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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

第七話 光秀に対する古今の評価は?

2006年09月01日 | 歴史
現代における、光秀への評価は、「謀反人」のイメージがつきまとう。
しかし、彼は「五十五年夢」を賭けた戦国武将である。数々の小説に取上げられ、堂々たる俳優が、演じてきたが、結局いつも「本能寺の変」以外は、信長・秀吉・家康の引き立て役ばかり。
信長家臣団のナンバーワンの座を秀吉と競い合い、つねに良きライバルであった光秀ではあるが・・・・・。
本来ならば名将として歴史に名を刻むべき光秀が、何故日本史上最悪の「主君殺し」「叛臣」の烙印を押されたのかを考えてみたい。
本能寺の変以降、今日まで光秀に対する評価は功罪まちまちであるが、ここでは5つの切り口から光秀に対する代表的・典型的評価を紹介したい。
最初に基本的認識について触れておきたい。
本能寺の変で、光秀は夜明け前の無防備な信長を急襲したことから、卑劣な「卑怯者」・「主君殺し」と呼ばれ、しばしば非難されてきた。
近年雑誌などに取上げられる「好きな英雄ベスト10」を見ても、信長が1位になることは多々あるが、光秀がベスト10に入ることはない。
右上の写真は織田信長像。

本能寺の変は、知将と謳われた光秀にしては余りに稚拙な行動であり、計画的な蜂起ではなかった。本能寺の夜襲の理由についてはいろいろ挙げられているが、中でも光秀の家臣たちの血判状により光秀は謀反の決意を固めたと云う。
本能寺の変の2週間前に、信長より秀吉支援のために中国出陣を命じられたが、出陣を前に、仮に中国で勝利に貢献しても、近江・丹波・山城などの領地を没収するとの信長の底意を知らされた。
このことが信長の功臣たちといずれ同じ運命を辿るとの危機感から、光秀は家臣たちに血判状を突きつけられ、遂に堪忍袋の緒が切れて、謀反に傾いたと思われる。
光秀の切羽詰った突然の決断が、最悪謀反人のレッテルを貼られることに繋がっていると思われる。
結局光秀は戦国史に特筆される有力武将にもかかわらず、反逆者の烙印は縁者の上に重くのしかかり、明智光秀の系譜は真実が明かされないまま、諸説の中に埋れてしまった。そして細川藤孝ら縁戚にまでもことごとく離反されたことを鑑みても、当時から光秀の行為は、ただの謀反としてしか映らなかったということを如実に示している。

上記のことから、反逆者・謀反者というマイナス・イメージを今日まで引きずっており、光秀の戦国武将として輝かしい功績にも拘らず、現在でも人気がでない一因と云える。


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