平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

山本太郎の愚行(2)

2013-11-05 12:55:25 | 政治問題
山本太郎という小僧は、国民主権の意味も議会制民主主義の意味も知らないのだろう。
こういう馬鹿が現れる危険性があるから敗戦時に天皇制を廃止しておくべきだったのだ。
山本に同調するネット住民と自称ジャーナリストよ、なぜ日本が壊滅したのか、なぜ多くの国民の命が奪われたのかよく考えてみろ。
天皇制は国民に災いしかもたらさなかったではないか。
天皇の政治利用という瑣末な問題ではない。
「時間のかかる議会制民主主義よりも天皇に決めてもらう方が手っ取り早い」という空気を作るな、寝た子を起こすなということだ。
天皇教が復活すれば戦前回帰はたやすいことだ。

山本太郎の愚行

2013-11-03 23:30:36 | 政治問題
福島県民は、「よくやった」と比較的好意的に評価しているようである。
また、信じがたいことなのだが多くのネット住民が山本太郎の行為を支持している。
天皇教は明治政府が作った新興宗教であり、国を破滅に導いたカルト教だ。
戦後68年を経て、われわれはマインドコントロールから解放された、はずだった。
しかし、その火種は日本人の心の深層でくすぶり続けていたのだ。
山本太郎は休眠状態だったカルトの封印を解こうとした。
山本太郎の愚行は何から何まで不愉快なのだが、それが一番不愉快だ。

本物の政治家田中正造(ニセモノに注意)

2013-11-02 12:49:14 | 田中正造


木下尚江集、筑摩書房より抜粋する。

君よ。
僕が聴いて欲しいのは、直訴後の田中正造翁だ。直訴後の翁を語らうとすれば、直訴当日の記憶が、さながら目に浮かぶ。
明治三十四年十二月十日。この日、僕が毎日新聞の編輯室に居ると、一人の若い記者が顔色を変えて飛び込んで来た。
『今、田中正造が日比谷で直訴をした』
居合わせた人々から、異口同音に質問が突発した。
『田中はドゥした』
『田中は無事だ。多勢の警官に囲まれて、直ぐ警察署につれて行かれた』
翁の直訴と聞いて、僕は覚えず言語に尽くせぬ不快を感じた。寧ろ侮辱を感じた。
やがて石川半山君が議会から帰って来た。開院式に参列したので、燕尾服に絹帽だ。僕は石川と応接室のヴェランダへ出て、直訴に対する感想を語り合った。通信社からは、間もなく直訴状を報道して来た。引きつヾき、直訴状の筆者が万朝報の記者幸徳秋水であることを報道して来た。直訴状というものを読んで見ると、成程幸徳の文章だ。
『幸徳が書くとは何事か』
僕は堪え得ずして遂にかう罵った。
『まァ、然う怒るな』
と言って、石川は僕の心を撫でるやうに努めて呉れたが、僕は重ねがさねの不愉快に、身を転じて空しく街道を見下して居た。銀座の大道を、その頃は未だ鉄道馬車が走って居た。
『やァ』と、石川が出しぬけに大きな声を立てたので、僕は思わず振り向いて見ると応接室の入口の小暗い処に幸徳が立って居る。
『君らに叱られに来た』
かう言うて、幸徳は躊躇して居る。
『叱るどころじゃ無い、よく書いてやった』
石川は燕尾服の腹を突き出して、かう言った。
『然うかねェ』
と言ひながら、幸徳は始めて応接室を抜けて僕らの間に立った。でッぷり肥えた石川、細長い僕、細くて短い幸徳、恰も不揃いの鼎の足のやうに、三人狭いヴェランダに立った。僕は口を結んだまゝ、ただ目で挨拶した。
幸徳は徐ろに直訴状執筆の始末を語った。
昨夜々更けて、翁は麻布宮村町の幸徳の門を叩き起こした。それから、鉱毒問題に対する最後の道として、一身を棄てゝも直訴に及ぶの苦衷を物語り、これが奏状は余の儀と違ひ、文章の間に粗漏欠礼の事などありてはならぬ故、事情斟酌の上、筆労を煩わす次第を懇談に及んだ。― 幸徳の話を聴いて居ると、黒木綿の羽織毛襦子の袴、六十一歳の翁が、深夜灯火に肝胆を語る慇懃の姿が自然に判然と浮んで見える。
『直訴状など誰だって厭だ。けれど君、多年の苦闘に疲れ果てた、あの老体を見ては、厭だと言うて振り切ることが出来るか』
かう言ひながら幸徳は斜めに見上げて僕を睨んだ。翁を返して、幸徳は徹夜して筆を執った。今朝芝口の旅館を尋ねると、翁は既に身支度を調へて居り、幸徳の手から奏状を受取ると、黙ってそれを深く懐中し、用意の車に乗って日比谷に急がせたと云ふ。
『腕を組んで車に揺られて行く老人の後ろ影を見送って、僕は無量の感慨に打たれた』
語り終った幸徳の両眼は涙に光って居た。僕も石川も黙って目を閉じた。
直訴に就いては、僕は恰も知らないやうな顔をして過ぎて居たが、十年を経て幸徳も既に世に居なくなった後、或時、僕は始めて翁に「直訴状」の事を問うて見た。
それは、幸徳の筆として世上に流布された直訴状の文章が、大分壊れて居て、幸徳が頗る気にして居たことを思ひ出したからだ。例へば、鉱毒被害の惨状を説明した幸徳の原文には
「魚族斃死し、田園荒廃し、数十万の人民、産を失ひ業に離れ、飢えて食なく病で薬なく、老幼は溝壑に転じ、壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は、今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれり」
如何にも幸徳の筆で、立派な文章だ。ところが、世上に流布されて居るものは、
「魚族斃死し、田園荒廃し、数十万の人民の中、産を失へるあり、或は業に離れ、飢えて食なく病で薬なきあり - 今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり」
かうなって居る。
あの当日、毎日新聞社のヴェランダで、三人で語った時にも、幸徳は通信社の印刷物を手にしながら、『黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり、では、君、文章にならぬぢゃないか』と、如何にもナサケなげな顔をして言うた。これは翁が自ら手を入れたものに相違ない。僕はそれを知りたかったのだ。
翁の物語で、いろいろの事情が明白になった。翁は、先ず直訴状依頼の当夜のことから語った。翁が鉱毒地の惨状、その由来、解決の要求希望、すべて熱心に物語るのを、幸徳は片手を懐中にし、片手に火箸で火鉢の灰を弄ぶりながら、折々フウンフウンと鼻で返事をするばかり、如何にも気の無ささうな態度で聞いて居る。翁は甚だ不安に感じたさうだ。自分の言うことが、この人の頭に入ったかどうか、頗る不安に感じたさうだ。
偖て翌朝幸徳から書面を受け取る。直ぐに車で日比谷に入った。時が早いので、衆議院議員の官舎に入った。この日は開院式の為に、議長官舎は無人で閑寂だ。翁は応接室の扉を閉ぢて、始めて懐中から書面を取り出して読んで見た。前後自分の言うた意思が、良い文章になって悉く書いてある。
『良い頭だ』
と言うて、翁は往時を回顧して、深く感嘆した。
「伏して惟るに、政府当局をして能く其責を竭さしめ、以って陛下の赤子をして日月の恩に光被せしむるの途他なし。渡良瀬河の水源を清むる其一なり。河身を修築して其の天然の旧に復する其二なり。激甚の毒土を除去する其三なり。沿岸無量の天産を復活する其四なり。多数町村の頽廃せるものを恢復する其五なり。加毒の鉱業を止め毒水毒屑の流出を根絶する其六なり。
如此にして数十万生霊の死命を救ひ、居住相続の基を回復し、其人口の減耗を防遏し、且つ我日本帝国憲法及び法律を正当に実行して各其権利を保持せしめ、更に将来国家の基礎たる無量の勢力及び富財の損失を断絶するを得べけん也。若し然らずして長く毒水の横流に任せば、臣は恐る、其禍の及ぶ所将に測るべからざるものあらんことを」
これが直訴の要領だ。けれど、文章の上に翁の意を満たさない箇所がある。そこで筆を執って添削を始めた。鉱毒地は広い。被害民は多い。鉱毒の激烈な処もあれば、希薄な処もある。黄茅白葦満目惨憺の荒野となれる処もあれば、それ程にまでならぬ処もある。直訴という以上、その区別を明らかにせねばならぬ。
『嘘をついちゃ、いけねェ』
かう言って、翁は頭を振った。
文章の添削が未だ済まぬ所へ、予ねて頼んで置いた官舎の給仕が、ドアを明けて、御還幸を告げて呉れたので、未完成のまゝに携えて直ぐに駆け出したのださうである。
『いやはや』
と言うて、翁は両手で頭を叩いた。
翁の没後、僕は直訴状の本物を見たいと思った。幸徳の書いた上へ翁が筆を入れた本物を見たいと思った。
何処にか存在するに相違ないと、窃に心当たりを尋ねて居ると、それが一度田中家の幼女になったことのある、翁の実の姪に当る原田武子さんが持って居ることがわかった。
美濃半紙に表装して巻物になって居る。筆者を偲んでその肉筆に対すると、見ただけで、胸に熱気が動く。
「草莽の微臣田中正造、誠恐誠惶、頓首頓首、謹みて奏す。伏て惟るに、臣田間の匹夫、敢て規を踰へ法を犯して鳳駕に近前する其罪実に万死に当れり、― 伏て望むらくは、陛下深仁深慈、臣が狂愚を憐れみて、少しく乙夜の覧を垂れ給はん事を」
これが冒頭の原文だ。すると、翁の神経にこの「狂愚」の一語が触れたものと見え、狂の一字を墨で消して「至愚」と修正してある。
これを見て僕は様々な事を思ひ出した。
翁が始めて直訴を行った時、世間はこの事件の成行を懸念して重大視した。然るにたヾ一夜警察署に泊まったのみで、翌日翁は仔細なく開放された。世間は再びその案外の軽易に驚いた。
これは政府側の熟慮の結果で、「狂人」として取扱ったものだ。以後、田中正造の言行一切が「狂人」として無視されることになってしまった。
『政府の野郎、この田中を狂人にしてしまやがった』
と言って、翁は、笑ふにも笑はれず怒るにも怒られず、その奸智に嘆息されたことを、僕は覚えて居る。
僕は翁の直訴には終始賛成することが出来なかったが、その行き届いた用意を聴くに及んで、深き敬意を抱くやうになった。
『若し天皇のお手元へ直接差出すだけならば、好い機会が幾らもある。議会の開院式の時に行えば、何の造作も無い事だ。然しながら、議員の身でそれを行ったでは、議員の職責を侮辱すると云ふものだ』
翁は粛然として曾てかう語った。
武子さんの話を聞くと、用談云々の端書が来たので、直訴の前夜、芝口の宿屋へ尋ねて行ったさうだ。行ってみると、別に用談の景色も無い。翁は目を閉じて独り何か瞑想して居るのみで、さしたる用事のあるでも無いらしい。帰らうとすると、『も少し居よ』と言うて留める。けれど何の話があるでも無い。夜が更けるので、遂に立って帰った。
『私が帰ってから、伯父は幸徳さんへ出掛けたのでせう。私を呼んだのも、用事があったのではなく、暇乞の為であったかと思はれます』
と、武子さんは言うた。翁が死の用意をして居たことは、種々行動の上から推測される。<後略>


注)①直訴状の写真は、荒畑寒村:谷中村滅亡史、新泉社、から複写した。
  ②直訴状は幸徳秋水の書いた原文である。田中正造による添削のあとが見える。至る所に訂正印が押されている。

【引用文献】
(1)木下尚江:神・人間・自由/木下尚江集、筑摩書房
(2)荒畑寒村:谷中村滅亡史、新泉社

山本太郎参議院議員の問題行動について

2013-11-01 12:54:23 | 政治問題
時間がないので簡単に。
山本太郎の行為は明らかに天皇の政治利用だ。
山本太郎は参議院議員の職を即刻辞するべきである。
田中龍作なる三流ジャーナリストが、平成の田中正造だと讃えているが、とんでもない。似て非なるものだ。
ジャーナリストとしての自覚があるなら少しくらい調べて記事を書け。
田中正造は明治34年10月23日に衆議院議員を辞職し、同年12月10日に直訴している。直訴するために議員を辞めているのだ。

田中正造のよき理解者だった木下尚江は著書に次のように書いている。

翁が始めて直訴を行った時、世間はこの事件の成行を懸念して重大視した。
然るにたヾ一夜警察署に泊まったのみで、翌日翁は仔細なく開放された。
世間は再びその案外の軽易に驚いた。
これは政府側の熟慮の結果で、「狂人」として取扱ったものだ。
以後、田中正造の言行一切が「狂人」として無視されることになってしまった。
『政府の野郎、この田中を狂人にしてしまやがった』
と言って、翁は、笑ふにも笑はれず怒るにも怒られず、その奸智に嘆息されたことを、僕は覚えて居る。
僕は翁の直訴には終始賛成することが出来なかったが、その行き届いた用意を聴くに及んで、深き敬意を抱くやうになった。
『若し天皇のお手元へ直接差出すだけならば、好い機会が幾らもある。議会の開院式の時に行えば、何の造作も無い事だ。
然しながら、議員の身でそれを行ったでは、議員の職責を侮辱すると云ふものだ
翁は粛然として曾てかう語った。


【参考文献】
木下尚江:神・人間・自由/木下尚江集、筑摩書房