うさぎ年の今年の大晦日、田中屋さんに年越そばを買いに行き広榮堂でお茶した
年末のお掃除はハナから諦めており、お正月に訪れる人とていない我が家であり、大晦日だからといって私は格別の用事とてない。
以前は31日は映画を見て過ごしたものだが、今では「お正月映画」なる風習は消えてしまっていて、観たい映画もない。そうなると、本を読んで過ごす以外にはない。
今年の大晦日も昨年に続いて、年越そばは長岡にある田中屋さんにお願いしていた。田中屋さんには茶そばや冷や麦などで年間を通じてお世話になった。田中屋さんは27日から、ずっと年越そばを作られているとのことだ。
そして、またもや本を片手に、広榮堂藤原店でコーヒータイムとした。クリスマスにも働いていたSTAFFの方が、今日も頑張っておられた。こうした方々がいてくださるから、安らぎの時間を過ごすことができる。感謝、感謝だ。
うさぎ年の今年も、もう少しで終わろうとしている。年越そばにのせる天ぷらは、これも例年通りで北方にある「松木てんぷら店」に、これから買いに行く。
泣いても笑っても、今年は今日限り。今年もこのブログを内容は別にして、毎日書き続けることができた。訪問いただいたみなさんに心から感謝する。日記代わりであり、加えてつたない文章ではあるが、来年もよろしくお願いする。
今年一年、ご縁をいただいたみなさんに心から感謝する。良いお年をお迎えを。
今年・2011年も今日限り、東日本大震災&東電原発事故は決して忘れてはならない
今年の「第53回日本レコード大賞」はAKB48の「フライングゲット」が大賞を受賞した。私的には「Everyday、カチューシャ」かなと思うのだが。ま、今年発売したシングル全てがミリオンの実績を考えると順当な結果か。来年の今日、AKB48は今の勢いを保ち続けているだろうか、少しだけ興味がある。
ところで、最優秀新人賞を受賞したのは平均年齢13歳の7人組ガールズグループ・Fairiesだった。私は名前も聞いたことのないグループで、ミーハーの私としてはとても悔しい。
さて今日は大晦日、今年も今日限りだ。出会いがあり、別れもあった。嬉しいことがあり、悲しいことたくさんもあった。でも、今日という日を元気でいられることに感謝している。
そんな今年は、誰にとっても忘れることのできない、そして忘れてはならない年となった。言うまでもなく、東日本大震災&東電原発事故による被害だ。地震と大津波によって、一瞬にしてかけがえのない命も日常も、そしてまちも奪われた。追い打ちをかけて人災と言うべき東電原発事故によって、故郷を追われ、農業や酪農での暮らしを奪われた。
そんな東日本大震災に関わって、今年たくさんの本を読んだが、昨日二冊の本を読み終えた。石井光太著『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)、そして生島淳『気仙沼に消えた姉を追って』(文藝春秋)だ。
そして、昨晩はフジテレビ「わ・す・れ・な・い」(東日本大震災 ~命の記録)を見た。「映像に残された紙一重…生と死の境」が次々と放送された。そう言えば、生島淳さんの津波にのみ込まれて亡くなられたお姉さんは、お母様の法事で当日の15時くらいにタクシーで駅に向かう予定であったと推測されていた。ほんの一瞬が生死を分ける、その恐ろしさを実感もした。
昨晩は、改めて大震災が起こった直後に発行された新聞社などの「臨時増刊号」等を読んで過ごした。
ランチを兼ね「エスプリ」でコーヒータイム、ぼんやりと過ぎゆく今年を振り返った
今年も残る二日、やっと今日は部屋の片付けをする気になった。このところ、机の上を片付けたら終わりだ。
さて今日は、パートナーは娘と倉敷・アウトレットモールへと出かけた。少しだけ部屋を片付けると、もうタイギになってくる。そうなると、コーヒータイムが必要だ。ランチも兼ねて、本を片手に、今日も「エスプリ」に行った。
食後のコーヒーを飲みながら、ぼんやりと今年を振り返った。今年も旅行が少なかったなと、少しだけ寂しく思った。今年は1月に松たか子の舞台を観るために東京へ行ったのみだった。隔年で行っている富良野に今年は行かず、ほぼ毎年行っていた湯布院には二年連続して行っていない。パスポートは、もう期限切れとなってしまった。
そうした中で、我が身辺での最大の変化は、ご縁をいただいた畑で春過ぎから野菜作りを始めたことだろう。全くしたことのなかったお野菜作りだが、様々な方に教えていただいて、新鮮なお野菜を楽しむことができた。
そして、自分で育てて収穫したお野菜は食べる、それも大きな変化だ。今年になって、というか自分で育てるようになって、初めてオクラやモロヘイヤ等々を食べるようになった。しかも自分で料理して、だ。自家製のお野菜を使って家族のために食事を作り、野菜をしっかり食べる、今年の我が暮らしの最大の変化だ。
その畑には今300本のタマネギを植えているが、来年しっかり収穫できることを願っている。それと同じように、我が暮らしも来年は順調であって欲しいと願った。
今年ずいぶんとお世話になった「エスプリ」も、今日で今年の営業納め。店内はもうお正月モードの飾り付けがされていた。我が家のお飾りも、一夜飾りを避けて今日飾り付けた。
綿矢りさ著『かわいそうだね?』を読んだ、いつもながらの会話の妙に惹かれた
綿矢りさ:「高校在学中「インストール」で文藝賞を当時最年少の17歳で受賞しデビュー。大学在学中の2004年、「蹴りたい背中」により19歳で芥川賞受賞(金原ひとみと同時受賞)、同賞の最年少受賞記録を大幅に更新し話題となる。127万部の大ベストセラーとなる」。
その綿矢りさが10代で芥川賞を受賞して社会現象となっていた頃、彼女が在学中の早稲田大学構内へ所用で行ったことがある。そこでお会いした方に、綿矢りさに坪田譲治文学賞の関連で岡山に講演に来てもらえないかなと、雑談の中で少しだけ打診したことがある。当然だが、それは無理だろうとの話だった。
ともあれ、そんな綿矢りさを注目して、デビュー作以来の著作を買い求めては読んできた。しかし、今回の「かわいそうだね?」だけは、いつものように公民館経由で図書館で借りて読んだ。「かわいそうだね?」の内容を、以下のように紹介している文章がある。
「しっかり者だけど甘え下手な樹理恵と、恋人の隆大。そして隆大の元カノで自由奔放なアキヨ。物語は、住む場所をなくしたアキヨが隆大の家で暮らし始めることから始まります。三者三様の思惑が交錯する恋の行方は?」。
いつもながら、会話の妙と女心の微妙さが書き込まれていて、ぐいぐいと引き込まれて読んだ。ラストは圧巻だ。読み終えてから、この作品が週刊誌(週刊文春)の連載小説と知った。私は綿矢りさは純文学しか書かないと勝手に思い込んでいただけに、少しだけ驚いた。
そう言えば「硬派」で知られる大江健三郎も、雑誌「婦人公論」に連載した小説がある。『夜よゆるやかに歩め』(講談社刊)だ。私が大江の単行本で唯一カバーのないのが、この『夜よゆるやかに歩め』だ。ただし、初版本ではある。そして、講談社ロマンブックス版も書棚にはある。この小説は、大江の意思で絶版にしている。大江の意思で出版できないのは、「セブンティーン」第二部の「政治少年死す」だ。私はガリ版刷りの冊子で所有している。
ずいぶんと横道に逸れたが、私は綿矢りさがさらに素晴らしい作品を書き続けてくれることを願う者だ。今後も注目していこうと考えている。
その綿矢りさが新著『かわいそうだね?』の中で、「クリスマス」について次のように書いている。「正月と同じくらいの巨大な行事に成長したクリスマスは、その年の通信簿を兼ねている。今年を充実して過ごし、人と良い関係を築けた人間はわいわいと親しい人たちと楽しいクリスマスが送れるし、一人でも充実した日々を送れた人ならクリスマスに一人でもべつに落ち込まずに淡々と過ごせるだろう。でもさびしがりやのくせに人間関係をおろそかにしてきた人や、私のように人間関係のごたごたを解決できないまま12月を迎えた人間は、最低の通信簿をもらう」。私の今年の通信簿も良くはなかった。今年は寂しいクリスマスだった。まだクリスマス気分が抜けない。来年は頑張ろうと思う。
ところで、綿矢りさのデビュー作「インストール」は映画化されていて、今CMに引っ張りだこととなっている上戸彩が主演している。我が部屋には、その映画のポストカードやクリアホールダーもある。上戸彩が気になっていた訳でもないのに、何故買ったのかわからない。我ながら何ともあきれ果てている。
歌人・永田和宏の「がんと向き合う6冊」を読んだ、1冊だけ読んでいなかった
昨日は官公庁の御用納め。私も現役の頃はその日がずいぶんと楽しみであったし嬉しかったものだ。ただ、まだたくさんの方が働かれている。私は既に仕事納めをさせていただいているが、私がお役をいただいてる法人が運営する病院や診療所、そして介護事業所も当然だがオープンし、みなさん働かれている。
そうして中で、今年も今日を含めて3日を残すのみとなった。一年間のツケがたまっている部屋の片付けをしなければと思いつつ、本を読んで過ごしている。畑作業は、来年にさせてもらおうと横着を決め込んでいる。
今年は老い方、逝き方に関わる本をたくさん読んだように思う。もう一昨日となったが、歌人の河野裕子さんの夫で歌人・細胞生物学者の河野和弘さんが、「がんと向き合う6冊」と題した寄稿を、朝日新聞に寄せている。
その6冊の中の5冊は読んでいた。垣添忠正著『妻を看取る日』(新潮社)、川本三郎著『いまも、君を思う』(新潮社)、津村節子著『紅梅』(文藝春秋)、立花隆著『がん 生と死の謎に挑む』(文藝春秋)、河野裕子著『蝉声』(青磁社)だ。しかし、戸塚洋二・立花隆著『がんと闘った科学者の記録』(文藝春秋)は読んでいなかったので、早速予約カードに書き込んだ。
この河野さんの寄稿は、朝日新聞の「がんを知る」(全ページ編集)欄に掲載されている。その同じページには、「野の花プロジェクト」を展開している岡山大学緩和医療学講座松岡順治教授の談話も、大きな紙面を割いて掲載されている。今年の「野の花プロジェクト」の倉本聰の講演を聞きに行った際に、野本教授のお話も聞いた。
今年も残り少なくなったと思って、少しだけあれこれと考えている。今年も変わらず自堕落な暮らしが続いているが、それでも少しだけ本を読み、講演会などにも参加した。そのことは、「よし」としたい。
そんな今年には切ない別れがあり、嬉しい出会いもあった。憧れている方から、思わぬ嬉しい言葉をいただいたりもした。世の中、生きていればいろいろある。
来年もともあれは健康で過ごせることを、そしてたくさんの幸せな出会いがあることを願いつつ、そろそろ部屋の片付けをしなければと考えたりもしている。
外山滋比古著『「いつ死んでもいい」老い方』、積極的に生きるべきと刺激を受けた
「自分をはげますために、ピンピンコロリの生き方について書いてみよう、老人にとって残されている唯一の社会貢献は、まわりの人になるべく負担をかけず、医療費もなるべくすくなくすることだと思う。世のため人のために元気で生きる。その心意気を自分に言い聞かせる本を書こうと思った」。
外山滋比古がその著書『「いつ死んでもいい」老い方』(講談社刊)の「あとがき」に書いた文章だ。まさにその趣旨通りに、著者の極めてアグレッシブな生き方が披露されていて、「元気に生きよ」とのたくさんの刺激をいただいた。
著者は著書の中で、「朝は仕事がはかどる」と書いている。同じく朝型人間の私は、「その通り」と深く頷いたりもした。「現代の夜行性文化、動物的な夜行性思想を脱却するには朝に生きる高齢者の力が大きい。老人力によって新しい文化の時代を拓くことは、たのしい夢である」と書いている。
また私が始めたいと考えている「朝食会」などのような四方山話をする「おしゃべり会」の役割の大きさを指摘し、次の3つの条件を満たせば仲間は誰でもいいと書いている。「①仕事がまったく違っていること、②あまり能力が高すぎないこと、そして③ケチをつけることをえらいことと勘違いしていないこと」、の3条件だそうだ。
そして、その「おしゃべり会」では何の決まりもないが参加しているめいめいが心がけていることは、「①ひとつは具体的な人の名は出さない、②二つ目は『だった』ではなく『である』という話をする。『だろう』『かもしれない』がよろしい③本に書いてあったことを受け売りしない。間違ってもいい、自説を出す、④人の言ったことに批評を加えない、の4つだそうだ。著者は「現実には簡単にできることではない」と書いてある通りで、難しいが心したいと思う。
私も今年「前期高齢者」の仲間入りをしたが、著者・外山滋比古は88歳で今なお元気だ。「退職して、30年近く生きなければならない現代人にはおのずから積極的な生き方が求められる」とも、著者は指摘している。「いつ死んでもいい」ように、より充実した日々を送りたいと思う。いい本を読んだ。
「モーニング&ダベリングの会」(仮称)を始めたいと思い、友人と語り合った
過日このブログでも書いたが、「もーダメ会」(「もーダベ」→「もーダメ」仮称、モーニング&ダベリングの会)という「朝食会」を始められたらという希望を持っている。外山滋比古著『「いつ死んでもいい」老い方』で刺激を受ける前から少しだけ考えていたことだが、その本を読んでいっそう思いを強くしている。
そんなことを、昨日友人に相談してみた。たくさんのヒントももらった。ありがたいことだ。
それにしても、昨日友人と語らったエスプリも今年一年、よく利用させてもらった。そのエスプリも年内の営業は明日まで。お世話になりました、だ。
畠瀬本店で今年の最後となるランチを楽しんだ、メニューにぜんざいがあり大喜び
今年私がランチでお世話になったのは、たのたの庵と畠瀬本店(食品部)。たのたの庵は27日で年内はお店じまい。そして畠瀬本店は、今日がお店じまいだった。この二つのお店には、一年間を通じて本当にお世話になった。いつも美味しいランチを食べさせていただくとともに、心安らぐ時間を過ごさせていただいた。いくら感謝してもし過ぎることはない。
さてそうした中で、昨日は畠瀬本店で今年最後のランチを楽しませていただいた。お店に到着して、入り口の前に出されている「メニュー看板」を見て、「やったー」と思わず声が出た。
週替わりが「自家製みそのジャージャー麺」で、結構好きなメニューで嬉しかった。それ以上に嬉しかったのが、その隣に27日・28日のみの限定メニューとして「ぜんざい」が書かれてあったことだ。
いつも店主さんに、「ぜんざいをしてよ?」とおねだりをしていたので、それに答えていただいたのだろうと思い、そのお心づかいとともに、大好きなぜんざいを食べられることをとても嬉しくなった。
そうは言っても「ジャージャー麺」も好きなので、麺を少なめにしてもらい、その後「ぜんざい」を食べることとした。「週替わり」とオーダーすると、店主さんが以外というお顔をして、「ぜんざいではないの?」と言われた。お値段が300円とデザートなっていたので、食後のデザート代わりで「ぜんざい」を食べようと思ったからだ。
さて、そのぜんざいが出されてきて驚いた。大きな器にいっぱいのぜんざいがあった。大好きとは言え、その量の多さに驚いた。麺を少なめにとお願いしたので、その分ぜんざいを多めにと、お店が気を利かせてくれたのかなとも思った。そのお心づかいが嬉しく、感謝しつつ全部美味しくいただいた。
さすがに、コーヒーを飲むだけのお腹の余裕はなかった。翌朝体重を量ったら、1.5キロも増加していた。畠瀬本店での今年最後のランチは、思い出に残るランチとなった。「ぜんざい」をメニューに加えてくれた優しさに、心の中で「ありがとう」と言ってお店を後にした。
寒風が吹く大供公園で、恒例の市連合婦人会の「青空市」が盛大に開催された
私はある時期、消費生活行政を担当していたことがあり、連合婦人会の皆様には大変にお世話になった。私がその頃から、「青空市」で年末のお買い物をさせていただいている。
私が消費者行政を担当になった当時は、市連合婦人会の会長は、もう故人となられているが、横山民さんだった。統率力にたけ人間的魅力にあふれた方で、大変にお世話になった。横山会長まさにカリスマ的な存在であったが急逝された。昨日、「青空市」でお買い物をしていて、そんなことを思い出したりもした。
さて「青空市」は、「いい品のお正月用品を、よりリーズナブルに」と、売り手は全て婦人会のみなさん。人件費が不要なだけでも、お安くなる。1975年から始められているとのことだ。公園での開催であり、寒風が吹き抜ける。おそろいのジャンパーで、ホント、ご苦労なことで頭が下がる。たくさんの方が、買っておられた。
「青空市」では、いろんなお正月用品と同時に、お花や鯛焼きも販売されていた。とても大きな鯛焼きであったが、あん好きであり買い求めた。そしてすぐに食べた。その後、ランチでぜんざいも食べたためか、今朝の体重は1.5キロも増加した。
その前夜は、会議で出された宅配のお弁当のみであった為か、翌朝は1キロ減っていた。ナント増減の激しい日々だろう。いよいよ年の瀬、そしてお正月、このところ増え続けてきた体重を3キロは減らさないといけない。ダイエットを頑張ろうと思う。
「東日本大震災」を報道した地元紙の『河北新報のいちばん長い日』に感動した
2011年の最大の出来事は、「東日本大震災」ということは誰も異論がないだろう。その3月11日午後2時46分には、私は自宅でテレビを見ていた。旧作のテレビドラマが突然打ち切られ、地震報道に切り替わった。
その日はドキュメンタリー映画「無言館」の完成披露試写会での外出前だった。帰宅して、津波の激しさをテレビで見た。この世のものとは思えなかった。
その10年前の9月11日のニューヨーク・テロもテレビで見ていた。マンハッタン高層ビルへ飛行機が突っ込む光景を、現実とは思えないある種不思議な感覚で見ていた。私がニューヨークを訪れた翌年のことだ。
さて、今年の「東日本大震災」は誰にとっても衝撃を受け、記憶から消し去ることのできない未曾有の事態だったことは間違いない。
その「東日本大震災」と地元新聞社はどのように向き合い、報道し、読者の許に届けたのかを記録した本を読んだ。河北新報社刊『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』(文藝春秋刊)だ。まさに感動の一冊だ。
新聞製作、輸送、配達を河北新報グループが一丸となって、大震災の困難の中でも途切らず、「河北新報」を発行し届け続けた記録は実に心を打った。もちろん新聞制作のための取材活動の苦労が中心だが、それを支えた後方支援部隊、輸送や配達の舞台の苦労も克明に記録されている。改めて新聞の果たす役割の大きさを確認もした。歴史に残したい一冊だ。
この本の中で、震災後1ヶ月経って記者たちへのアンケートの回答も掲載されている。その中で、その時々の判断について「正解だったのか、今も答えを得られずにいる」というのが、いくつも紹介されていた。
私もこれまでの人生の中で、「山場、土壇場、そして修羅場」を幾度となく経験してきたが、その時々の判断が正しかったかどうか今でも考えることがあるが、それでもその時々で「これしかない」と心に決めて前に進んできたように思う。そんないくつかの場面を思い出したりもした。
さて、この本の中で、「普通の日常がいかに貴重か」というフレーズがある。今年はその言葉の重みを実感して生きてきたように思う。「普通の日常」を大切にして、今年の3・11をしっかりと我が心に刻んで、残された人生を歩いて行きたいと考える。