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今年のアカデミー作品賞を受賞した英国映画「英国王のスピーチ」はさざ波が寄せては返してくるような、静かだが緊張感がある感動的な作品なのであった。

エリザベス女王の父君であるジョージ六世が吃音症だったことを世に知らしめてしまった小説の映画化で、女王は長くこの作品が映画化されることを快しと感じていなかったという。
尤もなことであろう。
父親が吃音症で、しかも国家の重要人物。
誰もが知っていて、尊敬の対象であるはずの王、ともなれば間違いなく吃音はあまり誇りにならない病気だといえる。

私も子供の頃、吃音症の友達がいて、なぜその友達が普通に話せないのかよくわからなかった。
私に話しかけるときは必ず、
「あ、あ、あ、あんな。」
とどもる。
私には大切な友達だったので、それをイライラするようなことはなかったし、ましてや「どもりやんけ」と差別してしまうこともなかった。
でも、どうして「あんなー。これなー。」と、普通に言えないのかよくわからなかったのだ。

高校生の時に読んだ井上ひさしの小説にものすごくひどい吃音症の大学生が主人公になっている物語があった。
ところがその主人公はあるきっかけで吃音症が治ってしまう。
そのきっかけとは初体験。
初めて女を知った瞬間に吃音症が治ってしまうという、という筋書きなのであった。

このことから吃音症はある種の精神的抑圧から生ずる病気であることを初めて知った。
友達は精神的なストレスを抱えていて吃音症を抱えていたことをそのときようやく知ることができたのであった。

映画の中でもジョージ六世は父王から過度の期待をかけられ緊張してスピーチ原稿をまともに読めないというシーンがあったが、立場が立場だけに安穏な生活は許されなかったらしく、誠実な性格だけに気の毒な感じがしたのであった。

ところで、この「英国王のスピーチ」を見ていて気づいたのだが、英国王室というのは意外に庶民の世界と近しいことに驚きを感じた。
王の息子、日本で言えば親王である立場の人がひとりでロンドンの街を外出し、自分で町医者をおとずれることなど、今の日本では考えられないことではある。
例えば、秋篠宮様が地下鉄に乗って市井の医者を訪ねることなど考えられないことなのだ。
映画で英国王となったジョージ六世が吃音症の治療に当たっているライオネル・ローズの自宅を訪れるシーンは目黒の秋刀魚を彷彿させるような近しさをもっていた。
また、ジョージ六世の兄、つまり皇太子が女にうつつをぬかすために退位までしてしまうところは、現在のチャールズ皇太子を彷彿させて、すでにあの血はここになったのか、と思わせるものがあった。

以前、テレビの解説だったか、新聞記事だったか、落語のマクラだったかは忘れてしまったが、
「皇居のお堀は良くない。国民と皇室を隔ててしまう。そこへゆくと京都御所は遮るものがほとんどなく距離が短くていい。」
と言っていたのを思い出した。
皇居はもともと江戸城という武家のための要塞だ。
国民の心のよりどころとする皇室には相応しくないという考え方から発したものだと思うのだが、確かに、京都御所はホームセンターで販売しているような脚立程度で塀を乗り越え御常御殿までたどり着くことができる(ホントにしたら重犯罪です)ことを考えると、国民と皇室とのの近しさを考えるのなら京都御所のほうが天皇の御在所としてふさわしいことは間違いない。

ともあれ、「英国王のスピーチ」はただ単に、物語の面白さだけを感じさせるのではない、別の考えを彷彿させる映画なのであった。

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