文明開化以降、流行を発信し続ける銀座。「ハイカラ」という言葉は、当時の銀座で流行った高襟の服から生まれたらしい。そして、昭和初期のころの銀座は、今の女の子が、パリやニューヨークへ行くよりもすごいことだったそうだ。
昭和2(1927)年、資生堂は株式会社となり、資生堂の創業者の福原有信から事業を受け継いだのは、三男の信三だった。彼は日本の代表的なアマチュア写真家でもあった。
翌3年、銀座に待望の2棟の新店舗が落成。歯磨きやせっけん、ビタミン剤を販売していた旧薬品部は、資生堂パーラーになった。オーケストラボックスまで備えたパーラーはたちまち話題となり、川端康成、太宰治、三島由紀夫などの小説に繰り返し登場する場所となった。
台湾への友人へのお土産に、日本的な香りのする香水でもと思って銀座に出たのだが、資生堂ビル1F受付の美しい女性に声をかけられてシドロモドロになってしまった。やっぱり、カメラを持たずに美しい女性と対峙するのは苦痛でしかない。地下のギャラリーを覗いたついでに3Fのパーラーへ。
資生堂パーラー本店では、テーブルクロスにもこだわりを持つ。太宰治氏が短編小説『皮膚と心』(1939年)で、女主人公に印象深く語らせている蔓バラ模様はテーブルクロスにも織り込まれている。テーブルクロスの上には、フランスの老舗陶器メーカー、ベルナルドー社に特注した資生堂の花椿のマークをあしらった皿と、パリの名門、クリストフル社の銀器類だ。
店内は、大きなレースのカーテンで飾られた縦長の窓が印象的。壁、天井とかなりインパクトのある色だが、全体として落ち着いた印象。かなり窓の面積を減らして外光を絞っている。
天井から吊り下げられた明かりを映しこんで、テーブルの上のコーヒー茶碗の写真を撮らせてもらおうと思ったのだが、テーブルの上には自分の影ができて茶碗にかかってしまっていた。頭上からの光は2方向。ともに、テーブルに相対して座る客の顔を照らす設計のようだ。
このパーラーは「成功率の高いお見合いの名所」としても知られている。この柔らかな照明なら相手の顔がより綺麗に立派に見えることだろう。
「見せかけの模倣はダメだ。やるなら徹底的に根本から始める」
資生堂創業者 福原有信の言葉。写真をやるものとして、かなり耳に痛い。
自分らしさを追い求めてはいるが、いまだに”HANAKO”の域には達することさえできていない。涙)
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