明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1411)ドイツの人々によるナチス時代の捉え返しをいかに学ぶのか(ドイツからの報告13)

2017年07月31日 12時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170731 12:00ドイツ時間) 

ドイツのフランクフルト空港からです。昨日、2泊させていただいたトーマスさんアネッテさんの家を出てベルリン市街に出向き、ベルリンで脱原発運動をしている日本人の方たちとお会いしてきました。桂木忍さんも一緒でした。その後にベルリンで一番高いアレキサンダータワーに桂木さんに連れて行ってもらい、ベルリンの街を一望した後に、一人でライプチヒ空港へ。ほとんど人のいない暗い空港で仮眠をし、6時15分発の飛行機でフランクフルトに飛んで来て、今、13時20分発の関空便を待っています。関空到着予定は1日7時40分(日本時間)です。もうすぐ搭乗ですが、ドイツを離れる前にもう少し報告を書いておこうと思います。
 
前回の報告でナチズムに対する深い反省を行なって来たドイツが、一方でアメリカ、イギリスの猛爆撃を受け、たくさんの悲劇を体験している国であることを書きました。だからこそ僕はドイツと日本の経験を人類全体の未来へとつなげていきたいと思うのですが、その際、ドイツの人々によるナチ時代の捉え返しをいかに学ぶのかについて触れておきたいと思います。
 
というのはともすれば日本では、「ドイツのナチへの反省はすごい。日本のアジア侵略戦争の反省は浅くてダメだ」と問題を単純化し、なんでもドイツは進んでいると捉える傾向があるように感じるからです。原発問題でもそうで、多くの人が「ドイツはずっと先を歩んでいる」と捉えています。確かに進んでいるところはたくさんあるのですが、しかしあまり問題を単純化してしまうと、ドイツの中で、ナチズムの捉え返しを進め、平和の道を切開き続けてきた具体的な方達の努力、現実の格闘を過小評価することになってしまうと思えるのです。
 
その点でご紹介したいのは、ブラウンシュヴァイクで素晴しい通訳をしてくださったフラウケさんに聞いたとてもレアな話です。フラウケさんの親戚や一家のナチ体験と言ってもよいのですが、話は1932年に遡ります。この年、ナチ=国家社会主義ドイツ労働者党のリーダーだったアドルフ・ヒトラーは、ブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官にとなりました。党幹部のヴィルヘルム・フリックの手配によるものとされていますが、目的はもともとオーストリア人国籍しか持っていなかったヒトラーが、大統領選挙への出馬を見据えてドイツ国籍を取得することにありました。この頃のドイツでは公務員になると自動的に国籍を得ることができたため、このポストにつくことが必要だったのですが、実はその手引きにフラウケさんの親戚が関わっていたそうなのです。彼女は大きくなってからこの事実を知ったのだそうです。
 
そればかりか実は彼女が幼いころに住んでいた家のまさに隣にナチの施設があり、そこで捕まった人々が拷問され、おばあさんが悲鳴を聞いていたというのです。ところがおばあさんはナチの時代のことを反省せず、「そうは言ってもヒトラーは仕事をくれたんだよ」と言い続けたのだとか。いまはもう認知症でこのことをめぐる討論ができないそうですが、実はこのようにヒトラー時代の「経済的繁栄」を懐かしむお年寄りはけして珍しくないのです。これはドイツとて過去を捉え返せない人がまだまだいることを物語る事実です。
 
いやそもそもフラウケさんの住んでいるブラウンシュヴァイクで一体何があったのか。ナチが何をしたのかなども十分に明らかになってないという。「学校でナチのことを習いましたが、犯罪的なことはポーランドやハンガリーや、どこか遠いところで行なわれたかのように教えられて来て、この故郷であったことなど聞いたことがなかったのです」とフラウケさん。実はそれでまさにいま、ブラウンシュヴァイクの中でナチ時代の捉え返しが進められつつあるのだそうです。ナチ時代を象徴する写真や証言、証拠などの提供が呼びかけられ、収集されつつあるのだとか。このようにナチへの反省は、未だ不十分である面と向き合いつつ、現在進行形で進められているのです。前回、紹介したベルリンでアネッテさんも参加した「暴力の地政学」の展示に向けた取組みもその1つです。
 
しかも現代ドイツは深刻な問題にも直面しています。この点についてドイツ在住の桂木忍さんに「ドイツの過去への反省に向けた取組みの現状についてどう思うか」と言う問いに答えてもらいました。すると彼女は、例えばヨーロッパ・アクション・ウィークを繰り返し行なって2014年春に僕をトルコに派遣してくれ、同年秋にもポーランドに招待してくれたドイツの民間団体のIBBなどは、ナチへの反省を深めることをいまも主要な取組みにしていて、しかも国から大きな予算が出ている。こうした点は素晴しいとまずは語りだしました。
  
僕もまったくそう思いますが、しかし反面、こうした取組みの連続に嫌気がさしてしまって、ドイツに誇りを持てない人がいるし、ドイツ人であることを嫌って、海外に移住する人もいることを桂木さんは教えてくれました。そしてこうした人々の中から、ドイツの過去の捉え返しに反発し、ネオナチになったりする人々もでてきたのだそうです。ただしこれらの人々はどちらかと言えば、ナチに近いような表現をすることを避けていた。しかしそうした人々が一斉にその声や行動を表に出してきたのが、シリアの大混乱のもとで89万人の難民がドイツに押し寄せた2015年の「難民危機」の時だったといいます。
 
このとき、ドイツのメルケル首相は「難民のみなさん。どうぞドイツへ」と演説したのですが、これに右翼が反発。中でもAfD=「ドイツの選択肢」という右派政党が台頭しあからさまな難民排斥に動きだしたのだそうです。このグループはそれまでも地方議会で選挙の度に議席を伸ばしてきており、今秋に予定されている国会議員選挙で、はじめての議席を獲得するのは間違いないといわれているそうです。
いわば「それまで隠れていたネオナチ勢力が一斉に表に出て来た、難民問題で一気に自らの社会的位置を獲得してしまった状況だ」と桂木さんは語りました。
 
ちなみに2015年の10月には、反イスラム運動「ペギーダ」(西欧のイスラム化に反対するヨーロッパ愛国主義者)などが率いるヘイトデモまでが、ライプチヒやドレスデンでおこなわれました。この団体はフランスの大衆紙のシャルリー・エブドが襲撃を受けたことで急速に伸張して来た団体で、この日もドイツ各地から人々が集まったそうです。もちろんAfDもまたこれに乗りました。
こうした動きの中で、ドイツの民主主義を否定し「ドイツ帝国」を名乗っているグループも出て来ているそうです。独自にパスポートまで作っているそうですが、ここまで来ると明確に違憲になるので摘発もされているといいます。ナチは「神聖ローマ帝国」「ドイツ帝国」に次ぐ「第三帝国」を名乗っていたため、「ドイツ帝国」の呼称はナチの肯定につながり憲法で認められないからです。しかしこうした動きは止まず、ドイツ連邦軍の宿営所の中で、ナチス時代の「国防軍」を想起させるようなアイテムを飾っていて摘発されたものもでてきたそうです。
 
なぜにナチ時代の捉え返しをあらゆる面から進めて来たドイツで、このようにネオナチが登場してきてしまっているのか。今回の訪問だけでは十二分に確かな根拠をつかんではこれませんでしたが、やはり新自由主義のもとでの貧富の差の拡大、働く機会の喪失などが大きく影響しているのだろうと僕には思えます。そこにシリア危機が起こり、難民が殺到して来た中で、さもしい感情のあおり立てが功を奏してしまっているのではないでしょうか。
 
ただ今回、僕が踏まえたいことは、歴史を捉え返し、自分たちの祖先の過ちを正して行くことは、いつだってどこでだって難しいことであり、だからまた尊いことなのだということです。反対に過去の過ちをないものとして自己を絶対化し、他者に悪罵を投げつけることでフラストレーションをはらそうとするのは安易な道です。残念ながらドイツの中では公然と後者の道を叫ぶ人々が出て来ているわけですが、しかし他方でカウンター行動が数多くなされています。例えばドレスデンの行動があった日にはベルリンでもペギーダの支持者によるデモが行なわれましたが、カウンター行動のデモ隊に道を塞がれヘイトデモが完遂できなかったそうです。このほか、各都市でさまざまにカウンター行動が行なわれています。
 
このようにドイツの心ある人々はいま、一方でのネオナチ的な傾向を持った人々の台頭にも直面しながらも、なお過去の捉え返しを進めつつ、過去と今をつらぬく排外主義との対決を続けています。そのリアルないまの姿が僕は素晴しいと思うし、固く連帯していきたいと思うのです。
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明日に向けて(1410)ドイツの人々とともに平和の道を切り開こう(ドイツからの報告12)

2017年07月29日 12時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170729 12:00ドイツ時間) 

ドイツのベルリンからです。昨日の午前中に電車でブラウンシュバイクを発って電車でベルリンにやってきました。電車に乗るのはこれで3回目ですが、ドイツの電車のチケットは事前にインターネットで買うと安く手に入れられます。反対に駅の自動販売機で当日買おうとすると高いし、買い方自体もなかなか難しい。それで今回のチケットは、僕が日本にいる間に全部、桂木忍さんが買ってくださってオンラインでおくってくださっていました。しかも「カンパします」とも言ってくださいました。ありがたいです。
 
ベルリン駅で迎えてくださったのはアネッテ・ハックさん。日本語が達者な方です。実は3年前の初めての原発問題でのドイツ・ベラルーシ・トルコ訪問の旅のとき、僕は前立腺肥大のために尿が出てにくくなり、腎臓が痛んで悶絶の苦しみを味わい、トルコで病院に一泊し、さらにトルコから戻ってから訪れたここベルリンの地でもうどうともならなくなり、セバスチャン・プフルークバイルさんとお連れ合いのクリスチーナさんに病院に担ぎ込んでいただいたのですが、そのときに日本語ができるからと同行してくださったのがアネッテさんだったのでした。なんかもうトルコでもドイツでも恩人がいっぱいできてしまいました。うーむ。ともあれ一生懸命に、コツコツと恩返しをしていこうと思います。
 
いま僕がいるのはそのアネッテさんとお連れ合いのトーマス・デルゼーさんのとても素敵な家です。3階建てのウッディな家でゲストルームがとても広い。テント泊で始まった今回の旅で、最後に一番広くて奇麗で気持ちの良い部屋をあてがってもらえました。(もちろんビーレフェルトでもブラウンシュバイクでもとても快適な部屋に宿泊させていただけたのですが)
夕べはアネッテさんとトーマスさんが作っていただいたご飯を食べながらいろいろと討論。トーマスさんはドイツ放射線防護協会で『放射線テレックス』を発行している方で、何度か日本を訪れ、各地の測定所を訪問されています。話は日本の被曝状況のことにおよび、僕が見て来た最新の知見をお伝えしました。
 
さてその話の報告の前に、話をベルリン到着のことに戻したいと思います。ベルリンで僕は見学したいところがありました。『ホロコースト慰霊碑』です。そう告げるとさっそくアネッテさんが連れて行ってくださいました。場所はブランデンブルグ門のそばでまずは有名な観光地でもあるこの門をくぐってから慰霊碑に向かいました。現場に着くと無数の長方形のコンクリートの造形物が並べられていました。棺をイメージしているのだと思います。しかもとくになんという説明もない。何も書いていない棺のようなものがただただ少しずつ大きさを変えながら縦横無尽に並べられているのです。
 
様子を知っていただくためにウキペディアでの紹介ページのURLを貼付けておきます。建設をめぐる論争なども紹介されています。
 
どうしてこのように作ったのかとアネッテさんに聞くと「詳しくは知らないのですが、たぶんユダヤ人が「無機質」に殺されていったことを名前のない棺のイメージで表しているのだと思います」との答えが返ってきました。でもアネッテさんは「ここは一等地でこの土地を売ったらベルリン市にはとても大きなお金が入ったはずです。それでもここをこうした場にしたことはとても評価できます。でもねえ、この棺のようなイメージには私は創作前に反対したのですよ」とも言われました。理由はこの棺のイメージがユダヤ人墓地の様式とはマッチしてないからなのだそうです。ちなみにアネッテさんのもう亡くなられたおじいさんユダヤ人だったのでした。
 
ここには奥まったところに地下にインフォメーションセンターがあります。そこにも入りたかったのですが、行ってみたらたくさんの人が行列している。先頭がロープで遮られていてなかなか前に進みません。おそらくは何人かごとに解説者がついて内部をまわるのだと思います。興味はあるのだけれど時間がかかりそうだなあと躊躇していると、「ここよりももっとしっかりとした展示をしているところがありますよ。そちらに行きますか?」とアネッテさん。向かった先はベルリン市が主催しているナチス時代を振り返る大きなミュージアムでした。
 
Topographie des terrors
 
「恐怖の地政学」とでも訳せば良いでしょうか。ベルリンのどこにナチスのどんな施設があったのか、そこで何が行なわれたのかが示されています。
ます外の空間にナチスがベルリンで何をしてきたのかを示す何枚ものパネルが展示されています。それも何枚も何枚も続くかなり長いもので何十mかあったと思います。僕はかつてナチスがいかに台頭し、いかに多数派になり、どのようにして滅びて行ったのか、そこから何を学ぶのかをかなり深く研究した経験があったこともあって、とても興味が引かれました。アネッテさんも一枚、一枚の写真や説明文について詳しい解説をしてくださいました。
 
ナチスが台頭し、政権についていく過程ややがて初めてベルリンに強制収容所が作られて行ったこと、そこに抵抗する社会主義者、共産主義者が放り込まれ、殺されて行ったこと。さらにユダヤ人の排斥が始まり、次々と収容所に送り込まれるとともに、抑圧はロマ(ジプシー)の人々、障がい者、ホモセクシュアル、ホームレス、さらにはユダヤ人と結婚しているドイツ人などにも向けられて行ったことなどが克明に示されていました。
 
ここを一通り見て、さらにミュージアムの中に入るとベルリンだけでなくナチス時代の全貌がやはりたくさんのパネルで展示されていました。ナチスが攻め込んだ多数の国のことも展示されていました。館内にはたくさんの人々がいました。各国からの観光者もいるようで、若い人々も多かったです。しかも熱心に展示を読んでいてなかなか動かない。なんだか嬉しい気がしました。
 
アネッテさんはここでも様々な点を教えてくださいましたが、解説があまりに詳しいので途中で理由を尋ねると、ここはもともとベルリンの平和を願う市民運動によって建てられたもので、アネッテさんも2年間にわたって展示物の作成に参加されたのだそうです。まさにこの場を作り出して来た当事者の一人なのです。ベルリン市がお金を出してくれたのはその後のことで、そのために展示が今のように奇麗になったのだとか。「元々は手作りの祖末なものでした」とのことですが、僕はその頃の展示も見てみたい気がしました。
こうした経緯も含めて、この場に来て感じるのは、ドイツの中でナチス時代と懸命に向き合って、真剣な捉え返しをしてきた人々の活動の素晴らしさです。とても尊くかつ勇気と人間愛に溢れた素晴しい行動だと思います。深く感動しました。
 
途中でカフェに入ってアネッテさんとさらにいろいろとお話ししました。僕の父が呉で広島原爆の影響を受けたと思われること、母が東京大空襲の奇跡的な生き残りであること、また僕自身、10年以上にわたって軍隊「慰安婦」問題に携わり、おばあさんたちのサポートをしてきたことなども話した上で、「それにしても僕が思うのは、たとえナチスがどれほどひどかろうとアメリカとイギリスが行なったドイツへの都市空襲はあやまりだと言うことです。このことも告発していきたいとの思いをドイツに来てからもずっと深めてきました」と告げました。アネッテさんも同意してくださいました。
 
僕がそう思ったのは今回、出会った多くの人から戦争の陰、とくに空襲の悲劇を伝えていただけたからでした。
例えば反核サマーキャンプで出会ったアルフレッド・コルブレインさんは、1944年にお父さんを空襲で亡くされています。残されたお母さんは3人の男の子を抱えて大変な苦労をされたのでした。この話にも胸を打たれましたが、もっと過酷な中を歩んで来た方もおられました。それが僕をブラウンシュバイクに招いて下さったボード・ワルターさんでした。
 
ボードさんは「僕はお父さん、お母さんを知らないのです。二人とも空襲で殺されてしまいました」と語られました。「だから僕は先祖がいない人間なんです。何もわからないのですよ」とも。ボードさんは「孤児院」で育ったのだそうです。そこは何かするとすぐに叩かれる場でとても大変だった、辛かったと言います。「僕はそうやってドイツ国家に育てられました。だから悪になりました!」なんて言う。これはボードさんの「ワルター」という名字と「悪」をひっかけたジョークなのですが、なんとも悲しい。ちなみにボードさんは1942年の生まれです。
 
成人したボードさんはいったんは一般の仕事に就きましたが、社会福祉に従事したいと考え出して、教会のもとで専門職としての教育を受けました。その中でカウンセラーとしてのトレーニングも受けたのですが、そのときになってやっと辛かった生い立ちがもたらした心の痛みが癒されて行ったのだそうです。
ボードさんはその後に釜ヶ崎に派遣されてアルコール依存症の人々のケアを7年簡にもわたって続けてくださいました。戦争で自らが背負った辛い生い立ち、両親を知らず、苦しんだ日々のことを背景にしながら、たくさんのさまよえる人々を救ってくださったのでしょう。心からの感謝を伝えました。
 
僕はこの話をブラウンシュバイクの最後の夜のパウル・コーチさんの家での晩餐会の時にも持ち出しました。同時に僕がさまざまな国を訪れて「まだまだ多くの国が正しい戦争と悪い戦争と言う考えを持っていて、正しい戦争は行なうべきだと考えています。それを正して行けるのは「正しい戦争などない」と実感している私たちドイツと日本に住まうものだと思うのです」と語るとパウルさんが深くうなづいて、ご自身の家族のことを話され始めました。
 
「私の一族はかなり前にドイツからハンガリーに移民していました。ところが戦乱でハンガリーが大変なことになり、お母さんは当時6人の子どもを抱えて難民となり、ドイツに逃げてきました。そしてたまたまドレスデンを通過中に、アメリカ軍の大規模な空襲に遭ってしまいました。お母さんは子ども達と防空壕に駆け込み、激しい爆撃をそこでやり過ごしました。そのとき防空壕にあとから飛び込んできた兵士が、一番小さかった子どもの上に落ちて来て子どもの胸を強打しまったそうです。その子はその後、長い間、胸を患ってしまいました。」
 
「それでもなんとか防空壕は持ちこたえ、空襲をやり過ごすことができました。米軍機が去ったとき、人々はもう大丈夫だと思ったとたんに一斉に外に溢れ出て行きました。お母さんもその流れに押し出されて外に出ましたが見回すと子ども達が一人もいません。溢れ出した人の波の中ではぐれてしまったのです。実際には子ども達はそれぞれそのときに周りにいた大人が守ってくれたのですが、お母さんはその後に一人一人探さざるを得ず、6人がやっとそろったのはなんと一年後だったのです。」
 
僕が「パウロさんはそのとき幾つだったのですか」と言ったら「まだいなかったのですよ」と笑う。パウロさんはそうやって6人の子どもとなんとか再会できたお母さんがその次に生んだ7人目の子どもなのだそうです。第262代教皇(1963〜1978年)の名が「パウロ6世」だったそうで「僕はそれを越えるパウロ7世だ」とかいって大笑いしていましたが、そのあとにポツンとこう言われました。「お母さんがそんな目にあってるからね。正しい戦争があるなんて言われてもとても受け入れられないよ。戦争はすべて悪いものだよ」。
 
そうです。その通りなのです。そして僕はさらに戦争の中でも空襲はもっとも許すことのできない戦争犯罪なのだということを付け加えたいです。
なぜか。空襲では軍隊と一般の市民の区別などできず、もっとも犠牲になるのはもっとも逃げにくい市民、女性であり、子どもであり、老人であり、障害者なのだからです。その市民を無差別に大量虐殺してきたのが空襲です。もちろんその中でももっとも悪質なのが、未来世代にまで影響を与えた原爆による空襲でした。
 
もう人類はいい加減、こんなひどい暴力と訣別すべきです。今も続く空襲を止めさせたい。止めさせないといけない。
そのために、自らが大変な犠牲者でもありながら、ドイツという国家が行なった戦争責任を懸命に捉え返して来ている人々と共に歩んでいきたいと僕は強く思います。戦争による加害と被害の双方を知り、継承しているわたしたちの声を世界に広げることで、本当の平和への道を切開いて行きたいです。
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明日に向けて(1409)いかに民衆運動を前に進めて行くのか ブラウンシュバイクの討論に参加して(ドイツからの報告11)

2017年07月28日 09時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170728 09:00ドイツ時間)

ドイツ・ブラウンシュバイクからです。ここでの最後の朝を迎えていて、これから今回の旅の最終訪問地のベルリンへと向かいます。ベルリンでは3日間過ごします。
早いものでもう14回目のドイツの朝。旅の残りもあとわずか。しっかりベルリンの今について深めてこようと思います。
 
さて今回はブラウンシュバイクでの行動の報告の続きを書きます。アッセ2の報告が長くなってしまいましたが、さらに前回少しだけ触れたアッセ2の周辺の方達の集会でのことを書きたいと思います。
この集会は今回の僕のブラウンシュバイク訪問の受け入れてくださったパウルさんやボードさんが主催してくださったものです。
パウルさんは2014年開催したヨーロッパ・アクション・ウイークの主催者であるIBBという組織の重鎮のボランティアスタッフでもあって、この年の秋に開催されたポーランドでの国際会議のときにもお会いしてその後もFacebookでつながっていたものの、言語の壁もあってあまりお互いに連絡をとっていなかった方でした。
 
クリスチャンとして社会福祉活動に関わって来ていて、お子さんが4人おられますが、多くの親のいない子ども達の里親にもなり、自分の子ども以外に30人も育ててこられたのだそうです。長年、チェルノブイリの保養(ナデシタ)にも協力され、萩原ゆきみさんをはじめ毎年福島からの「語り部」をよんで学校に連れていってくれています。鎌仲さんのカマレポにも登場しています。とにかくいつもニコニコと笑っている方でなんとも言えない愛くるしいオーラをもたれている素敵な方です。
 
ボードさんは教会で福祉関係の仕事を専門としている方です。牧師とはまた違った1つの教会の役職でカウンセラーとしての訓練を数年にわたって受け、その後、教会から大阪の釜ヶ崎の「希望の家」に派遣され、7年間にわたって福祉活動に従事。とくにアルコール依存症の方達のケアに奔走されました。「わたし、それで日本依存症になりました」とか言いながら、いまでも1年半おきに2ヶ月ほど釜ヶ崎を訪れてくださっています。次回の訪問は来年秋だとか。
 
今回は、反核キャンプ以降の旅のすべてをコーディネートしてくださった桂木忍さんからの連絡を受けてパウルさんが受け入れを決めてくださいました。ただし「もちろんいいよ、受け入れるよ」と言ってしまってから「予算がなかった!」と気がついたとか。それで昔からの仲間であるボードさんに相談したところ、「では教会関係に働きかけるよ」と言って下さって訪問の全体が決まったとのこと。そんなことから僕はいまもブラウンシュバイクの中心街にある教会の関連施設(少し前まで修道院として使われていた素敵な建物)の一室に泊めていただいています。夏休み期間中で他に利用者がいないのでかなり贅沢に使わせていただいています。
 
さて25日夜の集会はそんなお二人の肝いりで開かれたものでした。忘れられないのはアッセ2から集会場をめざすときにパウルさんに「今日は何人ぐらいこられるのですか?」と聞いた時のこと。「うーん、20人ぐらい」と答えて、暫くしてから「20人来たら嬉しい」と言われます。でも暫くしてからまた「何人であってもそこに来てくれた人が大切なんですよ」と笑われました。「ああ、この感覚、すごくいいな」と思いました。僕もいつもそう思っているからです。
それで車で会場に向かうとはじめからもう20人ぐらいは集まっている。その後にどんどん参加者が増えて最終的には40人になりました。
 
集会が始まり、地元の方がアッセ2の報告をしたあとに、すでに昨日、報告したように参加者からかなり激しい意見が飛び交いました。あとで聞いたところ、あれほど激しいやりとりは最近ではまれだったのだそうです。僕が聞いている限り、アッセ2の今後の運営方針の策定に市民が参加していくことが決まったのだけれど、その約束が後退している。でもその参加の仕方や誰が入るのかなどでも必ずしも人々の意見がまとまっているともいえず混乱もあるようです。また原発からの撤退が決まっている中で、次に残された大きな課題である廃棄物問題へは今ひとつ多くの人々の関心が喚起されていない。それらへの焦り、悶々とした気持ちがあふれているような集会でした。だから「なんで議員たちは来ていないのか」とか「参加者が少ないのはなぜだ」とかの声も繰り返し出されていました。
 
ただこの点をパウルさんと話したら笑いながらこう言うのです。「こうした集まりは年に何回かやっているのだけれど、毎年必ず1回だけ来る人がいてね。それで必ず「どうしてこの集まりはこんなに人が少ないんだ」とかいうんだよ。毎年、必ずね」。「教育の会合では80人来たのに、今日は40人だったという人もいたけれど、そんな単純な比較をしてはだめだよ」。それで僕が「パウルさんは20人来たら嬉しいと言ってましたよね。それに何人来るかではなくてそこにいる人が大事なのだとも」。そうしたらパウルさん、とても嬉しそうに笑って「そうそう。そうなんだよ。あのね、教会ではね、「人が3人集まったらもう神様がそこに一緒にいてくださる」と言うのだよね。数ばかり問題にしていてはだめなんだよ」と言います。横で聞いていたボードさんが「そうそう。その通り」と嬉しそうに笑いました。
 
僕はこういう感覚がとても好きだし、大事な点だと思うのですよね。運動には盛り上がりもあれば盛り下がりもある。それ自身は人知の及ばない側面があります。できるだけ多くの人々に理解してもらおうと心を込めて呼びかけ文やチラシを作ることなど、運動を広げるための尽力は大事ですが、しかし数や盛り上がりばかりを気にしていると、あまり良いことはない。「どうしてこんなに人が少ないんだ」と言う時はどこか「自分は関心の高い偉い人」「来ない人は関心の低いダメな人」という上から目線の考え方に陥ってしまってはいないでしょうか。抜本的には集会や運動への参加は自由なのです。「来なくたっていい」というのも大事な観点だと僕は思うのです。
 
それに僕の経験でも年に1回しか来ない人に限って「どうしてこんなに少ないんだ」なんて言うことが良くある。あるいは運動を始めたばかりの人ほど、「どうして人々はこんなに意識が低いのだ」とか言うことが多いような気がします。そんなとき僕はちょっと意地悪に「だってあなたもこないだ来なかったじゃない?」とか「あなたもこの間まで運動などしてなかったじゃない?」とか言ってしまいます。そこには「だからと言って僕はそのときのあなたを否定なんかしないよ。意識が低いとかも思わないよ」という気持ちも込めています。
 
そもそも、僕などはまあ、稀な例なのです。すべての人が僕のように走り回ったいたらきっと人類はすぐに倒れて滅んでしまうでしょう(笑)。僕の生き方はレッドゾーンまでエンジンをまわし気味ですから。あるホメオパスによればこれは「ヒーロー病」なのだそうです。そう動かないと気が済まないというわけですね。でも誰もがそんなに一生懸命にならないのも種の保存のために大切なのではないと、けっこう真面目に思っています。でも種全体のためには僕のように走り回る特殊例も必要なのでしょう。だから僕が倒れたらきっといまは待機している誰かが僕の代わりに出てくるのだとかも思います。
 
僕のことについては余計だったかもしれませんが、ともあれ「人々の意識が低すぎる」なんて焦らずに、ゴーマンかまさずに、どこまでも淡々と、「悪いことは悪い、危ないものは危ない」と、その時々に自分が知りうる真実を、一生懸命に、心を込めて訴え続けることが大事だと僕には思えます。同時に互いに対しても人々に対しても、おおらかな視座を持ち、ゆったりと歩むのが良いのではないでしょうか。パウルさん、ボードさんと話しながらそんなことを感じました。
 
さてそれで肝心の僕自身のこの集会での発言ですが、主催者の方たちがあらかじめ合間にギターの弾き語りを入れてくれていました。「福島からケムリが吹き出した。チェルノブイリの経験は生かされなかった」という悲しい歌詞を伴った調べでしたが、この音楽で会場のトーンがかなり和らいだように思います。「そうだよな。みんなこの悲しみの前にいまこうやって集まっているのだよな」という気持ちが会場をおおっていったように僕には思えました。
 
僕の話は反核サマーキャンプで行なった「福島原発のいま、日本の反核運動のいま」を短く縮めてきたものでした。これをフラウケさんにテンポよく通訳してもらいながら発言を続けました。多少のアドリブも入れさせてもらいました。アドリブは通訳者には大変なのでいつもは避けているのですが、あらかじめフラウケさんが「大丈夫だからぜひ思ったことを挟んでください」と言ってくださったのでそうしました。ありがたかったです。
 
それで主に日本で福島原発事故後にたくさんのデモが起こっていること、人々の意識が明らかに変わり、覚醒が起こっていること。この結果として各地の金曜デモが250回にもいたっていることなどを話し、さらに「東芝の崩壊、日本の原発輸出のいきづまりは世界の人々の反核デモがひきおこしたものです。だからなお一層、一緒に頑張りましょう」と語り、最後に「この言葉を送ります。Power to the people」と閉めるとすごい拍手がかえってきました。あとからも「とても良かった」という声をたくさんいただきました。この日の集会を熱い拍手のうちに温かく閉めることができて良かったです。
 
同時にこうも思いました。「ドイツには日本より進んでいるところがたくさんあるけれども、でも変わらないところもたくさんあるな。やはり大事なのはいつでも未来の可能性を提示していくことだな」」と。また「やはりパウルさんのような温かさ、おおらかさが最強だよなあ‥」とも。
 
最後にこの日の集会のことが記事に載り、僕の発言風景が紹介されましたのでURLをご紹介しておきます。
僕の隣に立っているのがフラウケさんです。
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明日に向けて(1408)放射性廃棄物処理場問題をどう解決していくのか?アッセ2の今に触れて(ドイツからの報告10)

2017年07月27日 07時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170727 06:30ドイツ時間)

ドイツのブラウンシュバイクからです。この場で2回目の朝を迎えています。
前回、ドイツの放射性廃棄物処分場アッセ2のことを紹介し、見学で地下に潜り込んだところまでお伝えしました。今日はその続きを書きたいと思いますが、坑内の様子やこの問題に関わっているドイツの方たちの思い、同時に日本の栃木県塩谷町での最終処分場建設の動きに反対している人々をも取材した素晴しい動画が送られてきたので先にご紹介したいと思います。2011年に神戸からドイツに避難移住されたドキュメンタリー映画作家の国本隆史さんの作品で、お連れ合いで、今回の僕のブラウンシュバイクでの行動に通訳として同行してくださり、大活躍してくださっているフラウケさんが一緒になって作られたもの。昨夜遅くに送っていただいたものです。11分です。ぜひご覧下さい。
 
Endlager(最終処分場)
国本隆史2017年1月8日
http://www.speakupoverseas.net/endlager/
 
さて映像を見て下さった方にはお分かりのように、坑内は車が十分に通れるような大きさの穴がどこまでも続いており、見学も車に乗って移動しながら行なわれます。
もちろんブルトーザやフォークリフトなどの重機も行き来しています。
500m地点に降り立ってから、暫く歩いて坑内の様子をうかがいましたが、埃っぽい上に熱くてむっとします。時々、気分が悪くなる方もおられるそうですが納得です。閉所恐怖症や喘息などをお持ちの方は入られない方が良いです。
 
少し歩いて見学用の車のあるところまで来ました。後部にそれぞれが持っていた重さ5キロの酸素マスク缶を収納して走り始めます。道は下り坂で250m下の最低部まで続いている。途中で何度か降りて説明を受けるのですが、一見、丈夫そうにも見える坑道が不自然に下から盛り上がっていたり、ひび割れが続いてるところに出くわします。「山が動いてるのです」という説明が。ここには130以上もの空洞が作られていて、その上から重量がかかってくるわけですからいろいろな形でひずみが出続けているわけです。これだけでもここが危険なところで、ここに放射性物質などおいていてはいけないことがよくわかります。
 
あるひび割れのところにはセンサーがつけられていました。ヒビの進行具合をモニタリングしているのだそうです。それでも鉱山の全体像はなかなか把握できないのですが、今後は岩盤に小さな地震動を与え、跳ね返ってくる音波で様子をうかがう3Dセンサーの投入でより詳しく状態を把握しようとしているそうです。
このほか、坑内には大きなコンクリート製作機などもおいてあります。空洞をそのままにしておくと危険なのでコンクリートを流し込んで埋めているのです。その際、現場では塩分を含んだ水を使って作るので特殊なコンクリートが使われているとのことでした。
 
では他の岩塩を採掘した跡の鉱山もそうした難しい作業をしているのかというと、そうではなくて単純に採掘後は水を入れて埋めてしまっているのだそうです。しかしここには放射性廃棄物が入れられてしまい、さらにその部屋への水の浸入が問題になっているわけですから、水で埋める手法が使えない。だから巨大な機器をわざわざ狭いエレベーターで分解して地中深くまで降ろして組み立て、コンクリートを作って流し込まなければならないわけです。そのコンクリートも特殊なもので流れ具合は良いそうなのですが、作ってすぐに使わないと固まってしまうそうで、できるだけ現場近くまでもっていって使わないといけない。とにかくやっかいな仕事です。
 
これに象徴されるように、とにかくここは旧西ドイツ政府の愚かさがぎゅうぎゅう詰めになっているような場です。いやそれは私たち人類全体の愚かさです。「どうしてこんなところに入れてしまったのか」とため息が出るばかりですが、しかし嘆いているばかりではいられない。掘り出すしか道はないのですからそこにまっすぐに解決に向かって行くしか無い。しかし難行でなかなか進まない。
 
ある意味ではここの問題は、日本の私たちからすると私たちが歩まなければならない道の一歩前にある問題だとも言えます。作り出してしまった核のゴミは処理をせざるをえず、処分場も作らざるを得ません。その際、アッセは「こんな処理だけはしてはいけない」ということを教えています。同時に、放射性廃棄物の処理がいかにやっかいで困難であるのかも示しています。そのことを熟慮せず、安易に処理が出来ると考えてしまったことがいかに愚かなことであったのかを示しているのです。その点で僕は原子力の推進を今もなお唱える人々は、必ずここを訪れ、放射性廃棄物の処理をどう進めるのかのきちんとした意見を述べるべきだとも思いました。この道が開かれるまで、使用済み核燃料はいわずもがな、「低レベル放射性廃棄物」であろうともはやこれ以上、ただの1つも作り出すべきではないのです。
 
さて坑内でいろいろと坑道の様子など技術的な説明を受けている際に、どうしても気になったことを聞きました。ここで働いている人々のことです。みていると結構、若い人々も多い。しかも熱い坑内なのでしょうが、けっこう軽装で重機などを動かしていたりします。一番、気になったのがこれらの人々が下請け、孫請け等で働かされていないかどうかでしたが返って来た答えは、基本的にはみなこの作業を進めている会社の社員で、違う会社から派遣されているのは特殊技術の専門家だけだとのことでした。「けっこう給料も良いのですよ」と自慢げな答えも返ってきました。
「日本では原発労働や福島の事故処理の現場は何重もの下請け構造が支配していて、ピンハネが行なわれているのです」と伝えるととても驚いた顔をされていました。
この点ではドイツの方が進んでいる。いやそうではないですね。日本がもの凄く遅れているのです。恥ずかしい限りです。
 
さてこんな風に坑内の説明を受けつつ、車で一番深いところに辿り着きました。そこでセンサーで手の汚染などを調べ、OKが出て、みんなで再度、最初に乗ったエレベーターに乗り込みました。今度は一気に750mから地上に上がります。乗り込むと同じように最初にブルンと横揺れがして、静かに上に上がり出す。そして少しすると急にスピードがあがってかなりのスピードで上昇して行き、わずかな間のうちに地上まで着きました。エレベーターの外側の扉と内側の鉄かごの柵があいて外に出て、太陽の光を浴びるとなんとも言えず心が落ち着くのを感じました。大げさですが「ああ、生きて出られて良かったなあ」とか感じました。
 
そんな私たちの横を、これから潜って行く労働者が通り過ぎました。労働者達は互いに目が合うと「グリュックアウフ」と言い合います。「幸運を祈る」という意味だそうです。aufには「上に〜」という意味もあって「上にもどってこれる幸運を祈ってるよ」ぐらいの意味もあるとか。もともとルール地方の炭鉱などで語られていた挨拶だそうで、鉱山独特のものなのだそうですが、何か深く胸に残るものがありました。
水に浸かりつつある放射性廃棄物が、地下水を汚染し、周辺に被害を及ぼしてしまう前に、なんとか掘り出してどこかに安全管理できる「幸運」を祈らざるを得ないと感じたからかも知れません。
 
こうして坑内の見学を終えて、再びインフォアッセに戻りました。最初に説明をしてくださった職員の方が一緒に地下までもぐって下さり、質問はないかというので、「この仕事をどんなお気持ちでされているのか」と聞いたところ、最初は「考えたことがない」と戸惑っていました。また「ここが危険だといいたいのか」との答えも返って来て、何か批判めいたことを言われたのではと身構えていることが分かったので、「もともとこの愚かなことは昔の人たちが行なってしまったことです。その処理を担わねばならないあなたの気持ちが聞きたい」と言葉を継ぎ足しました。この方が僕よりはずっと若い方だったこともあってなおさら聞いてみたい問いだったのです。
 
暫く考えてから「確かにあまりに愚かなことを前の世代の人々がしてしまったけれど、それを後ろ向きになじることばかりが正しいとは思わない。未来に向けて解決策を考えたいし、そこに面白さも感じる」との答えが返ってきました。それで僕は「過去の過ちを正して行くことはとても素晴しく誇り高い仕事だと思います。感謝します」と述べました。実は心の中で「こんな言い方ではちょっと甘いのかもしれないな」との思いもあったのですが、なんというか若い方がこの場で奮闘していること姿をみていてどうしてもこうした一言をかけたくなってしまったのです。
 
さてお昼前に現地について、説明を聞いて、坑内に潜って、また討論をしている間に気付いたら午後5時になっており、アッセ2を去ることになりました。続けて向かう場は僕をブラウンシュバイクに招いてくださったボードさんやパウルさんが関わられている教会の方達の集会の場でした。どんな集いかよく分かっていなかったのですが、通訳のフラウケさんから、「参加者の中にはアッセ2に詳しい人たちがたくさんいると思います。細かいことでもよく知っています」と聞きました。
実際、会場に着くとアッセ2の説明をした展示物がたくさんおかれている。フラウケさんも「さっきは国側の見解を聞いてきましたが、市民の方達の暴露にも注目してください」とすぐに幾つかを説明してくださいます。ここはドイツ政府のアッセ2対策を監視してきた人たちの場でした。
 
食事をはさんで集会が始まり、長い間、この問題に関わって来た女性からのプレゼンがまずなされました。それが終るとすぐにさまざまな意見が飛び出し、熱い討論の場になりました。「当局は掘り出したものをこの近くにおいた方が安全だと言っているが、そう言いながら結局、ここをまた最終処分場にしようとしているんじゃないのか。信じてはダメだ」という意見。「そもそもこの問題への人々の関心が薄すぎる。ここをなんとかしないとダメだ」という意見。「議員なんてどうだ。選挙の時には良い顔をしているけれど、この会合には誰も来て無いじゃないか」という意見。ただしただちに「ここに一人いるぞ」、「ここにももう一人いるぞ」という声。
「最近、教育の問題でこの地域で集会をしたら女性たちが80人集まった。でもこの問題では40人しか来ていない。どういうことだ」、「人々はもう廃棄物問題は聞き飽きて無関心になってしまったのだ」、「いやそうやって集まっては愚痴を言いあっていても何もならないじゃないか」という意見。とにかく次々とアグレッシブな意見が飛び交い、落としどころが見えないままに話が進んでいきました。
 
この地域の方たちはもともとこの鉱山を放射性廃棄物の処分場に使い始めたときをはじめ、何度も政府が嘘をつくのをみてきた人たちです。日本からはドイツはなんでも進んでいるかのようにみてしまう場合が多いですが、そんなことはありません。ドイツ政府もまた繰り返し嘘をついて来たのであり、その度に人々が立ち上がり、監視を強化し、政府が正しい道を進むことを強制してきたのです。しかしその道は山あり谷ありで、人々の関心の低さに行動している人々が嘆かざるを得なかったことだって数多くあったのだろうし、今もまたそんなそんな嘆きが溢れ出していました。
実は今回のインフォアッセでの当局の説明の中でも、情報の透明化に尽力し、市民との対話を重視していると強調されていたのですが、この場に来てみて初めて、アッセ2の今後のあり方を検討する委員会にいったんは市民が入り、提言などもしてきたのだけれども、その委員会の位置が低められてしまっていることなども知りました。当局側からは理想的な対話的姿勢を貫いていると強調されていましたがけしてそうでもないのです。しかしそこからどう挽回していけば良いのか、どうもみなさん、「これだ」というものに行き着けているわけでもなく、そのフラストレーションが一気に対話の中で表出されているようにも感じました。
 
僕はこの激論の後に講演することになっていたので心の中で「ウーム」とうなっていました。
この熱い討論の後に僕の話はフィットするのだろうか。またこれだけの方たちなら鋭い質問がいっぱいくるだろうけれどきちんと答えられるだろうかとも思いました。「ま、でもまあ、やれるだけのことをやろう。あとはなんとかなるだろう」と思いながら近づく出番を待っていました。
 
続く
 
すいません。当日の記憶を自分の中で再現しながら書いているので長くなってしまいます。本当はこれから編集作業をして文章を短くするのが理想なのですが、今日もすでに執筆時間が過ぎました。いまはこちらの時間で朝の6時45分。今日はあと1時間後にはお迎えが来て、もう1つの処分地である「コンラート鉱山」に連れて行っていただき、再び地中に潜ることになっています。続きはそれを経たあと、また明日の朝に書きます。
あと前回の投稿に幾つか誤字があったのでブログとFacebookのタイムライン上で訂正しました。いつもながらですが申し訳ありませんでした。
 
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明日に向けて(1407)アッセ2ードイツ放射性廃棄物処分場を訪れて(ドイツからの報告9)

2017年07月26日 12時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170726 12:00ドイツ時間)

ドイツのブラウンシュバイクからです。昨日の朝にビーレフィールドから移ってきました。ちなみにこの町の名の由来は「Brunoの村」。ブルーノ家という10世紀から11世紀のザクセン公国の貴族一門でこの村を治めていた人々の始祖とされているザクセン公ブルーノ1世(880年没)から来ているそうです。深い歴史を感じさせてくれるところです。
そのブラウンシュバイクのメインステーションで今回のこの街への訪問のホストを務めて下さっているドイツ・ルーテル教会のボード・ワルターさん一行が迎えて下さいました。通訳を努めて下さるフラウケさんも一緒でした。ボードさんは大阪の釜ヶ崎の教会施設である希望の家に7年間勤めて、アルコール依存症にかかった人々のケアをしてくださったことがあります。いまも1年半おきぐらいに2ヶ月ほど大阪に来られているそうです。「私はワルター。悪だ!と覚えて下さい」なんて日本語で軽快なジョークを言って下さる。
 
さて駅でピックアップしていただいてさっそくこの日のメインの目的であるアッセ2見学のために現地に向かいました。
アッセ2とはどんなところなのか。ドイツ在住のジャーナリストの田口理穂さんが2015年1月9日にWEBRONZAに記事を書いていて、今回、事前学習のために送ってくださったのでその内容から紹介したいと思います。記事のURLも書いておきます。残念ながら登録しないと全文が読めないのですが‥。
 
一度捨てた放射性廃棄物を取り出せるのか
ドイツ・アッセ処分場の大問題、なし崩し的な最終処分場化を考える
WEBRONZA 20150109 田口理穂
http://archive.fo/NNUey#selection-891.0-901.4
 
アッセ2はここブラウンシュバイクもあるドイツ北部のニーダザクセン州にあります。旧東ドイツとの国境に接しています。
ここには数百年前に形成された岩塩層があり、1906年から1964年まで塩の採掘が続けられてきました。採掘跡は60m×40m×15mの空洞が131個密集しています。
もっとも深く位置しているのは750mでその上に幾つもの層が並んでいます。
 
旧西ドイツ政府がこの空洞に着目したのが岩塩の採掘が終った直後で、以降、1967年から1978年まで最下層に位置する13の空洞に「低レベル廃棄物」および「中レベル廃棄物」が廃棄されました。放射性廃棄物の入ったキャスクが12万5787個、約4万7千立法メートルも捨てられています。
しかももともとは研究用との名目で始まり、医療用の放射性廃棄物を実験的に持ち込み、いずれは取り出すということだったのに、いつの間にかなし崩し的に最終処分場化してしまったそうです。しかも最初はキャスクを丁寧に積み上げていたものの、効率が悪いということで15mの高さから重機で投げ落とすようになってしまいました。
しかしあまりの杜撰さに周辺住民が立ち上がって訴訟を起こし、1978年に放射性廃棄物の持ち込みが中止されました。
 
その後、長らく放置されていたのですが、2008年にここに1日に12000リットルもの水が流れてこんでいることが発覚。水が放射性廃棄物に触れ、地下水を汚染すると大変なことになるため大スキャンダルとなりました。このためドイツ連邦政府が調査を行い、やがてすべてのキャスクを取り出すことを決定。2009年から研究を開始し、現在も取り出しに向けた作業や研究を続けています。‥ここまで田口さんの記事、および現場での取材に基づいて書いてきました。
 
さてこのアッセ処分場に昨日、何人かで訪問し、実際に岩塩鉱の中に潜り込んできました。
まず連邦政府放射線防護庁がアッセ2に隣接した場に建てた「インフォアッセ」で職員の方から説明を受けました。
これは同庁が廃棄物の取り出し過程の「透明化」を目指して作った施設で、まずはここでアッセ2の歴史、現状などのプレゼンを受けました。
 
アッセ2で掘られていたのは塩とともにカリウムで、もちろんそのころは誰も放射性廃棄物のことなど考えていなかったことが強調されました。
1967年より当時の西ドイツ政府が放射性廃棄物の投棄を開始したわけですが、職員の方は「今から考えればまったく間違った考えでした」と語りました。そして水が流れ込んでしまっているだけでなく、地中深く掘っているわけですから山の圧力がかかり、全体が動いてもいてその面でも危険なこと、だからこそ連邦政府が取り出さなければならないと決定し、法律にも書き込まれたことが明らかにされました。
 
ただしどう取り出すのか、いかに取り出すのかはまだ決まっていません。2つの大きな問題が立ちふさがっています。1つはどう取り出すのか技術的に未解明なことが多いこと。もう1つは運び出したものをどこに持って行くのかが決まっていないこと。このためこの過程をできるだけ透明化し、市民にも見えるようにし、どこに持って行くのかについても専門家だけでなく市民との対話も重視して決めて行こうとしているとのことでした。
 
ただし施設側としてはあまり遠くまで取り出した廃棄物を運びたくはない。遠くに運べば運ぶだけ、いろいろなリスクが広がると考えているからです。
しかし近ければ近いほど住民の懸念や反対の声も強い。この点からも運び出す先の選定ができていないのだそうです。
このためいまは少しでも状態を安定化させることに力を注いでいるそうです。特に重要なのは流れ込んでくる水の管理でいまは12000リットルのうちの9割以上を途中で受け止めてポンプアップして運び出すことに成功しているそうです。
 
しかし一定の部分が防ぎきれずに放射性廃棄物の入った「部屋」に入ってしまっている。確実に分かっているのは1日20リットルが防げずに入り込んでしまっていることだそうですが、こうした水の多くは岩塩鉱にできたひび割れを伝って流れて来ていて、その全貌が掴めてはいないことも素直に紹介されていました。
また放射性廃棄物についても、運び込まれた記録のすべてがきちんとなされているわけではなく、多くのことが把握できていなくて、これらもまた調査や研究の対象となっているそうです。
 
さてこれらの丁寧な説明を受けてからいよいよアッセ2の中に入ることになりました。
インフォアッセから出て、処分場のゲートをくぐり、まずはセキュリティチェック。パスポート調べと身体検査が行なわれ、入坑証が渡されました。
その後、施設側が用意した服、下着、靴に身ぐるみ着替えました。内部は30度から40度と高温だそうですが、渡された衣類は綿で分厚くつくられたものでした。
ヘルメット、懐中電灯の他、坑内で火事に遭遇した時等に使用する酸素マスクも渡されました。酸素の供給機とセットになっていて5キロもある缶に入っています。使用法を一通り聞いて、一人一人が肩に担ぎました。さらに被曝量を記録するためのドーズメータも一人一人に渡されました。
入坑前にサービスで記念撮影を行なってくれました。カメラを前に思わず笑顔を作ってしまいましたが、あとでみてなんとも言えない写真になってしまった。まるでテーマパークへの入園記念みたいになってしまったからです。
 
さて坑内に入る前に水分をしっかりととり、いよいよ中に向かいました。
まず深いところまで人々を送り込む大きなエレベーターの前に立ちました。現在4つの出入り口がありますが、ここにある2番目のものが一番大きなもの。人間が10数名は入れる大きさですが、実は内部にある重機もみなこのエレベーターで分解して降ろし、現場で組み立てているのだそうです。同時にこのエレベータの穴が重要な酸素供給源にもなっているとのことでした。
 
エレベーターに乗り込むと、最初にブルンと横揺れがし、静かにおり始めました。しかし数十mくだると一気にスピードがあがり、まるで奈落の底に落ちて行くように降下していきます。エレベーターは鉄のかごのようなもので、中から掘られた岩盤が見えている。そんな状態の中、どこまでもどこまでも降りて行き、500mぐらいの地点でようやく止まりました。シャッターが開き、鉄かごの扉があけられて一歩踏み出すとそこは岩塩坑の中。幾つかの重機や車が走っています。「なんだこれは。この世とは思えない。映画の中みたいだ」と思ったのが第一印象でした。
 
続く
 
さて残念なことに今日も執筆可能時間が過ぎてしまったのでいったんここで切ります。この続きはアッセ2の現場の様子と、見学が終ってからの職員の方との討論、さらにその後にこのアッセ2を監視している市民グループの集会に参加し、運動の方向性をめぐるかなりの激論にも遭遇したこと、しかもその激しい論争のあとに僕が紹介されて講演したことなどを次回に報告します。「この状態にマッチできるかなあ」とかなりドキドキしながらの講演および質疑応答でした‥。
 
*****
 
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明日に向けて(1406)放射線被曝の被害は長い間、隠されてきた(ドイツからの報告8)

2017年07月25日 06時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170725 06:00ドイツ時間)

ドイツのビーレフェルトからです。ドイツに来てから11回目の朝を迎えています。
夕べはアンゲリカとアルパーの家に何人かの方が集まり、楽しい食事会となりました。
二人の家に集まってくるのはトルコ関係者が多く、会話は主にトルコ語、時々ドイツ語になります。プナールさんがときどき通訳してますがもちろん大半は分からない。でも楽しさだけは伝わってくるものですね。
 
ただしいまのトルコはちょうど一年前に起きた現政権に対する「クーデター」と、その瞬く間の鎮圧のあとのもの凄い数の逮捕、職場からの追放など、弾圧の嵐が吹き荒れていて、話はそのことにも及びました。訪ねてきてくださった方の中にも、学者さんで、ただ平和を求める宣言にサインしただけで「テロリスト」扱いを受けてしまい、入国ができなくなっている方もいました。
トルコの民主主義と平和のために、弾圧が少しでも弱まるために何かできることを考えたいなと思います。もちろんそれで自分が入国できなくなることのないように知恵を絞らなくてはなりませんが‥。
 
さて今日は朝8時半の電車でブラウンシュバイクに向かい午後にアッセ2の見学を行ないます。すでにこちらの新聞で報道されている行動です。放射性廃棄物の処分場ですが、水が入り込んで大変なことになっているところです。日本でもテレビニュースで紹介されたことがあるのでURLをここに示しておきます。2012年3月13日に公開されています。
 
このアッセ2への訪問のあとに講演会にのぞみます。内容は反核サマーキャンプ初日に行なったプレゼンを半分に縮めて再編集したもの。
原子力災害対策などはのぞき、おもに福島原発と日本の脱原発運動のいまについてお話ししようと思います。これまたあらかじめ新聞で宣伝されているので、とにかく頑張らないと。まあ、いつも頑張るといえば頑張っているのではありますが。
 
なお今回のブラウンシュバイク訪問に向けて、さらに地元紙よりコメントを求められました。
「広島、福島を経て守田さんが放射線被ばくについて思うことを書いてほしい。報告ではなくどちらかと言えば個人の意見が前面に出た記事を」とのことだったので以下の記事を書きました。どこまで要望に応えられたか分からないのですが、ともあれこれもドイツ語に翻訳していただいています。多少、短くなると思うのですが写真とともに掲載されるそうです。ありがたいことです。

今日のアッセ2や講演会での通訳もこの文章の翻訳もフラウケさんという方がなさってくださっています。お連れ合いはドキュメンタリー映画作家の国本隆史さん。二人とも鎌仲さんの「カノン」のドイツ語字幕入れですごく頑張ってくださったのだそうです。お二人は 3.11 後、赤ちゃんを連れてフラウケさんの故郷であるブランシュヴァイクに移住してこられたとのこと。率先避難者なのですね。通訳、翻訳、そして避難してくださったことへのお礼を伝えなくては。

新聞へのコメントですが、表題にもあるように僕が一番述べたかったこと、多くの方に知って欲しかったことは、被曝影響が本当に長い間、隠されて来て、いまなお続いているということです。その上ですべての核をめぐるひどいことが繰り返されて来たのです。

このことを僕に気がつかせてくれたのは、3月に亡くなられた肥田舜太郎先生と、『隠された被曝』という画期的な本を書かれていた矢ケ崎克馬さんでした。福島原発事故後のことでした。僕はこれをベースに僕なりの放射線防護の活動をくみ上げてきました。「とっとと逃げる」ことを基軸にした篠山市での原子力災害対策への取り組みもその一つです。記事ではここまで触れらませんでしたが、僕はいまも核と放射能の問題の核心はここにあると確信しています。この確信をドイツのより多くの方たちとシェアできたら嬉しいです。以下、記事についてお読みください。
 
*****
 
放射線被曝の被害は長い間、隠されてきた

福島原発事故が起こったとき、私はすぐに東日本の人々に「逃げろ」と発信を始めました。「もし原発事故が起こったら日本政府は人々をきちんと逃がしてはくれないだろう」と確信していたからです。私は「原発が壊れたら自分の近くならすぐに逃げる、遠くなら逃げろという情報を出す」と決めていました。

これに対して放射能の危険性に関する解説は、専門家が行なってくれるだろうと思っていました。私は原発の構造的危険性については知っていましたが、放射線物理学などを専攻したわけではないので、この仕事は専門家に託そうと思いました。ところが幾ら待っても専門家からの解説が出て来ませんでした。それどころか政府にすり寄った科学者ばかりが表にでてきて「放射能のことは心配しなくていい」「かえって少しは浴びた方が健康にいいぐらいだ」などという解説が出始めました。公衆に対する被曝許容の限度値の年間1ミリシーベルトを何十倍、何百倍もする地域がたくさん出現したのに、なお政府は人々を逃がそうせず、これを批判する科学者もほとんど出てこずに唖然としました。

しかも長崎大学から福島に乗り込んだ山下俊一氏という科学者が人々にひどい嘘をつき続けました。彼は「福島原発から出てくる放射能はチェルノブイリの1000分の1にもならないので心配はいらない。マスクもする必要は無い」「放射性セシウムは沸騰したお湯をかければ蒸発するので大丈夫」などと言ったのです。さらに「一番いけないのは放射能を怖がることだ。そのほうが健康に悪い。母親が心配を深めると子ども達の精神に悪い影響を与える」とすら強調しました。

もちろん「そんなのは嘘だ」と思う人々もたくさんいましたが、「福島は安全だ。マスクなどするべきではないのだ」と思いたい人々もたくさん出て来て、あちこちで衝突が始まり、コミュニティやの家庭の中に亀裂が生まれました。

このひどい状態を打ち破るために、私は猛烈に放射線被曝に関する研究を開始しました。とくに把握しようとしたのは、なぜこんなにひどい嘘が出されるのかでした。それで見えて来たことは、放射線被曝の危険性をひどく過小評価することは広島・長崎への原爆投下後に、アメリカによって組織的に行なわれ、現在まで続いているということでした。

原爆投下後、すぐにヨーロッパの科学者達から、「アメリカが使った兵器は次世代の人々をも傷つける非人道的なもので即刻廃棄すべきだ」という見解が出されたからです。アメリカはこれを押しつぶさなければ核戦略を維持できませんでした。そのために被爆者の調査を独占的かつ排他的に行ない、本当の情報は秘匿して、被害が小さかったかのように描いたのです。そのことでもっとも騙されたのは実は被爆者でした。多くの人々が病で苦しみ、死んでいきましたが、その多くが「その死は放射線のせいではない」と宣告され、誰も何も償われませんでした。

同じことは数々の核実験や原発事故の後でも行なわれました。たくさんの人々が深刻な被害を受けたのに無視されました。いや実はこれらは原爆投下前から始まっていました。ウラニウムを鉱山から掘り出す過程で、多くの労働者が被曝し、周辺に放射性汚染物がまきちらされましたが、そのほとんども無視され続けました。「放射能を気にしすぎることの方が身体に悪いのだ」というフレーズもどこでも使われ続けました。

とても恥ずかしいことですが、私は17歳のときからアクティヴに行動してきたものの、やはり騙されていて、この嘘の体系を十分に暴露しきれずにいました。だからこそ私は福島原発事故後に、専門家からまともな見解が出されると期待してしまったのです。私は被曝の危険性についてきちんと見抜けていませんでした。それに対する痛烈な反省を胸に私は人々を守ろうと奮闘しています。

今回、ドイツでWISMUTのウラニウム鉱山跡地を見学してこの確信を深めました。ここでは旧ソ連のためにウランが掘り続けられましたが、同じような被害の無視が続けられました。当時、米ソは激しく対立していましたが、しかし放射能の危険性に関してだけは対立していなかったのです。双方ともに「多少の被曝など心配するな」と語ってたくさんの核実験を行なったのですから。

そのため被爆者は世界中に生まれてしまいました。いやみなさん、核実験を考えるながら、私たち全体が被爆者なのです。私たちは誰もが被曝させられています。このことへの怒りを胸に私たちは核問題を捉え直し、このひどい歴史を転換すべく行動すべきです。未来世代に少しでもきれいにした地球を渡すためにともに尽力しましょう。

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明日に向けて(1405)アンゲリカとアルパーの家にいて明日からブラウンシュバイクを訪問します!(ドイツからの報告7)

2017年07月24日 12時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170724 12:00ドイツ時間)

昨日午前10時に反核キャンプ地を発ち、プナールさんともに電車を乗り継いでビーレフェルトという町にやってきました。
駅でIPPNW(核戦争防止国際医師会議)ドイツ副代表のアンゲリカ・クラウセンさんとアルパー・オクテムさんに迎えられ、お二人の家に泊めていただきました。お二人との出会いは2014年にはじめて原発問題でドイツ・ベラルーシ・トルコを訪れたときに始まります。
 
アンゲリカさんとはベラルーシのミンスクからゴメリに向かうバスの中で隣り合わせ、この地がかつてナチスが侵攻し蹂躙した土地であることをお聞きしました。なんとも忘れられない討論でした。そしてベラルーシの人々が催してくれた歓迎会のときにこのことを彼女が発言するのを聞いてとても胸を打たれ、あとでそのことをドイツの方たちに告げに行きました。そこからさらに仲良くなったのですが、夕べ、僕がその時に「若い時に成田闘争に参加していた」と話したことが、彼女が一番、僕を信用した理由だったのだと聞かされ、なんだか嬉しく思いました。
 
さてこのベラルーシ訪問のあと、ドイツに戻って国際医師会議に参加しました。この場で僕ははじめてアンゲリカの夫であるアルパーに出会い、この国際会議の後にヨーロッパアクションウイークの一環として、彼に連れられてトルコを訪問したのでした。でもこの一連の旅のとき、僕は最初からすっかり舞い上がってしまって、毎日、毎晩、ろくに休みもとらずに記事を書き続け、トルコにいくころには腹痛に悩まされてほとんど食事ができなくなっていました。便秘も始まってしまい、イスタンブールでの初めての講演はおしりに鎮痛剤をうってもらってから行いましたが、途中で激痛が襲って来て冷や汗をだらだら垂らしました。その後、レストランでの食事の際も、ソファーに横になることしかできず、結局、そのまま病院に連れて行ってもらって一泊しました。僕のトルコ訪問初日の夜は病院で迎えたのでした。
 
プナールさんともこのときにはじめて出会いました。はじめてトルコに行くにあたって通訳がいないことが大問題だったのですが、プロの通訳である彼女が彗星のように現れて来てくれたのでした。以来、彼女は通訳も担うアクティヴィストとして、同じチームの仲間として何度も各地で行動をともにし、今回のキャンプも初日から最後の日まで一緒に過ごしました。素晴しいチームワークを作り出せていると自負していますが、しかし最初のトルコ訪問のときには彼女にもとて心配をかけてしまいました‥。
 
特に僕をトルコに連れて行ってくれたアルパーには気をもませてしまいました。彼は医師でもあるので痛み止めや抗生物質などを手渡してくれました。
しかし僕はそのときは抗生物質は避けたかったので断り「とにかくどんなに腹が痛くても自分はしっかりと講演をするから大丈夫だ」と語ったのですが、アルパーは「もちろん君はサムライだからそうするだろう。そのことはよく知っている。でも自分も生涯を医師として過ごして来たから、苦しんでいるものをみて何もしないわけにはいかないのだ」というのです。それで幾つかの薬をありがたくいただくことにしました。
 
ともあれ最初の出会いがそんなことになってしまったので、以来、僕はトルコにいくと必ず人々に「守田さん。体調は大丈夫ですか?」と聞かれるようになってしまいました。なんか変な感じで有名になってしまった(笑)。「いやあ、もう本当に元気です」と答えると人々はニヤニヤと笑ってくれます。「若気の至り」ですね。あ、もうちっとも若くなんてなかったのですが。
 
さてさて、今日はこれからアンゲリカたちとビーレフェルとの町の観光や買い物に出ますが、明日からは三日間、ブラウンシュバイクという町を訪れます。
そこでアッセ2、コンラート坑道など、放射性廃棄物の処分場の見学をします。また二つのグループに迎えていただいて短い講演もします。
どんなことになるのかな思っていたら、なんと当地の新聞に僕の訪問のことが載せられました!驚きです。こんな風に迎えていただいてとても嬉しいです。
記事のアドレスをご紹介しますのでご覧下さい。
 
なお今回のこの反核キャンプ後のドイツ各地への訪問の旅は、ドイツ在住の桂木忍さんが素晴しくコーティネートしてくれているのですが、彼女がこの記事を日本語訳してくださったので末尾にそれもご紹介します。
ともあれさらにドイツの方達との交流を続け、反核の連帯の環を少しでも広げてきます!
 
*****

日本人ジャーナリスト、我が地域を訪問

日本の京都市から、ジャーナリストの守田敏也が我々の地域を訪問する。

京都市は日本では歴史的に重要な町で、794 年から 1868 年まで天皇の居住地であり(京都 とは文字通り「帝の都」という意味である)、現在では京都府の府庁所在地である。フクシ マから京都市は南西に約 520 キロ離れて位置している。

守田敏也のジャーナリストとしての主要テーマは「被ばくリスク」である。広島での被爆、 福島での被爆に加え、原発による被ばく全般をフィールドとしている。このテーマについて 守田は自身のブログや書籍で数多くの執筆をし続けている。

守田は今回、州教会の「日本学習会」からの招待を受け、 25 日から 27 日の間我が地域 を訪問する。アッセIIとコンラートの坑道見学に加え、当地の市民団体 Aufpassen  Biss と の企画も予定されている。

もちろん、フクシマの最新情報も引っ提げている。25 日の 19 時から公民センター『フレン ドシップ』にてフクシマについて、そしてこれにかかわる彼自身のジャーナリストとしての 個人的な活動について報告することになっている。

現在、守田はライプチヒ郊外での国際反核キャンプに参加中で、その後ビーレフェルトに移動し IPPNW の代表者と会談、その後日本への帰国前にブラウンシュヴァイクに来る予定である。
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明日に向けて(1404)ドイツで作った環を世界へ(みんなでパリにもいきます!‥ドイツ反核キャンプの報告6

2017年07月23日 07時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170723 07:00 ドイツ時間) 

ドイツ・デーベルンで開催されてきた反核サマーキャンプ、とうとう今日が最終日です。
キャンプではとてもたくさんの収穫がありました。一つには何と言ってもいろいろな国の方と仲良くなったことです。
参加はスウェーデン、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、ラトビア、ロシア、ウクライナ、トルコ、オーストラリア、インド、アメリカそして日本からでした。毎日、各国で「核」をなくすために奮闘している行動がシャワーのように紹介され、本当にたくさんのことを学びました。
同時にたくさんのあらたなリンクを作り出せました。帰国後に頑張って連絡をとっていくつもりです。
 
地元の新聞にも記事が掲載されたのでご紹介しておきます。
ただしタイトルはどこをどう間違えたのか「反核の活動家たちがハンガーストライキを実行」となっていて、現場では「なんじゃこりゃ」ともなっています。
キャンプでは毎日、とても美味しいビーガン料理が提供されていてみんなでパクついているからです。
「さあみんな、この料理を食べたら次の食事まではハンガーストライキだからね」などといって笑い合っています‥。
 
さて、今回のキャンプ、報告の一つ一つがとても印象的だったのですが、昨日、プレゼンされたフランス南部での行動もとても刺激的でした。
南部にウラニウムに関する施設があるのですが、あまり知られていなくて長い間、反対の取組みもなされたことがなかったそうです。
ところが福島原発事故後ににわかに周辺の人々がこの施設を問題視しはじめ、3月19日には施設の前での初めての集会が開かれました。60名ぐらいでした。
さらにここから低レベルの放射性廃棄物が500キロぐらい離れた核施設にトラックで運ばれているのを阻止しようと道路を占拠する抵抗が行われました。
 
その全体がビデオで撮られているのですが、警察のオートバイに先導されたトラックが交差点で止まると同時に、草むらに隠れていた人々がわらわらと出て来て、障害物をおき、トラックの前に寝込んで動けなくしてしまったのでした。やがてかけつけてきた警官隊がごぼう抜きをはじめましたがみんなで懸命に抵抗。およそ2時間にわたってトラックを止めることに成功しました。ただしけが人は出なかったものの、参加者一人が警察に逮捕されたそうです。
この行動のためにこの施設からのトラック輸送は中止され、駅からの鉄道輸送に変えられました。ところがこのレールの上にも人々がわらわらとあつまってきて妨害物をたてこの時も数時間にわたって輸送をとめたそうです。そんないきいきとした動画に対して、ロシアからの参加者がやんやの拍手を送っていました。みんなニコニコしてみていました。
 
プレゼンをしてくれたフランスの方と後で話したら、フランスも福島原発事故以降、劇的な変化が起こったというのです。
この施設に対しても行動が顕著なように、福島原発事故前は見過ごされていたことにフランス人が目を向けて取組み始めたのだといいます。
僕が「福島原発事故後、世界全体が変わったのですよね」と言うと、「僕もまったくそう思う」という答えが返ってきました。
これまで何度も多くの方とかわした会話なのですが、それをフランスの方とできたことがなんだかとても嬉しく思えました。同時にだからこそ、いま、核をなくすための世界的な連携をどんどん強めていかなくてはと思いました。
 
同時にこの世界的な連携のためにも、今回のキャンプで僕にとって重要だったのは、ウラニウム鉱山をはじめ、核に関するすべての施設、体系との対決を、世界的な規模で行って行く必要があることを強く感じられたことでした。
福島原発事故以降、僕の活動は原発問題を大きな軸として来ました。それ自身は当然のことだったと言えます。
しかし今回、ドイツのウラニウム炭坑跡地を訪れて、ウランが掘り出され、核兵器や核燃料が作られ、使われ、廃棄される全課程、しかもその間に繰り返されるさまざまな人権侵害と汚染の総体が「核」問題であり、それが世界中で行われて来たことを痛感しました。
 
その全体系に対して各国各地で人々が立ち向かっているのですから、何よりもその連携を作り、強化し、一緒になってひとつひとつの課題を成功裏に解決して行くことを目指すことが大事だし、何よりその先に、世界の、人類の、新しい何か、新しい展望が見えてくるように思えるのです。
そのために尽力しなければならないし、したい!と強く思いました。
 
さてこの日はキャンプを主催したドイツ人のFalkさんからNuclear Heritage Networkの説明がなされました。
 
ネット上に素晴しいページを立ち上げていて、各国の反核活動の情報を集め、発信しています。すごい情報量です。
午後になってこのネットワークの翻訳チームの形成のためのミーティングが行われたのですが、僕はここに参加し、英語と日本語の間の橋渡しの役を買って出ました。
ネットワークは英語を軸にしています。世界の人々がアクセスするのにやはり英語が一番便利だからです。
でもこのリンクを見ても「英語を読めないからぜんぜん分からない」という方もたくさんおられると思います。実は10年前ぐらいの僕もそうでした。英語で情報が書かれているだけで、もう諦めていたのです。しかし「今後、必ず世界はもっと近くなる。世界的な連携が必要になる。だから英語を勉強しよう」と思い立ってコツコツと学んで来たのですが、やはり誰もがそうすることはできない。翻訳や通訳がとても大事です。
 
それで翻訳チームに参加することにしたのですが、具体的にはこのネットワークが3ヶ月に一度出している核問題に関するニュースを日本語に翻訳し、反対に日本で起こっていることについての記事を英語で書くことを担うことになりました。同じことがトルコ語、ヒンディー語、ロシア語、フランス語、ドイツ語でもなされていきます。各国の言葉に変えて情報を発信して行ってこそ、より多くの人々に情報が届くのです。
僕にとってはこれに参加するのは自分の英語のトレーニングのためでもあります。今回もたくさんの素晴しいプレゼンを聞くことができましたが、僕の英語力はまだまだ低くて理解できないところも多い。まだまだ会話にもついていけません。この状態を脱してより高いレベルでの交流ができるようにするためにもこのタスクを積極的に担おうと決めました。頑張ります。
 
同時に、少し前の日に何人かで「11月2〜4日にパリで行われる反核世界社会フォーラムに、ここに参加した各国のメンバーで一緒に参加しよう。少し前に集まって一緒に行動しよう。そのためにクラウドファンディングなどを立ち上げ、国際的なキャンペーンのもとにそれぞれの派遣費用も工面しよう」と決めました。
中心になるのはインド人のクマールさんとアメリカ人でディネ(ナバホ)のレオナさん。スカイプで会議などしながらキャンペーンを立ち上げて行きます。
 
世界社会フォーラムは2001年にブラジルのポルト・アレグレで開催されて以降、世界の中で広がり続けて来た貧富の格差や社会的不公正に終止符をうち、世界を変えていこうとしてきたものですが、2011年以降、核の問題にも取り組み出し、昨年2016年には東京でも行われました。
これが今年は11月にパリで行われるのですが、4月にトルコに赴いた時も一緒に参加したフランスの方たちからお誘いを受けていました。
ただ全体像がよく分からなかったのですが、今回、取組みの概要が分かったし、またキャンプで主催者側にいるフランスの方とも出会えました。
まだどういう形での参加になるか分かりませんが、ぜひこのキャンプの場で作り出されたチームの一員としてパリの行動にも参加したいと思っています。
 
ともあれ核問題は人類共通の課題です。
先にも述べたようにこの問題との格闘の中から大きく切開かれている何かがあると強く感じています。だからこの道をさらに進みます。
そんな思いを胸に、僕もあと数時間後にこのキャンプ地を後にします。
 
***
 
この一連の活動へのカンパをお願いしています。
今回は自腹で渡航してきています。また2週間の行動になるので資金も必要です。
賛同していただける方は、よろしくお願いします。
 
振込先 郵貯ぎんこう なまえ モリタトシヤ 記号14490 番号22666151
他の金融機関からのお振り込みの場合は
店名 四四八(ヨンヨンハチ) 店番448 預金種目 普通預金
口座番号 2266615
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明日に向けて(1403)篠山市の「原子力災害対策ハンドブック」が完成しました!静岡の講演動画も紹介します。

2017年07月22日 09時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170722 09:00 ドイツ時間) 

ドイツのデーベルンからです。
キャンプはいよいよ終盤を迎えており、昨日21日は金曜日だったせいかけっこうたくさんの方が帰っていきました。
ウクライナから家族などで来ていた7人、オーストラリアからかけつけたカップル、コルブレインさん、レオナさんをはじめ本当にたくさんの方が手をふりながら帰っていきました。
「なんか淋しいなあ」と残された面々。今の人数は20人弱ぐらいかな。
今日はフランスでの反原発運動についてのプレゼンを受けた後に、反核ネットワークや翻訳チームの結成などについて話し合います。僕も英語→日本語の翻訳を担おうと思っています。自分のトレーニングのためにもです。
 
ところで今回はキャンプの紹介をちょっと離れて、日本からの嬉しいニュースを紹介したいと思います。
篠山市の「原子力災害対策ハンドブック」がようやく完成し、篠山の各世帯に市役所から郵送されたのです。
同時にホームページにこのことが載せられて、ハンドブックのPDF版もアップロードされました。
ぜひぜひ以下のページをご覧になり、ハンドブックをダウンロードしてください。
 
このハンドブックは一年近い歳月をかけてつくってきたものです。
僕が書いた原稿を会議で繰り返しもんでもんでもんでここに辿り着きました。
マンガを書いたのは、僕の友人の漫画家のたけしまさよさん。京都の市民運動のチラシ作成でもいつも力を発揮していただいている方ですが、わがこととして心をを込めて取り組んでくださり、原稿に込めた「魂」を見事にマンガにしてくださいました。
これにレイアウターとして、ますいあけみさんが参加してくださり、全体をシェイプアップしてくださいました。この作業もとても見事でした。
 
とにかく「力作だ」という強い自負があります。検討委員会で時間をかけた丁寧な討論を重ねた上での成果物であることも強調したいです。
参加者の意見がふんだんに盛り込まれて、まさに検討委員会全体の意見として文章が練り上がりました。
もちろん市役所の職員の方たちや消防団の方たちの意見、思いも盛り込まれています。
それもあってここにはたけしまさんとますいさんのクレジットは入れてありますが、僕の名は入っていません。もちろんそれで当然なのです。
 
みなさま。ぜひこのハンドブックを拡散して下さい。とくに住まわれている地域の行政の方や議員さんにどんどんまわしてください。
メディアの方にも伝えてください。ともあれあらゆる手段を使って広げて欲しいです。こうした活動が可能なことも含めて伝えていただきたいです。
 
さて今回はもう一つの紹介を行います。
7月2日に僕が静岡市で行った「原発からの命の守り方」と題した講演の録画です。篠山市のハンドブックのことにも触れています。
「気になることを動画で伝える」さんの名でアップされているのですが、すでに5400回も再生されています。2時間という長いバージョンなのにです。
これまで舞鶴の田中ユージさんはじめ、たくさんの方が僕の動画をアップしてくださいました。とくにユージさんは素晴しいショートビデオを何本も作って下さいました。それらはだいだい数百回は見られていてとても嬉しく思っていました。
ところが今回は一桁上で回数が延びています。驚くとともに素直に嬉しく感じています。なんか「流れが変わった」とも感じています。
末尾に紹介の文章とともに感謝を込めて掲載させていただきます。
 
さて今日もこれからキャンプのプログラムに参加します!
 
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前半_58分32秒 どこから聞いてもわかり易い!
守田敏也講演会原発からの命の守り方~福島の教訓から学び、明日の暮らしに繫がる一歩へ2017年7月2日静岡市

前半 58分32秒 https://www.facebook.com/gomizeromirai/videos/1722213984485398/
後半 58分01秒 https://www.facebook.com/gomizeromirai/videos/1722248151148648/
質疑 42分48秒 https://www.facebook.com/gomizeromirai/videos/1722258907814239/
資料 ダウロードアドレス
パワーポイント資料 https://yahoo.jp/box/vyiNDf
講演会事前質問回答 https://yahoo.jp/box/dVb-_N
守田敏也プロフィール_独仏渡航カンパ要請 https://yahoo.jp/box/oqpmYR

以下のリンクからも視聴できます
講演全体 1時間51分34秒 https://youtu.be/TUUCX2qGlhc
質疑 42分48秒 https://youtu.be/kEdKrMzhJHQ

 
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明日に向けて(1402)コルブレイン博士のこと(ドイツ反核キャンプの報告5)

2017年07月21日 07時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170721 07:30 ドイツ時間) 

ドイツのデーベルンからの報告の続きです。
17日にスタートしたキャンプが5日目を迎えました。昨日もたくさんのワークショップが開かれました。
相変わらずというか、どんどん情報が入ってきてアウトプットがとても追いつきませんが、とくに印象深かったことから報告を続けようと思います。
 
今回、とりあげたいのはアルフレッド・コルブレイン博士のことです。(ちなみにこれまで僕は彼のことを「ケルブレイン」博士と表記してきましたが、日本で幾つか書かれている博士に関する記述が「コルブレイン」博士となっていたので、あらためます。なおご本人に聞いたところ、「イー」と「ウー」の口をしてカ行の音を出すと正しい発音になるのだとか。日本語にはない発音なので表記が出来ないのです)。
 
博士に初めてお会いしたのは2014年2月末から3月にかけてのドイツとベラルーシへの旅でのことでした。
フランクフルト郊外でドイツ、ベラルーシ、日本の医師たちを中心とした国際医師会議が開かれることになり、参加した時のことです。
ちなみにこのときが僕の原発問題での初めての海外訪問で、この会議のあとに初めてトルコも訪れることができました。
 
国際医師会議の方は、まずドイツと日本の医師たちを中心にベラルーシに向かい、ミンスクとゴメリを訪問することから始まったのですが、このときにご一緒したドイツ人の一人がコルブレイン博士だったのです。物理学を専攻されている方です。ここから親しみを込めてコルブレインさんと呼ばせていただきます。
さてそのコルブレインさん、とにかくいつもニコニコ笑っている。そして気配りがすごいのです。
 
移動中の空港などでささっとお菓子を買ってみんなに配ったり、誰かが困っているとすぐに近寄って助けたりされます。ホスピタリティが素晴しい。
この段階ではどういう方か分かっていなかったのですが、驚いたのはミンスクのベルラド研究所にみんなで見学にいったときのことでした。
ベルラド研究所はベラルーシー科学アカデミーの核エネルギー研究所所長だった物理学者のワシリー・ネステレンコ博士が立ち上げ、各国の民間団体の援助を受けながら、ベラルーシの人々を被曝から守るために奮闘してきた機関で、このときも中に入れていただいてレクチャーを受けました。
 
すると机の上に、この研究所を訪れた日本の方の著書や関連書籍がずらりと並んでいる。
ああ、あの方もあの方も来られたのだなあと思いつつ、書籍を見ていたら、コルブレインさんがその中の一冊を嬉しそうに取り上げるのです。
題名は『チェルノブイリ被害の全貌』。岩波書店から翻訳が出ている本で、ロシアなどの科学者たちが隠された被害の全体像を書き表した画期的な書です。
https://www.iwanami.co.jp/book/b263240.html
 
日本語で書かれた本をなぜ嬉しそうに見ているのかなと思ったら、たまたま横に座った僕にペラペラとページをめくって見せて、「この図とこの図とこれね、僕が提供したんだよ」というのです。「これもだ、これもだ」とどんどんページをめくる。「ええ、そうなのか」と大変、驚きました。
コルブレインさんは疫学的な手法で研究をされていて、日本の厚生労働省が出している「人口動態」などの全国的な健康調査データを使い、福島原発事故後に東日本で死産や流産が増えていることを導出されていて、この書物の作成にも協力されていたのです。それらを聞いて大変、感動しました。
日本から一緒にいった医師たち(高松さん、入江さん、山本さん)にも「君たち、僕の疫学の方法を使いなよ」とか言っていました。
 
このとき僕はコルブレインさんの人となりにも研究内容にも強い尊敬と親しみを感じたのですが、その後、彼の研究内容への学びを深めたり、連絡をとったりすることができずに残念に思っていました。理由は僕の力不足という以外ありません。ところが今回、そのコルブレインさんに再会できてとても嬉しかったのです。
 
それで何かあるとコルブレインさんに近づいて話をするようになったのですが、キャンプ地のあるデーベルンの町の中心部をみんなで見学に言った時に深い話をすることができました。見学と言っても、この町に残されたナチズムの痕跡、殺された方たちのことを捉え返すツアーでそれ自身がとても素晴しかったのですが、その帰り道に一緒に歩きながらコルブレインさんの戦争体験を聞くことが出来たのです。
 
コルブレインさんの生まれは1942年。戦中です。その頃のドイツはナチスのもとに世界大戦に突入していました。
ソ連と分割したポーランドを拠点にベラルーシやウクライナに攻め込んでいる最中でした。
これに対してソ連赤軍の反撃がなされるとともに、イギリスが北部の都市を、あとから参戦したアメリカが南部の都市を空襲しました。
このアメリカ軍の空襲でなんとコルブレインさんのお父さんが殺されてしまったのです。
 
当時、コルブレインさんには二人の兄弟がいました。お母さんは3人の男の子を抱えて、空襲が繰り返された戦争末期、そして米軍占領下のドイツの中を苦労して生き延びられたそうです。コルブレインさんもその頃のアメリカ占領軍の姿を覚えているそうです。
 
その後、コルブレインさんはドイツの総合的な製作会社であるシーメンスに入社し、長く電気部門等で働かれたのだそうです。
はじめてデモに参加したのは1977年、35歳とのとき、反原発のデモでした。
ちなみに僕が初めてデモに参加したのも1977年でした。もっとも僕はまだ17歳の高校生でしたが。そんなことを伝えたらとても嬉しそうに笑ってくれました。
 
コルブレインさんとはその後のWizmutミュージアムへの訪問の旅でもバスで隣り合わせに座って話を続けました。
バスの中では研究の話に花が咲きました。コルブレインさん、パソコンを取り出して自分の統計的成果を話して下さる。3年前に僕が知ったあの研究をさらに深めているのでした。それで「英語のペーパーはありますか?インターネットから手に入れられますか」と聞いたら、またとても嬉しそうにする。
「もちろんできるけれど5つあるんだ。その5つ目の最新バージョンを読んで欲しいんだ」と言うのです。
 
何が違うのかというと、データが更新されていることはもちろんなのですが、5つ目は自分一人の署名論文なのだというのです。それまでの4つは他の研究者との共著になっている。その理由を聞いていて初めて僕はコルブレインさんがどこの研究機関にも属さない、フリーランスの研究者として活動を続けて来たことを知りました。
「ドイツではどこかの研究機関に属してないと誰も相手にしてくれない。大学に属してさえいればどんなにひどい論文でも世に出せる。僕の論文は長い間、無視され続けて来たんだよ」「それでこの論文は研究機関にいる仲間の研究者達に共著者になってもらって出して来たのだけれど、「もう十分に波及力を持って来たし、そもそもこれは君が築き上げて来たものなのだから、次は君一人の名前で出しなよ」と言ってもらえたんだ」とのことでした。
 
「素晴しい。苦労をされて来たのですね。日本も同じです。本当の研究者やジャーナリストは大手の機関にはそんなにはいない。あの人達の多くはただのビジネスパーソンです」と僕がいったら「そうそう」と相づちを打ってくれました。
 
ちなみに昨日の朝にミーティングがあって前日のWizmutミュージアム訪問の振り返りがなされ、僕はこの日の帰りには言い足せなかった言葉をつけ分けたコメントを出せました。
「僕はいままでよく原爆投下後の広島や長崎のことを思い出してきました。しかし今日は原爆投下前のシーンをたくさんみました。被爆者は原爆投下前から、そして原爆投下なしでもこんなにたくさんいたのですよね。世界中に。これは私たちの人類史の中のとても大きな悲劇です」「僕はぜひこの歴史を変えたいです!」
 
そうしたらコルブレインさん、「君の英語、素晴しいよ!」と言ってくれました。
なんだか心の中が暖まるような嬉しい言葉でした。
 
さて今日ももう時間がなくなりました。
また報告を続けます。
 
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