アヴェ・マリア!
今日経験している教会の危機は、典礼崩壊が原因であると、私は確信する。
(ベネディクト十六世)
愛する兄弟姉妹の皆様、
いつもご愛読をありがとうございます。
ウィリアムソン司教様の記事を読んで、今は3名の司祭だから力が弱く、司教様から「聖伝のミサはダメだ」と脅迫を受けているけれども、これが100名になり、500名になり、1000名になったら、司教様たちもこれらの司祭を無視できなくなるだろう、と思いました。
聖ピオ十世会が捧げている日本での聖伝のミサも、40-50名では、力が弱いかもしれません。しかし、これが500名となり、1000名となれば、普通の小教区でも聖伝のミサが捧げられるようになる契機となるだろう、と思いました。
今回は、教皇様の御言葉の黙想を提案します。
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「黙想
重い十字架の下にイエスはまたお倒れになります。三度もお倒れになったということについて、何を言うべきでしょうか。おそらく、人間の一般的なつまずきについて、多くに人のキリスト離れについて、神不在の世俗主義に向かう時流について考えなければならないでしょう。しかし、私たちは、キリストがご自分の教会において苦しんでおられることを考えなくてもよいのでしょうか?
キリストの現存である聖なる秘蹟(=御聖体のこと)が、どんなに濫用されていることか、しばしば、虚ろな心や悪意に満ちた心の人にも拝領されているのです。
私たちはどれほど、イエスについて何の意識も持たないまま、ただ自分たちのミサを行っていることでしょう。
どれほど神のことばがないがしろにされ、濫用されていることでしょう。
多くの理論・学説にわずかな信仰、何といむなしい言葉。
何とひどい汚れが、教会の中に、またすべてイエスのものであるはずの司祭たちのあいだに見られることか。
何という傲慢、自己満足。
何という、ゆるしの秘蹟に対する尊敬の足りなさ。イエスがそこで、私たちの罪から立ち直らせるために待っておられるというのに。
これら全てが、イエスの受難の中に現存しているのです。弟子たちの裏切り、イエスの御体と御血の不謹慎な拝領は、確かに、贖い主の最大の苦痛であり、彼の心(=聖心のこと)を刺し貫くものです。
魂のもっとも奥深いところから主イエスに向かって、主よ、憐れんで下さい、と、叫び声を上げるほかありません。「主よ、私たちを救って下さい」。
祈り
主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。しかし、それは私たち自身の汚れです。私たち自身、大きなことを言うたびに、大げさに振る舞うたびに、あなたを裏切っているのです。・・・」
「教皇ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」(女子パウロ会)
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「私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ)
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「ヨーロッパの文明は、必要なものを全て持ち、あたかも天主が存在しないかのように生きている人々の『沈黙の背教』という印象を与える。」(ヨハネ・パウロ二世 ECCLESIA IN EUROPA 9)
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「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないもの」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 162~163ページ)だからです。
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「実際に、新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられたからです。この「典礼を創造的に行うこと」は、しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめました。わたしは経験から述べています。わたしもあの希望と混乱に満ちた時期を体験したからです。そしてわたしは、典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々をどれほど深く傷つけたかを目にしてきました。」ベネディクト十六世
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「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」ベネディクト十六世
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■ 何故カトリック教会にとって聖伝のミサがそれほど大切なのか?
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
今日経験している教会の危機は、典礼崩壊が原因であると、私は確信する。
(ベネディクト十六世)
愛する兄弟姉妹の皆様、
いつもご愛読をありがとうございます。
ウィリアムソン司教様の記事を読んで、今は3名の司祭だから力が弱く、司教様から「聖伝のミサはダメだ」と脅迫を受けているけれども、これが100名になり、500名になり、1000名になったら、司教様たちもこれらの司祭を無視できなくなるだろう、と思いました。
聖ピオ十世会が捧げている日本での聖伝のミサも、40-50名では、力が弱いかもしれません。しかし、これが500名となり、1000名となれば、普通の小教区でも聖伝のミサが捧げられるようになる契機となるだろう、と思いました。
今回は、教皇様の御言葉の黙想を提案します。
「黙想
重い十字架の下にイエスはまたお倒れになります。三度もお倒れになったということについて、何を言うべきでしょうか。おそらく、人間の一般的なつまずきについて、多くに人のキリスト離れについて、神不在の世俗主義に向かう時流について考えなければならないでしょう。しかし、私たちは、キリストがご自分の教会において苦しんでおられることを考えなくてもよいのでしょうか?
キリストの現存である聖なる秘蹟(=御聖体のこと)が、どんなに濫用されていることか、しばしば、虚ろな心や悪意に満ちた心の人にも拝領されているのです。
私たちはどれほど、イエスについて何の意識も持たないまま、ただ自分たちのミサを行っていることでしょう。
どれほど神のことばがないがしろにされ、濫用されていることでしょう。
多くの理論・学説にわずかな信仰、何といむなしい言葉。
何とひどい汚れが、教会の中に、またすべてイエスのものであるはずの司祭たちのあいだに見られることか。
何という傲慢、自己満足。
何という、ゆるしの秘蹟に対する尊敬の足りなさ。イエスがそこで、私たちの罪から立ち直らせるために待っておられるというのに。
これら全てが、イエスの受難の中に現存しているのです。弟子たちの裏切り、イエスの御体と御血の不謹慎な拝領は、確かに、贖い主の最大の苦痛であり、彼の心(=聖心のこと)を刺し貫くものです。
魂のもっとも奥深いところから主イエスに向かって、主よ、憐れんで下さい、と、叫び声を上げるほかありません。「主よ、私たちを救って下さい」。
祈り
主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。しかし、それは私たち自身の汚れです。私たち自身、大きなことを言うたびに、大げさに振る舞うたびに、あなたを裏切っているのです。・・・」
「教皇ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」(女子パウロ会)
「私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ)
「ヨーロッパの文明は、必要なものを全て持ち、あたかも天主が存在しないかのように生きている人々の『沈黙の背教』という印象を与える。」(ヨハネ・パウロ二世 ECCLESIA IN EUROPA 9)
「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないもの」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 162~163ページ)だからです。
「実際に、新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられたからです。この「典礼を創造的に行うこと」は、しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめました。わたしは経験から述べています。わたしもあの希望と混乱に満ちた時期を体験したからです。そしてわたしは、典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々をどれほど深く傷つけたかを目にしてきました。」ベネディクト十六世
「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」ベネディクト十六世
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■ 何故カトリック教会にとって聖伝のミサがそれほど大切なのか?
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
ロザリオの月にあたり聖母のお導きがありますように。
カトリック教会だけが唯一の教会という文書を出したり、トリエントミサを「解禁」してルフェーブルグループを取り込もうとしたりしながら、私のほかに神があってはならないという基本的な掟を守らず、天主ではなくヒューマニズムを礼拝する。
はっきりいって、ルフェーブルグループの公式ステータスが破門されているかどうかなんて、もうどうでもいい問題なのでは?
第二バチカン公会議はカトリックの解散記念パーティで、その後の教会は保守であろうがリベラルであろうが抜け殻だったのだと最近思うようになりました。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2301288/2270037
http://blog.livedoor.jp/cjcpress/archives/51052118.html
もう半世紀近くも経っていては知らない人々が多いのは当然ですが、この程度の返答では困ったものです。
万難を廃し出かけようと思いますが、今私に出来ることは祈るだけでしょうね。
関係者の方からうかがった限りでは、今年行われるものも同じです。
要するに日本語ミサや英語ミサや韓国語ミサと同じものがラテン語で行われるだけです。
しかし、私の周りではこのミサに出席し、口で直接聖体拝領するのが保守派の証しだといわれています。困ったことです。
過去にも再三リンクしておりますが、エントリーが次から次へと流れていくブログにおいては、ある程度時間を置いてならば(あるいは時間が経っているからこそ)何度引用しても許されるのではないかと思います。
クリストファー A. フェララ,Esq.著「ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ」を読んで
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/dcc6b3748df379f5bfcbc210a8eee789
クリストファー A. フェララ,Esq.著「ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ」を読んで
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/ad3dfdd715c09ee46f61d4aa8ce9063f
ちなみに、後者における次の引用は、聖ピオ十世会を「伝統原理主義」と批判する某氏に当てつけて書かれているのではないかと思いたくなります。ともあれご一読を。
>また彼らはもはや、カトリック教徒たちが常に礼拝してきたように礼拝し、そしてカトリック教徒たちが常に信じてきたように信じることに対して伝統主義者たちを、過激主義者ととして表現することを許されるべきではない。