近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪貝塚市の丸山古墳とは!そのⅡ

2010年08月24日 | 歴史
丸山古墳巡りを続けますが、ここからは本古墳から出土した遺物について取上げます。



写真は、丸山古墳から出土した、朱塗りされた朝顔形埴輪断片。

朝顔形埴輪は、本古墳後円部の南部分で発見されたもので、円筒埴輪とは胎土や厚みが異なり、器面には朱が塗布されていたと云う。





写真は、丸山古墳から出土した、冠帽形埴輪片及び冠帽形埴輪の原形である金製冠帽。





写真は、丸山古墳から出土した、靭形埴輪片と形象埴輪片。

靱は、矢を入れ、腰につけて持ち歩く筒形の容器で、この形の埴輪は珍しい。

一方写真のような形象埴輪片は、破壊されていたため見分けがしにくいが、主にくびれ部から集中的に出土したもので、家・靱・盾・冠帽形などが確認できたらしい。

中でも全国的にも珍しい冠帽形埴輪などの形象埴輪が多数出土したと云う。

埴輪の出土により、丸山古墳の築造時期が古墳時代前期後半であることが確定したが、和泉地方では岸和田市摩湯山古墳に次ぐ古い時期のもの。

埴輪の種類はバラエティに富み、埴輪を使用した祭りの状況を復元想定できると云う。

大和地域及び古市古墳群や百舌鳥古墳群といった古墳群との比較検討により、古墳時代前期の和泉地域の政治勢力を考える上で重要な資料。





写真は、丸山古墳へやっと近づける狭い入口の石碑及び本古墳に隣接した貝塚市立南小学校校舎。

昭和56年と60年の発掘調査で、本古墳の南側に位置する、貝塚市立南小学校の敷地内からは、5世紀中頃・古墳時代中期の円墳4基・方墳2基が発見された。

それぞれが墳丘と周濠を持った古墳だったが、後世の農地開発などにより墳丘が削平され、現在は土中に埋没されている。

いずれの古墳も、墳長10m前後の規模だが、主体部は既に削り取られ、僅かに周濠が残っている状況。

これらの発見により、丸山古墳を中心とした古墳群の存在が判明したと云える。







写真は、丸山古墳から出土し復元された、いろいろな須恵器、台付高杯及び台付壷。

各古墳の周濠からは、古墳に供えられていた各種須恵器類も出土しており、朝鮮半島からもたらされた、登窯を築いて高温で焼いた須恵器の製作技術の恩恵を受けていたことになる。

周濠からは、高杯やその蓋・器台や写真のような台付高杯や壷・耳付高杯・壷などが出土している。

これら須恵器は全て破片で発見されたが、当時の祀り事の風習であったと見られる、故意に割って溝に捨てられたもの。

これら古墳群の発見により、4世紀後半から5世紀にかけて、地蔵堂周辺に強い権力を持つ豪族が存在していたことが分かった。




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