南直哉恐山菩提寺院代の「一番の供養は故人を想い出すこと」の言葉に救われた
私が恐山を訪れたのは、いつの頃だったろうか。その時の写真は今も手元にあるのだが、写真の私はずいぶんと若い。おそらく30代の頃だったろう。まさに遠い昔のことではあるが、その時の恐山の奇異な風景は今でもはっきりと脳裏にある。
そんなことを思い出しのも、南直哉著『恐山 死者のいる場所』(新潮社刊)を読んだからだ。いや、逆で、一度訪れたことのある恐山についての本であり、少しだけ恐山を知りたい、読んでみたいという思いからの読書だ。
それにしても、恐山に菩提寺があることすら知らなかった。そんな恐山について、さすが住職の娘さんと結婚し、今は院代(住職代理)である著者の恐山についての記述には、大いに学ぶことができた。また機会があれば、恐山を訪れてみたいとも思った。
その南直哉院代の著書に掲載された略歴には、「1958年生まれ、84年に出家。永平寺で約20年間の修行生活を経て、05年より恐山へ」と書かれている。私は永平寺も何度か訪れている。
さて、南院代の現代の仏教についての率直な見解に、私も同じような思いを持っていただけに共感した。それは現在の仏教が「葬式仏教」と堕しているのではとの疑問だ。南院代は、そのことについて以下のように書いている。
「どう葬ろうと、葬る人の自由です。仏教の教義をどんなに検討しても、そこから直接現在のような葬式をしなければいけないという確実な根拠は、引き出せません。仏教僧が葬式をできるのは、それを望む人がいる限りにおいてです。したがって、今後も僧侶が葬式に関わりたいと思うなら、仏教のファンを増やし、僧侶への信頼を培い、『仏教僧侶であるあなたに自分の葬式をして欲しい』と、檀家なり信徒なりに言ってもらう努力をするしか、対策はないのです。私は巷間言われている『葬式仏教』に未来はない、と思っています」。
そしてまた、私が南院代の考え方に共鳴したのは、以下の言葉だ。そして何より「一番の供養は故人を想い出すこと」の言葉には、救われた思いでいる。
人間だけが人間を看取ります。
人間だけが人間を埋葬します。
そして、人間だけが故人を想い出します。
お野菜を植えるピークは過ぎたが、まだまだ作業はたくさんあり忙しい日々だ
今日タイムに行って、お野菜の苗や花々を販売しているコーナーのレジの方に、もう「ピークは越えましたか」とお聞きするに、「格段の違いです」とのお返事が返ってきた。
全体的にはピークを過ぎたとは言え、我が畑での作業はいくらでもすることがある。昨日は所用もある中で、畑作業を夜7時30分頃まで頑張ったが、草抜きはできないままだった。
今日植えたのは、ご近所の方からいただいた四角豆の苗、茄子の第二陣の苗(第一陣は、もうずいぶんと楽しませてもらっている)だ。少し遅くなったが、モロヘイヤの種も植えた。
そして、スイカなどへの追い肥などもやった。することは山程ある。夜、お風呂に入ると足は怠く、いささかに疲労感が激しい。それでも収穫を思うと、頑張れるというもの。