近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

天理市の中山大塚古墳とは!

2011年03月10日 | 歴史
中山大塚古墳は、大和古墳群農地の南側に伸びる丘陵上に築かれている、古墳時代初頭の古墳で、後円部を少し東側に置く南北方向の前方後円墳。

前方部は大和神社のお旅所がおかれ、このために削平されている。大和古墳群の枝群である萱生古墳群に属し、奈良県の史跡に指定されている。

オオヤマト古墳群の最も北に位置するのが萱生古墳群で、纒向古墳群、柳本古墳墳群同様、萱生古墳群にも大きな特徴があると云う。

それは、出土遺物や築造形態などによると、西殿塚に先行し、場合によっては箸墓古墳にも先行するかも知れないと思われる古墳や、それに繋がりがあると思われる、中山大塚、燈籠山、東殿塚、ハタゴ塚などの古墳が存在する。

叉ハタゴ塚、下池山、フサギ塚、ノムギというような前方後方墳も4基も存在する。

知名度という点ではオオヤマト古墳群の中では最もマイナーな古墳群かも知れないが、内容的には非常に興味深い古墳群であると云える。

ということで、中山大塚古墳は、箸墓古墳に次ぐ最古級の前方後円墳であると推定されている。

また調査の結果、戦国時代にも古墳を城郭として利用したため、当初観察された後円部の段築や整形は、築造当初のものでないことも判明。





写真は、柿木に囲まれた中山大塚古墳及びその墳形。

古墳規模は、全長約132m・後円部径約73m・高さ約10mで、墳丘裾部では葺石基底石が石垣のように急角度で積まれている状況が検出された。

南側に延びた尾根を切り取り、その土を後円部の上に積み、前方部も尾根を低く細く削り取って、形を整えたと考えられており、また西側くびれ部では、後円部側の葺石基底石の上にさらに、前方部側の葺石を被せるように葺いている状況が明らかになったと云う。

これは後円部に前方部を接合したような状況が想定される。

この他、外部施設は西側くびれ部に作られた三角形の張り出し部と後円部北側の張り出し部で、いずれも古墳への通路的な施設と見られるが、古墳をとりまく周濠は確認されていない。

発掘調査、1977年(昭和52)以来数回にわたって実施されてきたが、埋葬施設は、後円部の中央に墳丘主軸に沿って築かれた竪穴式石室で、規模は長さ7.5m・天井までの高さ2m。石室の南北両小口は隅に丸みを持つように石材が積まれている。

石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山で採取された輝石安山岩を使用している。石室の中からは割竹形木棺が確認された。

出土遺物は、石室内から銅鏡片2点・鉄刀・鉄剣等鉄器36点などであるが、盗掘が石室内全体に及んでいて細片化している。

墳丘頂部からは土器のほか、特殊壷形埴輪・二重口縁壷系の埴輪・特殊円筒埴輪・特殊器台形土器・特殊壷形土器などが出土しているが、これらは埋葬主体部を囲うように樹立していたものと推定される。
今回の調査により、石室や墳丘構造、あるいは埴輪などに初源的な要素が各所に認められたと云う。このことから本古墳は、前方後円墳が築かれ始めたころの古墳であると判断されている。


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