近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

アイヌ民族・文化 “アイヌ民族”中世までの歴史とは!

2007年11月06日 | 歴史
北海道に人類が住み着いたのは、約20,000~30,000年前と云われているが、静内地方には約9,000年前の縄文遺跡が検出されている。

縄文時代晩期の北海道南部では、東北地方と同様に“亀ヶ岡文化”が栄え、中には朱や黒漆塗りの壷・皿・鉢・注口土器・香炉形土器などの土器、土偶・岩偶・石棒・石刀・異形石器などの呪術や祭祀にかかわる特殊な遺物などが出土し、関東地方から北海道南部・南西部にまで広がる文化圏が誕生していた。





写真は、北海道南茅部町の“大船C遺跡”から出土した、ヘラ型石器及び岩偶。
その後、亀ヶ岡文化は北海道東部にまで広がり、東西交流が明らかになった。

縄文時代後の歴史については、前述のように、アイヌ民族の起源が、同根の縄文・続縄文・擦文を経て、アイヌ文化が形成されたらしいが、詳しいことは依然不明。

鎌倉・室町時代にはアイヌ文化が成立していたと見られるが、それ以前の人々と、それ以降のアイヌ人が全く違う民族とは考えにくいのは、文化の差に伴う民族移動の記録・伝承が全く見られないということ。

アイヌの地では、縄文・弥生時代を通じて、本州の影響を受けにくく、社会の仕組みは縄文時代そのままで、主食も狩猟・漁労・採集に頼っていた。

即ち縄文文化は野蛮で遅れた文化として、屈服と同化を迫られ、その文化圏は北・南に追いやられてしまった結果、北海道・沖縄などに残った。

やがて律令国家・大和朝廷が成立した7世紀頃に、本州の影響を受けた新たな擦文文化様式が生まれ、更にオホーツク文化といわれる北からの影響を受けつつも13世紀頃まで続いたらしい。

アイヌ文化が歴史にようやく登場するのが、658年の阿部比羅夫による“蝦夷征伐”があったことで知られているが、古くからエゾ・アイヌは、繰返し攻撃の対象とされてきた。

エゾとアイヌが同一であるかどうか異論もあるが、東北地方にアイヌ語の地名が多く残っていることから、両者は密接な関係にあったと見られる。

15世紀になると、奥羽地方北部の諸豪族が、津軽海峡を渡って北海道に移り住むようになり、“和人”豪族とその家来・商人らは北海道南部の松前・函館に“道南十二館”と呼ばれる12の砦を築いた。所謂“道南十二館の時代”が到来。

当時移住してきた和人は、アイヌ人に鮭・昆布・クマやシカの毛皮などを獲らせ、それらを本州に運んでは暴利を上げていたと云う。

しかし和人はアイヌ人を脅したり、騙したりして搾取するようになったため、和人とアイヌ人の間にしばしば抗争が起きるようになった。



写真は、沙流川河口より20kmほど遡った河岸段丘に位置している、“ポロモイチャシ跡”現場。
近年の発掘調査で、北海道平取町で“ポロモイチャシ跡”が検出され、アイヌ文化を象徴する、チャシの建築跡2棟が見つかったが、いずれも“樽前火山灰(1667年降下)”降下前の地層に構築されていたことで、アイヌ文化を伝える証人として注目された。
建物跡の主要部の中央に“炉”を持っていることから、住居跡と見られる。



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