、受け止めるのは辛い事です。しかし「後半」には本当に素晴しいものがある。「ああ、この問題に関わってきて本当に良かった」と深々と思えるものがあります。僕はそれをすべてのみなさん、とくに男性のみなさんに知って欲しい。知って一緒に味わっていただけたらと思うのです。

 12月10日の開設式にはそんな思いと立場から参加し、可能な限り現地からも報告を出します。

Facebook公式ページ等から10日の開設式にぜひご注目ください!

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明日に向けて(1330)原発事故と食の腐敗から人々を守るために(田村和久さんを新たな宇治市長へ!)

2016年12月02日 22時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20161202 22:30)

京都府宇治市で市長選が始まろうとしています。4日告示、11日投票です。
この選挙に向けて「21宇治市民ネット」から田村和久さんが挑戦されようとしています。日本共産党の推薦を受けてのことです。
昨日、田村さんを応援する「12・1市民大集会」が開かれ、招かれて応援弁士に立ちました。
そこでお話した内容をここにも掲載しておこうと思います。

なお「田村和久 21宇治市民ネット」のFacebookページをご紹介しておきます。
https://www.facebook.com/tamurrakazuhisa/

ぜひ田村さんにお力添え下さい!

*****

原発事故と食の腐敗から人々を守るために

みなさん。こんにちは。守田敏也です。

僕は原発に反対する運動を長く続けていますが、同時に兵庫県篠山市原子力災害対策検討委員会の委員としても活動しています。
篠山市では原発災害に備えて安定ヨウ素剤の市民への事前配布を行っています。
篠山市の方針は事故があったらこの薬を飲んで「とっとと逃げる」です。
今日、僕がここにやってきたのは、田村さんを市長におしあげて、原子力災害対策や災害対策一般を一緒に推し進めたいと思っているからです。
とくに原子力災害対策は真剣に行うと原発の危険性がとてもよく見えて、原発を監視することにもつながります。
だから僕は原発に関しては災害対策を重ねることが災害の発生そのものを押しとどめることにもつながると思っています。

ご存知のようにこの間、日本中で地震が多発しています。
4月に熊本県益城町で14日に震度7の地震が起こりました。そして16日にもう一度震動7の地震が起こりました。
エネルギー量でいうと1回目がマグニチュード6.5、2回目が7.3でした。この2回目の方がなんと16倍も大きい。
これは決定的な事実なのです。観測史上初めてのことだったからです。
これが意味するのは、現代科学はまだ地震がどのように起こるのかを十分には把握できていないということなのです。

さらに10月には鳥取県で震度6弱の大きな地震が起こりました。
この地震は断層が動いたというよりも「ひずみ集中帯」が動いたと分析されています。
私たちの住んでいる日本列島は大きなプレートの上に乗っています。
そこに太平洋側から違うプレートが徐々に押し寄せてきていて、私たちの乗っているプレートの下に潜り込んでいます。
潜り込んでいくときに私たちの乗っているプレートの端が引っ張り込まれてしまう。
そこにエネルギーが溜まり、やがてバーンと跳ね返って起こるのが東南海トラフの地震だと言われています。

とくに南海地震は今後、30年の間に7割の確率で起こると言われています。地震学ではこれはもう「絶対に起きる」という言い方です。
だから私たちは災害対策を重ねなくてはなりません。
しかしこのように私たちの乗っているプレートの下に太平洋からくるプレートが潜り込む力は、単にヘリを引っ張り込むだけではなくて、日本列島全体にひずみを与えています。
そのひずみのエネルギーは日本海側に溜まっているのです。それで起こったのが鳥取県の地震です。
さらにひずみ集中帯はなんと福井県の原発銀座のそばも通っているのです。
だから今後、原発銀座周辺でもどんな地震が起こるか分からない。

原発にとってこのことが決定的なのは、この「ひずみ集中帯」があることが分かってきたのは1990年代だということです。
阪神大震災もその認識を大きく広げたのですが、これは重大なことなのです。なぜか。日本中の原発のほとんどが1990年代以前に設計され、建設されてしまったからです。
だから実は今、日本にある原発のほとんどは、新しい地震学の知恵をまったく反映していないのです。
だからもう動かしてはならないのです。停めておかなければならないのです。
いや原発は停めても燃料プールがある限り危険だから早く解体して廃炉にしなくてはいけないし、だから原子力災害対策も採り続けていかなければなりません。

福井の原発銀座で何かあったらあっという間にびわ湖が汚染されてしまいます。
下流の風光明媚な宇治川も手酷く汚染されてしまいます。もう宇治川での川遊びなんてできません。いや生活そのものができなくなります。

にもかかわらず、九州で地震が頻発したときに、鹿児島の前の知事さんは川内原発を止めようとしませんでした。
それに対して知事選で原発稼働反対を掲げた三反園さんが勝利しました。
同じようにこの地震が相次ぐ中で、新潟県で世界最大の原発である柏崎刈羽原発を東電が動かそうとしています。
これに対して再稼働に反対してきた前知事泉田さんの声を受け継いだ米山さんが勝利されました。
これがいまの私たち民衆の力ですよ。
それを宇治市でも開花させ、原発反対市長を誕生させましょう。

田村さんは学生時代に民生同盟の京都府委員長として阪神大震災のボランティアへの関わりを陣頭指揮された経歴をお持ちです。
1000人の若者を現地に送り込んだそうです。
最近の宇治川水害のときにも、日本共産党の災害対策の現場責任者になられたそうです。
この経歴が絶対に生きます。宇治市を守るためにこれほど頼もしい経験はありません。
ぜひ田村新市長のもと、宇治市に原子力災害対策検討委員会を立ち上げ、全国に先んじた災害対策の強化を図りましょう。


今日はどうしても言いたいことがもう一つあります。それは食べ物のことです。
さきほども田村新市長のもとで、いまは行われていない中学校学校給食を実現しようという声があがりましたがこれに直結するお話です。
アメリカでトランプ現象が起きましたね。ここで問われるのはオバマ政権を受け継ごうとしたヒラリー・クリントンがなぜ負けたかです。
この大きな背景の一つが食べ物のことなのです。

なぜかというといま、アメリカの食糧事情がめちゃくちゃにひどくなっているのです。
食べ物はこれまで長い間、あこぎな金儲けの対象にしてはいけない、投機やマネーゲームの対象にしてはいけないと、さまざまな法的規制でガードされてきました。
その規制を解除してしまったのがクリントン大統領だったのです。このため食べ物市場に酷い形でマネーが流れ込むことになりました。

アメリカには20世紀初頭の大恐慌以来、フードスタンプというものがあります。
そのフードスタンプを1970年に受け取っていたのはアメリカ国民の50人に1人でした。
ところがそれが金儲けの対象となったために、2013年では7人に1人、およそ4600万人が受け取っているのです。

どういう形で支給されるのかというともうスタンプではなくてカードになっていて、カード会社がまず儲ける。
そのカードで受給者がどこで食料を買うのかというと二人に一人はウォルマートというスーパーマーケットで買っているそうです。ウォルマート、ぼろ儲けです。

しかも1月に払われる額は全米で平均135ドル。1食分だいたい150円ぐらい。それで採れるだけのカロリーを採ろうとするからジャンクフードに集中します。
だから貧しい人はウォルマートで、カートでジャンク品をガーッと買って、それを食べて激太りしているのです。
もちろん病気になるので、メディケイドという低所得者層だけを対象とした公的保険で病院に行き、薬を出されて飲みます。ここで儲かるのは製薬会社です。

オバマはもともと大統領選でこうした食料事情の腐敗の一掃をスローガンに掲げました。ところがこのオバマに食料産業が多額の選挙資金を出したのですね。
それでオバマ大統領のもとで何が行われたのか。
例えばアメリカに食品や薬品を規制するFDAという機関があります。「食品医薬品局」です。この上級顧問にオバマは遺伝子組み換えで有名なモンサント社の副社長を据えてしまいました。
そのもとで遺伝子組み換え商品表示義務などの規制がさらに解除されてしまいました。

こうして食料事情がますます劇的に悪くなり、人々がファットになり、ボロボロになっているのが今のアメリカです。
だからもう嘘つきのオバマを継承し、ウォール街をバックにしているヒラリー・クリントンにだけは大統領になって欲しくないと言う声が広がり、リベラル側からもトランプに票が行ったのです。隠れトランプ票です。

もちろん僕はトランプなんてまったく支持しませんよ。
あんな排外主義が許されていいはずがないではないですか。
しかし食べ物でぼろ儲けしてきた側にいたヒラリー・クリントンの方が僕はもっと悪いと思っていました。
戦争でぼろ儲けしている軍産複合体もクリントンのバックについていました。
そんなひどいことがいま、アメリカで起こっているのですが、日本にもこの流れが押し寄せつつあります。これをなんとしても阻止したい。

そのためにはいま、学校給食をまっとうに行うことはとても力があるのです。
まっとうにやって放射能を測って欲しい。遺伝子組み換え食品を止めて欲しい。添加物もできるだけ排除して欲しい。
理想的な食べ物を、どんなに貧しい子どもでも学校に来さえすれば食べられる。それを確保することが私たちがこのひどい世の中で子どもを守っていく大きなポイントになります。

そのためにも田村さんのもとで、理想的な学校給食を実現し、さらに原子力災害対策や災害対策全般も理想的に推し進めていきましょう。
最後まで一緒に頑張りましょう!

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明日に向けて(1329)三田医師の語る被曝影響・・・この調査を広げて下さい(下澤レポート下)

2016年12月01日 11時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20161201 11:00)

前回の続きです。
再びIWJの動画アドレスをご紹介しておきます。

 被爆二世の健康実態調査報告と原発事故被災者の健康を考える学習講演会 福島の被曝、そして広島・長崎の被爆の重ね合わさるもの
 三田茂医師、守田敏也氏 2016.11.27
 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/347977

下澤さんのレポートの後半です。

*****

三田医師の語る被曝影響・・・この調査を広げて下さい!
~「福島の被曝、そして広島・長崎の被爆の重ね合わさるもの」に参加して~
2016年11月28日 下澤陽子 

〇時間の経過による放射能影響の推移について
(三田先生の考えるところ)

放射能の量は広島長崎の約1000倍。
事故直後の 3月15日 (爆発後のプルーム) 3月21(雨)。
事故の数ヶ月後、小平でもリンパの腫れ、皮膚のただれ、皮下出血、咳が止まらない、鼻血、血尿、骨折など、みられ、それらは一気に来るのではなく波があった。これらの影響はだんだん減衰していく。
物を燃やすことによる、また事故が収束していない原発から降り注いでくるものはありそれらは積み重なっていく。
事故後5年くらいが経過し、様々な名前のついた疾患が増え出し、それはずっと続く。
そして、事故から20年~第二世代の子供たちの多くが健康に何らかの問題があり、様々な疾患を抱える状態に。
先生の作られた簡単なグラフを見ました。この第二世代への影響は、事故の後すぐと比較すると、はるかはるかの高いところにありました。

〇人間は十人十色。
被曝の症状は多岐にわたり(広島・長崎2世3世の方々が訴えていることとかさなることも多い)、その影響も受けやすい人と、受けにくい強い人とがいる。
広島長崎の原爆の投下後、放射能に弱い人に至っては、初めの5年で既に亡くなってしまっている。いま、とられている統計は、そこを生き残った放射能に強い人たちのものであり、2世3世の方々はその強い遺伝子を受け継いだ方々と考えられる。
しかし、チェルノブイリ後の第2世代についてはほぼ全員が何らかの被曝影響を受けている。(集中が続かず授業時間を短縮。体育の授業が普通にできない、様々な疾患など)

〇マスコミについて
新聞は幾社も取材に来た。ニホンザルの白血球の減少の話は記事にできても人間の話は記事にできない、東京新聞であっても。
TVも2社取材に。報ステ、報道特集、取材に来たプロデューサーに危機感はあっても番組になることはない。

韓国のテレビには出演。
岡山のラジオでは収録を全て放送される。

このくらいにしときます...。

2012年から13年 東京の三田医院の診察室は涙涙だったそうです。
子供の症状などを心配し母親が医者の前で放射能という言葉を出した瞬間、お医者の態度が変わり、ひどく叱られて傷ついた母親達が三田医院に訪れたそうです。
泣かないで帰った人は一人もいなかったって。
なあんだ!私と全く同じじゃないの!

私も傷つき、唇をかみ、涙しました。(悔しいので泣きませんでしたがいつも涙が滲みました)
東京にいた時、私は残念にも三田医院の存在を知らなかったので。(私が移住前、三田先生にお会いしたのは一度きり、最後の小平の講演会でした)
それは「やっと受け止めてもらえた」の涙ではなく、話が全くできない、届かないという絶望の方の涙でした。

娘は今朝も元気に学校へ行きました。
この当たり前に思える奇跡に、私はこの上ない感謝の気持ちを抱き、日々を過ごしています。
こちら神戸に移住して2年半が過ぎ 娘の元気は日常のことになりましたが私は東京での最後の2年間の毎日は決して忘れることができません。
それが今の私を動かしています。

わからないということ。
一番つらかった。

何が辛いのか、苦しいのか、なぜ苦しいのか分からない。
だから何をしたら良いのかわからない。
そしてこれが一体いつまで続くのか終わることがあるのかも、分からない。

被曝影響の懸念を口にすると、お医者には徹底的に叱られたり、バカにされたり。
私は病院には行けなくなった。

今なら言ってあげられる昔の自分に。
得体のわからない症状に苦しみ始めた小学校1年生の娘と共にいた昔の自分に。
「呼吸を楽にしてあげて!それは喘息の症状なんだよ!そして何よりもそこから動いて!放射能汚染のない土地に一刻でも早く!!」

今日本人はみんなお猿さんなんです。見ざる言わざる聞かざる。お医者さんだってそれは同じ。

核分裂生成物。
死の灰というもの。

70年前一瞬の核爆発によって生まれ、広島と長崎の地に降り注ぎ、人々の体に入り、その人生を苦しませ続けてきたもの。その子供に孫に、影響を与え続けているもの。

大気圏核実験、そして福島原発事故後、多くの日本人の身体に日々、入り続け、その健康と命を脅かし続けているもの。
今、鹿児島の原発で生み出され続けているもの。
そして、私の娘の身体に入って娘を苦しめたもの。

それは変わらない、同じものです。
私はそうとらえています。
そして事実、そうです。

経済発展の名のもとに、いつのまにか私たちの生活に入り込んできてしまった戦争の道具、もしくはその産物。
緩やかな殺傷、それが死の灰。

今私たちはそんなものと生活をしている。
なのに見えないように、見ても見ないように、話されても聞かないようにしている。

そして言えないように言わないようにしている。
「命を守れ!内部被曝から守れ!」と。

今起きていることをどう捉え、どう見るか。
感じるのは、三田先生はそれがいつもご自分の診ている患者さんから始まるということ。
それはまるで私が、自分の娘を見るということから始まったように。
患者さんを楽にして、苦しみを取り除き、健康な毎日を送ってもらうこと。
きっとそれが、先生のお仕事なのでしょう。

お医者さんにも色々な人がいます。研究者であったり、肩書きあり、実績をたくさん積んでいる先生であったり。
そんな先生ば今までのタイプ゙の実績の上に乗っかっているって。
だから、新しいタイプの事象には乗れないのかな。
実績について「僕は興味ないから」、先生はそんなふうにおっしゃっていました。

三田先生が 自分のされている血液検査のことを説明しようと分厚く摘まれた患者のデータを全て持ってきて見せても、最初の2枚3枚しか見ようとしないのだそうです。
子供の病気を見つけるために血液を見ることはあっても、放射能影響を受けているかどうかという視点で、多くの子供達の血液を見ると言う、今まで全く行ったことのなかった話を多くの小児科医は受け入れようとはしなかったと。

やっていることをおかしいと言われたことはなかった。医師会では理事として信頼もされていた。
でも先生のされることを、では自分も一緒にやろうと立ち上がる先生は誰もいなかったそうです。
誰もです。
血液検査を勧めてもやろうとした先生はゼロだそうです。「子供が可哀想でしょ」って言うんですって !

講演後の親睦会の居酒屋さんでは、先生のお隣でお話をたくさん伺うことができて、幸せな時間でしたが、切ない思いもたくさん感じました。

「僕は誰も仲間がいないんですよ」
守田さんは先生がそう話されるのを聞いて胸がキュンとなったそうです。

確かに先生にはお医者の仲間はいないかもしれませんが私は仲間です!同志です!
そして、多くの、首都圏で被ばくと向き合う母は、そして全国に散らばる避難者は、きっと同じ思いでしょうに。

日本のお医者さん!頑張って欲しいです! 本当に本当にそう思います。今、日本は、本当にひどいことが進行中です 。
どうか、気づいてほしいです。
私はお医者の前ではもう二度と放射能という言葉は使うことはできない。
そう感じてしまうほど絶望的な経験でした。
これから診察で、放射能という言葉を使わずには説明のできない、さまざまのことが増えてくるのだと思います。
「そんなことはない」と言うのでなく 母親の話を聞いてほしい。
先生がおっしゃっていました。自分は信じるから何でも言ってくれという姿勢が大事だと 。
100人に聞いてみて200人聞いてみて、信じて話を聞いてみると見えてくるものがあるのだと。

たった一人でいい。先生の後に続くお医者さんが現れますように!
そして、一緒にやろうというお医者さんが現れますように。1人2人3人とどうか増えていきますように。
祈らずにおられません。

ところで全く関係のない話。
昨夜、家で夕ご飯が 食べられなくなったと連絡すると、娘が写真を送ってきました。
お父さんが生のカニを買ってきたと。
お母さん帰ってくるかと思って、お母さんのために腕によりをかけて作っていたのに、と。

カニライスと、ポテトにカニを乗っけてカニみそをかけたやつ、カニを丸ごと綺麗に出して蟹味噌をかけたもの。
すごいカニディナーが待っていたのに!
ごめんよ~

娘は好きなことがいっぱい
毎日をエンジョイしています。
健康ほどかけがえのない素晴らしいものはありません。

みんなで、もう、お猿さんになるのはやめましょう!

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連載終わり

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