tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

本土寺

2010-03-11 23:12:18 | プチ放浪 都会編

 
 

本土寺のはじまりは鎌倉時代に溯る。
建治3(1277)年、日蓮に帰依した蔭山土佐守は、狩野の松原に建立した法華堂を、現在の地、平賀忠晴の屋敷に移築する。
足利将軍の治世である室町時代には、寺域内に4寺、武蔵、下総一帯に70余りの末寺があったというが、度重なる戦乱や弾圧、廃仏毀釈などの幾多の法難を受けた結果、創建当時の堂宇はすべて失われてしまい、当時のよすがをしのぶことはできない。
時が移り、太平洋戦争が終結した後に、殺伐とした境内の慰めに住職が紫陽花を植えた。これが評判を呼び、さらに数を増やしていったところ、いつしか「あじさい寺」と呼ばれるようになったという。

石段を登って本堂のところで左に折れ、墓所を30メートルくらい行くと、古くくすんだ甲斐武田家の遺臣秋山一族の歴代墓所がある。

秋山虎康は、はじめに武田信玄に仕え、主家が滅びた後は徳川家康に仕えた。
徳川家康に仕えるとき、秋山虎康は、15歳の娘の於都摩を家康の側室として差し出している。
やがて於都摩は家康の寵愛を受け、五男信吉を産んだ。そのとき家康は、清和源氏の流れを汲む名家武田家が消えることを惜しみ、信吉に武田の姓を襲わせたらしい。

天正18年(1590年)、徳川家康は江戸城に入城。本土寺がある小金には、7歳の武田信吉(のぶよし)を配した。
翌年、於都摩は、24歳という若さでこの世を去る。
現在残る秋山夫人の墓は、家康の甥にあたる徳川光圀が荒れ果てた墓所を見て憤慨し、後年に建てたものだ。

早朝の冬の日の本土寺は、雲ひとつなく澄んだ空の下、もみじやあじさいのころの喧騒とは無縁で、ひっそりとした佇まいを見せていた。
江戸時代の初期、水戸光圀が帰依したころの本土寺は、同門の信者以外からの供養を受けない不受不施派の中心と見られ、幕府から弾圧まで受けていた。
当時より下総の空に鳴り響いてきた寺の鐘は、今日も荘厳な音色をきかせるに違いない。


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Kさん。誤字のご指摘ありがとうございました。これからも、ご愛読よろしくお願いします。