倭人が登場した、当時の中国の歴史書を辿ります。
3世紀半ばに邪馬台国からの朝貢が行われて以来、約1世紀半にわたって中国の歴史書から姿を消していた古代日本の消息が、再び伝えられるようになるのが5世紀初頭。
特に420年宋が興ると、中国史の中に倭が頻繁に登場するようになる。
上の写真は、宋書の夷蛮伝倭国書の一部。
この夷蛮伝倭国書によると、
421年「倭の讃、万里に貢を修む・・・・・」
438年「讃死して弟珍たつ。使いを遣わして貢献す。自ら特使・・・・・」
443年「倭国王済、使いを遣わして奉献す。復以て安東将軍・倭国王と為す。」
462年「済死す。世子の興は使いを遣わして貢献す。・・・・」
478年「興死して弟武立つ。自ら・・・・・・安東大将軍・倭国王と称す。」
以上のように、中国南朝宋の歴史書「宋書」には、讃・珍・済・興・武の5人の倭国王が宋に使者を送ったという記述があるが、これが所謂倭の五王と云う。
この5人の王が記紀に記されているどの天皇にあたるか様々な説があるが、武については雄略天皇の異称、大泊瀬若幼武尊の武の一文字をとって王名を武で表したものと考えられており、武が第21代雄略天皇と云うのが定説。
他にも済が第19代允恭天皇、興が第20代安康天皇と云うのが一般的な説。
又異説はあるが、珍が第18代反正天皇、讃は第16代仁徳天皇もしくはその父である応神天皇とする説が有力で、それぞれ5世紀に君臨した天皇であると考えられている。
「日本書紀」などによると、葛城氏は中国に使者を送った仁徳天皇ら“倭の五王”と姻戚関係を結び、繁栄したと云う。
当時の国内においては、中国側から「倭王」の称号を与えられたことによって、諸豪族に対する支配の正当性を裏付けるのに役立ったと見られる。
その後、古市古墳群や百舌鳥古墳群に大王の墳墓と目される巨大古墳が造られるのは、5世紀を中心にする期間で、この期間はまさに中国文献に登場する倭の五王の時代と重なる。
この5人の倭王の墳墓は、古市古墳群と百舌鳥古墳群に築かれ、倭の五王は国内の政治的安定と東アジアの国際社会への雄飛を巨大な墳丘に託したかもしれない。
3世紀半ばに邪馬台国からの朝貢が行われて以来、約1世紀半にわたって中国の歴史書から姿を消していた古代日本の消息が、再び伝えられるようになるのが5世紀初頭。
特に420年宋が興ると、中国史の中に倭が頻繁に登場するようになる。
上の写真は、宋書の夷蛮伝倭国書の一部。
この夷蛮伝倭国書によると、
421年「倭の讃、万里に貢を修む・・・・・」
438年「讃死して弟珍たつ。使いを遣わして貢献す。自ら特使・・・・・」
443年「倭国王済、使いを遣わして奉献す。復以て安東将軍・倭国王と為す。」
462年「済死す。世子の興は使いを遣わして貢献す。・・・・」
478年「興死して弟武立つ。自ら・・・・・・安東大将軍・倭国王と称す。」
以上のように、中国南朝宋の歴史書「宋書」には、讃・珍・済・興・武の5人の倭国王が宋に使者を送ったという記述があるが、これが所謂倭の五王と云う。
この5人の王が記紀に記されているどの天皇にあたるか様々な説があるが、武については雄略天皇の異称、大泊瀬若幼武尊の武の一文字をとって王名を武で表したものと考えられており、武が第21代雄略天皇と云うのが定説。
他にも済が第19代允恭天皇、興が第20代安康天皇と云うのが一般的な説。
又異説はあるが、珍が第18代反正天皇、讃は第16代仁徳天皇もしくはその父である応神天皇とする説が有力で、それぞれ5世紀に君臨した天皇であると考えられている。
「日本書紀」などによると、葛城氏は中国に使者を送った仁徳天皇ら“倭の五王”と姻戚関係を結び、繁栄したと云う。
当時の国内においては、中国側から「倭王」の称号を与えられたことによって、諸豪族に対する支配の正当性を裏付けるのに役立ったと見られる。
その後、古市古墳群や百舌鳥古墳群に大王の墳墓と目される巨大古墳が造られるのは、5世紀を中心にする期間で、この期間はまさに中国文献に登場する倭の五王の時代と重なる。
この5人の倭王の墳墓は、古市古墳群と百舌鳥古墳群に築かれ、倭の五王は国内の政治的安定と東アジアの国際社会への雄飛を巨大な墳丘に託したかもしれない。
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