近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

枚方市の万年寺山古墳とは!

2010年03月03日 | 歴史
万年寺山古墳は、標高37.7mの丘陵先端部、眼下に淀川を望む河川交通要衝の地に築造された古墳。

京阪電車の枚方市駅から南西方向に直線距離で700mほどの所に、標高38m足らずの丘陵があるが、淀川に沿って細長くのびる、旧枚方の町並みを東西に分けるように、こんもりと緑に包まれた万年寺山と呼ばれる。











写真は、日本書紀にも記述がある万年寺山遠景と近景、万年寺山の中腹にある樹齢700年ほどの天然記念物ムクノキ、万年寺山古墳が所在する意賀美神社境内及び当神社内一帯に広がる本古墳の墳丘光景。

式内意賀美神社は、淀川の鎮守として、通航安全と水害排除の祈願のため、創建されたと伝えられている。

本古墳は、枚方市上之町に所在する前方後円墳で、墳丘長約100m・後円部径約68m・前方部長さ約34m・高さ約6mで、築造時期は4世紀中頃。

明治37年、枚方小学校の運動場拡張工事の最中に、丘陵の先端部で古墳が見つかったが、すでに全壊されていた。埴輪や葺石は碓認されていない。

この古墳の主体部は粘土槨で、埋葬施設は割竹形木棺だったと見られ、長さ3m以上・幅0.3m以上の棺の断片が採取されている。

叉この古墳からは8面の青銅鏡や鉄刀などが出土したが、青銅鏡8面のうち6面は、三角縁神獣鏡だったと云う。

これらの出土品から、古墳の築造時期は、4世紀中頃と推定されている。

8枚の青銅鏡と共に埋葬された被葬者がどのような人物だったのだろうか?

淀川に臨む交通の要衝の丘陵上に、己の奥津城を築かせたからには、水上交通と軍事的要所を支配する有力な豪族だったことは間違いないと云える。



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