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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖香ちゃんとピースボート

2009年05月19日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!聖霊、来たり給え!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 松本聖香ちゃんのことを教えていただいて、聖香ちゃんのことを考えています。

 何故、松本聖香ちゃんの「お父さん」は、お母さんは、聖香ちゃんをあんなに残酷に取り扱ったのでしょうか!?聖香ちゃんは「新しいお父さんに殴られた」と言っていました。

 「新しいお父さん」は聖香ちゃんを震える寒いベランダに出したり、ご飯をあげなかったり、また、ぐたぐたになって失禁している聖香ちゃんを殴ったりしました。

 子供は、天主様から委ねられ、委託された預かりものです。親の自由に処分できるペットではありません。聖香ちゃんの「お父さん」は、聖香ちゃんを自分の思い通りになる所有物であると錯覚していたのでしょうか。

 天主様は、親にその責務をどのように果たしたかを最後に審判したまうことでしょう。子供は、特に、イエズス・キリストの愛する対象です。この幼い霊魂をつまずかせるような者は、首に挽き臼の石をつけて海に沈められた方がむしろ良いと主は厳しく言われました。

 聖香ちゃんの「お父さん」は、聖香ちゃんを自分の思い通りになるオモチャのように考えていたのかもしれません。わしは親やで。わしの新しい方針はこうやで。妻の昔の子供はイヤや、要らんわ、わしの自由におもろいようしたらええんや、わしが手作りで、思い通りの新しい家庭を作ったるわ。これからは、みんなさらにするで。全て新しゅうするで。うちが決める。昔とは、違うで。あの女の昔の子は、いらんで。いじめといたる。

 この受けた預かりものを自分のものとする錯覚が、与えられた伝えられた者を、俺の思い通りに変えるこのができるという思い込みと無知が、あの聖香ちゃん遺棄の悲劇を生み出してしまったのではないでしょうか。究極には、天主様を認めないことによる人間中心主義の悲劇を。

 聖香ちゃんには、本当のお母さんがいたけれど、お母さんはお父さんの前で無力でした。お母さんもお父さんから殴られることを恐れていたのでしょう。新しい夫の気に入るように、新しい方針を受け入れたのでしょう。自分の過去を憎んだのでしょう。

 聖香ちゃん、つらかったでしょう。

 人間って弱いものですね。口ではうまいことをうそぶいても、暴力の前におじけてしまうから。

 聖香ちゃん、寂しかったでしょう。

 お父さんといえど、お父さんとは何かよく理解していないと、自分の守るべき宝に暴力をふるってしまうから。

 聖香ちゃん、どれほど悲しかったことでしょう。

 天主様に逆らう人間は、原罪に傷ついているから、誤解や無知や悪意で、暴力をふるってしまうから。いくら憲法九条があっても、いくら憲法九条が戦争を放棄しても、暴力が存在しているから。

 聖香ちゃん、聖香ちゃんはそんなこと身にしみて知っているよね。

 そんなことは、ピース・ボートの人でも知っているから。日本には憲法九条があるから戦艦は要らない、海自の派遣反対、と言って主張しながら、実は、憲法九条があっても日本人は攻撃を受けるから、戦艦が必要だ、他の人々は要らないけれど、ピースボートの私たちには必要だから、海上自衛隊に守ってもらうってお願いしているから。

 聖香ちゃん、聖香ちゃんには守ってあげる良いお父さんが必要でした。

 ピース9の人々も、無防備宣言都市を推進する人々も、家には鍵をするし、お金は金庫に入れて厳重に守っているし、コンピュータにはセキュリティーソフトを入れているから。だって、盗賊が武器を持って銀行強盗しようとする時に、この銀行の○○支店は、セキュリティーを解除しました、警備員はいません、って言ったら強盗が喜んでくるだろうから。無防備宣言ではなく、無謀宣言ですから。

 聖香ちゃん、でも、弱い子供はそんな「新しいお父さん」に対してどのようにしたらいいんだろう。殺されるがままに、黙って、抵抗もしてはいけない、お父さんの言うことを素直に聞かなければいけないんだろうか!?(ピース9の人々は、そんなこと言いそうですね?)

 緊急事態だから、必要の状態に迫られて、生き残るために、いくら新しいお父さんが学校の先生にいいつけたらあかんと言われても、先生に助けて!って言ったらいけなかったのだろうか。そんなこと小さい聖香ちゃんには、分からなかったよね。

 一人でどうしていいかわからなくて、苦しみながら命を落としてしまった聖香ちゃん。

天主の御母聖マリア様、聖香ちゃんのために、イエズス・キリスト様から憐れみを取り次いで下さい。

天主の御母聖マリアよ、願わくは、私たちをして、聖香ちゃんのような場合、天主様から与えられ伝えられた命を、守ってあげる緊急の状態が生じることを良く理解させてください。

天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ソウルにて、聖香ちゃんという名前がグレゴリオ聖歌や聖伝と重なって見えつつ

松本聖香ちゃん

2009年05月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 松本聖香ちゃん(9歳)が、ベランダに出されて、親からいじめられ、ご飯さえろくに与えられずに、遺体で見つかったという事件のことを最近教えてもらいました。

 「お父さん」から、おまえなんか要らない、臭い、などと言われ続けた聖香ちゃん。

 ご飯も食べさせてもらえなかった聖香ちゃん。

 お父さん、お母さんと一緒に家にいたかったはずなのに、聖香ちゃんが聖香ちゃんだったから、聖香ちゃんが、母親の昔の子供だったから、受け入れてもらえなかった。

 誰も守ってあげることができなかった聖香ちゃん。

 お母さんに、もう少し勇気があったのなら、「お父さん」も虐待を止めただろうに。

 隣人も先生も、大人はみんな自分の都合を考えていたのかもしれない。法律の話しをしていたのかもしれない。「お父さん」がああいう説明をしているのだから、お母さんが聖香ちゃんはよく嘘をつくと説明しているのだから、聖香ちゃんが悪いのだろう、聖香ちゃんが不従順なのだろう、聖香ちゃんの訴えよりも不登校の現実よりも、お母さんの説明を信じて聖香ちゃんが悪いことにしよう、と。私たちには関係ないし、聖香ちゃんの言うことを聞いてトラブルかもしれない、と。

 新しくきた「お父さん」の方針は、狂っていた。この男は、酒を飲むと本性を現した。聖香ちゃんに対する憎しみを現した。

 聖香ちゃんが、この男にとって邪魔だった。自分のものではなかったから。新しい自分の子供ではなく、与えられた伝えられた子供だったから。

 天主の御母聖マリア様、聖香ちゃんの霊魂に、天主様の憐れみを祈って下さい。

 聖母マリア様、聖香ちゃんのお母さんに、「お父さん」に回心と痛悔の恵みを執り成してください。

 天主の聖母よ、新しい第二バチカン公会議の精神によって、いわばベランダに出され「破門」されて、おまえなんか要らないと言われ続けた聖伝を、誰かが立ち上がって守ってあげなければそのまま遺棄されようとしている聖伝を守るように、勇気ある行動を、私たちをして取らしめ給え。


天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

鋭い知性とは

2009年05月17日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 よく「一を聞いて十を知る」と言いますが、知性の優れた方はそうですね。

 私たちは普通、甲は乙、乙は丙、従って、甲は丙、と理解します。しかし、知性の鋭い方は、すぐに甲は丙!と結論まで見通すことができるのです。

 ものごとの原理・基礎・始めは大切で、ここでほんの少しでも狂うと、重大な結果の誤りに辿り着いてしまいます。ミサイルも、最初に少しでも角度が狂うと、到着地点が狂うようなものです。

 ダムを崩壊させるのには、小さな穴を開けるだけで十分ですし、タンカーのような巨大な舟も、小さな穴一つが開けば沈没してしまいます。

 ものすごいエンジンを持ったポルシェも、ハンドルの切り方が少し狂えば、スピードが出ていればいるほど、大事故につながります。電車であれば、少しの狂いで始まった事故も、乗客が多く乗っていればいるほど大惨事になります。

 鋭い知性の持ち主は、そのたったほんの少しの狂いでも理解して、その狂いの結果どれほどの大きい狂いが生じてしまうかがわかってしまうのです。天才なのです。

 あまりに天才的理解なので、私たち凡人には、そのような天才的理解を、天才が生きている間には理解することができないこともあるでしょう。

 ベネディクト十六世は、2005年の聖金曜日に、教皇に登位する前に、カトリック教会を沈没しかかっている舟に例えました。何故でしょうか?何故、不沈のカトリック教会が今、沈没しかかっているのでしょうか?カトリック教会の大部分のメンバーが「沈黙の背教」(ヨハネ・パウロ二世)を行っており、カトリック信仰を失っているからです。カトリック教会の司教でさえも、キリストと七福神とを同じレベルで考えているからです。ベネディクト十六世は、カトリック教会の現実を知り尽くしてこう言ったのです。司祭も信徒も虚ろな心でミサをしている、と警告したのです。カトリック教会における表面化された現象を見て、内部の危機つまり信仰の危機を見抜いたのです。

 世間一般の方々の中には、このカトリック教会の全世界的な信仰の喪失という事実にまだ気がついていない鈍い方もあります。それを認めたくない方もいます。信仰のことはどうでもよく政治のことと勘違いしている方もいます。この世で権力にありつければ後は何でも良い式に考えている方もいます。だから多数派でいるために教会の危機について認識することは都合が悪いのでしょう。

 しかし、ベネディクト十六世はその優秀な知性でこの信仰の危機の現実を見抜いています。そのことをはっきりと発言しています。

 今から45年前、第二バチカン公会議の内容を理解して、その結果を見通して惨憺たる結果になることを見抜いた司教がいます。聖霊に照らされ、この司教は結果まで見通すことができました。ほんの少しだけど、第二バチカン公会議の一部の原理が狂っているために、時間とともに、その原理が徐々に適用されて、ますます正しい道から外れてしまうだろうことを見抜いたのです。この司教は、当時、聖霊修道会の総長、元ピオ十二世の教皇使節、ルフェーブル大司教です。

 ルフェーブル大司教は、第二バチカン公会議の適用として、新しいミサができた時、ラテン語でできたその新しいミサを見て、この新しいミサが持つ狂いのために、時間が経つにつれてこのミサがどっちの方に飛んでいってしまうのかを見抜きました。このミサによって、人々が信仰を失ってしまうだろうことを見抜いたのです。たとえラテン語のミサであっても新しいミサが本質的に持つ性格によって、カトリック信徒は信仰を失うだろうことを理解しました。

 ただし、この聖なる司教の鋭い信仰が理解したことを、必ずしも人々が理解できたとは限りません。かえって、ルフェーブル大司教様の天才的理解は、誤解され、罵りの対象となりました。しかし、ルフェーブル大司教様は、カトリック教会のために自らを犠牲としても、カトリック教会に備え付けられた「時限爆弾」が爆発しないように、それを取り除くために身を投げ出したのです。ルフェーブル大司教様は、考えられる全てをしました。バチカンに足を運び、枢機郷たちに会い、教皇様に会い、発言し、全てをしました。

 私たちは、このような聖なる鋭い知性の持ち主なる司教であるルフェーブル大司教を受けるにふさわしくないものでしたが、私たちにこのような偉大な信仰の男を与えてくださった天主様に感謝します。

 今からちょうど100年前の1909年2月28日、北海道旭川の塩狩峠で、いきなり乗客を乗せたまま、少しの狂いで連結器がはずれ、滑り落ちだした列車。それを止めて多くの乗客の命を救うために自分の命さえ投げ出した方がいます。長野政雄さんです。乗客とその家族は、どれほど長野政雄さんに感謝したことでしょうか!!日本全国がその勇気ある心にどれほど感動したことでしょうか!!簡単に真似できることではありません。

 今からおよそ45年前、第二バチカン公会議による「悪魔的な方針の誤り」(シスター・ルチア)のために、それによって、カトリック教会は聖伝との連結器を外して、現代化をはかろうとしました。そのために、多くの信徒たちをつれて「沈黙の背教」(ヨハネ・パウロ二世)の坂を下り落ちだし、「沈没しかかっている舟のよう」(ベネディクト十六世)なカトリック教会。それを止めるために、自らの名誉と命さえも投げ出して、聖伝と連結さえようとし続けたルフェーブル大司教。多くの人は、何のことか理解できず、非難を浴びせました。

 ルフェーブル大司教の後継者として、フェレー司教は、カトリック教会の全体的善のために、この暴走を止めるために、身を投げ出し続けています。無理解な方々からは「聖ピオ十世会は第二バチカン公会議を受けないからダメだ」と、その何故かを理解したくない方々から非難を受けつつ、そうすることによって信仰の問題に目を向けさせようとしているのです。

 聖ピオ十世会が、司教に「従順」し、「合法化」するには、カトリック教会の過去の教えに矛盾しなければなりません。過去に排斥され禁止されていたことを、実践しなければなりません。そして、カトリック教会の全ての信徒の方々に、過去との断絶を押し付け、カトリック教会の崩壊とカトリック信仰の喪失に協力しなければなりません。

 たとえ非難と無理解に押しつぶされ、踏みつけにされ、名誉を傷つけられたとしても、聖ピオ十世会は身を挺して、教会の危機を止めることを望んでいるのです。ルフェーブル大司教様の尊い遺志を継いで。カトリック教会の危機を止めるために。

 受けるにふさわしくない私たちに、ルフェーブル大司教というこのような偉大なカトリック司教を与えてくださった天主様に感謝します。願わくは、弱き愚鈍な私たちをして、教会の危機の暴走を止めるために少しでも、何かすることができますように!

ファチマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
聖母マリアの汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

追伸:今日のミサ聖祭では、初めて聖伝のミサ聖祭に与った方が6名いました。天主様に感謝!

1864年12月8日(「クァンタ・クーラ」) vs 1965年12月7日(第二バチカン公会議)

2009年05月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 1862年、モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)が、「革命」(La Révolution)という小冊子を出版したとき、教皇様はピオ九世でした。

 その二年後、ピオ九世は有名な「シラブス」「クァンタ・クーラ」を発表します。このシラブスの中で、ピオ九世は啓示(Revelation)と革命(Revolution)とが相互に排除しあうものであること、絶対的な対立があり、妥協も調和もあり得ないことを宣言します。

 シラブスの最後の排斥命題は、次の通りです。

LXXX. Romanus Pontifex potest ac debet cum progressu, cum liberalisnio et cum recenti civilitate sese reconciliare et componere.

80 教皇は進歩、自由主義、現代文明と和解し、妥協する事ができるし、またそうしなければならない。

 モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)が生きていた当時、リベラリズムに対抗して闘っていたその指導者はローマ教皇でした。何故なら「最高の反革命家、それは天においては私たちの主イエズス・キリスト、地においてはその代理者なる教皇である」(モンシニョール・ド・セギュール)からです。

 モンシニョール・ド・セギュールは、フリーメーソンのアルタ・ヴェンディータの計画をよく知っていました。アルタ・ヴェンディータ(Alta Vendita)とは、フリー・メーソンと繋がっていたイタリアの秘密結社カルボナリ党の最高ロッジでした。

 その計画によれば「もしも性急に事を運ばないならば、私たちはあなたたちに奇跡的な漁を約束しよう・・・あなたたちは教皇三重冠をつけ教皇カッパを来た革命を説教することになるだろう。Vous aurez prêché une révolution en tiare et en chape, marchant avec la croix et la bannière 」 (Le complot de la Haute Vente des Carbonari)

 つまり「教皇による革命のイデオロギーの大勝利 "triomphe de l’idée révolutionnaire par un pape" 」(ヌビウスのヴォルペへの手紙)の実現が計画されていたのです。

 フリーメーソンの長期計画によれば、教皇の後についてカトリック教会が革命に対する戦いを放棄するようにさせることでした。そうすれば現実は革命の旗の下に行進しているにもかかわらず、信徒たちは「使徒的頭の御旗のともに常に歩いていると信じ込んで」(1820年の最高ヴェンディータの恒久秘密指導)、革命を推し進めることができるからでした。
"le Clergé marche sous votre étendard en croyant toujours marcher sous la bannière des Clefs apostoliques" (Le complot de la Haute Vente des Carbonari)

 別にそのような教皇がフリーメーソンの会員である必要はありません。フリーメーソンの考え出した革命思想に同調しシンパシーを抱いていればそれでよいのです。革命をカトリック教会と調和させ、和解させ、妥協させようとすれさえすればそれで革命の勝利なのです。

 そして、ピオ九世の「シラブス」と「クァンタ・クーラ」の100年後の、1965年12月7日、第二バチカン公会議で「信教の自由の宣言」(Dignitatis Humanae)と「現代世界憲章」(Gaudium et Spes)が教皇パウロ六世によって宣言されました。

 その「信教の自由の宣言」(Dignitatis Humanae)と「現代世界憲章」(Gaudium et Spes)の内容はまさに、カトリック教会とローマ教皇は、進歩、自由主義、現代文明と和解し、妥協する事ができるし、またそうしなければならない、と言わしめるものでした。

 「1960年代の問題は、二世紀の間のリベラルな文化から引きだされた価値のより良いものを得ることであった。事実、教会の外に生まれたにもかかわらず、その世界観において浄化され訂正されて(教会内に)その場所を見つけることが出来る諸価値がある。これが(公会議において)なされた。」
(ラッツィンガー枢機卿【現ベネディクト十六世教皇】「信仰について」)

 「この文書 (=現代世界憲章) の全体的評価を求めるなら、信教の自由に関する文章と世界における諸宗教に関する文章との関連において、この文書はピオ9世の『シラブス』の修正であり、ある意味で『反シラブス』であると言うことが出来るだろう。・・・この文書は、教会が、フランス革命以降このようになった世界と公式に和解しようと試みている意味において、シラブスの反対の役を果たしている。」
【Cardinal Ratzinger, Principes de Théologie catholique, Téqui 1985, p. 426-427.】

「第二バチカン公会議は、『信教の自由に関する宣言』によって近代国家の本質的原則(=政教分離の原則)を認め、受け入れました。こうして公会議は、教会の最古の遺産をあらためて発見したのです。」
教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ(2005年12月22日)


「いうまでもなく、人権は信教の自由を含みます。信教の自由とは、個人的であると同時に共同体的でもある次元の表現を意味します。・・・それゆえ、宗教者(= 原文では「宗教を信じている人々」「信者」という意味)が、市民として積極的に活動するために、自分自身の一部である信仰を抑制しなければならないというのは、考えられないことです。自らの権利を享受するために神を否定しなければならないということは、決してありません。・・・信教の自由の完全な保障は、礼拝の自由な実践に限られてはなりません。宗教の公共的次元、すなわち、宗教者が社会秩序を築くために役割を果たしうることを考慮すべきです。・・・
 国連は特別な場であり続けます。この特別な場の中で、教会は「人間性に関する」自らの経験を分かち合おうと努めます。この経験は、人種と文化を異にするあらゆる民族の中で、何世紀にもわたって成長してきたものです。そして教会は、国際社会のすべての成員に使ってもらうためにこの経験を提供します。すべての宗教者が自由を獲得することを目指した、教会のこの経験と活動は、個人の諸権利がますます保護されることをも求めます。個人の諸権利は、人格の超越的な性格に基づき、またそれによって形づくられます。この人格の超越的な性格によって、人間は信仰の道を歩み、世にあって神を探し求めることができるのです。もしわたしたちが、よりよい世界に向けた人類の望みを支え、平和と、発展と、協力と、将来の世代に権利を保障するための条件を造り出したいのであれば、このような次元の認識を強めなければなりません。」
教皇ベネディクト十六世の国連総会での演説(2008年4月18日)

「十九世紀の進歩主義者たち(たとえばフェリシテ・ド・ラムネーなど)は、別のそしてしばしば教会に対して敵意的な世界に生まれた概念、それがそう意味したように、敵意的な精神でまだ一杯の概念を頻繁に取り上げ、そしてそれらに「洗礼を授ける」と考えてつつ、キリスト教に導入しようと試みた。・・・カトリック教会と実証的近代世界(そしてこれはその全てが1864年のシラブスによってまったく排斥された)との和解は、教会の中に、現代世界の概念をそれらの概念がそう意味したまま導入することによってなされることは出来なかった。この教会と現代世界との和解のためには、必要に従って現代世界の有効な貢献を抽出し浄化したあとそれを同化することにより、カトリシスムの常なる原理が新しい発展をすることによって深みのある仕事が要求された。」
(コンガール神父【後に枢機卿となる】 Yves Congar: "Vraie et fausse reforme dans l'Eglise", Cerf, Paris, 1950, pp. 345-346.)

 「第2バチカン公会議によって肯定された信教の自由は1864年のシラブスと内容的に別のことを言っている、しかもその文献の第16・17・19命題とほぼ反対のことを言っているということを、人は否定できない。」
【Yves Congar, La crise de l’Eglise et Mgr Lefebvre, le Cerf, 1977 p. 54.】

 「公会議は現代人が重視する諸価値を尊敬するだけでなく、これを認めたのであります。… 単に手段として人間を愛するのではなく、人間性を超越した究極目的として人間を愛するのであります。…」
(パウロ六世、第2バチカン公会議を終了しようとするその日、第9公開会議における演説(1965年12月7日)の中で)


 愛する兄弟姉妹の皆様、私たちはどうすべきでしょうか?

 私たちは、1864年12月8日1965年12月7日と、どちらの教皇の言っていることを取るべきでしょうか?

 私たちはピオ九世の『シラブス』『反シラブス』である第二バチカン公会議の文章を取るべきでしょうか?

 私たちは、私たちの主イエズス・キリストを王とする啓示 Revelationと、人間を神とする革命 Revolutionとどちらを取るべきでしょうか?

 天主の無き自由主義と天主を排除する現代文明と、教皇は和解し妥協する事ができないし、またそうしてはならないのでしょうか、それとも、天主の無き自由主義と天主を排除する現代文明と教皇は、和解し妥協する事ができるし、またそうしなければならないのでしょうか、

 私たちは、教皇様の錦の御旗の元で革命を信じ、教え、広めなければならないのでしょうか?

 私たちは、フリーメーソンの長期計画にまんまとのって、見せかけだけでも教皇様の後について現実は革命の旗の下に行進しているにもかかわらず「使徒的頭の御旗のともに常に歩いていると信じ込んで」、そう自分に言い聞かせて自らを欺いて、教会の内部に革命を推し進め、典礼を改革させ、教義を変え、そして世界にもその革命精神を押し広げていくべきでしょうか? そして、見せかけだけでも教皇様とともに、超自然の信仰の命が「あたかも燃料となるものもなく消え尽きてしまおうとしている炎のように」(教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙 2009年3月10日))消え尽きてしまっているのを見て、嘆き驚くべきなのでしょうか?

 それとも、私たちは、革命の旗の下に行進することを拒否し、あたかも見かけの上では「使徒的頭の御旗のともに常に歩いている」ようには見えなくとも、カトリック教会の昔からの信仰をそのまま守るべきでしょうか?

 私たちは、こう信じています。教皇様は、個人的にはいろいろな考えがあったとしても、使徒座の最高司祭として、教皇として、キリストの代理者者として、革命に反対し、反対しなければならないお立場にいることを。

 私たちの主イエズス・キリストの啓示(Revelation)と革命(Revolution)とが相互に排除しあうものであること、絶対的な対立があり、妥協も調和もあり得ないことを。

 「最高の反革命家、それは天においては私たちの主イエズス・キリスト、地においてはその代理者なる教皇である」(モンシニョール・ド・セギュール)ことを。

 天主の無き自由主義と天主を排除する現代文明と、教皇は和解し妥協する事ができないし、またそうしてはならないことを。

 何故なら、「世界史は、二つの軍を率いる頭の巨大な戦いである。一方は、キリストとその聖なるカトリック教会、他方ではサタンと、サタンが邪悪の道に引きずり込み反乱という呪いの旗の下に集ったすべての人々である。全歴史に渡るこの戦いは恐るべきものである。私たちはもっとも危険な戦いのフェーズ(段階)のただ中に生きている。・・・

 この天主に反対する戦いにおいて、もしもあなたが革命に反対して天主の側にたたないなら、・・・革命の冒涜的野心を増加させ、その野蛮な希望を高揚させるだけである。あなたの弱さを強みとし、あなたを共犯者として、まだ十分ではない、あなたを自分の奴隷としてあなたを使い、革命はあなたをそのいとわしい事業の最終段階まで招集するだろう。あなたから世を驚かせるような妥協を引き出した後、革命はあなたの良心を仮借でさいなますことをなおも要求するだろう。・・・

 両者は近づきあうこともできない。いかなる同盟も結ぶこともできない。このことをよく覚えよ。革命がしなかったことは、革命はそれを憎む。革命が憎むことをすべて革命はそれを破壊する」(モンシニョール・ド・セギュール)からです。


主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、我らのために祈り給え!
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!


天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考文献】
L'ÉGLISE ROMAINE EN FACE DE LA REVOLUTION TOME PREMIERPAR J. CRÉTINEAU-JOLY

L'ÉGLISE ROMAINE EN FACE DE LA REVOLUTION TOME SECONDPAR J. CRÉTINEAU-JOLY

La Révolution expliquée aux jeunes gensPar Mgr Louis-Gaston de Ségur
あるいは、
La Révolution expliquée aux jeunes gensPar Mgr Louis-Gaston de Ségur

Freemasonry and the Subversion of the Catholic Church by John Vennari


【関連記事】

モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)による「革命の原理」と「革命の核心」

2009年05月15日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)は、「革命」(La Révolution)という小冊子の中で、革命の究極の目的は「地上において天主の建てた秩序を完全に破壊し尽くすこと、この世にサタンの完全な支配をもたらすこと」であるといい、従って「革命に反対して闘うことは、信仰の行為であり、第一の宗教的義務である」と言い、続けて「革命の原理」(les principes de 89)を説明します。


 「社会の絶対的独立という革命の原理は、すべてのキリスト教的指導を今後一切拒否すると宣言し、自分自身だけに依存する。この原理は、自分の意志以外には法を持たず、天主が教えることも天主の教会によって禁止されていることも心配しない。主権者である人民の意志は、主権をもつ天主の御旨に取って代わり、啓示された真理は人間の法律によって足踏みにされ、カトリック的法は抜き取られて純粋な自然法に取って代わる。一言で言うと、イエズス・キリストの永遠の権利は、いわゆる人間の権利に取って代える、これがフランス革命の人権宣言の根底にある。」


 モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)によると、革命の中核は「国家のカトリック教会からの独立」にあると言います。この「国家のカトリック教会からの独立」は「日の光に照らされているように明らか」に、教会の教義に対立するものであると。

「様々な権力が高揚されることは、その最終目的に由来する。永遠の救霊こそは明らかにこの世の反映と言うことよりも上位の目的であるので、日の光を見るほど明らかに、教会は国家よりも上位の権力である。従って国家は、天主の権により(de droit divin)、教会の権力に従わせる厳格な義務を負っている。ところで天主の権によるものは不可変であり、いかなる地上の権力もこれを破壊することができない。・・・
 天主の御旨を為すために、そして君主の義務を果たすために、キリスト教の君主たちは臣民の物質的幸福を与えるだけに満足してはならない。それでは唯物論である。またキリスト教の君主たちは教会の行動を妨害しないというだけで満足してはならない。それでは、善に対する無関心主義であり、誰にも許されない罪深い無関心である。キリスト教の君主たちは、カトリック教会にできるだけ効果的な助けを与えなければならない。キリスト教の君主たちは、教会の指導の下に、その忠実な下部として、臣下の信仰と道徳を悪化させるすべての躓きが起こらないようにできる限り妨害しなければならない。キリスト教の君主たちは、その言葉と影響力と富と、そして必要ならば、剣と軍隊を持って教会を助けなければならない。
 そうすることにより、すべては秩序立つ。天主が最高の師として打ち立てた私たちの主イエズス・キリストは、天におけるだけでなく地においても、その聖なる教会によって、すべての人々を、すべての国々を、すべての家庭を全く統治することになる。
 以上がカトリックの教義である。これが教会の公式の聖伝の教えである。この教えは、最近では1864年12月8日の回勅(クワンタ・クーラ)によって要約された。これに反対する教えは、聖座によって自然一本主義の名前の元に排斥されたのであり、そのような教えは革命の核心であり、フランス革命の原理である。」



 モンシニョール・ド・セギュールは、たとえ悪意がなかったとしても、国家から教会を、教会から国家を分離させることを望む人々は「天主の確立した秩序を直接に犯すものであり、この重大な剣に関する教会の公式の教えを捨てるものである」と言います。

「彼らは、革命家たちの退廃した見解に賛成していることを知っていない。教会を孤立させる、教会を少しずつ社会の外に押しやる、この世界に対する教会の影響力を弱くさせる、カタコンベで迫害を受けていたときと同じように教会を目に見えない力の状態に追いやる、世俗の権力をその富と教えによる知性と法による意志のこの地上における絶対の支配者として作り上げる、そうやってキリスト教の作り上げた偉大な社会的達成、権力の位階秩序的区別を無と化す。以上が、読み書きができる人々のために、革命が過去六十年以来ますます実現しようとしてきた支配的考えである。言い換えると、天主とそのキリストの統治に取って代わる、人間の絶対的統治である。(C’est, en d’autres termes, la substitution du règne absolu de l’homme au règne de Dieu et de son Christ.)」

 モンシニョール・ド・セギュールは、さらに続けて、「国家をカトリック教会から分離させること、これは社会を社会として背教させること」であり、これは「革命の本質それ自体である」と言います。

 これこそが、聖パウロがテサロニケ人への第二の手紙の中で言う「大背教 discessio」です。この大背教は、1862年から大々的に始まり、それが現在では完成したと言ってよいでしょう。

【反論一】
 私たちはもはや中世ではない。それは昔の話しだ。今ではそれは要求のしすぎだ。

【回答】
 モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「私たちは要求しすぎているのではない。私たちは天主が私たちに望んでいることと人間が天主に与えなければならないこと、正しいこと、また私たちすべての霊魂を救うことができる唯一のことを求めているだけである。ここでは生きるか死ぬかの問題である、かつて【ローマの迫害時代に】異教かキリスト教かの問題だったのと同様に。教会と革命、キリストと悪魔、二つの原理は相互に排除しあっている。それ以外の選択肢はない。」

【反論二】
 愛徳をもって接するべきだ。愛徳に欠けることを言うな。

【回答】
 モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「はい、愛徳と優しさは罪人を改心させ、常に優しく愛徳に満ちていなければならない。しかし、原理の問題は、真理の問題であって、愛徳の問題ではない。真理のことについてはいかなる妥協もあり得ない。愛徳の社会である前にカトリック教会は真理の社会である。愛徳と真理とは相互に排除しあうことがない。真理を犠牲にするような愛徳はもはや愛徳ではない。それは弱さであり裏切りだ。

【反論三】
 もっと賢明になるべきだ。慎重にものを言え。

【回答】
 モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「確かに。しかし真理を裏切っては決してならない。人々のシンパシー(好感)をもっと容易に得るためという口実で、真理も教会もキリストも裏切ってはならない。教会は決してこのような態度を取らなかった。使徒たちも、教皇たちも、諸聖人もこの偽りの賢明に頼ることは決してなかった。それ以外のことをしようとするキリスト者らは、明らかに間違いにおいてあることになる。もしも誠実さとその意向によって免除されていなかったとしたら、彼らは天主の御前に罪を犯したことになる。」
【反論四】
 そんなことを言うとカトリック教会に反対してマスコミが叫ぶ。

【回答】
 モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「人々は叫ぶことだろう。しかししばらくたつとそれも止むだろう。【今そうでなくとも】人々は叫んでいないだろうか。ジャーナリズムとは何か? 全ヨーロッパの政治とは何か? これらはもっとも劣悪なレッテルを貼った聖伝主義者たちに反対する恒久的な叫び以外のいったい何であろうか? これらの叫ぶ人々のまっただ中で私たちは声高くはっきりをものを言おう。私たちは口を閉ざすことが許されていないと思いだそう。聖パウロはこういう。Vae mihi, quia tacui! (私が口を閉ざしたのなら私にのろいあれ!)と。」

【反論五】
 不可能だ。

【回答】
 モンシニョール・ド・セギュールはここでは特にフランス人に向けて答えて言います。
「不可能という言葉はフランス語ではない、と言う。これは本当なのだろうか。それについて私はよくわからないが、私の知っていることは、その様なことを言うことはキリスト者にふさわしくない、ということだ。「人間に不可能なことも、天主には可能である。」 異教の世界は、皆の知っているとおりの世界なので、十二人のユダヤ人の漁夫がそのような世界を十字架の愚かさに回心させると言うことも、不可能だった、何重にも不可能なことだったのではないだろうか? 聖ペトロがローマ皇帝ネロの代わりにバチカンを取ってしまうことも不可能ではないだろうか? 教会の歴史は、多くの不可能が敗北し続けた歴史である。教会の歴史は、私たちの主イエズス・キリストの予言が継続的な成就である。"Et nihil impossibile erit vobis" あなたたちにとって何も不可能なことはないだろう(マテオ17:19)。もしも私が間違っていないなら、私たちの先祖が異教を清めたよりも、現代の世界を清める方がより少なく難しいだろう。私たちは同じ手段を使おう、同じ武器を取ろう。以前そうであったように信仰は今も凱旋するだろう。」


【反論六】
 現状をよく考えろ。現代、民主主義は世界中に広がっている。教会が社会に自分の権利を行使することはできないというのは既成事実だ。

【回答】
 モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「現代のように、端境期においては、人間は真理が必要である。特にすべての真理を必要としている。人間の情念によって真理は弱くされ捨てられてきている。Diminutae sunt veritates a filiis hominum [Ps 11:2]. 人の子らによって真理は縮小された。宗教生活、社会生活、政治生活、家庭生活の神聖な原理をすべてゆだねられた者として私たちはそれをこの世に示そう。この世はこれを知らなかったが故に死んでしまうから。あまりに人間的な賢明さはいらない。人間くさい賢明さはすべてを失わせる。Prudentia carnis mors est. 肉の賢明は死である(ローマ8:6)。私たちは賢明であろう、もちろん、しかしキリストにおいて賢明たろう。」


 私たちはこの回答を聞き、ポール・ヴァレリ(Paul Valéry)の有名な言葉を思い出します。Nous autres, civilisations, nous savons maintenant que nous sommes mortelles. 「他の私たちも、文明として、私たちは死に絶えるべきものであると言うことを知っている」と。キリストのいない現代の西欧民主主義世界が、全地球上に行き渡りつつあるこの今、その終焉を迎え消滅の危機を迎えているように思われます。人間が老化し、文明は死を迎えるのですから、文明に若さと生命を与えつづけてきた真理を受け入れなければ。

 モンシニョール・ド・セギュールは言います。



「世界史は、二つの軍を率いる頭の巨大な戦いである。一方は、キリストとその聖なるカトリック教会、他方ではサタンと、サタンが邪悪の道に引きずり込み反乱という呪いの旗の下に集ったすべての人々である。全歴史に渡るこの戦いは恐るべきものである。私たちはもっとも危険な戦いのフェーズ(段階)のただ中に生きている。・・・

 この天主に反対する戦いにおいて、もしもあなたが革命に反対して天主の側にたたないなら、・・・革命の冒涜的野心を増加させ、その野蛮な希望を高揚させるだけである。あなたの弱さを強みとし、あなたを共犯者として、まだ十分ではない、あなたを自分の奴隷としてあなたを使い、革命はあなたをそのいとわしい事業の最終段階まで招集するだろう。あなたから世を驚かせるような妥協を引き出した後、革命はあなたの良心を仮借でさいなますことをなおも要求するだろう。・・・

 両者は近づきあうこともできない。いかなる同盟も結ぶこともできない。このことをよく覚えよ。革命がしなかったことは、革命はそれを憎む。革命が憎むことをすべて革命はそれを破壊する。」



主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、我らのために祈り給え!
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!


天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考文献】
L'ÉGLISE ROMAINE EN FACE DE LA REVOLUTION TOME PREMIERPAR J. CRÉTINEAU-JOLY

L'ÉGLISE ROMAINE EN FACE DE LA REVOLUTION TOME SECONDPAR J. CRÉTINEAU-JOLY

La Révolution expliquée aux jeunes gensPar Mgr Louis-Gaston de Ségur
あるいは、
La Révolution expliquée aux jeunes gensPar Mgr Louis-Gaston de Ségur

【関連記事】

ファティマの聖母マリアの1917年7月13日のメッセージ(日本語訳とポルトガル語)

2009年05月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月13日はファティマの聖母マリア様の御出現の記念日でした。そこで、特に重要な1917年7月13日のメッセージをご紹介します。日本語の後にポルトガル語をつけました。

【参考文献】
Livro: "As Memórias da Irmã Lúcia" (download)


1917年7月13日
13 de Julho de 1917

ルチア『あなた様は私に何をお望みですか?』
Lúcia: - Vossemecê que me quer?

聖母『私はあなたがここに来月の13日に来ることを望みます。そしてロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。
Nossa Senhora: - Quero que venhais aqui no dia 13 do mês que vem, que continuem a rezar o terço todos os dias, em honra de Nossa Senhora do Rosário para obter a paz do mundo e o fim da guerra, porque só Ela lhes poderá valer.


『私はあなたがどなたでいらっしゃるのか私たちにおっしゃって下さるよう、そして誰もが私たちに御出現なさっているということを信じるように一つ奇跡をなさって下さることをお願いいたします。』
- Queria pedir-lhe para nos dizer quem é; para fazer um milagre com que todos acreditem que Vossemeçê nos aparece.

『毎月ここに来続けなさい。10月には私は私が誰か、私が何を望んでいるか、言いましょう。私は皆が見、信じるために一つ奇跡を行いましょう。』・・・
- Continuem a vir aqui todos os meses. Em Outubro direi quem sou, o que quero e farei um milagre que todos hão-de ver para acreditarem.


そしてこのお方は続けてこう仰いました。
『罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。”イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”、と。』
Depois prosseguiu:
- Sacrificai-vos pelos pecadores e dizei muitas vezes e em especial quando fizerdes algum sacrifício: "ó Jesus, é por vosso amor, pela conversão dos pecadores e em reparação pelos pecados cometidos contra o Imaculado Coração de Maria."

これらの最後の言葉を聖母が話されると、以前2ヶ月の間なさったように、もう一度両手を開かれました。
Ao dizer estas últimas palavras, abriu de novo as mãos, como nos dois meses passados.


光線が大地を貫いたように見えました。そして私たちはあたかも火の海の様なものを見ました。
この火の中に浸かり込んでいるのは悪魔たちと人間の形をした霊魂たちでした。霊魂たちは透き通った燃える炭火のようで、皆真っ黒か褐色のようでした。彼らは雲のような煙と共に自分自身からわき出る炎によって持ち上げられ、この大火事の中に漂っていました。彼らは、恐ろしくまた恐怖のあまり震えおののかせる苦悩と絶望の叫びとうめきのまっただ中で重さも平衡感覚もなく、大火災の火の粉のようにあちこちに、また下に落ちていました。(私が「キャ!」という叫びをあげたと私の周りの人が聞いたといいますが、それはこの光景を見たときのことに違いありません。)
O reflexo de luz que delas expediam pareceu penetrar a terra e mostrou-nos um grande mar de fogo que parecia estar debaixo da terra. Mergulhados nesse fogo os demônios e as almas, como se fossem brasas transparentes e negras, ou bronzeadas com forma humana, que flutuavam no incêndio levadas pelas chamas que d'elas mesmas saíam, juntamente com nuvens de fumo, caindo para todos os lados, semelhante ao cair das fagulhas em os grandes incêndios sem peso nem equilíbrio, entre gritos e gemidos de dôr e desespero que horrorizava e fazia estremecer de pavor.

 悪魔は燃えさかる黒い炭のように透き通ってはいましたが、汚らしい見たこともない動物の恐ろしい厭な形をしていたので地獄に落ちた霊魂たちとは区別されました。
 この光景は一瞬間しか続きませんでした。私達の天の良きお母様が、最初の御出現の時に私達を天国に連れていくと約束されたおかげでです。もしそれがなかったら、おののきと恐れのために死んでいたことでしょう。
Os demónios distinguiam-se por formas horríveis e asquerosas de animais espantosos e desconhecidos, mas transparentes e negros. Esta vista foi um momento, e graças à nossa boa Mãe do Céu que antes nos tinha prevenido com a promessa de nos levar para o Céu, se assim não fosse, creio que teríamos morrido de susto e pavor.


 恐れのあまり、助けを求めるかのように私達は聖母に向かって目を上げました。聖母は優しく悲しそうにこう言いました。
Em seguida, levantamos os olhos para Nossa Senhora que nos disse com bondade e tristeza:


【霊魂が地獄に堕ちないのため、聖母マリアの汚れ無き御心に対する信心】
「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主はこの世に私の汚れ無き御心に対する信心を確立するように望んでいます。

【もしも実行するなら】
 もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。
 戦争は終わるでしょう。

【もしも実行しないなら】
 しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。

 あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。

- Vistes o Inferno, para onde vão as almas dos pobres pecadores. Para as salvar, Deus quer estabelecer no mundo a devoção a meu Imaculado Coração.

Se fizerem o que eu disser salvar-se-ão muitas almas e terão paz.
A guerra vai acabar,

mas se não deixarem de ofender a Deus, no reinado de Pio XI começará outra pior.

Quando virdes uma noite, alumiada por uma luz desconhecida, sabei que é o grande sinal que Deus vos dá de que vai a punir o mundo de seus crimes, por meio da guerra, da fome e de perseguições à Igreja e ao Santo Padre.


【この世が地獄にならないのため、聖母マリアの汚れ無き御心に対する信心】
 これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。

【もしも実行するなら】
 もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。

【もしも実行しないなら】
 さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。


【聖母マリアの汚れ無き御心の凱旋の約束】
 最後には、私の汚れ無き御心が凱旋するでしょう。教皇様は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして世界には平和の一時期が与えられるでしょう。

 ポルトガルでは信仰のそのドグマが常に守られるでしょう。等々[ママ]

 このことを誰にもいわないで下さい。フランシスコにはそれをいうことが出来ます。

- Para a impedir virei pedir a consagração da Rússia a meu Imaculado Coração e a comunhão reparadora nos primeiros sábados.

Se atenderem aos meus pedidos, a Rússia se converterá e terão paz,

se não, espalhará seus erros pelo mundo, promovendo guerras e perseguições à Igreja, os bons serão martirizados, o Santo Padre terá muito que sofrer, várias nações serão aniquiladas.

Por fim o meu Imaculado Coração triunfará. O Santo Padre consagrar-me-á a Rússia, que se converterá, e será concedido ao mundo algum tempo de paz.

Em Portugal se conservará sempre o dogma da fé. etc.

- Isto não o digais a ninguém. Ao Francisco sim, podeis dizê-lo.


あなたたちがロザリオを唱えるときには、各連の終わりにこう唱えなさい。
ああイエズスよ、我らを赦し給え。我らを地獄の火より救い給え。全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを天国に導き給え。

Quando rezardes o terço, dizei depois de cada mistério:
"Ó meu Jesus! Perdoai-nos e livrai-nos do fogo do Inferno, levai as almas todas para o Céu, principalmente aquelas que mais precisarem."


ルチア「あなた様は、私にもっとお望みのことはありませんか?
- Vossemecê não me quer mais nada?

聖母「ありません。」
- Não.

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ファティマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)は革命について教える

2009年05月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は5月13日、ファチマの聖母マリア様が1917年に最初に三人の子供達に現れた日ですね。1917年と言えば、ロシアのボルシェビキ革命の年でもあります。

 1856年、クレチノ・ジョリ(J. CRÉTINEAU-JOLY)は、教皇ピオ九世の命を受けてカトリックに反対する陰謀が本当に存在することを暴き出すために「革命に直面するローマ教会」(L'ÉGLISE ROMAINE EN FACE DE LA REVOLUTION)という本を上下二巻上梓しました。

 その四年後、モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)は、「革命」(La Révolution)という小冊子を出版しました。

 この小冊子はクレチノ・ジョリ(J. CRÉTINEAU-JOLY)によって明らかにされた文書が皆に知れ渡るため、また革命とは何かその本性を皆に明かすため、また教会が革命に荷担することができないその理由を説明するためでした。

 モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)は説明します。革命とは単なる政治問題ではない、宗教問題でもある、革命の究極の目的は「地上において天主の建てた秩序を完全に破壊し尽くすこと、この世にサタンの完全な支配をもたらすこと」であるといい、従って「革命に反対して闘うことは、信仰の行為であり、第一の宗教的義務である」と。

 モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)曰く
 「革命を理解するためには、すべての革命の父にまでたどり着くべきである。つまり最初に「Non serviam, 私は従わない!」と、この言葉を敢えて言った者、そしてこの言葉を時の終わりまで敢えて言い続ける者にまで。つまりサタンにまで。
 サタンは革命の父である。革命はサタンの業である。まず天で始まり時代を重ねて人類において繰り返される反乱の業である。
 ピオ九世教皇が1849年12月8日に回勅 Nostis et nobiscum で確認したように「革命はサタン自身によって息吹かれており、その目的はキリスト教の建設したものをその根底から破壊し尽くすことであり、その廃墟の上に異境の社会秩序を作り上げることである」と。」


 モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)は言葉を続けてこう言います。
「(アダムとエワの時代から人類が始まって)六千年たって初めて、革命は、天と地の前でその本当の悪魔的な名前を見せた。その名が「革命」つまり「大反乱」である。・・・
 世界史は、二つの軍を率いる頭の巨大な戦いである。一方は、キリストとその聖なるカトリック教会、他方ではサタンと、サタンが邪悪の道に引きずり込み反乱という呪いの旗の下に集ったすべての人々である。全歴史に渡るこの戦いは恐るべきものである。私たちはもっとも危険な戦いのフェーズ(段階)のただ中に生きている。・・・」



 この戦いにおいて、中立を保つことはできないのです。革命と教会とを調和させることもできません。それは光と闇、水と油、善と悪、生命と死、天と地獄、私たちは必ずどちらかを取らなければなりません。教会と革命との間に和解はあり得ません。

 「この天主に反対する戦いにおいて、もしもあなたが革命に反対して天主の側にたたないなら、・・・革命の冒涜的野心を増加させ、その野蛮な希望を高揚させるだけである。あなたの弱さを強みとし、あなたを共犯者として、まだ十分ではない、あなたを自分の奴隷としてあなたを使い、革命はあなたをそのいとわしい事業の最終段階まで招集するだろう。あなたから世を驚かせるような妥協を引き出した後、革命はあなたの良心を仮借でさいなますことをなおも要求するだろう。」

 革命がイエズス・キリストを憎むことを説明してこう言います。

「対立は完全である。従順か反乱か、信仰か不信かである。両者は近づきあうこともできない。いかなる同盟も結ぶこともできない。このことをよく覚えなさい。革命がしなかったことは、革命はそれを憎む。革命が憎むことをすべて革命はそれを破壊する。今、革命に絶対権力を与えてみなさい。どのような抗議があろうとも、革命は昨日そうであったように明日そうあることであろうし、常にそうであることだろう。宗教と社会と家庭に反対する徹底的な戦いを挑むだろう。革命を誹謗するなと革命は言ってはならない。革命のやった行為は雄弁に物語っている。1791年と1793年に革命がしたことをよく記憶せよ。」

 モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)は革命の使う武器を説明します。

「キリスト信者らを腐敗させるために、カトリックの感覚を取り除くために、革命は教育を間違えさせて使い、教えに毒を盛ってこれを使い、歴史を歪曲してそれを使い、マスメディアを使い、自分を守るために法律を使い、革命が息吹く政治を使い、霊魂を誘惑するために宗教の外見を使い【例えば近代主義や進歩主義の謬説など】、天主に対立させるために科学を使い【進化論など】、芸術を使い、公衆道徳の喪失と肉欲の神聖化に役立てる。」

 モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)はフリーメーソンの一つであるカルボナリ党のアルタ・ヴェンディータ(Alta Vendita)の計画を恐れに震えながら引用します。これは、1824年4月3日付けのヌビウス(Nubius)とうコード名を持つアルタ・ヴェンディータの頭から別のヴォルペ(Volpe)という偽名を持つ人物への手紙の引用です。

「われわれは教会の不道徳な教育を行い、よく段階を踏んだ小さな複数の手段(たとえうまく定義されていないとしても)を通して、教皇による革命のアイデアの凱旋までたどり着かなければならい。この計画は私にはいつも超人間的な計算によるものであると思えた。」

"Nous devons faire l’éducation immorale de l’Eglise, et arriver par de petits moyens bien gradués, quoique assez mal définis, au triomphe de l’idée révolutionnaire par un Pape. Ce projet m’a toujours paru d’un calcul surhumain."


 モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)は、こうコメントをしています。

 「確かに超人間的だ。何故なら、この計画はサタンから直接来ているからだ。ヌビウスという名前の元に隠れている人物は、この革命家の教皇が出ることを期待し、彼をこう描写している。弱く、お人好しで、深みの無く、誠実で、尊敬を受けているが、民主主義の原理に染まっている教皇、と。」

 つまり、革命は「いつの日かカトリック教会を墓に葬る」ことを期待しているのです。


主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母終生童貞なる聖マリアよ、我らのために祈り給え!
ファチマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考文献】
L'ÉGLISE ROMAINE EN FACE DE LA REVOLUTION TOME PREMIER
PAR J. CRÉTINEAU-JOLY

L'ÉGLISE ROMAINE EN FACE DE LA REVOLUTION TOME SECOND
PAR J. CRÉTINEAU-JOLY

La Révolution expliquée aux jeunes gens
Par Mgr Louis-Gaston de Ségur

あるいは、
La Révolution expliquée aux jeunes gens
Par Mgr Louis-Gaston de Ségur


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聖ピオ十世会の秋田巡礼で聖母像の前で毎日歌った、シスター笹川作詞の「聖母賛歌」

2009年05月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シスター笹川の詩「聖母賛歌」をご紹介します。
私たちは今年の秋田巡礼で、これに曲をつけて聖母マリア様の前で毎日歌いました。



聖母讃歌(昭和58年5月)

緑さやけき苑にぞ立ちて
十字架にないし聖母のみかげ
アヴェ・アヴェ・マリア、アヴェ・マリア
ああ尊しやありがたき

悩める多くのエワの子我らを
慈悲の心で見守り給う
アヴェ・アヴェ・マリア、アヴェ・マリア
ああ尊しやありがたき

御母を慕いて集える我らを
両手を拡げて招き給う
アヴェ・アヴェ・マリア、アヴェ・マリア
ああ尊しやありがたき



【関連情報】

1973年10月13日(土曜日)

 シスター笹川「ロザリオを取り出してひざまずき、まず十字の印をしました。が、その動作が終わるか終わらぬうちに、マリア様の御像のほうから、あのえも言えぬ美しいお声が、わたしの聞こえない耳にひびいてきたのです。最初のお呼びかけを聞いたとたん、わたしはハッとひれ伏し、全身を耳にして聴きいりました。」

「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」
(少し間をおいて)

「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、

【第一の、物理的でこの世に対する天罰】
 おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。

【対応策】
 その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。
毎日ロザリオの祈りを唱えてください。
ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。


【第二の、霊的で教会に対する天罰】
 悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。

【対応策】
 勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、
祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、
熱心に祈ることを命じるでしょうから」



 ここでちょっとお言葉が切れたので、そっと顔を上げてみると、聖母の御像はやはり光り輝いていて、お顔はいくらか悲しげに見えました。それで思い切って「私の長上とはどなたでしょうか」とおたずねしたところ、いつの間にかそばに付き添っておられた天使からたしなめられました。(べつに声を出して何か言われたわけではありませんが、“このような機会に、伺うのなら、もう少し大事なことがあるでしょうに”という意見を感じたのです。わたしとしては、日ごろ司教様はもちろん、目上の三人の姉妹も長上と思っていましたから、間違いがあっては、とついお聞きしたのでした)
けれども、御像からはすぐお声があって、
「それはあなたの会を導いている伊藤司教ですよ」
と答えながら、にっこりほほえんでくださいました。

さらにつづけて、
「まだ何か聞きたいですか。あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。
 ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。
とお言葉がありました。こんどはもう緊張のあまり口がこわばってしまい、「はい」とお答えするのが精いっぱいで、ひたすらひれ伏していました。


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【質問】マリア様の冠の十二の星のいわれは何ですか?

2009年05月12日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、こんにちは!

【質問】
 フェレー司教様は、ロザリオの十字軍でマリア様の冠の十二の星と言われましたが、このいわれは何ですか?

【お返事】
 ご質問をありがとうございます。これは聖ヨハネの黙示録に由来します。

 聖ヨハネの黙示録の第12章にはこうあります。
「それから、壮大なしるしが天にあらわれた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた。」

 教父たちによると、この「太陽に包まれた婦人」とは、カトリック教会の表象(figura)です。人類をどちらの方が取るか、竜(=サタン)と生きるか死ぬかの死闘をする教会です。
 太陽を着るとは正義の太陽である私たちの主イエズス・キリストにくるまっているのであり、イエズス・キリストに保護されていることを示します。

 この婦人の足の下に月があるのは、教会がこの世の栄華盛衰の変化の上に超然と立っているからです。何故なら、月は常に満ちたり欠けたりし、いつも変化しているので、人間的なこの世の栄華盛衰のシンボルであるからです。教会はペトロの上に天主の御言葉によって建てられ、永久の運動の中にありながらも揺り動かされることなく立ちとどまるからです。

 その頭に十二の星の冠をいただいていたのは、教会が十二の使徒たちの教えを持つからです。

 また教父たちによると、同時に、この「太陽に包まれた婦人」とは、天主の聖母終生童貞なる聖マリアを意味します。そのとき、十二の星のついた冠は、聖霊の十二の実り(ガラチア五章)です。「霊の実は、愛(caritas)、よろこび(gaudium)、平和(pax)、寛容(patientia)、仁慈(benignitas)、善良(bonitas)、忍耐(longanimitas)、柔和(mansuetudo)、誠実(fides)、慎み(modestia)、節制(continentia)、貞潔(castitas)であって、これらのことに反対する律法はない。」

 ついでに黙示録の続きにある、「七つの頭と十の角をもち、頭に七つの冠のある赤い竜」は、血に飢え渇くので赤いのです。七つの頭とは、ラテン語で septem capita であり、七つの罪源(septem peccata capitalia)です。七つの罪源とは、傲慢(superbia)、 貪欲(avaritia)、(肉欲)luxuria, (嫉妬)invidia, (貪食)gula, (憤怒)ira, (怠慢)acedia です。
Summa, I-II, QUAESTIO 84、または、Theologia moralis et dogmatica. を参照のこと)

 聖書では、角とは、天に向かって立ち上がるものであり、傲慢と天主に対する反乱のシンボルです。「私は仕えない! Non serviam! 」これがそのモットーです。この角が十本あるとは、天主の十戒すべてに逆らおうという意志を表しています。頭にかぶる「七つの冠」とは、七つの罪源すべてについて人間に勝利を収めているということです。

 なお、この回答を書くために "Le Sens Mystique de l'Apocalypse" par R.P. de Monleon, Nouvelles Editions Latines 1984 を参考にしました。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【関連記事】

第二バチカン公会議体制のままでは、ヨーロッパ文明の終焉は時間の問題

2009年05月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 巡礼が終わってメールを受信した中に次の動画のことを教えてもらいました。この情報によると、
● フランスでは、現在出生率が1.8だが、フランス国内のイスラム教徒たちの出生率は8.1。
十六年後の2027年には、フランスの人口の五分の一(1/5)がイスラム教人口になる。
三十九年後の2048年には、フランスはイスラム共和国になる。

● イタリアでは、現在出生率が1.2。

● スペインでは、現在出生率が1.1。

● イギリスでは、イスラム教徒の移民が三十年前の八万二千人から、三十倍の二百五十万人に増加した。

● オランダでは、現在、二分の一(1/2)の新生児がイスラム教徒であり、十五年後の2024年には人口の半分がイスラム教徒になる。

● ベルギーでは、現在、二分の一(1/2)の新生児がイスラム教徒であり、人口の四分の一(1/4)がイスラム教徒である。

● ロシアでは、現在、人口の五分の一(1/5)がイスラム教徒で、もうすぐロシア軍の軍人の40%がイスラム教徒になる。

● ドイツでは、公式発表として2050年にはドイツはイスラム国家となるだろう。

● ヨーロッパは、2025年には、新生児の三分の一(1/3)がイスラム教徒の家庭で生まれる。

Muslim Demographics



【参考資料】

Fitna (English) Part 2/2 by Geert Wilders


主よ、哀れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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ウィルス対策とFirefox

2009年05月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いつもはパソコンのおまけについていたインターネットエクスプローラ(IE)7を使っていたのですが、セキュリティーが虚弱だから、ファイアーフォックス(無料ソフト)を使うこと勧められました。

 秋田巡礼が終わってさっそくダウンロードしてインストールしてみました。そうしたら、なんと操作が速い速い。セキュリティーがしっかりしていて、こんなに速く動くなら、みんなが薦めるわけです。(私も愛する兄弟姉妹の皆様にお薦めいたします。)

 この頃は、インターネットにつなげるだけで攻撃を受けるのだそうです。なんだか原罪に傷ついている私たち人間と同じようです。なぜなら、肉欲、世俗、悪魔の三つの救霊の敵(三仇)からの攻撃に絶えずさらされているからです。

 あのマイクロソフトのインターネットエクスプローラでも、セキュリティーの虚弱性が問題となる世界です。

 私たちの救霊の敵は、サイバースペースよりももっと激しい攻撃を仕掛けているに違いありません。私たちの唯一の霊魂の救いのため、永遠の命のため、霊的にも聖伝の堅振、ロザリオ、スカプラリオ、朝夕の祈りで霊的攻撃に対処しましょう。

 そう考えてみると、この世の世俗の精神にカトリック教会の門戸を開放させた第二バチカン公会議は、言ってみると、セキュリティー・ソフトの解除だったわけです。だから、革命の精神がカトリック教会の中に流れ込んで来てしまったのです。だから、トロイの木馬やその他のウィルスに冒されたようなことをカトリック教会がやりだしたわけです。カトリック教会は「ウィルス」で壊れたわけではありません。しかし機能不全に陥ってしまったようです。

 カトリック教会の最高の「アンチウィルス対策」は、聖伝のミサ聖祭でした。そのことをオッタヴィアーニ枢機郷がパウロ六世に言っています。40年間、誤って解除され続けたこのミサ聖祭が、早く、日本にまた全世界でどこにも復活しますように!

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母賛歌

2009年05月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田の聖母マリア様への巡礼で、今回、シスター笹川の作った詩にメロディーを付けて、巡礼中毎日、秋田の聖母マリア様の前で歌いました。

 今でもそのメロディーが頭の中に響いています。今年の巡礼のテーマ・ソングのように、この歌が映画のテーマ・ソングのバック・グランド・ミュージックのように流れている感じがします。

 クリストファー・フェラーラさんが成田空港に行くために電車を待ってホームに立って待っていると鼻歌をフンフンと歌いだしたのですが、まさにこの聖母賛歌のテーマ曲でした!

 湯沢台の聖体奉仕会のシスターの方々のご親切に心から感謝いたします。

 パウロさんは、秋田のニッポンレンタカーさんがとても親切であったとおっしゃってくれました。

 何か、今思い出すと、巡礼の一場面一場面で、聖母賛歌が流れているようです。今回巡礼者の皆様の心に残ったエピソードやご感想がありましたら、是非とも教えてください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

天主様の御旨ならば

2009年05月07日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田の聖母マリア様への巡礼で、クチュール神父様とフェラーラさんが来日されましたが、お二人は日本を立たなければならない時が来ました。今、お二人をお連れして成田空港まで見送りに来ています。

 クチュール神父様、フェラーラさん、お忙しい中をありがとうございました。お仕事に戻られる、天主様の御旨が、さようならば、お元気で。また天主様の御旨ならば、お目にかかりましょう。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

巡礼感謝

2009年05月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回の秋田の聖母マリア様への巡礼では、来日されたクチュール神父様、クリストファー・フェラーラさん、また巡礼者の愛する兄弟姉妹の皆様、巡礼には参加さるなかったけれど陰で効果的に助けてくださった方々、さとみ温泉の方々、お祈りで支えてくださった方々、ここで一人一人お名前を申し上げることは出来ませんが、多くの方々の支援をいただきました。改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 今回も車を出してくださったパウロさんには、いつものように車を出していただき、ありがとうございました。秋田のマリアさん(仮名)にも車を出していただきました。ありがとうございます。トータル・ケアの労をとってくださったインマクラータさんにも感謝いたします。

 秋田巡礼の愛する兄弟姉妹の皆様は、ほとんどの方々が無事帰宅されたと思いますが、お疲れさまでした。天主様の祝福が豊かにありますように!

天主様に感謝。秋田の聖母マリア様に感謝。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

秋田の聖母マリア様に感謝

2009年05月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回の秋田の聖母マリア様への巡礼では、全員が必ずしも全ての日程を最後まで行うことは出来なかったのですが、24名の巡礼者の方々が巡礼の恵みに与りました。天主様に感謝、聖母マリア様に感謝、聖ヨゼフ様に感謝です。

「聖母のお涙を見てそのように驚かなくても良いのです。聖母は、いつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズス様と聖父に捧げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。‥
 聖母の汚れなき御心に日本を捧げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです。しかも秋田のこと地を選んでお言葉を送られたのに、主任神父様までが反対を恐れて来ないでいるのです。恐れなくても良い。聖母はおん自ら、手を広げて、恵みを分配しようと皆を待っておられるのです。聖母への信心を広めてください。‥」1975年1月4日、天使の言葉

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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