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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

栗東市の安養寺椿山古墳群とは!

2009年11月16日 | 歴史
安養寺椿山古墳群は、栗東市のほぼ中央、古墳時代の集落が集中する野洲川左岸の平野部を一望する、標高234mほどの安養寺山に立地する、5世紀前半から6世紀前半にかけて営まれた古墳群で、10基ほどの古墳により構成される。







写真は上から、栗東市田園地帯から望む安養寺山、安養寺山麓に立地する安養寺本堂と11月初旬の紅葉風景及び安養寺の池泉鑑賞式庭園。

安養寺山の山裾を築山として巧みに利用した、安養寺の池泉鑑賞式庭園は、滋賀県指定の名勝とされている。

叉安養寺は、聖武天皇の勅願によって創建された“真言宗泉涌派”の寺院で、室町9代将軍足利義尚の陣所でもあったらしい。





安養寺椿山古墳の後円部墳丘及び本古墳外柵工事中の近景。

総長約135m・墳長約99m・後円部径約75m・高さ約7.5m・墳頂径約28m・前方部幅約43mで、標高約105mの尾根先端に立地している、葺石を伴う帆立貝形の前方後円墳で、前方後円墳では滋賀県下最大規模。

周濠を持っており、栗東市内最大の古墳で、出土品は5世紀前半~中頃の首長墓で、未調査だが、短甲・鉄剣・鉄鏃などの武具がみつかっている。

また、安養寺地区の古墳のなかで、現在でもその姿がはっきり確認できる唯一の古墳で、市役所駐車場のすぐ南側に、写真の通り、その墳丘を確認することができる。

本古墳のほかにも、短甲や鏡が出土した、前方後円墳の大塚越古墳、大型の埴輪や木製の祭具が出土した狐塚古墳群、鏡・武器のほか9領もの甲冑と馬具が副葬されていた新開古墳など、絵図にはいくつかの古墳が描かれている。

大和王権が成立すると、栗東の首長たちも次々とその傘下に入っていった。こうした首長たちの墓は一般に墳丘墓であり、市内には現在80基ほど確認されているが、なかでも椿山・新開両古墳は、大和王権下の代表的な古墳。

新開古墳からの出土品は、この地域の首長の勢力と位置づけを知る上で貴重なものとなっているが、1960年名神高速道路建設時に調査後、消滅してしまった。

新開古墳群では、新開1号墳が径約36mの円墳で埴輪を伴い、金銅製の馬具や多量の武具が出土したことで知られている。

新開2号墳は一辺20mほどの方墳の可能性があり、鉄挺等が出土している。





写真は、新開4号墳から出土した舟形埴輪2点。

新開4号墳は一辺15mほどの方墳と考えられ、船形埴輪等が出土したことで注目を浴びた。

安養寺山麓の古墳群として、まず大塚越古墳は、全長約75mの前方後円墳であったと見られ、多数の装身具等が出土したが、消滅してしまった。

古墳群の中で、大塚越古墳が5世紀前葉の築造で最も古く、椿山古墳とともにこの地域の首長墓と考えられている。

近接の狐塚古墳群にも首長墓があることから、この地域は県下を代表する首長墓を中心とした中期古墳群と看做されているが、以前から墳丘はない。



写真は、新開1号墳から出土した馬具一式。

これは古墳時代に出土した馬具としては初期のもので、その多くは、朝鮮半島あるいは、大陸からの移入品と考えられている。

このことは、新開2号墳からの移入品と考えられる鉄挺が出土していること、前述の新開4号墳から舟形埴輪が出土していることと合わせて、この古墳群の被葬者たちが、交易を通して、広く海外まで繋がっていた豪族達であった可能性を示している。









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