<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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ミャンマーという国を初めて意識したのは小学生の時に三国連太郎主演の映画「ビルマの竪琴」をテレビで見た時だった。
もう40年近くも前のことになる。
14インチくらいのモノクロのテレビ画面で見たビルマの竪琴はなにやら陰惨な雰囲気を醸し出してた。

「ビルマではたくさんの兵隊さんが死んだんや」

という両親の解説もあいまってついには陰惨を通り越し凄惨な感じで怖くなり、画面をじっくりと見ることができなくなったことを今も覚えている。

ビルマは怖いところ。

すでに戦争が終わって30年近く経過していたにも関わらず怖いという印象が残ったのだった。

やがて中学生になったころ、ビルマが江戸時代の日本のように鎖国をしていることを知った。
正確には鎖国ではなくて、他国との交易や外交を著しく制限した「ビルマ式社会主義」という政治体制なのだったが、たかだか中学生の私にはまったく関係はなかった。
実際、鎖国といいながら日本はビルマと通常の外交関係があり大使館もヤンゴン(当時の名称はラングーン)にちゃんとあった。

「鎖国している変な国」

行きたくても行けない国、ビルマ。
不思議な国だと思ったものの、関心度はそれでもそんなに高くは無かった。
ビルマへ行くならアメリカのユニバーサルスタジオに行きたかった時代だ。

ビルマが三度私の目に留まったのは大学生の時。
総選挙を実施したビルマで与党が大敗。
これに危機意識を持ったネ・ウィンの独裁政権は民主勢力と武力衝突して多くの学生が亡くなった。
この時登場したのがアウンサン・スーチーで、独立の英雄オン・サンの娘だということで若者たちに担ぎ上げられていた。
なんか胡散臭い女の人だな、と思ったが、本当に胡散臭いとわかったのはミャンマーへ旅で通うようになってからだった。
ネ・ウィンは混乱の責任をとって失脚し、それに代わり軍隊が政権を握った。
選挙で勝った野党が政権をとらずに、関係ない軍隊が政権を担った。
現在まで続く評判の悪い軍事政権がこれだ。

この頃からビルマから国名が変更され、ミャンマーとなったこの国に関する書籍がポツポツと出回るようになってきた。
ちょうど私が東南アジア旅行にハマり始めた頃だった。

いくつかの本を読んでいるうちに、2種類の意見があることに気がついた。
ミャンマーの軍事政権悪玉説と軍事政権擁護説の2つだ。

こんなユニークな国があるだろうか。
見る人によって完全に性格の異なる国。
私の中のミャンマーへの関心が高まり始めた瞬間だった。

やがてミャンマーが世界有数の親日国であることを知った頃、私は初めてミャンマーという国に接することができた。
それはタイの北部の街メーサイを訪れた時だった。
小川ひとつ挟んで向こう岸がミャンマーのタチレイ。

「勝手に向こう側へ行かないでくださいね」
というタイ人ガイドさんの忠告を「痛いとこ突いてくるな」と思いつつ、タイ側メーサイからタチレイの街をしばし眺めた。
メーサイへはたった2時間ほどの滞在だったが国境を検査もなく越えてくる少数民族や子供たちが妙に印象に残った。
メコン川の川岸で洗濯をする人々の姿にも引きつけられるものがあった。

ミャンマーへの訪問を計画してみると、予算がかなりかかることがわかった。
初めてミャンマーへ行こうと思った当時、全日空の関西空港からヤンゴンまでの直行便があり、それが往復約13万円。
いつもタイへの旅行を総予算10万円以下で楽しんでいた私にはかなりの高額だった。
それにミャンマーでは外国人は入国の際、200米ドル相当を兌換紙幣に交換する制度が存在した。
費用に躊躇してミャンマーへの旅を断念していたのだった。

しかしいつまでも躊躇していると一生行くことはないと思い、数年後、GWの連休を利用してミャンマーへ行くことに決めた。
料金はできるだけ抑えるために安い宿、滞在期間はわずか5日。
但し、一生に一度だけの旅になると思ったので日本語のできるガイドさんを雇うことにした。

こうして私のミャンマーへの一回ぽっきりになる筈の旅はスタートしたのであった。
もちろん旅は一回どころでは済むことはなく、すでに6回も旅をすることになるとは、関西空港でアライバルビザの件でタイ航空の地上スタッフとやり取りをしていたときは夢にも思わなかったのであった。



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