近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 渡来系弥生人が持ち込んだ文化とは!

2007年07月27日 | 歴史
渡来系弥生人は、それまでの縄文人とは全く違う生活様式を持ち込んだ。
先ずは、彼らは日本列島に初めて現れた農耕民であった。

縄文人も主に焼畑によって細々とイネや雑穀などを栽培していたが、基本的には“狩猟採集民”であった。それに対して、渡来人は水田耕作を生活の基盤に据えた“農耕民”であった。

水田稲作は、天候に大きく左右され、労力が大きい割に不安定な食料確保のシステムで、むしろ単一の食物ばかりに頼らず、クリ・ヒエの栽培やカキの養殖など多種多様な食物を、柔軟・有効に利用してきた縄文人の方が余程健康的で、食料安定確保の道でもあった。

狩猟採集民と農耕民との違いは、単に食料の確保の仕方が違うだけでなく、自然に対する考え方が大きく違った。

縄文人は自然に対して畏敬の念をもって、自然のメカニズムを壊さないように維持しながら、食料を出来だけ長期間にわたり確保できるように、自然の恵みの範囲内で慎ましく暮らしていた。





写真は、静岡市の登呂遺跡から明らかになった水田耕作の想像図及び出土した水田跡に稲作復元。

一方渡来人・農耕民は畑や水田と云う人工的な空間を作り出すことで食料を生産・再生産し続けて、いわば自然を人間の意のままに作り変えて、人間の支配化におくという発想で、自然に対峙する生活文化を持ち込んだ。

第二に、弥生時代の渡来人は、日本列島に初めて“クニ”(特定地域の行政区分)を誕生させたという点で、縄文以前にやって来た渡来人と大きく違っていた。
クニの支配者と被支配者と云う支配関係が、縄文時代にも見られた素朴な上下関係とは違い、クニ運営のシステムとして公認されていた。

農耕とクニと云うそれまでに日本列島になかった文化を携えてやってきた渡来人は、弥生時代に入って急速に列島全体に広がり、縄文人と入れ替わって主人公となっていった。

その過程で陰惨な殺戮が、両者間で起こっていたことも、近年明らかになった。
縄文人が10,000年ほどにわたって謳歌していた日本列島は、僅か数百年で渡来人に乗っ取られたような様相を呈した????


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