明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(117)気仙沼の渡辺さんのこと2・・・東北の旅第8信

2011年05月18日 23時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110518 23:30)

明日に向けて(116)気仙沼の渡辺さんのこと・・・東北の旅第8信の続きです。

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渡辺さんの住まいは大通りにありました。鹿折地区の人が一番、逃げて
来る位置にあり、ハイパーレスキューが来たように外部から車が入ってくる
位置にもありました。

そこにボランティアの人たちが、物資をもって来てくれていた。 初めに来た
人たちは、宛てもないままに、とにかく物資を運んで入ってくれました。それ
が被災地にとっては非常に助けになったのでした。

渡辺さんは、そんな人たちとたまたま話をする機会を持ちました。すると配
る宛てを探しているのだけれど、どこかないかという。それはらば自分の
ところに置いてくれと渡辺さんは名乗り出た。

はじめは食べ物オンリーを4トン車一台に載せてきたそうです。水がどんと
きて、すぐに食べられるカンパンなどが入っていた。それをどんどん被災者
に配った。2カ月経った今は、生活物資が中心だそうです。

流れで言うと、1か月ぐらいから避難所には物資が満ちていきました。しか
し一般家庭にものがまわっていない。それで渡辺さんたちは、その少し前
から物資の配給を一般家庭向けに振り替えました。

その頃、一般家庭はそれぞれに避難民をかかえていました。親戚や知り
合いをかかえて4人家族に15人などという状況でした。そういう家庭では
米は3週間ぐらいしか持たないだろうと渡辺さんは判断されました。

また今でも車に寝ている人がいるそうです。渡辺さんは軽トラの運転席で
寝ている人も見たそうです。そういう人はパーキングにいることが多い。
そこを拠点にしています。トイレや水があるからです。

渡辺さんは、そういう人たちに、運びこまれたおにぎりを配るようにしてき
ました。そのために、渡辺さんが行動するときは、食料と水を多く持つよう
にしているそうです。出会った先々で、渡せるようにです。


このように渡辺さんたちは、物資の配布所のテントを設けて配ることと、
車で配ることを一緒に行ってきました。多くの方が車がなくて歩いて物資を
取りに来たからです。陸前高田の山間部から何時間もかけてきた人もいた。

届ける先は、物資を受け取りに来る人との話の中からみつけました。「何軒
あるの。何人分必要なの」と聞くとだいたい様子が分かるそうです。それで
その人の家に届けて、そこから配ってもらうようにしました。

渡辺さんのグループのスタッフは十人以上。みんな近所の人たちですが、
会社が流されて、解雇になった人が多いそうです。その人たちも収入はない。
でも自分たちは家が残っているからましだ、人を助けたいと頑張っています。

ゲットバックスとい名まえは4月になってからつけられました。最初のころは
個人名でやっていたそうです。「全品無料」という看板を高校生が書いて出
した。スタッフは小学生から48歳まで。大変、明るく運営してます。

男女比は半々で、渡辺さんの小6と小4の娘さんもスタッフとして参加してい
ます。娘さんたちは初めは家にこもりがちでした。そのうち退屈したのか喧
嘩を始めた。それで渡辺さんが被災地を見るかと車で連れだしました。

娘さんたちに、まだ燃えている町を見せて、今は喧嘩しているときではないよ
と教えたそうです。状況を分かって欲しかったのです。そうしたら、もう喧嘩は
しなくなり、お父さんのやっていることを手伝うよといいだしたといいます。

それで配布所に行くようになったら、安否の知れなかった友達と会うことが
できました。先生にも会えて安心してもらえました。そのことが子どもたちに
とってとても大きかったようです。

これは子どもたちのことだけではなく、他の方にとってもそうでした。それぞれ
が誰かのことを心配していましたが、配布所が人の集う場所になったことで、
ある程度の安否情報の確認ができました。


渡辺さんはとにかく無我夢中だったそうです。普通の状態ではなかった。
渡辺さんは、「自分は普通のサラリーマンで会社にしがみついていた男です。
でもこういうことに携わるようになって、自分でも変わったと思います」という。

子どもさんからも、「お父さん、変わったね」と言われたそうです。「お父さんが
こんなに人のためにいろんなことをする人だとは思わなかった。お父さん
かっこ良くなったよ」とも言われたのだそうです。

渡辺さんは、「こんなイモみたいな顔なんですけれども」と照れて、恥ずかし
そうに笑いました。「それで俺ももっと助けられる人を助けようと思って、
ここまでこれたのだと思います」とも。

ここまでの二カ月、途中でしんどくなったこともあったそうです。眠気を通り
越して、わけがわからなくなって、日付も曜日も分からなくなってしまいました。
そのまま40日間はほとんど休まずに活動を続けた。

しかしその頃、ある人に何も毎日、配布所をやらなくていいと言われて、なる
ほどと気付き、今は曜日指定にして、火木土日にしていて、その間に別のこと
をしたり、身体を休めるようにしているそうです。余裕が持てるようになった。


行政との関係では、最初はもう無視して進めたそうです。おうかがいをたてて
も、判断をしてくれない。暫くして学校が始まったとき、通学路にがれきが散乱
している。ある子が、「危ないので、おじちゃん、なんとかしてと」言ってきました。

それで役所に問い合わせたら、そこまで手が回らないという。いつになるか分
からないとも。自分たちは男5人いるので、やらせてくれと言ったら、いいとも
言えない、悪いとも言えないという。それで、じゃあやるとよ始めることにした。

一日かかってやったそうです。軽トラックを借りて、手で車に運んで、捨てにい
きました。それで道ができて、市に連絡をして、車が通るには危ない通りなの
で車両通行止めにして欲しいと伝えると、それもできないと言う。

ところが次の日にみたら、気仙沼市の車両通行止めの看板が立っていたそう
です。ところが自分たちには、御苦労さんの一言もない。すぐそばにいたのに
です。そういう対応に、渡辺さんは疑問を持ったそうです。  


渡辺さんたちが取り組んだ、地元の鹿折小学校の掃除もそうでした。学校の
校庭には、流されてきた車が30台ぐらいありました。学校が始まったのに、
校庭はヘドロで泥だらけだし、車が転がっているばかりです。

それで市の方に対処を聞いたら6月末になるという。なぜかと聞いたら、車は
所有権があるというのだそうです。「あれ、ガソリンが入っているし、バッテリー
がつながっているから爆発するよ。どうするの」と渡辺さんは言いました。

でも方向性が決まってないと言う。それで校長先生に「全部俺が責任を取る
から黙認してくれ」と言ってやったそうです。ヘドロも重機を借りてきて、地面を
すくって、どける作業をした。やってみれば簡単で、半日ですんだとか。

それまで子どもたちは、校庭で遊ぶなと言われていたそうです。危険だったら、
危険なものを取り除けばよいのに。遊べる校庭があるのに遊べないのは、
子どもたちにとって酷なことだと考えて、渡辺さんは作業を実行しました。

そうこうしているうちに渡辺さんは湊富士親方の相撲部屋と出会いました。
おかみさんがネットで渡辺さんの活動を知って、連絡して来てくれたのだそう
です。その方たちが、気仙沼で炊き出しをしたいという。

それならば鹿折小学校でやろうとなりました。そうしたら子どもたちが凄く
喜んでくれたそうです。400人ぐらいの人が集まった。また今月末にもやろうと
いうことで、そのために何度も電話をし、何が必要か考えてくれているそうです。


ゴールデンウィークを過ぎて炊き出しなどはめっきり減ったそうです。タレント
の支援もゴールデンウィークに集中した。またそのときは車がいっぱいで
自分たちの活動ができなかったそうで、渡辺さんは夜に移動していました。

この頃は、ボランティアだけでなく観光客が多かったといいます。写真を撮って
くれといわれて、ふざけんなと思ったことも。被災地をバックにピースをする人が
いるから、「そこから亡くなった人が見つかったよ」と事実を告げたといいます。

「写真に何が写っても俺のせいではないよとも言いました。だって写るのだもの。
そういうところに遊び半分で来る気持ちが悲しすぎる。被災している人が
見ているのだから、もっとこそっとやれと言いたかったですね」

続く
コメント
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