明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(767)秘密保護法制定を阻止しよう!(上)

2013年11月30日 23時30分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131130 23:30)

みなさま。この間、「明日に向けて」の更新が大幅に滞ってしまいました。原因は体調不良です。
11月9日から24日まで講演9回、会議1回、打ち合わせ2回を重ねましたが、その途中で風邪から腹痛を誘発し、お腹を抱えながらの行脚になりました。
このため、行く先々の方にもご心配をかけることになってしまいました。
連続講演終了後、身体を治すことに専念し、ゆとりをもった時間を過ごさせていただきました。ご心配をかけたみなさま、大変、申し訳ありません。

さて、そうしている間にも、ご存知のように、秘密保護法をめぐる情勢が急展開し、衆院議員での強引な可決が行われてしまいました。
法案は参議院に回されています。私たちは大変な危機の前に今、立っています。

ある方から、この法案の危険性について、ぜひ分析して欲しいと言われたこともあり、この間、休みをいただきながら、いろいろな方の論考を拝見してきました。
法案があまりにひどく民主主義を逸脱していることがあって、たくさんの危険性を指摘することができ、それだけに多様な論点が出されているように思えます。
あまりに恣意的で法の運用の幅が大きいため、どのように適用することも可能なのがこの法律であり、その目的とするところを一義的に定義するのは難しいようにも思えます。

ただその中でも、この法案を歴史的経緯に遡って、もっとも明快に解析しているのは、孫崎享(まごさきうける)さんの説明ではないかと思えました。
これはIWJの岩上安見さんのインタビューで聞くことができます。ただし非会員への公開バージョンでは冒頭の15分弱しか聞けません。
非常に重要な内容なので、ぜひ会員になられるか、このページだけでも購読して、全体を聞かれることをお勧めします。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/112741

要点だけ述べてみたいと思います。僕が強く共感したのは、孫崎さんが、この秘密保護法の本質が、米国の要請によってなされているところにあると明快に語っていることです。
端的には「自衛隊が米国の指揮下に入り、共同オペレーションをする。その時に、米軍と同等の軍事機密が必要になる。自衛隊の米軍の下請け化が目的」とまとめられています。
つまり、自衛隊がアメリカ軍の下に組み入れられ、世界各地で戦闘ができるようにするため、「米軍と同等の軍事機密」が必要になり、そのために作られようとしているのがこの法律だと言うことです。

この点を理解するには、少し歴史を遡って日米関係を捉える必要があります。
戦後から1990年までの冷戦時代、日本は「自由主義圏」に属してきました。日米安保条約という軍事同盟を結んでいましたが、日本は軍事大国の道は歩まず、軍事小国・経済大国の道を歩みました。
と言っても、自衛隊の軍事規模は世界でも有数ですが、憲法9条のもと、これまで一度も主だった戦闘に参加せず、経済大国の道を歩み、自国民も経済的な豊かさのもとに統合する道がめざされたのです。
これを自民党を中心とする保守本流路線と言います。

ところが1980年代に後半に、東欧の社会主義諸国の瓦解が始まり、1990年代にいたって、東側諸国の盟主であるソ連邦が崩壊してしまいました。
このことによって世界の枠組みが激変していきます。
実は誰よりもショックを受けたのはアメリカ軍でした。ソ連軍という膨大な軍事力に対抗することで存在意義を持っていたアメリカ軍が、いきなり存亡の危機に立たされることとなったのです。
このため、軍部を中心に「新しい敵」探しが行われるようになり、「イラン」「イラク」「北朝鮮」をならず者国家と決め込んだ、新たな軍事戦略が策定され、湾岸戦争が行われました。

一方でアメリカの中には違ったムーブメントも存在していました。それはアメリカがソ連と対抗している間に、ぬくぬくと経済成長してきた日本をこそ、次の敵と考え、経済戦争を仕掛けようとする動きです。
当時のアメリカはこの両者の流れが、あるいは競合したり、反発したりしながら、日本への激しいプレッシャーをかけてくることに結果していきます。
軍事的には、湾岸戦争に「人的貢献をしなかった」というキャンペーンを張り、自衛隊の海外派兵を求めだしたことであり、経済的にはすでに1980年代から始まりつつあった「構造調整」圧力をかけ、日本をアメリカに「市場開放」することでした。

この際、強烈なイデオロギーとなったのが、「新自由主義」でした。これは冷戦時代に、社会主義との対抗から、多くの自由主義諸国がとった「ケインズ主義」を批判するものとして登場しました。
つまり、社会主義の台頭を抑えるため、社会保障制度などによって、内外格差の極端な広がりを抑制し、豊かさの中に国民・住民の統合を狙った「高福祉国家路線」への批判であり、弱肉強食の「競争」を絶対化するものでした。
このもとで「日米構造調整」などが叫ばれていくようになります。農業の保護をはじめ、自由競争の行き過ぎから人々を守らんとしてきた政策を、一つ一つ壊していこうとするものです。

旧来の自民党路線から転換し、これに全面的に乗っかったのが、中曽根元首相でした。中曽根政権のもと、日本は「日米同盟化」を強めるとともに、徐々に、新自由主義を拡大させ、労働者の権利の砦の一つであった国鉄労働組合の解体が目論まれました。
同時にそれは、国有鉄道という公有財産を、新自由主義のもと、私的に分配していくための国鉄解体=民営化路線とくっつき、労働者の権利の縮小と、公的領域の私的解体が同時に進んだのでした。
秘密保護法の前身である、「スパイ防止法」もこのころに、制定が目論まれました。

しかしこのことはまだ「左翼」勢力の力が今よりも大きく、全国的な反対運動が展開されて、法案は葬り去られました。自民党の中にも旧来の保守本流路線をめざし、軍事小国の歩みをとろうとする勢力が健在でした。
それが1990年代の世界の激変の中で大きくふるいにかけられていったのです。

当初、日本の側では、冷戦終結とともに、非米、アジアとの協調をめざす路線が生まれていきます。この流れはやがて自民党を分裂させ、非自民党政権である細川政権をも誕生させました。
ところがアメリカは日本が非米化し、アジアに近づくことに激怒。一方では経済攻勢を強めつつ、日本をつなぎとめるためのさまざまな方策を繰り返します。
とくに重要なのは、日本のアカデミズムや政財界の中に、新自由主義イデオロギーを浸透させていくことでした。ケインズ主義批判がもてはやされ、フリードマンなどに代表される弱肉強食論がさまざまな形で日本に上陸を始めます。

この流れの中で、アメリカへの完全従属の道を掃き清める形で登場したのが小泉政権でした。小泉政権は、自民党の保守本流路線を、「官僚支配」として国民・住民にイメージさせ、「自民党をぶっこわす」と宣言しました。
実際には官僚による公的領域への恣意的支配から、公的領域を解体し、民営化の名のもと、大企業やアメリカ系企業に分配していくことが目指されました。
その象徴が、郵政の民営化でした。郵便貯金はかつて、国民に質素倹約と預貯金を進め、そこで集めたお金をインフラストラクチャーの整備などに投資するための重要な仕組みでした。
そのために預金の安全な保護が確保されており、さまざまな公的サービスがそこに担保されていました。

小泉元首相はこれをぶち壊し、日本の民衆が持っている高い預貯金を、積極的に市場に引き出すために、郵政の民営化を推し進めたのです。
同時に小泉政権は、労働者の権利を次々と壊し、一部にしか認められなかった派遣労働の枠を大幅に拡大するなどして、正規雇用の道を著しく狭めてしまいました。
今日の若者の、ワーキングプア―と言われる状態、職のない状態は、みな、1980年代により推し進められてきた、新自由主義路線のもとで拡大されてきた惨劇であり、小泉政権によって社会の隅々にまで拡大されたものです。

一方、アメリカは2001年の「911事件」によって、さらに軍事行動を拡大し、アフガニスタン、イラクに全面的に攻め込みました。
とくにイラク戦争では、ついに自衛隊を、現地イラクにまで派遣させることに成功し、アメリカ軍の後方支援部隊として活動させることができました。
しかしまだ戦闘をさせるところにまでは至れなかった。今回、アメリカが破ろうとしているのはこの「障壁」です。自衛隊をアメリカ軍の配下におき、戦闘に参加させようとしているのです。

ではなぜアメリカはそのようなことを必要としているのでしょうか。アフガニスタンでもイラクでも、実際には泥沼の戦闘が強いられ、兵士の犠牲への国内での批判が高まっているからです。
そのためアメリカは一方ではたくさんのロボット兵器を登場させています。無人攻撃機などです。もちろん、兵士の損傷をさけ、国内の批判を受けないようにするためです。
一方で、属国の軍隊を使う。これならばアメリカ兵の損傷を避けられるからです。まさにそのためにアメリカは自衛隊を、日本の若者と使おうとしています。

他方でそのように軍事行動への参加を促しつつ、日本がアメリカにとって、二度と経済的な脅威にならないように、日本の力を非効率的な軍事に向けさせること。
また自衛隊や日本警察を、アメリカの士気下に組み込むことから、日本全体を監視し、アメリカにはむかうことのない国家に日本をさらに変えようともしています。
このような意図は何も日本に向けられたものだけではありません。元CIA職員のスノーデン氏が全面的に暴露したように、アメリカは「同盟国」のほとんどにも膨大な盗聴網をしかけているのです。
もちろん日本にもたくさんの盗聴行為がなされてきたことをスノーデン氏は暴露しています。その意味で日本は実はアメリカのスパイ天国なのです。ヨーロッパ諸国のような盗聴への抗議すら行わないのですから。

小泉元首相を、師匠とあおぐ安倍首相もまた、対米追従路線の著しく強い人物です。そのもとでアメリカは、日本を軍事的にも経済的にもより属国化しようとしており、その中で秘密保護法が登場しているのです。
この際、冷戦時代とアメリカの価値のおきどころが大きく変わっていることに留意すべきです。冷戦時代のアメリカは、社会主義批判のために、自由主義・民主主義を強調する側面がありました。
しかし今はその必要がまったくなくなっている。そのため、民主主義の根幹を破壊するこのような法律の策定を日本にごり押ししてきているのです。

ではこれに対して日本の保守の側はどうなのか。端的に言えば、小泉政権の猛攻撃により、保守本流派はほとんど「抵抗勢力」として撃滅されてしまいました。
むしろ今は、外務省などを中心に、よりアメリカに近づこうとする動きが強くなっており、日本の自主性を守ろうとする動きは極端に弱くなっています。
その表れが、安倍政権のもとで、中国・韓国との軋轢ばかりが強められており、それをけん制し、アジアの平和を取り戻そうとする動きが起こってこないことです。
日中、日韓が対立して、一番、得をするのはアメリカです。在日・在韓米軍の位置も安定するからです。北朝鮮もまた同じ立場にあるでしょう。

このように見たとき、秘密保護法は、まさにアメリカが自衛隊を属国の軍隊として活用するために求めている法律であり、その背後には、TPPなどでますます日本の資産を、アメリカ系企業のもとにさらそうとする動きがセットになっています。
日本の社会的安定を保証する金融システムの要であり象徴でもあったかつての郵便局に、アメリカ系企業であるアフラックなどが居座っているのもその一つの象徴です。
ちなみにここまでの歴史の流れの分析は、僕自身がこれまでの知見をもとにまとめたものです。孫崎さんのまとめとは食い違いもあるかもしれませんので、その点はご注意ください。

ただし、ここから先は僕は孫崎さんとは違う意見を持っています。
この上に安倍政権や日本の官僚たちが、この法律の制定に動く強い動機を持っていることを感じるからです。その意味で安倍政権や官僚たちは、アメリカに対して受け身ばかりでなく、ごり押しを利用しようともしている。
その最も大きな点は、原発事故にまつわる問題です。端的に言えば、事故の実態を隠し、健康被害を隠し、これからの福島原発の廃炉行程や、高レベル廃棄物の処理の過程を秘密にしようとすることです。
ただしさらにそれを規定しているのは、安倍政権や官僚たちの恐怖です。何への恐怖なのか。日本の民衆の覚醒に対しての恐怖です!

続く

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明日に向けて(766)福島原発・・・実は震災前からプール内の燃料棒が80体も破損していた!

2013年11月20日 08時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131120 08:00)

福島第一原発で、18日から4号機プールからの燃料棒取り出しが始まりましたが、その直前の15日に、東京電力がまたしても重大な過失に関する発表を行いました。
なんと震災前から1号機の中に70体もの破損した燃料体が沈められたままになっていたというのです。取り出しを開始した4号機にも3体、2号機に3体、3号機に4体、合計80体がもともと破損していたといいます。1号機ではプール内にある使用済み燃料292体の4分の1に相当する量です。

この事実が明らかにされたのは、15日の記者会見時に配布された下記の「参考資料」においてです。2枚目の「項目6 漏えい等を確認した燃料の取扱い」の末尾の備考欄に「漏えい等が確認された燃料」として記載されいますが、「発表」と言えるほどのものではありません。
実際に報道各社がこの記載内容の重大性を見過ごしたのではないかと思われますが、唯一、河北新報がことの重大性に気が付き、16日に報道したことで多くの人の目に触れるようになりました。

福島第一原子力発電所4号機からの燃料取り出しにかかる安全対策等
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/handouts/2013/images/handouts_131115_08-j.pdf

河北新報によると、1号機に破損燃料が集中している理由について、東電は「1号機は当社で最も古い原発で、燃料棒の製造時、品質管理に問題があり粗悪品が多かったと聞いている。2号機以降は燃料棒の改良が進み、品質は改善した。」と説明したのだそうです。
なんということでしょうか。「品質管理に問題があり粗悪品が多い」ものを使用して、70体もの燃料棒損傷を起こしていたことを、東電は4号機からの燃料棒取り出しの直前になって、資料にこそっと書く形で「発表」したのです。
極めて重大な事実です。粗悪品を使って、核分裂発電をしていたなんて、安全性をどう考えていたのでしょうか。しかもこのあまりに姑息な「発表」では、もちろん謝罪も、責任者の追及も行われていません。事故も責任逃れもしたい放題です。

もちろん1号機プールからの燃料棒の取り出しは、かりに4号機のものがうまくいったとしても多大な困難を伴うでしょう。そもそも1号機の炉心にあった核燃料はメルトダウンしており、建屋周辺は放射線量があまりに高くて人間が近づけない状態です。
水素爆発も起こり、かつ何度も地震に揺さぶられてきた建屋の上部に燃料プールがあるのですから、これまた大変危険な状態です。4号機が1533本とあまりにたくさんの燃料が蓄積されているために、危険性が強調されてきましたが、292体もの燃料体がある危険性に変わりはないのです。
なぜなら1号機とて燃料プールが崩壊してしまえば、あまりに膨大な放射線が飛び出してきて、福島原発サイトに人が近づけなくなってしまいます。そうなればやがて他の原子炉も破たんしてしまう。結果からみれば4号機のプールの危険性も、1号機のそれも差異があるとは言えないのです。

さらに4号機に3体の破損した燃料体があることも、11月12日になって発表されたことです。これを報じた福島民友新聞には次のようなことが記されています。
「東電によると、損傷した燃料の1体は「く」の字に折れ曲がっている状態。25年ほど前に燃料を取り扱う際に失敗し曲がった。ほかの2体は10年ほど前に破損が分かり、異物などの混入で外側に小さな穴が開いた状態という。」
なんと25年前に折れてしまった燃料棒が、対処のしようがなくて、そのまま沈められていたわけです。もちろん、取り出しは極めて困難です。また他の2体は「異物混入」が原因だという。それならばがれきが降り注いだために他の燃料棒にも実はもっと大量の損傷が起こっているのではないでしょうか。

燃料棒がすでに合計で80体も破損したいた事実をこのように見てくれば、とても今後の作業が安全に進むとは思えません。震災前の、現在よりもずっと作業のしやすい条件下でも、燃料棒の取り扱いミスが多発していたのです。
しかもその都度、原因を解明し、公表し、責任者の処罰などが行われ来れば、何らかの技術の積み上げた可能だったのかもしれませんが、一切してこなかった。いや隠ぺいと、姑息な「発表」という小技だけを「発達」させてきたのが東電という会社であると言わざるを得ないのではないでしょうか。

この間、繰り返していることですが、この事態の前に「呆れて」いてはいけません。そもそも「呆れる」ことはこれまで本当にたくさんありました。「呆れる」ことにあきあきしてしまうほどにです。
大切なのは、「呆れる」ことではなく、この東電の社会的責任感、倫理観を著しく欠如した仕事ぶりに、私たちの本当に巨大な危機が孕まれていることをしっかりと認識し、危機感をもっと社会の中に深く広めていくことです。
東京オリンピックを返上して、事故収束に国力を注ぎ込むこと、この一環として、原子力災害対策を進め、避難準備と訓練を重ねていくこと、ここにまで進まなくてはいけない。このことと放射能汚染からの防護を重ね合わせて、せめて子どもたちの広域な疎開などから始めるべきです。

東電と政府をなじって済ますことを止め、「何をなすべきか」の討論を各地で巻き起こしていきましょう!

 

 

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明日に向けて(765)福島原発事故の最悪シナリオは半径170キロ圏内強制移住!250キロ圏内避難地域!

2013年11月19日 21時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131119 21:00)

昨日18日より、福島原発4号機からの燃料棒取り出しが始まりました。東電は起こるべき困難を小さく想定していますが、すでにテレビや新聞などで、東電の作業を不安視する報道が、多数、繰り返されています。
NHKですら、福島内で、作業が安全に行われるかどうか、住民の不安が高まっていることを報道しています。
しかし、これらの報道に決定的に足りないのは、「不安だったらどうするか」です。答えはいたってシンプル。周辺からの避難と、広域にわたる避難準備・訓練を行うことです。にもかかわらずこの当然の答えに踏み込んでいるマスコミがどこもないのが残念です。

危機を前にしても、「正常性バイアス」に邪魔をされて、「避難」の必要性の認識に進めない・・・この限界を超え出ていくための一つの方策として、福島原発の状態が最悪化した場合、どのような状態にいたると政府が考えていたのかを、確認しておくことが重要です。
そこで提示したいのが、2011年3月25日に内閣に提出された最悪の場合を想定したシナリオです。具体的には、福島原発1号機が再度の水素爆発を起こすなどして、現場での冷却などの事故対処ができなくなり、結果的に1号機から4号機まで、次々と破たんする事態です。
この場合、とくに4号機の燃料プールにある大量の燃料棒が大気に晒されて膨大な放射能が飛散することが予測されていました。この放射能による被曝を避けるため、国は半径170キロ圏を強制避難区域とし、250キロ圏を、希望者を含んだ避難区域として想定し、自衛隊にも避難作戦立案の指示を出していたのです。

この想定の作成者は、当時の原子力委員会の近藤駿介委員長でした。このため政府内の対策チーム内で「近藤シナリオ」と呼ばれました。最悪の事態を想定するようにとの菅総理の指示に応じて作成されたものでした。
シナリオの全文は以下から見ることができます。
http://www.asahi-net.or.jp/~pn8r-fjsk/saiakusinario.pdf

私たちが今、腹をくくって見据えておかなければならないのは、この「近藤シナリオ」で想定された最悪の事態の可能性は、未だ去ったわけではないということです。巨大地震をはじめ、何らかの不測の事態で、どれか一つの原子炉が対処不能になった場合に、この想定と同じことが起こってしまう可能性があります。
いやこれは放射能被曝の影響を軽く見積もっている政府サイドから出てきたシミュレーションですから、事態はもっと深刻になるかもしれない。強制避難区域が半径170キロよりももっと拡大する恐れすらあるということです。
このような可能性を直視するならば、私たちの国が今、東京オリンピックの準備などしている場合ではないことは誰の目にも明らかでしょう。オリンピックにかける資金の全てを福島原発事故の真の収束と、避難準備に使うべきです。それこそが真に日本を、世界を、守る道です。

このシナリオに関する問題をより詳しく捉えるために、当時、首相補佐官として事故対処にあたった民主党の馬淵澄夫議員による自著の中での記述をみていきましょう。
そもそも馬淵議員は、3月26日の夕方に細野豪志首相補佐官に電話で呼び出され、翌日26日に東京にかけつけてこのシナリオを見せられ、急きょ、首相補佐官への就任と、この最悪の事態の封じ込めへの着手を要請されたのでした。
馬淵議員は、このとき自分が突きつけられたシナリオのことを、以下のように述べています。

***

「首都圏全体が避難区域となる」
「もし原子炉の一つが新たに水素爆発を起こし、冷却不能に陥ったとしよう。格納容器は破損し、中の燃料も損傷、大量の放射性物質が一気に放出される。
高線量により作業員は退避を迫られるため、これまで続けてきた注水作業を中断せざるをえない。冷却できなくなった他の原子炉でも、格納容器や燃料プールに残された燃料がやがて露出し、そこから新たに大量の放射性物質が放出される。
つまりどこか一つでも爆発が起これば、他の原子炉にも連鎖し、大規模な被害となるということだ。

シナリオで特に危険性が高いと指摘され、シミュレーションの対象となっていたのは1号機だった。
この1号機で水素爆発が起きた場合、高線量の放射性物質が放出され、人間が近づくことすらできず、全ての原子炉が冷却不能に陥る。その結果、8日目には2、3号機の格納容器も破損し、約12時間かけて放射性物質が放出される。
6日目から14日目にかけては4号機の使用済み燃料プールの水が失われ燃料が破損、溶融し、大量の放射性物質の放出が始まる。約2か月後には、2、3号機の核燃料プールの干上がり、ここに保管されていた使用済み燃料からも放射性物質が放出される。

この場合、周辺に撒き散らされる放射性物質による被曝線量はどれほどになるのか。
最も大量の燃料を抱えているのは、4号機の使用済み燃料プールだ。このプールに保管されている、原子炉二炉心分・1535体の燃料が溶け出ると、10キロ圏内における1週間分の内外被曝線量はなんと100ミリシーベルト、70キロ圏内でも10ミリシーベルトにも上ると推測されていた。
さらにチェルノブイリ原発事故時の土壌汚染の指標では、170キロ圏内は「強制移転」、250キロ圏内は「任意移転」を求められるレベルだった。汚染の状況はひどく、一般の人の被曝限度である「年間1ミリシーベルト」の基準まで放射線量が下がるのに「任意移転」の場所でも約10年かかると試算されていた。

「福島第一原発から250キロ圏内」―それは首都圏がすっぽりと覆われるほどの広大な範囲だ。北は岩手・秋田、西は群馬・新潟、南は千葉や神奈川におよび、東京23区全てが含まれる。この圏内における人口は3千万人にも上った。
近藤シナリオにおける最大の衝撃はこの点にあった。」
(『原発と政治のリアリズム』馬淵澄夫著 新潮社 p24~26)

***

さて、ここで押さえておかなければならない重要な点は、政府がこの「最悪のシナリオ」=170キロ圏強制避難の可能性を隠し続けたという事実です。その上で枝野長官が「にわかに健康に被害はない」などと言い続けたのですから、国民・住民に対する重大な裏切りです。
しかも、このような決定的に重要な情報を隠し通したことについて、民主党議員たちはその後に居直りを決め込んでいます。
この点で、顕著な発言をしているのが、当時、内閣副官房長官として、事故処理のナンバー3の位置にいた、福山哲郎民主党議員です。彼もまた自著の中で次のように述べています。

***

「官邸はこの時点で「最悪の事態」を想定しており、原発の危機的状況について認識を共有していた。
ただ、「メルトダウンの可能性を知っていること」と、「実際にメルトダウンが起きているかどうかを知っていること」はまったく意味が違う。想定される最悪の事態が、実際にどの程度の確率で起こり得るのかについては、官邸に来ている情報では誰にも分からなかった。
たとえば、こうした事故が発生した場合、「政府は考えられる最悪の事態を国民に告知すべきだ」と指摘する識者がいる。起こり得る最悪の事態に備えて、国民は自らの判断で対処することができるからというのだ。告知しないのは「政府による情報の隠蔽だ」と批判する声さえあった。

しかし、これは極めて無責任な意見だと私は思う。事故が発生した時点では、その最悪の事態はいつ、どの程度の確率で起こるのか、起こった場合にどのようなかたちで収束するのかまったく分かっていない。
政府が優先すべきは、その最悪の事態を回避することだ。想像してほしいのだが、最悪の事態を想定して、そのまま国民に向けて告知したとする。
不安に駆られて、あるいは万が一に備えて福島周辺から、あるいは首都圏から急いで避難しようとする膨大な数の人々は、いったいどこに逃げればいいのか。逃げた先からいつ戻ればいいのか。その間の生活や経済活動はどうなるのか―」
(『『原発危機 官邸からの証言』p31、32)

***

福山議員のこの発言は驕りと開き直りに満ちています。そもそも彼は、メルトダウンの可能性は知っていたが、実際にどの程度の確率で起こり得るのかはまったく分からなかったと言っています。つまり起こる可能性が低いなどとはとても言えなかったのです。
にもかかわらず、彼は人々を逃がそうとはしなかった。また危険性を伝えようともしませんでした。
「避難しようとする膨大な数の人々は、いったいどこに逃げればいいのか。逃げた先からいつ戻ればいいのか。その間の生活や経済活動はどうなるのか」と言いますが、反対に言えば、それが確保できなければ、危険情報を伝えるべきではなかったと言って、人々を危機に晒し続けたことを肯定しているのです。

これは危機に対しての人々の自主的な対応力を極端に過小評価し、人々がパニックに陥ることのみを恐れる、上から目線で人々を見下している官僚にありがちな「パニック過剰評価バイアス」の典型です。災害心理学で、行政などが陥りやすい「避難を阻む罠」として繰り返し指摘されているものです。
もちろん、事態が伝われば、世の中は大変なことになったでしょう。しかしそのために、今よりも、大量の人々が、原発の近く・・・最も激烈な汚染地帯から離れることに結果していたでしょう。
同時に力強い民衆運動が不可避的に起こり、避難の権利が確立されて、広範囲な汚染地帯から大量の人々が脱出できていた可能性があります。そのことで生産も停滞したでしょうが、全国民・住民が一致して、原発災害に立ち向かう大きな構えが生まれたことでしょう。

少なくとも、子どもたちの疎開は大きく進んだでしょう。そうして、全国からの注視の目の中で、周囲から人を遠ざけ、今よりも格段に高い安全性を確保したうえで、廃炉作業の慎重な進捗が始まっていたでしょう。
あまりにも人々に災厄をしいた東京電力はとっくに淘汰され、責任者が逮捕されて厳しく罰せられていたでしょう。それらこれや私たちの国の、根本的な変革が始まっていた可能性が大きくあります。にもかかわらず、民主党政府は、真の危機を国民・住民から隠し通したのです。

私たちの国の民は、あの戦争の惨禍の中からも再生してきた民です。80か所の都市を徹底的に空襲され、広島と長崎に原爆を落とされ、沖縄は地上戦の末に占領されてしまった。
しかもその過程で、成年男子の多くが戦死し、都市の住民の多くも米軍に殺されてしまいました。文字通り、日本全土が廃墟になりました。
その中からこの国の民は、憲法9条を掲げた国を再生し、戦前のファシズムを超えた民主主義を紡ぎだし、自衛隊はあっても、一度も戦闘をさせることのない国の在り方をこれまで築いてきたのです。

にもかかわらず、民衆を信用しようとはしない。いや民衆が自ら力をつけて立ち上がることを、根底において恐れている。それが今の政治家や官僚たちの姿なのではないでしょうか。
民衆が目覚めてしまえば、政治家も、官僚も、ほとんどが必要のない人種だったのだということが見えてきてしまうからです。だからこそ、彼ら・彼女らはいつでも真実を伝えることを恐れる。真実を牛耳る「権利」こそが支配の力の源だと感じているからです。

そして今、私たちが何度も確認しておくべきことは、今なお、同じことが続いているということです。
「万が一に備えて福島周辺から、あるいは首都圏から急いで避難しようとする膨大な数の人々は、いったいどこに逃げればいいのか。逃げた先からいつ戻ればいいのか。その間の生活や経済活動はどうなるのか―」
おそらく自民党もこれとまったく同じことを考えていることでしょう。そのため当時の民主党と同じように、どのような危機があっても、それを国民・住民に伝えようとしないでしょう。なぜか。逃げる手段など、まったく確保できないからです。

しかしそれは確保しようとしないからでもあります。すべての人を逃がす方策は無理でも、子どもたちの安全を優先的に確保するなど、できることは今でもたくさんあります。
そのことは不可避的に、世の中の根本的変革を伴います。民衆の壮大な覚醒も伴わざるを得ません。
為政者たち=権力者たちは、まさにそのことを恐れているのではないでしょうか。だから秘密保護法まで持ち出して、真実の隠蔽体制を強化しようとしている。

安倍首相にいたっては、真の危機を覆い隠すだけでなく、自ら自身が真の危機から顔をそむけ、忘れるために、「東京オリンピック」に奔走しようとしているようにしか見えません。真の国家の危機を見据えられない根本的脆弱性を感じます。
繰り返しますがそこにこそ私たちの直面する危機の根拠があります。危機を隠したからと言って、危機はなくならないのに、人々の力を危機の突破に集中するのではなく、危機感そのものを解体せんとしているのです。その先にあるのは国家の壊滅だけです。

このことをしっかりと押さえて、私たちは真の危機を人々に訴えていきましょう。実は危機感はすでにかなり共有化されているのです。誰もが政府のことも東電のことも信じていないか、少なくとも疑い出しているのです。
しかし自分たちに自信がない。どうしてたら良いかが分からないので、「正常性バイアス」が解けないのです。しかし各地で、避難計画をリアルに作り出せば、やるべきことも、やれることもまだまだたくさんあることが見えてきます。
その動きが活性化していけば、避難の権利の拡大にもつながるでしょう。だからこそ今、私たちは今、国をあげて、原発災害対策に取り組んで行く必要があるのです。

そのためにも、もう一度、「最悪のシナリオ」が他ならぬ政府によって描かれていたという事実を広めていきましょう!
覚悟を固めて、前に進みましょう!

 

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明日に向けて(764)福島原発4号機使用済み燃料取り出し開始!避難準備を固めつつウォッチを!

2013年11月18日 23時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131118 23:00)

大地震などによる倒壊が恐れられている福島第一原発4号機からの燃料棒取り出しが本日18日から始まりました。
大変、危険な作業ですが、やらなければならない作業でもあります。しかし次々と破たんと隠ぺいを繰り返している東電に、安定的に作業が続けられるとはとても思えません。
すべてが終わるまで無事であって欲しいと誰もが祈っていると思いますが、やはり祈っているだけではいけない。避難準備を固め、今、行われている作業の危険性を社会的に共有化しながら、現場をウォッチしていく必要があります。

燃料棒は1533体あります。使用済み燃料棒が1331体、未使用のものが202体です。
ウランは核分裂すると放射能量がもとより1億倍にもなります。使用済み燃料棒には膨大な放射能が封印されており放射線と熱を出し続けています。プールに入れているのはそのためです。水で冷却し、かつ放射線を遮るためためです。
このため作業はすべて水の中で行われなければなりません。まずプールに、燃料を運ぶ輸送容器を沈めます。長さ5.5メートル、直径2.1メートル、重量91トンの「キャスク」と呼ばれるものです。ここにクレーンを使って燃料棒を水の中で引き抜いて移すのです。

キャスクに入る燃料棒は22本。全部を収納したらクレーンで燃料棒入りのキャスクを吊り上げ、プールから出して輸送用の特別トレーラーに降ろします。続いて100メートル離れた「共用プール」に移します。
キャスクを沈めて22本の燃料棒を入れ終えるのに明日19日いっぱいかかり、20日以降にクレーンを使って、キャスクをプールから出してトレーラーに。その後、共用プールに移して再度、冷却するわけですが、この一連の工程に約一週間かかります。
単純計算すると同じ工程を70回繰り返す必要があります。キャスクは2個。一回のサイクルに8~10日かかると言われており、東電は「2014年末頃」までにこの工程を完了を目指すと発表しています。

ちなみに作業初日の今日、キャスクに移されたのは4体。いずれもまだ使用されておらず、使用済み燃料棒から比べると、危険性の少ない燃料体です。
東電はこの危険性の少ない燃料体から移動をはじめ、作業への習熟を深めながら、やがて使用済み燃料の移動に移っていくとしています。かりに一回のサイクルに10日、2個のキャスクで行うために、5日で22本を運べる計算として、10日後ぐらいから使用済み燃料の移動が開始されると予想されます。
なおこの作業に向けて東電が報道向けに発表した資料をご紹介しておきます。

4号機使用済燃料プールからの燃料取り出し
2013年11月12日 東京電力
http://www.tepco.co.jp/news/2013/images/131112a.pdf

この作業にはどのような危険性があるでしょうか。この資料などで東電が発表しているのは、プール内にあるがれきの存在です。大きいものは取り除いたとされていますが、細かいものが残っており、燃料体を取り出すときに、燃料体の入っていたラックとの隙間に挟まって、燃料体が動かなくなってしまう可能性があります。
これを「かじり固着の発生」と呼び、東電は「かじり」発生対応フローを用意しています。それを読むと、かじりが発生した場合は、とりあえずは取り出しをやめてもう一度同じ位置に戻し、この燃料体をスキップして他の燃料体の移動を優先するとしています。
ではどうするのか。「クレーンで燃料吊り上げ 作業台者から吊りワイヤを揺すってクリアランスの状況を変える事を試みる」・・・ようするにワイヤーをグラグラ揺すって、がれきが落ちてくれることを願うわけです。
この作業において懸念されるのは、燃料体を覆っているジルコニウムの被覆体を傷つけ、燃料棒を破損させてしまうことであるにもかかわらず、グラグラ揺らすしか手がないと言うのです。

さらなる問題は、他の原発ではコンピューターによる自動制御で行われるこの作業が、がれきの存在などから、作業員の慎重なクレーン操作によって進められなければならないため、作業被曝が重なることです。
作業にあたるのは6人で構成される6つのチーム。合計36人ですが、一回の作業は2時間に限定されます。理想的にことが進めば良いものの、「かじり固着の発生」をはじめとした不測の事態により、操作時間が長引き、作業者の高く設定されている許容線量も満ちてしまって、作業ができなくなる可能性がある。
このような作業では、作業を重ねるだけ、操作技術も習熟していくものですが、途中で新しい作業者に交代せざるをえなくなる可能性があります。この点も含めて、何かあれば、作業者の被曝下の労働が極めて困難になることが強く予想されます。

また作業中に地震に襲われることも大きな脅威です。東電はキャスクのワイヤーを二重にし、またクレーンに大きなバネを組み込むことによって揺れのエネルギーを吸収するとしていますが、91トンのキャスクがどこまで維持されるのか疑問です。
一方、キャスクのクレーンのバネでは、燃料体の取り出し時の地震対応はできないわけで、燃料棒の取り出し時に地震に見舞われた場合、「かじり固着の発生」と同じような事態が生じる可能性が排除できません。
いやそもそも東電は、4号機のプールの耐震性には問題がないと前提しているのですが、この大前提そのものにも大きな疑問があります。汚染水問題一つとっても、これまで東電の事故対応の想定があたったことなどないのであり、まったく信頼性がない。

これらから考えただけでも、燃料棒取り出し作業が、順調にいきそうもないことが考えられますが、より大きな問題は、こうした東電による「起こり得る問題の想定」そのものが非常に小さな危機の「想定」になっていることです。
いやむしろ、「かじり固着の発生」や、作業被曝の問題等の東電による発表は、起こりうる危機を東電が把握できているかのように振る舞うための「想定」でしかないのではとすら思えます。実際には今は想像されていない何らかの不具合が発生する可能性が十分にあるのです。
なぜならこの作業は、人類が初めて体験することなのだからです。しかも高線量地帯における作業です。やってみて初めて分かることがあっても何ら不思議はない。いや、むしろ今は想像できない困難に直面しないで作業が終えられると考える方に無理がある。

東電はむしろこの「予想できない危険性」について論じるべきなのです。何が起こるか分からない。何が起こっても不思議はない。そう発表し、だから万が一のための原発周辺からの避難や、広域の避難準備を要請すべきなのです。
これは、不発弾の処理などでも当たり前に行われていることです。十分な安全な対処を目指すけれども、万が一の危険性が排除できない。だから避難を含めた何重もの安全対策が必要なのです。それでこそ現場の作業もより質が高いものになりうる。あらゆる危機に対応しうる柔軟性が生まれるからです。
しかし東電は危機を非常に小さく見積もっている。このため現実がこの小さな「想定」を超えると、すぐに対処不能になってしまうのです。汚染水問題で嫌と言うほど繰り返されてきたことです。同じような破たんにつぐ破たんが、また起きてしまいかねません。

しかもこれから始まるのは、燃料棒の破損=放射能漏れの発生・拡大という直接的な危機に直結する作業です。その作業の危険性を非常に小さく見積もっていることそのものに、私たちは危機があること、再び三度の人災の可能性があることを押さえておかねばなりません。
私たちは東電に、「いい加減に嘘は止めよ」と言わなければなりません。事態は非常に困難で、私たちはまだ大変な危機に直面しているという事実を、国民、住民に、さらには世界に、素直に訴え、事故収束への協力を訴えるべきなのです。
そのためにも原発直近からの避難、さらに広域の避難準備、訓練を行い、これから1年以上も日々、極度の緊張が強いられる現場に、すべての人のまなざしを向けてもらうことをこそ呼びかけるべきなのです。

私たちはまた、多くの人々に、いい加減に目覚めなければいけないとも呼びかける必要があります。汚染水問題に現れているのは、東電の現場対処能力のなさと事故に対する倫理観の全くの欠如です。このとんでもない企業が言う「想定」や「安全」をまだ信じ続けるのでしょうか。
政府も同じです。危険な燃料棒が1533体も壊れた原子炉建屋の高いところにあるのに、さらに、1号機から3号機にいたっては、どろどろに溶けた燃料がどなっているのかすら把握できていないのに、「原発はコントロールされている」と首相が繰り返しうそぶく。こんな政府をいつまで信用し続けるのでしょうか。
いやすでに多くの人が東電も政府も信じてはいないでしょう。にもかかわらず、原発の根本的な危機から目を背けたいという思い、災害心理学に言う正常性バイアス=危機の認識をあえてごまかし、心の平静を保とうとする思いに支配されているのではないのでしょうか。しかしその先には私たちの安全も幸せも絶対にありません。

4号機からの燃料棒取り出しの始まりに際して、各地でしっかりと原発災害対策を進めていきましょう。そのことで現場で困難に挑んで下さっている方たちと連携していきましょう。

燃料棒取り出し作業のウォッチを続けます!

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明日に向けて(763)福島の小児甲状腺がんは10万人に42人の割合!

2013年11月14日 22時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131114 22:00)

11月12日、福島県における第13回「県民健康管理調査」検討委員会が開かれ、小児甲状腺がん調査に関する最新のデータが発表されました。
朝日新聞はこれを次のように報じています。主要な部分を抜書きします。

***

「東京電力福島第一原発事故の発生当時に18歳以下だった子どもの甲状腺検査で、福島県は12日、検査を受けた約22・6万人のうち、計59人で甲状腺がんやその疑いありと診断されたと発表した。」
「累計では、がんは26人、疑いが33人。がんや疑いありとされた計58人(1人の良性腫瘍〈しゅよう〉除く)の事故当時の年齢は6~18歳で平均は16・8歳。」
「甲状腺がんはこれまでで10万人あたり12人に見つかった計算になる。宮城県など4県のがん統計では2007年、15~19歳で甲状腺がんが見つかったのは10万人あたり1.7人で、それよりかなり多い。」
「ただ、チェルノブイリでは、原発事故から4~5年たって甲状腺がんが発生しており、複数の専門医は「被曝から3年以内に発生する可能性は低い」と分析している。」

***

58人ががんないし、疑いありとされている事実、理由はともあれまずはこのことに胸が痛みます。58という数字の向こうに、「甲状腺がん」という事実に驚き、嘆き、悲しんでいる子ども、その親たち、家族や周りの人たちがいるのです。
今後、この数ができるだけ伸びないことを祈りたいですが、これまでの経過から言って、残念ながら絶対数はこれからも伸び続けるでしょう。だとしたら早期発見、早期治療の体制を徹底化していくしかない。何よりこの数字は私たちにこのことを突きつけています。

しかし他方で、毎回の発表と同じように、またも不誠実な数字のマジックが使われていることを指摘せざるを得ません。22万6千人にうち、計58人というのは、ミスリーディングを誘う発表の仕方です。それを見抜けずにそのまま書いている朝日新聞も情けない。
なぜか。前回の発表もそうだったのですが、実際にはこの数は、22万6千人全体の中の数とは言えないからです。

具体的に指摘すると、この日、福島県より発表された以下資料の2ページ目の表に「二次検査」の内容が乗っています。対象人数1559人に対して、受診して検査が確定したものは897人しかいない。割合で言えば約57.5%しかまだ検査が終わってないのです。

県民健康管理調査「甲状腺検査」の実施状況について
https://selectra.jp/sites/selectra.jp/files/pdf/251112siryou2.pdf

これが何を意味するか、もう少し詳しくみていきましょう。
甲状腺検査は、二段階に分かれています。初めに行われるのはエコー診断で一次検査と呼ばれます。この結果が4つに分類されます。

A判定 A1 結節やのう胞を認めなかったもの 
A判定 A2 5.0ミリ以下の結節や20.0ミリ以下ののう胞を認めたもの。
B判定 5.1ミリ以上の結節や20.1ミリ以上ののう胞を認めたもの。
C判定 甲状腺の状態等から判断して、直ちに二次検査を要するもの。

判定への対処が以下のように説明されています。

A判定は次回(平成26年度以降)の検査まで経過観察。
B、C判定は二次検査を実施
A2の判定内容であっても、甲状腺の状態等から二次検査を要すると判断した場合、B判定としている。

ここから言えることは、直ちに2次検査に回らないA判定の子どもたちとて、現時点では今後の甲状腺がんの発症の可能性が否定できたわけではないということです。
政府は、チェルノブイリでは4、5年目に発症数が急上昇したことを、今、発見されているがんが福島由来ではないといわんがために強調しているのですが、反対に、4、5年後に急増した事実は、現時点では子どもたちの安全はまだ確定できていないことをも物語っています。

さらに今回の検査について言えば、まだ22万6千人のうち、2次検査を受けていない子どもが662人残されています。割合でいえば約42.5%。その子どもたちを検査すれば、当然にももっとがん患児の数が増えるはずです。
またがんが26人、疑いが33人(1人はがんでないことがはっきりしているので実質32人)という言い方にも問題があります。なぜなら医学的にこの疑いは9割の確率でがんだとされているからです。およそ29人ががんである可能性が極めて高いのです。
そうなると、実際には二次検査では対象者の中の57.5%の調査で、55人のがんが認められたことになります。このためもし検査が終わってない子どもたちに、今回の調査と同じ割合でがんが発見されたとすると、およそ96人ががんである可能性があることになります。

これを10万人あたりに換算すると、約42人という数が出てきます。今回の調査で分かった福島の子どもたちの甲状腺がんの発症率は約10万人に42人になっているのです。
ところが、県の発表をうのみにしてしまうと、まだ二次検査を受けていない662人がのぞかれたままになってしまう。さらにがんの確定者だけを数えると、9割の確率と言われる32人の疑いのある子どもたちものぞかれてしまいます。それででてきた数値が「10万人あたり12人」なのです。

「ロシアの子どもの検査で4~5千人に1人がんが見つかっている」という情報の信ぴょう性を僕は分かりませんが、かりにそれを信用するとしても10万人では25人から20人で、福島では現時点で倍近い症例が出ていることになる。
しかも先にも述べたように、A判定の子どもたちとて可能性がないとは言えないので、今後の検査次第でもっと高い数値になる可能性が大きくあるのです。

この点、先にあげた県の資料の5ページ目をみると、さらに重要なポイントが明らかになります。原発直近の大熊町、双葉町など、国が指定した避難区域等の13市町村の子どもたちが23年に早々と検査を済ませていることです。
その段階でも13人のがん、ないし疑いが出ているのですが、この地域はもっともヨウ素被ばくが大きかった地域ですから、今後の検査ではもっとたくさんの患者が見つかる可能性が十分にあります。
にもかかわらずこのA判定の子どもたちも次回検査は26年4月以降になっているのです。もっと早く次回を検査を行うべきだったのであり、そうすればさらにがんの子どもが見つかっている可能性が高いです。
がんは早く見つけて治療することが重要なのに、最も被ばくが多かった地域の子どもたちが、1年目に検査されただけで放置されている。これも大きな問題です。

このような不誠実な数字の使い方そのものに、この「健康調査」が、できるだけ小児がんの発症数を低く見せようとしていることが見て取れますが、このあり方そのものが子どもたちにとっても、県民にとっても危機であると言えます。

子どもたちの危機を少しでも減らし、まっとうな医療が行われることを目指して、甲状腺問題のウォッチを続けます。

*****

子の甲状腺がん、疑い含め59人 福島県は被曝影響否定
2013年11月13日06時33分
http://www.asahi.com/articles/TKY201311120463.html

野瀬輝彦、大岩ゆり】東京電力福島第一原発事故の発生当時に18歳以下だった子どもの甲状腺検査で、福島県は12日、検査を受けた約22・6万人のうち、計59人で甲状腺がんやその疑いありと診断されたと発表した。
8月時点より、検査人数は約3・3万人、患者は疑いも含め15人増えた。これまでのがん統計より発生率は高いが、検査の性質が異なることなどから県は「被曝(ひばく)の影響とは考えられない」としている。

県は来春から、住民の不安にこたえるため、事故当時、胎児だった約2万5千人の甲状腺検査も始める。
新たに甲状腺がんと診断されたのは8人、疑いありとされたのは7人。累計では、がんは26人、疑いが33人。がんや疑いありとされた計58人(1人の良性腫瘍〈しゅよう〉除く)の事故当時の年齢は6~18歳で平均は16・8歳。
甲状腺がんはこれまでで10万人あたり12人に見つかった計算になる。宮城県など4県のがん統計では2007年、15~19歳で甲状腺がんが見つかったのは10万人あたり1・7人で、それよりかなり多い。
ただし、健康な子ども全員が対象の福島の検査の結果と、一般的に小児は目立つ症状がないと診断されないがんの統計では単純比較できない。
ただ、チェルノブイリでは、原発事故から4~5年たって甲状腺がんが発生しており、複数の専門医は「被曝から3年以内に発生する可能性は低い」と分析している。
県は被曝の影響とは考えにくい根拠として、患者の年齢分布が、乳幼児に多かったチェルノブイリと違って通常の小児甲状腺がんと同じで、最近実施された被曝影響の無いロシアの子どもの検査でも4千~5千人に1人がんが見つかっていることなどを挙げている。

 

 

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明日に向けて(762)肥田舜太郎先生、セバスチャン・プフルークバイル博士と語らう!(下)

2013年11月09日 08時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131109 08:00)

肥田先生とプフルークバイル博士の会話の3回目(最終回)です。

今回は、肥田先生が、放射線治療の方法をアメリカ軍から聞き出そうとして、交渉に臨んだことなどが出てきます。こうしたことには、肥田先生の、さまざまな修羅場をくぐり抜けてきた闘士としての片鱗がのぞいています。
僕はこの点は、あまりみなさんが気づいてないところであるように思えます。肥田先生は見るからに柔和で優しい老紳士ですが・・・実際にそうですが・・・本当にいろいろな経験を経てこられています。
そのため人を見る眼もとても鋭く、数回会っただけで、相手のかなり深いところを見抜いてしまわれるようなところがあります。ヒバクシャを守るため、そして人々の権利を守るため、GHQや政府と長年渡り合って培われてきた鋭い眼力があるのです。

僕は先生の、ある意味ではよく知られてもいる被ばく体験、被ばく医療体験だけでなく、ここにも示されたような人生の様々な断片、なかでも戦後医療の理想的な改革をめざして、さまざまに重ねられた創意工夫のすべてに学ぶ必要性を感じています。
そこにこそ、現代を生きる私たちにとって珠玉の知恵が詰まっていると感じるのです。

・・・そんなことも頭の片隅に置きながら、対談の最後の一幕をお読みいただけると嬉しいです。

*****

肥田・プフルークバイル対談(下)
2013年11月3日

松井 
福島原発事故のあと、福島県民健康管理調査がやられていて、子どもの乳歯を調べようと言う提案があったけれど、止められてしまいました。
肥田
福島では山下という男がいて、福島医大の副学長になってしまいました。長崎の原爆についてあることないこと吹聴して、彼はでたらめな人間です。嘘ばっかりついて。
それが福島県の医師会と医学界を政治的におさえて、発言させないし、研究をさせないのです。

松井
福島では山下だけではなくて、他にもいろいろなものが、被ばくを研究させなかったのですね。山下だけではなくて、他にも山下のような人物がいた。
セバスチャンは、この間の市民国際会議のときに、山下をグリム童話の悪い小人になぞらえて、「小人はかれだけではない」と最後の方の司会としてのまとめとして言われたのです。
肥田
要するに保身から立身出世したいのが、そういうことをどんどん思いついてしまうから。

守田
岩波新書で暴露本が出ました。『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』というとてもよく書かれた本です。
ここで福島県の県民調査では、一般に公開する会議の前に、あらかじめ全部裏会議をやっていて、これに関してはこう発表するとか細かく決めていたことなどが書かれていました。
肥田
そういうやり方はみんなアメリカから来ているのです。安保条約の中で。今でも放射線は軍事機密になっている。だから今でも強烈なアメリカの指導がある。

僕は今でも不思議で仕方がないのは19万3千人の子どもの中で43人も甲状腺が出た。100万人に数人のものが出たのに、日本の放射線学会も、甲状腺学会も何も言わない。
何年か経ってもっと明らかになったら、世界中からもの凄く批判されますよ。世界に隠したのだから。

松井 
世界の良心的な人たちから今でも批判は出ています。ただ困ったことは、国連の安保理のすぐ下に、IAEAとUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)があることです。
IAEAが福島に早い時期から乗り込んできて、彼らが福島県立医大、福島県、外務省との間に協定を結んで、福島に健康被害は起こってないと言っている。
そういう意味では国連そのものが、日本政府にも圧力をかけているという構造的なものがあります。これをなんとかしないといけない。
被爆者の骨の中にストロンチウム90があって、骨髄が被曝しているということを書いた研究者を抑圧した占領軍のやり方が、そのまま今、福島に引き継がれているわけです。それが深刻なところです。

肥田
GHQ、マッカーサー司令部に直接にいって、最高の軍医に会って、日本の良心的な医師が困っていることを訴えにいった経験が私にはあります。初めは厚生大臣にアメリカに交渉して欲しいと言いました。
良心的な医者がいろいろと被爆者を診た資料まで全部没収して、治療を妨害している。人道的な問題だから、人を助けることだけはちゃんとやらしてくれと渡り合ってくれと、団体交渉でやりあったのです。
でもなんぼいってもいかないのです。「天皇でもいけないのにいけるわけはない」という。それで喧嘩になって、「そんな生意気なことを言うならお前が代理と名乗っていいからお前がいけ」といわれました。

それで、「俺が行く」と言いましたが、行くといったって、マッカーサー司令部には中にすら入れない。でも私は軍人だったので、自分の病院に傷病兵が帰ってきて、その部隊が秘密の部隊だったら、なんぼ家族が面会に来ても入れないことを知っていました。
そのときにどういうことになるかと言うと、毎日家族が来るのです。そうすると衛兵が顔なじみになって同情するわけだ。「あんたは何をしたいのか」というと「子どもが生まれたので一目見せたい」と言う。
「それなら俺が兵隊を連れてきて門の外に出さずに中に立たしておく。お前は外から赤ん坊を見せろ。それならできる」ということになる。

そういうことを知っていたから、衛兵と仲良くなればあてができると思ったのです。3回も5回も行けば、何とかなる。それでとうとう中に入ったのですよ。
最初に行ったら衛兵が立っている。「約束がないなら帰れ」という。そいつが次にでるのが3日目なのですよ。「また来たか」という顔をしている。さらに3日経っていくと、「お前何の用があるんだ」という。
「若い軍医と会いたい」と言ったら「そんなの中に入る必要はない。俺がここに連れてくるから」というので、若い軍医と初めて会いました。

アメリカの若い、僕と同じ軍医中尉が出てきました。それに医者として人道的に困っている問題を訴えて、こういうことを中で頼みたいといったら、「俺が軍医部の一番偉いやつに会わせてやる」ということになって、結局、偉いのに会ったのです。
決められた日に呼ばれて、中に入ることができて、軍医大佐に会いました。かなり偉い人です。その人に日本の医者が困っていることを話したわけだ。
患者を診て助けたいのだけれど、何をどうしていいかわからない。アメリカは原爆を作った方だから、いろんなことを知っているだろうから、「人道上の立場で治療上に必要なことだけを教えてくれ」と言いました。原爆の作り方とかはどうでもいい。
英語を書いて持っていって、読まなくても言えるようにずいぶん練習もしていきました。

それに対して向こうがこう言いました。「お前の言っていることはよく分かった。しかしその問題を左右する力をマッカーサー司令官は持っていない。すべて本国政府が決める。アメリカの大統領でなければ決められない。
原爆に関することは、被害であろうと何であろうと全部、軍事機密で、すべて大統領決済になる。」
私は「では自分がここで頼んでいることを、大統領に伝えてもらえるか」と言いました。でもちょうど、そのころアメリカは朝鮮戦争をはじまる直前で、対日占領軍のメンバーがすべて変わっていたのですね。
初めは日本の民主化を助ける桃色の連中が来ていたのだけれど、ぎりぎりの戦争屋に変わったところだったのです。だから「そんなことは絶対にできない」といってえばっているのです。

最後に帰る前に、「お前にひとこと言うことがある」と向こうが言うのですよ。
「お前の国は戦争に負けた。普段でもお前は軍医中尉で、俺は軍医大佐だ。だからまともに会ってやるような状態ではない。しかもお前の国は負けたのだから、俺はお前に会ってやる必要などない人間だ。でも部下が言うから会ってやったのだ。」
「お前は人道的に正しいことだから、どこでもそのことは通ると思ってきたのだろうと思う。しかし戦争の中では人道的に正しいとか正しくないとか、そんなことは全然、無意味だ。決定するのはパワーだ。”Power is almighty”(力こそ全能だ)」と言ったのです。
聞いて腹が立ってね。人間の命のことで相談に来ているのに、”Power is almighty”と説教までしたので、この連中に日本から帰ってもらわなければ、日本人はいつまで経っても人間になれないと思ったから、今日から俺は、この連中を追い出す立場で働くと決心したのです。
ひとりではどうしようもないから、かねがね、日本の政党の中で、日本の独立を論じていたのは共産党しかなかったのですね。だから帰りに渋谷まで行って、共産党の本部まで行って、「私を共産党に入れてください」と言ったのです。

―プフルークバイル夫妻、大いに喜ぶ!

松井
アメリカ軍の大佐とあったのはどこだったのですか。
肥田
マッカーサー司令部です。今の日比谷公園の日本生命の本社があるところです。

プフルークバイル
少し質問しても良いでしょうか。
肥田
どうぞどうぞ。少し私ばかり話過ぎましたね。

プフルークバイル
日本の医者の中には、原発と核兵器が違うものだと思っている人がかなりいるように思うのですがその点はどうお考えでしょうか。

肥田
そうだと思います。彼らは原爆についても正しい知識を持っていない。ただ大きな爆弾で町が一つ吹き飛んだ。何十万も殺されたというだけで。急性放射線症でまずたくさん殺されました。
それから内部被曝が長い時間かけて体を蝕んできました。こういうことは何にも知らない。内部被曝をまったく知らないのです。あのときだけだと思っている。だから原発は別のものだと思っているのです。

プフルークバイル
ご自身はどうでしたでしょうか。原発と核兵器の関係に気づいていましたか?
肥田
そうです。原発が入ってくるときに、一番、反対して運動した方だから。原発は事故のないときも、日常的に放射線をずっともらしているわけです。
それを無害だと言っているだけで、われわれはそれを吸い込んだり、畑の作物についたものを食べたりして病気になることを僕らは研究して知っていたから。
カナダの医者のペトカウが、放射線の害について、体内に入ったものについて量が少ないほど危険だという論文を書きました。アメリカは彼を「狂人」だといって阻害した。僕はその人の論文を翻訳しました。
アメリカでペトカウの理論を大事にするスターングラスという教授に会って、いろいろと教えられました。内部に入った放射線がどういう風に体を侵すのかというところまで一応、勉強したのです。
私はアメリカの研究者が内部被曝を詳しく研究して書いた本を5冊、読んで翻訳したのです。世界の最高レベルの内部被曝の知識を個人的には勉強しました。

守田
先生は70歳ぐらいから、臨床のお医者さんをしながら、次々と本を翻訳されたのです。

プフルークバイル
先生に比べたら私たちはまだ大変若いわけです。自分は1970年代に放射線のことを調べ始めて、そのときにもう、先生の書かれたものを読んだ記憶があります。
そのあとでウラン鉱山の問題ですとか、原発の問題をずっと研究してきたわけですけれども、今日、こうしてお話をうかがったことで、これからもこの分野で仕事をしなければならない、していきたいという思いを新たにしました。
ありがとうございました。

終わり

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明日に向けて(761)肥田舜太郎先生、セバスチャン・プフルークバイル博士と語らう!(中)

2013年11月08日 12時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131108 12:00)

昨日の肥田先生とプフルークバイル博士の語らいの続きです。
今回収録部分で肥田先生が語られているのは、内部被曝についてです。原爆投下後の数日間、人々は熱線と原爆から飛び出した放射線にやられて、バタバタと悲惨に亡くなっていきました。
この放射線は「初期放射線」と言われているもので、中性子線とガンマ線がその正体です。原爆が破裂して1分以内に地上に到達したものと定義されています。激しい外部被曝を及ぼしました。

ところが1週間ぐらい経ってから、原爆投下時に広島市内におらず、熱線も初期放射線も浴びてない人が倒れだしました。放射能が蔓延する広島市内に入ってしまい、放射性の塵をたくさん吸い込んで内部被曝した方たちでした。
肥田先生は、初期にバタバタと亡くなっていった人々に続いて、内部被曝で倒れた人たちを診ていくことになります。そのまま生涯を内部被曝との格闘に費やされていくことになりました。なぜか。アメリカがそれを隠そうとしたからです。
今回は、肥田先生が初めて内部被曝に倒れたヒバクシャと出会った話から始まります。

*****

肥田・プフルークバイル対談(中)
2013年11月3日

肥田
それから、1週間ぐらい経ってから、患者自身が、「先生、自分は爆弾にあっていません」いうのが寝ているのですね。診るとなるほど焼けてない。
「どうしたんだ」と聞いたら、「自分は広島から何十キロも離れた別の部隊にいて、翌日、救援のために広島に入った兵隊なのです。
それで焼けている火の中で、人を助けたりしているうちに、労働が激しくて、脱水症状で意識を失って倒れた。仲間にかつがれて、医者のいるところに連れてこられた。

寝ているから私がそこにいったら、本人が訴えるのです。「軍医殿、自分は原爆にあっておりません。」
来たのは翌日のお昼です。人を助けているうちに、倒れて、僕らがみているところに連れてこられたので、寝ていて、医師がきたらみてもらおうと思った。
本人は周りが火傷して死んでいく中に寝ていてみているから、どうなると死んでいるか分かっている。目や鼻や口から血が出て、頭の毛がとれて、紫斑が出ると死んでいく。
すると自分が寝ていたら紫斑がでてきた。それが出ると死ぬのをみているから、私の腰をひっぱって、「軍医殿、自分はピカにあっておりまへん」というのです。
被爆者は原爆のことをピカというのですよ。それでどうしたと言ったら、今の話だった。原爆に会ってないのに、後から町に入って、気分が悪くなったという。

4、5日経って、またその場所で死人が出て呼ばれたのでいきました。30人ぐらいが寝ている。「ここに、自分は原爆にあってないといって寝ていた兵隊がいた。
あれはどうした?帰ったか?」と聞いたら、「死にました」と周りの人はいう。
「えーっ」と思いました。原爆にあってないのが死んだというのだから。それでどんな風だったと聞いたら、みんなと同じだったという。

一番典型的な例は、ある若い夫婦の話しです。もともと日本海の側(松江)の人だけれども、旦那が広島の県庁に勤めて広島に越してきた。
ちょうど1年経って、奥さんがお腹が大きくなった。原爆の落ち1週間ぐらい前に、おっかさんのところで子どもを産むということで。日本海の町に帰った。旦那1人残って県庁で働いていた。

そうしたら爆弾が落ちて、生まれた子どもを抱えていたら、ラジオや新聞で広島が大変だということを見た。しばらくは原子爆弾という新型爆弾が落ちて、相当な被害がでた模様というだけでよく分からない。
やがて松江の人で、広島に親戚がいるので見に行った人がいた。それが帰ってきてあることないこと話す。広島は焼け野原で誰も生きていないという。
人がみんな死んだと聞いて、びっくりして、子どもをお母さんに預けて、ちょうど1週間目に広島にでてきた。

町のかなり遠くから歩いて広島に入った。一面の焼け野原で何が何だか分からない。
近くの村の人が親切に「心配だからうちに泊まりなさい」と言ってくれて、郊外の農家に泊まって、そこから毎日、自分が住んでいた辺りの焼跡を歩いた。近所を探したけれど、訳が分からない。
そのうちに、「焼け跡を幾ら探しても分からない。もし旦那が生きているならば、周りの村に逃げているかもしれないから、生きている旦那に会いたければ、周りの村を歩けと言われて、あちこちの村を歩いて、僕のいる村にもやってきた。
そこでぴったりと旦那と会うことができたのですよ。珍しい例でした。

旦那は広島の県庁の地下室で被ばくをして、上から天井が落ちてきて、大腿骨折で折れた骨が外に出ていた。そのまま担架に乗せられて、火の中を逃げて、私のいた村に親戚があったものだから、やってきて、そこで寝ていた。
土蔵があって、重傷の人が何人か寝ていた。その中に彼も寝ていた。衛生兵が回ってきて、「俺が治してやる」と柱につかまらせて、足をぎゅっとひっぱった。そうしたら折れて飛び出していた骨が中に入った。
包帯も何もないから、ぼろきれを拾ってきて撒いて、竹の棒を荒縄で縛って、一応、理屈にある治療を受けて寝ていた。そこに松江から出てきて、村を回った奥さんがやってきて、会った。それで奥さんは旦那の看病を始めたわけだ。
そうしたら、その奥さんに熱が出て、いろんな症状がでてきて、旦那より重症になってしまった。15日ぐらい広島に入って、一週間、市内を歩いて、それから来たわけですが、熱が出始めて、血を吐いて、9月15日に死んだのです。

アメリカは、原爆を落とす前から、内部被ばくで、あとあと症状がでることを知っていたのですね。そのことを隠すことが目的でした。
後から市内に入って、原爆をあびてないのに死ぬというのは不思議だから、それをみた私たちが話題にしてしゃべるじゃないですか。それがすぐにアメリカにばれるのです。
それを聞いたアメリカはすぐに放送をしてね、「原爆の被爆者の中で、原爆を浴びていないのに、後から町に入って、症状が出て、具合が悪くなることがかなり騒ぎになっているようだけれども、それはまったく原爆とは関係ない」という放送です。それをもうやっているのですよ。

アメリカが占領したのは9月2日だった。ちょうど3週間ぐらい。その前の日から、日本のラジオを通じて、アメリカの占領軍司令官の命令という形でそのことがでてくるのです。
僕らはめったにラジオを聞けないのだけれど、聞いていたやつがこういうことを言っていたと教えてくれた。しかしよく分からないのですね。
要するに、焼跡に後から入ってものからたくさん病気がでていると日本で言っているけれども、マッカーサーの方では「それは放射線とは関係ない」という放送を最初から始めたのです。

アメリカは落とす前から、放射線による被害の中で、内部被曝が一番問題だという意識を持っていたのです。それさえ隠せば、爆弾の大きさは、橋が落ちたとか建物が焼けたとか、そんなものは時間が経てば消えていく。
いつまで経っても残るのは放射線の害なのです。これだけは隠すというのが向こうの方針だったのです。

ずっと後になって、10月ごろに、11月ごろかな。日本の学者が焼跡に入って、血液を採ったり、死因などを調べているのです。
その中でストロンチウムが骨に沈着して、造血機能がやられている。骨の中の骨髄で血液を作っているのだけれど、骨が被曝するから、中の血液がやられるということを、研究した学者がいるのです。それを印刷して、僕らにも配ってくれた。
すぐに占領軍が動き出して、それを止めて、本人を逮捕して、研究が止められた。向こうがそうやって必死に隠すことに本質があるのだとこっちも思うから、そこを一生懸命、勉強したわけですね。

プフルークバイル
名前は分かりますか?
肥田
分かります。東京大学教授です。後で名前を教えます。論文もあります。
そのときは逮捕されて没収されたのですが、みんなで運動をしたのです。こういうときはマッカーサーといくら交渉してもだめなのですよ。厚生省を通じて本国政府とやったのです。
そうしたら没収されたものは返さなかったけれど、本人は釈放はされました。

ただあのころの日本の学界の偉い方たちは、自分の保身のために向こうにつくのがいっぱいましたから、その先生をみんなが支持しなければいけないのに、似たような有名なのがむこうについてしまって悪口言うのが出てきました。あのときは情けなかったですね。
当時の日本の放射線学者とか、臨床の方でも放射線についての専門家はたくさんいましたが、ほとんど向こうにくっついてしまった。

続く

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明日に向けて(760)肥田舜太郎先生、セバスチャン・プフルークバイル博士と語らう!(上)

2013年11月07日 23時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131107 23:00)

このところ忙しさにかまけて、「明日に向けて」の更新が滞ってしまいました。すみません。
さて、今回は、被爆医師、肥田舜太郎先生と、ドイツ放射線防護協会会長のセバスチャン・プフルークバイル博士とのビック対談を取り上げたいと思います。

プフルークバイル博士は、日本の医師たちとの対話などのために、10月半ばから日本に来られています。10月25日、26日には京都にも来られ、そのときもお会いしました。
京都では、関西の医師たちとの会談を目的にされたのですが、同時に、これまで何度も日本に来られていながら、観光をしたことがないとのことで、ささやかでしたが京都観光の案内もさせていただきました。
25日の夜は、岩倉のNONベクレル食堂にいって、集まったたくさんの方と歓談。同時にとても貴重なインタビューもさせていただきました。
それやこれやの報告も今後、させていただきますが、今宵は、スペシャルな対談である、肥田先生への訪問のお話です。

この訪問は、内部被曝問題に一貫した取り組みをされてきた、医師で岐阜環境医学研究所長の松井英介さんのプロモートで実現されました。
当日は、プフルークバイル博士と、今回一緒に訪日されているお連れ合いのクリスチーナさん、松井先生と、お連れ合いの松井和子さん、ドイツ語通訳の山本知佳子さん、それに守田がお訪ねしました。
肥田先生の秘書役を務めてくださっている辻仁美さんが私たちをピックアップしてくださいました。

ちなみに肥田先生は現在96歳。来年のお正月で97歳になられます。プフルークバイル博士は67歳ですが、肥田先生の息子さんが同い年なのだそうです。
お二人は一世代違いますが、放射線防護、そして内部被曝問題への関わりの熱さは共通のことです。この素晴らしい会合に同席させていただいてとても幸せでした。
お話はプフルークバイル博士が、肥田先生に質問し、お話を聞く形で進みました。記録を書き起こしますので、どうかその場に一緒にいたつもりになってお読みください!

*****

肥田・プフルークバイル対談
2013年11月3日

プフルークバイル
今日はお時間をとってくれてありがとうございます。
肥田
ドイツには8回行きました。当時は東には行けませんでした。

プフルークバイル
広島のことについて、いろいろなされてきたことを本でも読んだのですが、幾つか質問させていただいてもいいでしょうか。
原爆が広島・長崎に投下されてから、およそ5年間の間、情報が隠されていたと聞きましたが、どうしてそういうことが可能だったのでしょうか。アメリカがやったのでしょうか。
肥田
アメリカは戦争が終わるときに上陸してきた、軍事占領をやりました。占領という形ですから、われわれは無力で、こちらから何を言っても通じませんでした。アメリカが一方的に占領軍として振る舞ってきた。それが原因ですね。

プフルークバイル
公式の命令という形で秘密にしなければいけないと言われたのか、事実上、秘密になっていて、誰も口を開かなかったのか、どっちなのでしょうか。
肥田
文章には残ってないのですけれども、マッカーサーが占領軍司令官という形で命令を出しました。絶対権力者でしたから。日本の政治家も軍人も、誰も一言も応答ができない。頭からこうしなさいといういい方です。
国民には、原爆の被害については、一切、軍事機密である。だから自分の症状についてもしゃべってはいけないというような厳重なものでした。文章としては残ってないけれども、命令としてなされました。

プフルークバイル
マッカーサー将軍が権力を握っていたのですね。
肥田
彼はアメリカ軍の司令官であるだけではなくて、連合軍の総司令官でした。だから日本と戦ったすべての国の司令官として占領を行ったのです。
マッカーサーが中心にいるわけだけれども、日本を細かく行政区に分けて、全部に彼の部下を配置しました。広島には広島の軍の司令官がいて、上からの命令が下りてきて細かく占領されました。
僕らの周りには、アメリカの憲兵がいて、町の中を細かく支配していた。
とくに占領直後は、日本の軍隊が管理されて、軍隊の抵抗はほとんどできなかったし、しなかったのだと思います。

その次にアメリカが恐れたのは、被爆者の実情が世界に知られることでした。だから広島・長崎の管理はとくに厳重だった。
当時、広島は建物は何もない。生き残ったものががれきの中に寝転がっていた。そこを僕が歩き回って相談したりしていた。僕らがやけどの治療などをしていると、必ず米軍の憲兵がそこにくるのですよ。何をしているのかを見ている。
私は医者ですから、重症が寝てれば回ってきてそこに来るわけですね。他に医者がいないわけですから。そうすると、特定の被害者のところにいって、何か画策しているのではと疑いをもたれる。だから絶えず私が行って治療するところは、憲兵が来てずっと見ていました。

松井 
その頃、先生を含めて生き残った医師は何人だったのですか。
肥田
僕の周りでは5人ぐらい。もともといた市内の開業医はほとんど自分もやられていますから、生きていてもやっと寝ているぐらいでしょう。活発に動ける人はぜんぜんいませんでした。

クリスチーナ・プフルークバイル
医師の数が少しずつ増えていって、状態が改善されていったのはいつごろからですか。
肥田
6日に爆弾が落ちて、9日から九州や四国の軍隊の軍医が、衛生兵や看護婦と薬品などを持って応援にきましたから、9日からは少し手が増えた。
広島はだいたい、直径が4キロぐらいの町です。爆心地に近い辺りはほとんど即死しています。助かったのはその周辺にいたのに住民にしても兵隊にしても生き残ったものがでた。
私たちは6キロ離れた戸坂村にて、そこに3万人も逃げてきましたから、それを診ていて、結局そのままその村にくぎ付けになって、その人たちを専門に診ていました。
広島市内に、患者が、日赤病院とか逓信病院とか、もともと病院のあったところに医者も患者も集まった。焼けたボロボロの中で一つセンターができる。結局4つセンターができました。僕のところは大きくて3万人いた。もうひとつ可部という西の方に大きな塊ができた。
市内に2つ、全部で4つ、医者がいて治療のできる塊ができた。

僕のいた村は人口が1300人でした。そこに3万人もきたのですから、いるところがない。建物もみんな崩れている。結局、学校の校庭や道路にみんな寝た。
最初の3日間、ほとんど寝ずに患者をみました。死んで行くのをみるだけだった。治療をして助かるなんて状態ではなくて、上半身がみな、やけどですからね。
当時はやけどの治療法が間違っていました。軟膏を塗りつけました。ホウ酸軟膏という白いものをべたべた塗った。今考えると間違いです。今は水をかけて冷やして洗うのが基本です。当時はホウ酸を塗りつける。ところが薬がぜんぜんない。
仕方がないので、農家から菜種油をだしてもらいました。大事な、食べている油ですが、それを出してもらって、バケツの底に入れて、ぼろきれを入れてべちゃべちゃにしました。それを小学生の男の子に持たして、女の子がぼろきれに油をつけて、寝転がっている患者に塗って歩くというのが唯一の治療だった。

松井
小さい子供がだいじな手伝いをしたのですね。
肥田
村の中には壮年はみんないませんでした。男も女もみんな動員されて、戦争の準備として建物を壊したりしていました。いたのは年寄り夫婦と小学生でした。中学生以上はみんな動員されていた。だから僕の相手をしてくれたのは、おじいさんやおばあさんと小学生で、それがいろいろな手伝いをしてくれました。
患者が死ぬと、担架にのせて、どこかに運んでいくのですね。林の中に死骸を集める。それはおじいさんしかできない。大きな竹の棒を切ってきて、荒縄を渡すと臨時の担架になる。それに死んだ人を乗せて、みんなから見えない遠くの林の中へおいてくるのです。
それを60、70くらいのおじいさんが二人で持つのだけれど、重たいのは上がらないのです。担架をずるずるひきずっていきました。死んでいるからいいようなものだけれど、そんな具合でした。

クリスチーナ・プフルークバイル
痛み止めなどはもちろんなかったのですよね。
肥田
ぜんぜん。そんなものは。

内科的に症状を訴えるなどということはまったくなくて、死ぬか生きるかだけだった。初めの3日ぐらいはね。
僕が呼ばれるのは死人がでてきたときでした。死んだことを医者が認めなければ、死人にならないのです。焼き場に持っていけない。村長からも「生き死にだけをみてください」と最初から言われているから、死んだところに飛んでいって、証明するだけでした。
最初に、放射線ということはわかりません。原爆ということも分からないわけだ。ただ火傷で人が死んでいく中で、内科的な症状が初めて出てきたのは3日目なのです。8月9日の朝でした。

そのときはね、前の日の夜に看護婦さんがたくさんきてくれたのです。九州と四国からたくさん来ていた。その連中が、道路に寝ているものたちのところに出て行って、みんな診てくれたのですね。
そうしたら、「軍医殿、40度の熱が出ています」という。内科の患者で40度の熱がでることはまずない。マラリアとチフスぐらいです。だから40度出るというと、看護婦も自分で判断できないから医者を呼ぶのですね。大きな声で「軍医殿、軍医殿」と呼ぶから近くにいるものが飛んでくる。
体温計をみると確かに40度出ている。でもなぜ出ているか分からないのです。そのとき、一番びっくりしたのは出血です。鼻と口から血を吐く。それは普段から見ているから驚かないのだけれど、目尻から出てきて、それはみたことがなかった。「あっかんべー」をする白いところから、たらたら、たらたら、血が出てくる。
それで、全部焼けているから聴診器があてられないのです。脈をとろうと思っても、手も焼けている人が多い。聴診器をあてるのが苦労でしたけれども、そのうちに鼻や口や目尻から血がでるだけでなくて、吐くようになった。
下から、肛門からと女性の前の方から下血が起こった。みんな、地べたに筵をひいて寝ているのですが、それがたちまち血の海になっていく。
僕ら、膝をついてみているわけでしょう。するともう腰から下が、出てきた血でべたべたになってしまう。次から次にそれがあるわけ。

医者ですから、高い熱が出ているから、夜も地べたに寝ているわけだから、扁桃腺が腫れているに違いないと思う。それで無理やり口の中を開けてみてみた。
すると普通、口の中は桃色で赤いでしょう。真っ黒なのですよ。腐敗していてネフローゼを起こしている。無理やり開けると臭いんですよ。腐敗臭ですからね。それが特徴でした。
それともう一つ、あのときの特徴は、焼けていない肌に紫色の斑点がでるのです。紫斑といいます。ちょうど鉛筆のお尻に紫色のインクをつけてポンポンポンとやったような感じで。紫斑です。それがいっぱいでる。

最後に特徴的なのは、みんな苦しいからなんとなく頭に手をやる。そうすると男も女も手が触れたところの毛がみんなとれてしまう。脱毛という感じではないのですね。あれはなんと言ったらいいのでしょうね。
教科書をみると、今は「脱毛が起きた」と書いていますが、脱毛とは思えないのです。触ったところがすっととれるのです。頭が真っ白になる。
男性は、当時はみんな散髪して短いので、男はあまり気がつかないのです。女の人はやるうと手にごっそりついてくる。間違いなく女性はそれをみて泣きだすのですよ。

たくさん毛がついてくる。私も女性が自分の髪の毛がなくなったときに、死にそうな体でいながら、あんなに大きな声で泣きだすのは初めてみました。女性はみんな泣きましたね。頭の毛が無くなって、それがみんな手についてきますから。そうすると大声で泣き出す。よくこんな声が今頃でるなと思いました。
強い放射線にやられた急性症状は、まず出血と脱毛、紫斑、口のなかのネフローゼですね。真っ黒になって。そういう症状がでると1時間も経たずにみんな死にます。
私たちは学問的に教わったわけではないけれど、初めて診る症状で、アメリカの放送で原子爆弾だということは聞いたのですが、聞いてもそれがどういうものか分かりませんから、今度の爆弾ではこういう症状が出るなということを、実際に診ている中で覚えたのです。

続く

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