近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県河合町の佐味田狐塚古墳とは!

2011年01月30日 | 歴史
佐味田狐塚古墳は、後円部に馬蹄形周濠を持つ、古墳時代前期の帆立貝式古墳。

全長約86m・後円部径約66m・高さ約7m・前方部長約20m・前方部復元幅約25.5m・高さ約5mを測り、馬見丘陵の帆立貝式古墳群の中で、乙女山古墳に次いで2番目の規模を誇る。

馬見古墳群の北方広陵町には、全長約85mの西面する帆立貝式の池上古墳があり、また巣山古墳のすぐ西側の三吉2号墳も帆立貝式古墳とみられ、県下でも数少ない、しかも大型のものが5基も存在し、この特殊な形式の古墳の集中する地域として注目されている。

これまでに1974~1975、1998~2000、2002年と3回の発掘調査が繰返されたが、被葬者など詳細は不明。







写真は上から、佐味田狐塚古墳の前方部墳丘、後円部墳丘が破壊された残墳光景、案内板から覗く墳丘の光景。

墳丘は後円部に比べ前方部の長さが極端に短く、また前方部の高さが後円部に比べ著しく低い帆立貝のようになっていることから、帆立貝式の前方後円墳と呼ばれている。

叉墳丘の周囲はすでに埋没しており、周濠の存在をうかがい知ることはできないが、馬蹄形をした周濠がある。この周濠の外側には周庭がある。これらの外周施設をふくめた全長は、96mになることが知られている。

これまでの発掘調査では円筒埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていたらしい。

更に片側2車線の都市計画道路が、本古墳後円部の真ん中を貫通しているため、哀れな姿を留めている状況。

1974~1975年町道の建設時に、初めて古墳ではないかとの疑いで調査され、この地域に多い帆立貝式古墳と判明したが、その時点で既に計画道路が墳丘裾まで迫っており、結局道路により後円部が真っ二つに割られてしまった。









写真は上から、佐味田狐塚古墳の中央部にかけられた橋の様子、道路で割られた古墳の遠景、古墳を分断した歩道橋及び古墳分断の見取図。

このようなモニュメント的古墳が、道路建設の直前まで古墳だと分からなかったとは信じがたいが、結果的に残念ながら分断されてしまったのでは、被葬者も浮かばれない。

叉巣山古墳の周庭帯の北西隅が、本古墳に遠慮するかのようにゆがんで見える。

本古墳は、河合町の飛地に築かれているが、現在は馬見丘陵公園の中に取り込まれ、前方部は公園の中央エリアに、後円部は公園の南エリアに位置し、本古墳前後の間を都市計画道路の上にかかる歩道橋でつないでいる姿は、全国の古墳群を見回しても他に例がないと思われる。

南エリアから見る古墳は小綺麗に整備されているが、都市計画道路から眺めた姿は、とてもここに古墳が位置しているとは思えない状況。

1974年と1975年に発掘調査が行われ、粘土槨で棺を保護した埋葬施設が、後円部中央で発見された。棺内は盗掘を受けていたが、青銅鏡や鉄刀の破片などが出土し、更に古墳の周辺から円筒埴輪を利用した円筒棺が見つかったと云う。

巣山古墳の西側に残る三吉2号墳とともに陪塚的位置を占めるため、有力な豪族を埋葬した古墳であると推測される。




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